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安達ヶ原の母子1:きっかけをくれる君

 ――にゃあさんから母の話を聞いた後、私はしばらくなにも手に着かなかった。


 自分の母のことを知れた喜び。その境遇を可哀想に思う気持ち。育児に奮闘していた東雲さんのこと。にゃあさんが私のためにしてくれたこと。


 そしてなによりも――母が抱いていた想い。


『夏織……幸せ?』


 今まで、この問いを私は何度にゃあさんからされただろう。ただの口癖だと思っていたにゃあさんの問いかけに、母の想いが籠もっていたとは露ほども知らなかった。


 それににゃあさんは、母の亡骸を食べたのだという。それがあやかし式の弔い方だとは知っていたけれど、身内がそうされたのだという事実は少し不思議な感じがした。


『……なあ、夏織。お前は自分の親を喰った相手を、赦せるか?』


 それは水明と出会って間もない頃、彼に言われた言葉だ。


 私が普通の人間だったなら、恐らく水明のように嫌悪感を抱いていたのだろう。けれど、幽世育ちの私は、にゃあさんが母をきちんと弔ってくれたことに感謝の念しか湧かなかった。やはり、私は普通の人間とは感覚がズレているようだ。


 ――ああ。私は、母に愛されていたんだなあ……。


 長いこと胸に抱いていた疑問が晴れて、気が抜けてしまったのだろう。そのせいか、アルバイトに出かけることはあっても、家に引き籠もることが多くなってしまった。


 私が抱いていた疑問……それは、母に捨てられたのではないかということだった。

 東雲さんたちに見守られ、なに不自由なく育ってはきたものの、その疑問は常について回っていた。それこそ――生まれる前の赤ん坊に嫉妬する程度には。


 それはとても哀しいことだ。誰かの誕生を素直に喜べないなんて、こんな寂しいことはない。だから、事実を教えてくれたにゃあさんには感謝している。同時に、親友であるにゃあさんに、ひとりの大人として認められたのだという感じがして嬉しくもあった。


 けれど、肉親がもうこの世界にいないのだという事実。それを呑み込むには少々時間が必要だった。

 最低限のことだけをして、好きな本を読むこともせず、日がな一日庭を眺めてぼんやりする。なんとなくにゃあさんが恋しくて、ぴったりとくっついて過ごす。いつもは必要以上の接触を嫌がるにゃあさんも、私を気遣ってかなにも言わずに傍にいてくれた。


「秋穂は綿雪が好きだって言ってたわ。美味しそうだからって」

「なにそれ」


 時たま、にゃあさんが語る母の思い出に胸を温かくしながら、親友と雪を眺めて過ごす。

 それはいつもと同じようで、けれども普段とはまるで違う冬だったと思う。

 そうこうしているうちに、あっという間に新年がやってきた。


 冬の間眠りに落ちていた幽世は、この時ばかりは息を吹き返す。新しい年を祝うために、町に暮らすあやかしたちがささやかな祭りを催すのだ。


 笛を吹き、太鼓を打ち鳴らし、甘酒やお菓子、団子を振る舞う。冬籠もりしていた間に見た夢の話をしたり、春が恋しいと笑い合ったり……幽世の新年はとても穏やかだ。


 いつもなら、寒いから嫌だとごねるにゃあさんを無理矢理連れ出して、久しぶりに会うご近所さんと話をしたりしていた。けれど、今年に限ってはそんな気になれなかったので、家で引き籠もっていようかと思っていたのだけれど……。


「なあ、夏織。俺と出かけないか」


 新年の挨拶にやってきた水明に、町へ繰り出そうと誘われてしまった。


 驚きのあまりにすぐに返事ができないでいると、水明は顔を背けたまま話を続ける。


「最近、元気がないみたいじゃないか。気晴らしにどうだ」

「……心配、してくれたんだ?」


 水明の顔を覗き込むと、彼はますます顔を背けてボソボソと言った。


「眠りに来るたびに毎度毎度暗い雰囲気だったから、迷惑しているだけだ」


 ――素直に認めればいいのに。


 相変わらずな水明に、思わず笑みを零す。

 すると、水明は耳まで真っ赤になって私に背を向けてしまった。


 ――う。なんだかドキドキしてきた。


 そうだ、そうだった。私は水明に恋をしているのだ。

 好きな人がしてくれた気遣いが嬉しくて、まるで羽が生えたみたいに身体が軽くなる。

 なんて現金なのだろう。さっきまでどんより沈んでいた癖に。


 その時、ふと母のことを思い出した。

 私の父はにゃあさんが母と出会う前に亡くなっていたらしいが、両親がお付き合いをしていた時、こういう風に心がときめいたりしたのだろうか?


