富士の大あやかし2:”ナナシ”の薬屋
隠世には、厳密に言うと医者と言うものはいない。
そもそも、あやかしたちはたとえ重傷を負ったとしても、自力で治癒することを選ぶ。先日会った、山爺の件もそうだ。痛みにのたうち回り、正気を失ったとしても、それを医者に掛かって治そうという結論に至るものは少ない。
けれども隠世の街の外れには、所謂、薬屋と呼ばれる店があった。
隠世で最も栄えているこの街では、現世に頻繁に出入りするあやかしも多く、人間社会に慣れ親しんでいる。なので、治癒を目的とした医療機関の需要があったのだ。この店は、あやかし用の薬の処方から簡単な医療行為まで、様々なニーズに応じている。
薬屋のある一角だけは、近づくと空気が変わる。乾いた草の匂い、良くわからない刺激臭、甘い香り、酸っぱい匂い……薬屋で使われる、様々な種類の薬草の香りが立ち込め、独特な雰囲気を醸し出している。そして、軒先には「薬や」とそのまんまな屋号が掲げられていた。
その建屋も一風変わっている。
複雑な紋様が刻まれた、中華風の欄間。長い年月使い続けられていることがひと目でわかる、重厚な作りの建具。様々な薬の材料が入った硝子の瓶がずらりと棚に並び、小さな引き出しが特徴の薬棚が、乳棒やすり鉢が置いてある調合台を囲むように、いくつも設えてある。そして、その店の主も何処か大陸風の格好をしていた。
「あらあ、いらっしゃい」
店主は形の良い唇を弓なりにしならせると、私の背後にちらりと視線を投げた。驚くほど長い睫毛の向こうに見えるのは、美しい琥珀色。年代物のウィスキーのような透き通った黄褐色は、見るものすべてを魅了するほどに美しい。その瞳に射すくめられた水明は、ぴくりと体を強張らせた。
店主は妖艶な笑みを浮かべると、美しい深緑色の髪をかき上げた。さらりと流れた髪は、幻光蝶の灯りに照らされて、なんとも不思議な色合いを醸し出す。更には、平均よりも遥かに小さな頭からは、捻れた牛の角が生えている。
「――夏織にいつも処方している軟膏でいいかしら?」
私が事情を言うまでもなく、ゴソゴソと薬棚を探り始めた店主に、お願いしますと頭を下げる。すると、その人はぱちりと片目を瞑ってから作業に戻った。
この店主の名は――ない。その人は、常々自分は名無しであると公言している。
だから、「ナナシ」と皆から呼ばれている。養父である東雲さんの古くからの知り合いらしいけれど、見るからに大陸生まれに見える。何故、他国のあやかしが、日本の隠世で商売を始めるに至ったのか、詳しい事情は私も知らない。
なんとも謎めいている人物だけれど、隠世では異質な私を、小さい頃から何かと面倒を見てくれた人でもある。
ナナシはいくつかの材料を取り出すと、乳棒で調合し始めた。
私たちは、店内を眺めながら待つことにした。珍しいものが多いこの店は、見ていて飽きない。目玉の詰まった瓶なんかは気持ち悪くはあるけれど、これが怪我や病気を治す素になると思うと、印象が変わるから不思議だ。
意外にも、水明はこの店で取り扱っている薬草や材料に精通しているらしい。彼は、時々驚きに目を見開きながら、興味深そうに店内を眺めている。
すると、皆と同じように繁々と棚を眺めていた銀目は、べっこう飴の入った瓶を見つけると、ぱっと表情を輝かせた。そして、ナナシに声を掛けようとして、途端に言葉を詰まらせてしまった。そして、うーんと首を傾げると、金目に向かって尋ねた。
「なあ、金目。こいつ、おばちゃんとおじちゃんとどっちだっけ」
すると、ナナシの額にぴしりと青筋が立ったのが見えた。
……あ、これはやばいやつ。
金目はナナシの様子には気付かず、にこにこと銀目に向かって言った。
「自称、乙女の心を持つおっさんだよ〜。好きに呼べばいいんじゃないかな」
「そうかあ。じゃあ、おじち……」
その瞬間、色鮮やかと言うよりも毒々しい緑のマニキュアが施された手が、がしりと双子の頭を鷲掴みにした。
「――うふふ。だまらっしゃい、小鳥ちゃんたち」
「爪が食い込んで痛いよ〜」
「おい、俺は小鳥じゃないぞ! 烏天狗だぞ!」
「脳みそが小鳥並ってことよ。まったく……。あらあ、細かい傷があるじゃなあい。喧嘩でもしたのかしら。これは軟膏を塗らないと」
