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閑話 幸せの定義、幸せのありか7:幸せへの道のり

 あたしを黴臭い自室に招き、明日は宿に予約が入っていないのだと語った秋穂は、どこかホッとした様子だった。


「これで建物の修繕ができる。本格的に雪が積もる前に、色々補強しておかなくちゃね。ご飯いっぱい食べて、精をつけなくちゃ。夏織がいつ帰ってきても大丈夫なように」


 秋穂に休みはないらしい。明日は力仕事だと、いつもよりも多めに盛った冷や飯を噛みしめる姿はどこか痛々しい。


「それにしてもまた会えて嬉しい。不思議なことって一度きりのことが多いでしょ? もう二度と会えないかもって、ちょっぴり思ってたんだよね」


 嬉しそうにあたしに話しかけてくる秋穂に、沈黙を保ったままじっと見つめる。

 すると、秋穂は沢庵を掴もうとしていた手を止めると、箸を置いた。


「……ねえ、猫ちゃん」


 そして、物静かな口調であたしに語りかけた。

 前回よりも濃い隈が刻まれたその目は、凪いだ海を思わせるほどに穏やかだ。


「私さ、出会いには必ず意味があるって思っているんだ」


 秋穂はこちらへまっすぐに身体を向けると、あたしの目をじっと覗き込んで言った。


「違ったらごめん。……君、夏織の行方を知ってるよね?」


 その瞬間、ひゅうと風が悲鳴みたいな声を上げた。それに呼応するように古めかしい建物が震え、ガラスがカタカタと賑やかな音をさせている。


 あたしはため息を零すと、秋穂へ訊ねた。


「……どうしてバレたのかしら。あたし、変なこと言った?」


 秋穂はどこか困ったように眉を下げると、指折り数えながら言った。


「君……私の言葉を否定しなかったでしょう。だからだよ。君は夏織の行方を知っていて、それで私に会いに来たんだって思ったんだ」


 諦めろ、現実を見ろ……そういう言葉を、秋穂は周囲の人間から散々かけられたのだろう。そのせいで、あたしが敢えて否定しなかった事実に気づいてしまったらしい。


 ――脇が甘かったわね。


 自分の甘さを苦く思いながら、しかし元々夏織のことを伝えるつもりではあったから、予定が早まっただけだと頭を切り替えることにした。


「あんたの言うとおりよ。夏織は……あたしの知り合いのところにいる。幽世っていう、あたしみたいな化け物がウヨウヨいる世界にね」


 その瞬間、秋穂の瞳に輝きが戻った。土気色だった顔には色が差し、言葉が上手く出ないのかパクパクと口を開閉させては、涙で目を滲ませている。


「本当に生きてるの。げ、元気なの……?」

「生きてるわ。ここよりよっぽどいい環境で、楽しく暮らしている」

「ああ……神様……!!」


 秋穂は歓喜に震えている。それとは対照的に、あたしの心はどこまでも冷え切っていた。


 ――ごめんね。


 あたしはゆっくりと尻尾を振ると――秋穂にとってなによりも残酷な言葉を紡いだ。


「あんたには悪いけど、返さないわよ」

「……え?」

「アレはあたしがもらったわ。気に入っちゃったの。あたしのものにする」


 その瞬間、秋穂の表情が激変した。


「なんで!! どうしてよ!!」


 秋穂は必死の形相で詰め寄ると、あたしが異形であることも忘れて突っかかってきた。険しい顔をして叫ぶ姿には、先ほどまでの穏やかさの名残はまるでない。


「夏織は私の子よ、私の大切な……たったひとりの娘なの! だから返して。お願い、猫ちゃん! 返してよ……。玩具じゃないの。もらうとか、そういうものじゃないの……」


 夏織は自分の生きがいで、宝なのだと大粒の涙を零しながら訴える秋穂に、あたしは冷たい視線を向けて言った。


「嫌よ。あの子をここに戻したって、碌なことになりゃしない」

「ろ、碌なことって……」


 あたしは、秋穂に自分が死んだ後にあの子をどうするつもりだったのかと訊ねた。


 すると冷静さを取り戻したらしい秋穂は、どこか自信ありげな様子であたしを睨んだ。


「もちろん、準備はしてあるよ。ここの経営者夫婦が面倒を見てくれるって。お金も預けてあるの。私の死亡保険金……ほんのちょっぴりだけれど、それも夏織のために使ってくれる。だから大丈夫。夏織を返してちょうだい」

