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幕間 狐面の男はひとり酔いしれる

「――醜い」


 ひゅうひゅうと肌を突き刺すほどの風に煽られながら、男はぼそりと呟いた。

 男がいるのは幽世の町を見下ろす火の見櫓の上だ。


 今どき珍しい木製の櫓。半鐘が括り付けられた屋根の上に立って、男は往来に犇めくあやかしたちを見下ろしている。


 その男は、この幽世に於いてはかなり奇妙な恰好をしていた。


 身に纏っているのは、英国調のスリーピースのスーツ。細身の身体にぴったりと沿ったシルエットは、男の紳士然とした雰囲気を強調している。白髪が混じった長いくせ毛は、頭の後ろで紐で括られていた。肩に羽織った黒いコートは革製で、和風な建造物が建ち並ぶ幽世ではどこか浮いている。


 そしてなによりも奇妙なのはその顔。佇まいから中年の男性なのだろうとは想像できるのだが、なにせ肝心の顔はあるもので覆われていて見ることができない。


 ――それは狐の面だ。


 白地に糸のような目が描かれ、ところどころ朱色で文様が描かれている。面に描かれた狐の顔はまるで笑っているようで、どこかハレの日の雰囲気がある。


「醜い醜い醜い醜い……ああ、なにもかもが醜い。汚らしい。穢らわしい!」


 けれども狐の面の表情とは裏腹に、男は眼下を歩いているだけのあやかしに暴言を投げ続けている。まるで親の敵にでもするように、執拗に、それでいて粘着質な声色であやかしを詰る姿は、男の異常な性質を露わにしているようだった。


「――だが」


 しかし、あやかしたちの中にある人物を見つけた途端、男は見る間に上機嫌になった。

 胸ポケットからスキレットを取り出し、仮面を僅かにずらして中身を煽る。

 しゅう、と満足げに息を吐き出した男は、酒で濡れた口もとを拭い、まるで舞台俳優のように両手を広げて言った。


「醜いものの中だからこそ、美しく映えるものもある」


 男の視線の先――そこには、往来に犇めくあやかしたちに揉まれながら進む、ふたりの人物の姿があった。ひとりは女性だ。肩の上に黒猫を乗せて、ゆるゆると頬を緩ませて歩いている。もうひとりは白髪の少年。腕に黒い犬を抱いて、人混みが煩わしいのか不愉快そうに眉を顰めていた。


 そのふたりは、その場にいるどのあやかしよりも目立っていた。


 何故ならば、彼らの周りには眩い光を放つ蝶が集まっていたのだ。それは彼らが人間であることのなによりの証。けれど、人間を好んで喰らうあやかしも多いこの世界で、誰もそのふたりを襲うことはない。


 男からするとそれはどこまでも異様な光景だった。あやかしに理性なんてあるはずはなく、まるで血に飢えた獣のように人の血肉を啜る。高度な文明を持っておらず、いつまでも原始的な環境に身を置く彼らは、男からすれば下等な生物であったからだ。


 ならば――どうしてあのふたりは、あやかしに襲われずに済んでいるのか?


「どういうことかな。どういうことだろうねえ。不思議だねえ……」


 その場にしゃがみ込み、頬杖を着いた男は、まるで歌うように節をつけて呟いた。


 その時、火の見櫓がぐらぐらと揺れた。同時に激しく揉み合うような音と、なにかの悲鳴。揺れのせいで僅かに体勢を崩した男は、身を乗り出して屋根の下を覗き込む。


「……いつまで私を待たせるつもりだ」


 冷え切った声で男が告げると、途端に櫓の中が静まり返った。


「申し訳のう御座います。ただちに」


 すると、男とも女とも判断つかない嗄れた声が男へ返事をした。そして――。

 ぐちゅり、ごきん。ごき……ごき、ごきん。ぐちゅり。

 ともすれば悍ましく感じるほどに生々しい音が辺りに響く。しかし、男はなんとも思わないのか、眼下の喧噪も届かぬ上空に響くその音に、黙したまま耳を傾けている。


 やがて――火の見櫓の中でなにかが動いた。


 黒い粘着質な液体に塗れた手が櫓の縁を掴む。力強く身体を持ち上げたそれは、次の瞬間にはたわわに実る乳房を星明かりの下へと曝け出した。


「いかがでしょう? なかなかよい出来かと思いますが」


 それは、上半身裸の女性だった。ぬばたまの髪は艶めき、透き通るほどに白い裸体を彩っている。けれども上半身の艶めかしいほどの美しさとは裏腹に、その下半身は血まみれの着物で覆われていてどこか不気味だ。そしてしばらく俯いていた女は――翁の面を着けた顔を男に向け、こてりと首を傾げた。


 男はそんな女に一瞥もくれずに、スキレットに再び口をつけると冷たく言い放った。


「どうでもいい。早く行け」

「はっ」


 いつものことなのか、あまりにも冷淡な態度に臆することもなく、女性は火の見櫓からその身を投げ出す。次の瞬間、大きな羽音が辺りに響き渡り、女性は一羽の鳥へと変じて空高く舞い上がった。


 やがて鳥の姿が闇に紛れて見えなくなると、男はぽつりと言った。


「……子はね、親の許しなしに勝手に独り立ちはできないものなんだよ」


 そしてクツクツと喉の奥で笑うと、蝶を侍らして歩くふたりの人間を、いつまでもいつまでも嬉しそうに目で追っていたのだった。

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