すると、ナナシは逞しい腕で双子をがっちりと抑え込むと、器用に片手で棚から瓶を取り出した。すると、途端にふたごの顔から血の気が引き、ふたりはバタバタと暴れだし始めた。
「待って。辛子は待って!!」
「やめろー! 地味に痛くて泣けるやつー!!」
「さあねえ。おねえさん、最近めっきり目が悪くなっちゃって、良く見えなあい」
すると、ふたりは無理矢理振り返ると、ナナシの顔を睨みつけて言った。
「「目が三個もある奴が、何を言っている!!」」
「――ほほほほほ!」
ナナシは、額に現れた第三の目をきらりと光らせると、慣れた手付きでふたごの傷に辛子を塗りたくった。途端、けたたましい悲鳴が店内に響き渡り――私は、水明と共に耳を塞ぐと、そっと店外に出たのだった。
*
二枚貝に詰められた真珠色の軟膏を、ナナシが水明の傷に塗り込んで行く。痛むのか、水明はその度に顔を顰めて、ほんの少し体を引く。その度に、ナナシは意味ありげな笑みを浮かべると、がっしりと水明の体を押さえつけて、容赦なく手を動かした。
「大丈夫よ。あやかし用の薬とは言え、人間にも効果は覿面よ。そこの娘が実証しているわ」
「気がつくと、傷が跡形もなく綺麗になっているもんね。私もお世話になったわ」
「本当よねー……」
すると、傍で治療の様子を見ていた私を、ナナシが小突いた。
「このやんちゃ娘! 昔っから、生傷が絶えなくてね。ボロボロになって、うちの店に担ぎ込まれるの。それで、そのたんびに東雲の野郎に可愛い娘に傷が残ったら殺す、なんてこと言われるのよ。まったく、困ったもんだわよ」
「……うう。最近は減ったもの」
「嘘おっしゃい。去年の年末も、すねこすりに躓いて、膝小僧を盛大に擦りむいていたじゃない」
「あれは、足下が見えなかったの!!」
……因みに「すねこすり」とは、人間の足下に絡みついて足止めしてくると言う、小さなあやかしだ。年末の人混みの中で屋台の串焼きに見とれていたら、すねこすりの存在に気が付かなくて、思い切り転んでしまったのだ。
すると、ナナシは愉快そうに笑うと、私を酷く優しげな眼差しで眺めた。
「――いつまでも子どもなんだから。早く、あたしの手から卒業して、いい人のところに嫁に行きなさい」
「……う」
私は、自分に注がれる眼差しが酷くくすぐったく思えて、ぷいとそっぽを向いた。
「……東雲さんが、ひとりでちゃんと出来るようになったらね」
「じゃあ、一生無理だわ。あのぼんくら!!」
ナナシは朗らかに笑うと、手際よく包帯を巻いて「終わり!」とぽんと水明の腕を叩いた。
「……ぐっ。すまない、助かった」
「あらあらあら」
するとナナシは、顔を顰めつつもお礼を言った水明を、面白そうに見つめた。
「随分と素直ね。あやかし謹製の得体の知れない薬を塗られて、雑な扱いを受けても平気な顔。それに、自分を傷つけた相手に怒るでもない。……最近の祓い屋って、こういうものなのかしら。もっとプライドが高くて、厄介な奴だと思っていたわ」
ナナシは、水明の首元に顔を近づけると、スン、と匂いを嗅ぐ。そして、にたりと決して友好的には見えない笑みを浮かべた。
「こびり着いた、あやかしの血の匂い。手練れだったみたいじゃない。一体、その若さでどれほどのあやかしを殺したのかしら?」
「――ええ!?」
すると、ナナシの言葉に驚いた銀目が、ぐいと身を乗り出した。
「お、お前、祓い屋だったのか……!!」
「銀目、今ごろ気がついたのか」
「金目!?」
「相変わらず、僕の弟は迂闊だねえ〜。人間の癖にあやかしに怯えたりせず、更には異様な好奇心を発揮しない時点で気がつくべきだよ」
銀目はまだ信じられないのか、勢いよく水明を見た。すると、水明も特に隠すつもりはなかったのか、なんでもないような顔で頷いた。
銀目は、パクパクと口を開閉すると、私の後ろに回ってぎゅうと頭を抱え込んだ。途端に視界が塞がれた私は、思わず仰け反る。けれど、銀目はそんな私には構わずに、まるで大事な玩具を取られかけている子どもみたいに、力いっぱい抱きしめてきた。
「ななな、何が目的だ! 夏織を傷つけたら、俺が許さないぞ……!!」
「銀目」