「ねえ、あなた。預けてある通帳の中身を確認した?」

「え?」


 キョトンと目を瞬かせた秋穂に、あたしは追い打ちを掛ける。


「毎月、給料が振り込みされているかどうか、その目で確認したかって聞いているのよ」

「え……えっと。キャッシュカードも通帳も渡してしまっていて」

「ふうん? じゃあ、その通帳からお金が引き出されているのも知らないのね」

「…………どういうこと」


 先ほどまでの自信はどこへやら、みるみるうちに青ざめていった秋穂に、あたしは容赦なく事実を告げた。


「あの夫婦。あなたの貯金を使い込んでるわよ」

「……嘘。そんなはず……」


 あたしは身体を伸ばすと、動揺するあまりにせわしなく視線を彷徨わせている彼女の耳もとで、まるで不安を煽るように妖しく囁いてやった。


「信じたくないの? あんた、本当に馬鹿ね。母親なら、現実を見なさいよ。ほら……」


 そして狭い室内をぐるりと見回すと、わざとらしくため息を零して言った。


「この待遇から見て、あんた……大事にされているとは思えないわね?」

「……うう……」


 ぐっと言葉を飲み込んだ秋穂に、あたしは尻尾をゆるゆると振って続けた。


「――夫に先立たれ、頼れる親戚はこんなやつらしかいない。親友に貸したお金は返ってこず、本人は今にも死にそう。もう一度聞くわね。あなた、どうするつもりなの」

「それは……」


 初めて知る衝撃の事実。それは、秋穂が持っていた自信を粉々に砕いたようだ。


 ――夏織失踪事件の犯人を明かすまでもなさそうね。


 あの事実は危険すぎる。真実を知ってしまったら、穏やかな秋穂はどこかへ消え失せて、修羅へと変貌してしまう予感がしていた。母親にとって、子はなによりも大切なものだ。危害を加えた相手を知って普通でいられるはずがない。


 真っ青になって俯いている秋穂を見上げる。


 まだ出会って間もない相手だ。けれど、あたしはどこかこの人間を気に入っていた。


『私、お化けの友だちなんて初めてだから、とっても楽しいの』


 あの秋穂の何気ない一言。それが少し嬉しかっただけかもしれない。けれど、状況が状況だ。誰も傷つかずになんてのは無理だろう。しかし――できることならば、誰にも優しい結末を。それがあたしの願いだった。


 血の気の失せてしまった秋穂は黙ったまま俯いている。強く握りしめた拳はかすかに震え、噛みしめた唇は白くなってしまっていた。


 あたしは、優しい声色を意識して秋穂へ語りかける。

 夏織が幸せになるために必要なこと。幸せへの確実な道のり。

 最大の障害は――秋穂。母親である彼女そのものだ。


 冷静になって考えてほしい。そんな願いを籠めて言葉を紡いでいく。


「幽世に、あの子を気に入ったってあやかしがいる。衣食住の面倒も問題なく見られる。残飯じゃない温かいご飯を毎日食べさせて、寒くない寝床を用意できる。あたしは、そっちの方があの子のためだと思う。秋穂……どうかしら」


 ――そうだ。東雲と別れて幽世の空を見上げた瞬間、あたしはこうしようと決意した。


 ここに夏織を連れ戻しても、待っているのは地獄だ。

 金がないという理由だけで、濁流へ突き落とした人間が、ノコノコと戻ってきた幼児に、一体なにをするか……想像するだに恐ろしい。


 ――安定した生活か、僅かばかりの親子の時間か。


 あたしたちの前に置かれた天秤の上には、ふたつのものが乗っている。


 秋穂が死ぬまでの僅かな間に過ごした時間は、きっとかけがえのないものになるのだろう。けれどもそれで満足するのは――秋穂だけだ。温かな時間を過ごした後、母親の亡骸を目にした幼子は、育ちきっていない心でなにを想う? 