 ――そういう話、してみたかったな。


 途端に気持ちが萎んできて肩を落としていると、突然、水明が私の顔を覗き込んできた。

 何事かと上目遣いで見つめると、水明はどこかムッツリとした顔で言った。


「俺と出かけるのがそんなに嫌か」


 どうやら、なかなか承諾しないことにしびれを切らしたらしい。不満顔の水明に、私は勢いよく首を振って否定した。


「ちっ……違う! これは違うから!」

「じゃあ、早く支度しろ。外でクロが待ってる」

「うん。ちょっと待ってて」


 慌ててコートを取りに行き、ついでに居間の横にある東雲さんの部屋を覗き込む。すると一升瓶を抱えて酔っ払っている養父の姿が見えて、私は堪らずため息を零した。


「これから水明と出かけてくるから!」

「あ!? ああ……にゃあも連れていけよ……」

「わかった。東雲さん、それ以上飲んだら駄目だよ」

「正月くらい別にいいだろ~」


 上機嫌でぐい飲みに酒を注ぎ始めた東雲さんを、ジロリと睨みつける。


「そういえば……玉樹さんが、原稿を取りに来るかもって言ってた」

「……ぶっ!」


 途端に咽せてしまった東雲さんに「嘘だよ」と言い残して玄関に向かう。背後から聞こえる怒声を丸々無視して玄関で靴を履いていると、にゃあさんがひらりと肩に乗ってきた。


「お、素直に来てくれるんだ。珍しい」

「抵抗することすら面倒になっただけよ」


 私はクスクス笑うと貸本屋を出た。

 すると、賑やかな音が耳に飛び込んできて足を止める。


 陽気な笛の()、太鼓を叩く音、笑顔で行き交うあやかしたち。秋以来の光景に懐かしさを覚え――その瞬間、いつまでも閉じ籠もっていた自分が馬鹿らしく思えた。


 外で待ってくれていた水明に声をかける。すると、彼の足もとにいたクロが嬉しそうに尻尾を振った。


「ねえねえ、あっちに屋台が出てた!」

「なんの?」

「焼きそば!」


 その瞬間、香ばしいソースの匂いが脳裏に蘇ってきて堪らなくなる。

 私はその場にしゃがみ込むと、クロの顎の下を撫でてやりながら言った。


「いいね、食べに行こう! 私、大盛り。紅ショウガ増しで~!」

「オイラ、お肉多めがいいなあ!」

「まったく……食い意地だけは立派よね、あんたたち」

「お昼ご飯まだだから。別にいいでしょ?」


 肩の上に乗ったにゃあさんに笑いかけ、ゆっくり立ち上がる。すると、そんな私を水明がじっと見つめているのに気がついた。首を傾げると、彼はうっすらと目を細めて言った。


「少しは元気になったみたいだな?」

「うん。水明が誘ってくれたおかげ」


 私ひとりだったら、気持ちを切り替えるのにもう少し時間がかかっていたかもしれない。

 きっとこれからも、ふとした瞬間に母を思い出して気持ちが沈むのだろう。知ってしまった以上は避けられないことだ。母のことを知る前の私にはどうあがいたって戻れないのだから、私は自分自身と向き合っていかなければならない。


 でも、弱虫な私はどうにもその一歩を踏み出すのを躊躇していた。


 その背中を押してくれたのが水明なのだ。


 ――ああ、やっぱり好きだな。


 閉じ籠もっていた家から出ただけ。端から見たら、きっとたいしたことじゃないのかもしれない。けれど、そういう小さなきっかけをくれる相手というのは、なかなか貴重なもので、それが想いを寄せている相手だというだけでとても尊いもののように思える。


「……ありがと」


 感謝の気持ちを籠めて微笑むと、水明は私に背中を向けてしまった。クロを抱き上げて、片手を差し出す。その手をどうすればいいのかわからず戸惑っていると、背中を向けたままの水明が言った。


「屋台の方はあやかしたちでごった返してた。はぐれたら面倒だ」


 つまりは手を繋げ、ということらしい。


「……!」


 私は頬が熱くなるのを感じながら、そっと水明の手を掴んだ。水明の後を歩きながら、頬が緩むのを止められずニヤける。私は首に巻いたマフラーを口もとまで引き上げると、黙々と歩く水明の後ろ姿を見つめた。


 ――お母さん。私は元気だよ。楽しいよ。恋もしてる。嬉しいことがいっぱいだよ。お母さんがいないことは寂しいけれど、精一杯生きてるよ。


 ……だから、見守っていてほしい。


 そんなことを思いながら、私は新年に沸いている幽世の町を歩いて行った。

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