「夏織。大丈夫だ、俺が守ってやるからな」
ぎゅうぎゅうと頭が締め付けられて、ものすごく苦しい。堪らず、ぽんぽんと銀目の腕を叩くと、やっと私の状況に気が付いたのか、力が緩んだ。
私を守ろうと抱きしめているその腕は、記憶にあるものよりも遥かにがっしりとしている。立派な烏天狗になるために、普段から修行に励んでいる証拠だ。なのにも関わらず、ぼろぼろと涙を零しているその姿は、まるで小さい子どもみたいだ。
銀目はこの世に生を受けて15年。あやかしとしては、まだまだほんの子どもだ。
あやかしは、見かけと中身の年齢が伴っていない場合が多い。一見すると成人した青年に見える銀目だけれど、昔と変わらずにどこか危うくて青いその姿に、私は頬を緩めた。
「……大丈夫だってば。さっきも説明したでしょう。誰かを探しているんだって。私に何かをするわけないじゃない。それに、東雲さんが滞在を許しているのよ。悪いことを考えていたのなら、きっと東雲さんが許していないわ」
「そ、それでも。祓い屋は怖くて痛いものだって、師匠が言ってた。近づいたら駄目だって。――こ、今度は俺が夏織を守るんだ。だから、だから」
「もう。泣きながら言っても、説得力ないよ。ほら、鼻水」
「うう……」
私はティッシュを取り出すと、銀目の腕の中から抜け出して、そっと差し出した。銀目は、勢いよく洟をかむと、漸く落ち着いたようだ。
水明はなんとも複雑そうな顔で私たちを見回すと、深く嘆息をした。
「……俺は幼い頃から、感情を動かすなと教えられてきた。だから、正の感情も、負の感情もあまり感じない。ただそれだけのことだ。それに、俺は今、祓い屋としての力を失っている。お前たちから見たら、取るに足らない存在だ」
「あらあ。なんて迂闊なの。自分が無力であることを、あやかしにバラすなんて」
ナナシは、さも面白そうに水明を眺め、その長い脚を組んだ。水明はちらりとナナシを見ると、視線を反らした。
「別に、気に食わないのであれば、喰ってもらって構わない。ここで死ぬのであれば、それが俺の運命なのだろう」
「ふうん」
ナナシはジロジロと水明を見ると、腰に着けたホルダーに目を止めた。そこには、空になっている試薬瓶のようなものが収められている。
……そう言えば、山爺の時、水明はこれを取り出していたっけ。
ナナシは何かに納得したように頷くと、徐に水明の顔を両手で挟んだ。
結果、水明の整った顔がぶにゅっと歪んで、まるで蛸みたいな顔になってしまった。水明は「!?!?」と意味もわからず戸惑っている。
「まあ、大体貴方の素性はわかったわ。古い血筋には、色々と制限があるものよね。でも、力を失った代わりに、その制限はなくなったのじゃなくて?」
「……」
ナナシがそう言うと、水明は黙り込んでしまった。
ふふ、と小さく笑ったナナシは、水明の頬から手を離すと、ぽんと優しく頭に手を置いた。
「いつか、自分の感情を、好きなだけ外に曝け出せるようになればいいわね」
「……そんな必要はない」
「ええ、そんな!?」
私は無表情に戻ってしまった水明をなんとか元気づけようと、ぐっと拳を握って力説した。
「大通りに倒れていた時は、いかないで……そばにいて……って、凄く可愛かったじゃない。素直な方がいいわよ。そのあと、滅茶苦茶憎たらしくなっていたけど」
「グホッ!!」
すると突然、金目が噴き出した。そして、ひとり蹲るとプルプルと震えながら笑いを堪えている。その隣に立っていた銀目は、のんびりと「お前は寂しがりやなのか」なんて頷いているし、ナナシに至っては「可愛いところもあるじゃなあい」と、今度はワシャワシャと水明の白い頭を撫でくりまわした。
「あーん、もう! 不器用な子! かわいいわあ……!!」
「……う、やめろ。おい」
水明は必死でナナシの手を躱すと、ほんのりと頬を染めて、ワナワナと震え出した。
「冗談はよしてくれ。感情のコントロールは、幼い頃から徹底的に叩き込まれている。完璧な筈だ」
「そうなの?」
私は水明の前に回り込むと、その瞳をじっと覗き込んだ。
「君ってさ、確かに顔は無表情なんだけど、目がとっても正直者よね。何を考えているのか、一目瞭然だもの」
「……嘘だ」