 ――絶望。哀しみ。苦しみ。……すべて純粋無垢な子どもには、必要のないものだ。

 ならば、どちらを選ぶべきか考えるまでもない。


 すると、秋穂の肩が僅かに震えているのに気がついた。その震えは徐々に大きくなっていき、なにか笑い声のようなものが聞こえてきてギョッとしてしまった。


「ふ……ふふ……」

「……秋穂……?」


 とうとう変になってしまったのかと、心配で声をかける。すると次の瞬間、秋穂は勢いよく顔を上げ――まるで疲れ切ったみたいに、緩んだ笑みを浮かべた。


「……猫ちゃん。色々ありがとね……」

「なにお礼を言ってるのよ。馬鹿じゃないの」


 自分から子どもを奪おうとしている相手に発する言葉ではない。あまりにもお人好し過ぎる言葉に辟易していると、秋穂は部屋の隅にあった本を手に取った。


「私ね、昔から本が大好きだったの」


 突然、意味のわからないことを言い出したものだから首を傾げる。

 秋穂は本の表面を手で撫でると、それをあたしに見せた。


「この本ね、夏織が大好きな本。あの子、私に似てお話が好きなんだよね。何度も何度も読んであげた……」


 それは、子ども向けの絵本だった。野ねずみの兄弟が、力を合わせてパンケーキを作るという有名な絵本で、表紙には仲がよさそうなねずみが二匹描かれている。


 その本はやたら薄汚れていた。手垢であちこち黒ずみ、カバーは切れてしまっていて、セロファンテープで修復した跡が見て取れる。折り目がついてしまったページも多く、何度も何度も読み込んだのだろうことがわかった。


「……結婚する前、いっぱい想像したな。子どもといろんな場所へお出かけしたり、立派な本棚を用意して、そこにたくさん本を並べて毎晩読み聞かせするんだって……」


 ぽつり、一粒の涙が本へ落ちる。

 秋穂は口もとを震わせると、掠れた声で話を続けた。


「夫が死んで……実感した。本って贅沢品なのよ、猫ちゃん。夫の収入があった頃はそうは思わなかったけれど、生活が逼迫してからは本を買う余裕なんてなくなってしまって」


 ぎゅうと本を強く握りしめる。薬の副作用なのだろうか。黒ずんでしまった爪は歪で、ところどころが欠けてしまっていた。


「同じ本を何度も読んでいると、流石の夏織も飽きちゃったって言うんだ。新しいのがほしいって。でも、買ってあげられないの。全然……買ってあげられないんだよ」


 そして本を抱きしめてその場に座り込むと、次の瞬間には突然大声で叫んだ。


「ああもう! 私って本当に馬鹿だ!」


 そして苦しげに顔を歪めると、天井を見つめたまま語り出した。


「亡くなった夫にも言われてたの。君は人を信じすぎるって。でもね、私にだって人を疑う心がないわけじゃない。死亡保険金が入った途端に声を掛けてきた親友は、お金を返さないかもしれないと思ったし、なかなか通帳を返してくれない叔父夫婦を疑わしくも思ってた。でも――」


 栗色の瞳が涙で滲んでいく。あっという間に瞳の許容量を超えた涙は、やつれた頬を滑り落ち、服に触れると弾けて消えた。


「みんなの優しいところ、いいところを知ってたから。だから、私を騙そうとしているだなんて思いたくなかった。人間はお金が絡むと変わるんだ。そんなの当たり前のこと、誰に言われなくてもわかってたのに」