水明の瞳は、不安そうに揺れている。
どうして、それほどまで感情を抑えることに拘っているのか知らないけれど、私は小さく笑うと、水明の柔らかい頬を指で突いた。
「嘘じゃないよ。いつかはその目みたいに、ほっぺたも正直に動けばいいね」
「……」
すると、水明は俯いて黙り込んでしまった。
……あら。まずいことを言ったかなあ。
すると、私の頭をナナシが優しく撫でた。ふと、ナナシの方を見ると、とても穏やかな表情をしていた。
「……男には、色々と事情があんのよ。夏織みたいなお子ちゃまには、まだ難しいかもね?」
「む! なにそれ!」
「放って置いてやんなさい。束縛が解かれたばかりってね、ないはずの鎖に縛られることもあんのよ」
ナナシはそう言うと、水明に向かって「悩み事や困ったことがあったら、遠慮なく来なさい」と、声を掛けてやっていた。
――その時だ。店内に、黒い影がするりと入ってきた。
「にゃあん」
それは、親友のにゃあさんだ。にゃあさんは、私の足にすり寄ると、つぶらな瞳で見上げて言った。
「――夏織。ぬらりひょんから、本を届けてほしいって連絡が来たわよ。どうせあんたのことだから、行くんでしょ。ついでに、以前貸した本の返却期限も近いから、回収も済ませるわよ」
「……ぬらりひょん? どうして自分で来ないの? いつもは、お土産持って遊びに来るのに」
すると、にゃーさんはぺろりと顔を洗うと、「さあね、忙しいらしいよ」と言った。
――ぬらりひょんと言えば、あやかしの総大将である。普段は、他人の家に勝手に上がり込み、主人面をしてお茶や食事にありつく無害なあやかしだ。ぬらりひょんは本を読むのが好きで、度々うちを訪れてはたっぷりと本を借りていくのだ。我が家の古くからのお得意様でもある。
……基本的に自分からは動かないあの人が、どうして忙しくしているんだろう?
「ちょっと心配だね。よし、行こうか」
「……おい」
すると、水明が渋い顔をして割り込んできた。
……おお、そういう顔は出来るじゃないか。君。
「お前のところの貸本屋は、デリバリーまでやっているのか……? サービス過剰だろう」
――なんだ、そんなことか。
私はむん、と胸を張ると、自信たっぷりに言った。
「隠世唯一の貸本屋は、本を求めるお客様すべてにご満足頂けるように、配達も仕事の一環なのです!」
するとそこに、すかさずにゃーさんが言葉を被せた。
「因みに、東雲はそこまでやらなくていいって言っているわ」
「……うっ、日本全国どこまでも。それがうちのモットーだからー!」
「そして、それに付き合わされるのがあたしよ」
……ああ、にゃあさんの言葉がグサグサ突き刺さる!
すると、金目銀目は目に涙を浮かべて、にゃあさんに向かって頭を下げた。
「「にゃあ先輩、お疲れさまです! すげえっす!」」
「――ふん。仕方ないわよね。これと知り合ったのが運の尽きなのよ……」
にゃあさんは、金目銀目に流し目を送ると、脚で耳の後ろを掻いた。
言われなくとも、にゃあさんをあちこち引きずり回している自覚がある私は、ダラダラ脂汗を流しながら、助けを求める視線をナナシに投げた。けれど、ナナシはどこからか煮干しを取り出して、にゃあさんに渡しているではないか。それも、励ましの言葉を添えて……!!
――そんなに、私に付き合うって大変なのかな!?
すると、ぽんと誰かが私の肩に手を置いた。
きっと銀目だ! ピュアな弟分なら、傷ついた私を優しく癒やしてくれるに違いない!
そう思って、振り向くと――そこには。
「ドンマイ」
どこまでも無表情な水明の顔があって、平坦な口調といい、投げやりに立てられた親指といい、まったく慰めにならなかった。
「にゃあさん、私たち親友よね……!?」
思わず涙ながらに訴えると、にゃあさんはトコトコと私に近づいてきて、ざらりとした舌で私の手を舐めた。
「あたりまえでしょう? どこまでも突っ込んでいく夏織に付き合えるのは、あたし以外の誰がいるって言うのよ」
「……!! にゃあさん、好きーー!!」
「にゃ!? にゃああああああああ!!」
私は、感激のあまりににゃあさんを力いっぱい抱きしめると、その鋭い爪で顔面にひっかき傷を作ったのだった。