 その瞬間、秋穂は酷く咳き込んだ。息をするのも辛そうなほどのそれが収まると、秋穂は口を押さえていた手をじっと見つめてポツリと呟いた。


「……ひとりで空回りして。自分で自分の首を絞めて、にっちもさっちも行かない状況になってる。私って本当に馬鹿。親である以前に、現代社会で生きることすら向いてないんじゃないかって思っちゃう。……救いようがないね」


 秋穂の手は鮮やかな血で染まっている。秋穂はあたしをまっすぐに見ると、どこか切羽詰まったように訊ねた。


「本当に……本当にあの子は過不足ない生活を送れるのね?」


 あたしは大きく頷いて答えた。


「アイツは変わり者だけれど信用の置けるやつだわ」


 確信を持って力強く言う。すると、秋穂はまるで迷子みたいな顔をした。


「……駄目。なにも信じられない。自分が嫌いになりそう」


 そして膝を抱えて蹲ってしまった。その様子に思わず噴き出しそうになって、必死に笑いを堪える。


「馬鹿ね。この状況で、人間ですらないあたしを信じるなんて言い出したら、それこそ救いようがないわ」

「そ、そうだけど」


 涙で濡れた瞳でじとりとあたしを見つめた秋穂は、ため息混じりに言った。


「猫ちゃん、君はとっても親切で優しいよ。できることなら信じたい」

「………………なによそれ」


 秋穂の言葉に、あたしは思わず視線を彷徨わせると、慌てて秋穂へ背を向けた。


 胸の辺りがムズムズする。お腹の辺りから、ぼんやり温かいものが広がっていく感覚がして、頭がクラクラしてきた。


 ――そういえば、こんなに長い時間を人間と共にしたのは久しぶりかもしれない。


 ただの猫であった頃に戻ったみたいで、きゅう、と胸が苦しくなる。

 あたしは、いつの間に人間から離れて生きるようになったのだろう。


 昔は、世話をしてくれる人間に純粋に好意を抱いていたし、撫でられることを心地よく思っていた。でもあやかしになったあたしは、知らぬ間にそれを忘れ、自分はひとりで生きなければならないと思い込んでいた。

 誰かに心を預けたり、預けられたりする感覚。それがあまりにも懐かしくて――。


 あたしは、らしくない親切心を起こすと、秋穂に向かって言った。


「仕方ないわね」


 ふるりと身体を震わせ、全身に力を漲らせる。すると、ミシミシと軋んだ音がして身体が大きくなっていった。炎を纏い、虎ほどの大きさに変化したあたしは、ぬっと顔を秋穂に近づけると言った。


「なら、信じさせてあげるわ。一緒に来て」

「……猫ちゃん……本当にお化けだったんだ……」


 間抜けなことを口走った秋穂に、痺れを切らしたあたしは身体を低くして急かした。


「……あたし、気分屋なの。気が変わらないうちにさっさと乗って」

「で、でも。お風呂掃除……」

「ねえ、お金を使い込むようなクソ野郎に義理立てする必要あるわけ?」


 横目で秋穂を睨む。すると、プッと噴き出した秋穂はさもおかしそうに言った。


「……ないね」


 そしてハンガーに掛けてあったコートを着込むと、首にマフラーを巻きながら興奮気味に言った。


「そう言えば私、大きな獣の背に乗るのが夢だったの」

「なら、夢が叶ってよかったわね」


 秋穂はムズムズと口を動かすと、まるで子どもみたいに好奇心に目を輝かせてあたしの背に乗った。身長に比べるとやけに軽い体重に内心ため息を零しつつ、開け放った窓から外へと飛び出す。


「うわっ。飛んだ……!!」


空気を蹴り、冬の空を駆ける。その瞬間、身も凍りそうなほどの冷たい空気が全身を包み、一瞬で温かな部屋が恋しくなった。けれど、そんなことは秋穂には関係ないらしい。


「星の海を泳いでるみたい……」


まるで夢見るような台詞を呟いた秋穂は、なにが面白いのか、夢中になって冬の空を眺めていた。

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