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閑話 幸せの定義、幸せのありか6:よくある話

 秋穂の部屋を抜け出したあたしは、その足で幽世へ舞い戻った。


 乾いた風が吹く町を進み、明かりが灯った貸本屋の前に立つ。立て付けの悪いガラス戸を開けて店内に入ると、居間の方から賑やかな声が聞こえてきた。


「しのめめ、もっとよんで!」

「わかったよ。わかったから、ほれ。座れ!」

「夏織、お菓子食べる? お団子買ってきたのよ」

「たべる。ななち、ありがと!」


 幽世に来た当初は泣いてばかりいた夏織だったが、ここにきてようやく慣れてきたらしい。その笑い声は無邪気で一片の曇りもない。


 気分が沈み込んでいくのを感じながら、ゆっくりと居間へ足を踏み入れる。

 すると、すぐにあたしを見つけた夏織が近寄ってきた。


「にゃあちゃ……さん!」


 抱きしめられそうになってひらりと躱すと、夏織のふくふくしたほっぺたが風船みたいに膨らんだ。


「抱きしめられてあげればいいのに」

「うるさいわよ、薬屋」


 ナナシを睨みつけながら、一番ふかふかな座布団を選んで、その上で丸くなる。

 すると、どこかソワソワした様子の東雲があたしに声を掛けてきた。


「で、どうだったんだよ」

「なにが」

「夏織の母親だよ!」


 苛立った様子の東雲を横目で見て、ふうとため息を零した。見つけた……と報告しようとして、口を衝いて出た言葉に自分で驚く。


「まだわからないわ。調査中」

「そ、そうか……」


 それを聞くと、東雲はどこかホッとした様子で表情を緩めた。間抜けな顔だ。まるで、見つからなくてよかったと言わんばかりの腹立たしい顔。


 けれど、あたしはそれどころじゃなかった。


 ――あたし、なにを言ってるの……!!


 あまりのことに混乱する。見つけたと報告して、子どもを連れて行けば面倒ごとはすべて終わるのに、引き延ばしてどうするつもりなのか。何故嘘をついたのか、自分が心底理解できなくて目が回りそうになった。


「ねえ、しのめめ。ごほん……」

「おう。どれを読む?」


 そんなあたしを余所に、東雲は膝に夏織を乗せ、読み聞かせを始めた。のんびりとした声を聞きながら必死に自分を分析する。


 ――もしかして、あたしはこの子をあの母親に返したくないのだろうか。情が移っている自覚はある。けれど、いずれは帰さなければとも理解している。東雲ほど入れ込んでいるわけじゃない。なのに、どうしてあんなこと……。


『私は母親だもの』


 その瞬間、秋穂の言葉を思い出して、たちまち理解した。


 例えば、あたしが夏織の母親だったとして――あの場所に戻したいと思うのだろうか?

 随分前に別れたきりのわが子を思い出す。あれはまだ、あたしがあやかしになる前のことだ。あたしにそっくりの黒猫が三匹。親として、そして猫として生きる術は教え込んだつもりだ。あの子たちが生きやすいように、あたしなりに心を砕いた。


 母親にとって子はなによりの宝だ。たとえ自分の子でなくとも、そこに己の子の影を見つけて、幸せであってほしいと無意識に願う程度には大切に思っている。


 だからきっと、あの言葉は「母親」としてのあたしから出たものなのだ。秋穂の母親としての想いと決意を知ったからこそ、不幸しか待っていないあの場所へ、夏織を帰したくなかった。


 その瞬間、はたと思いつく。

 ――この人間の娘の幸せは、一体どこにあるのだろう?


 そう思い至った瞬間、あたしは夏織に問いを投げかけていた。


「ねえ夏織。あなた、幸せ?」


 すると、夏織はこてりと首を傾げ、どこかポカンとした顔で答えた。


「しあわせってなあに?」

「……お腹いっぱい食べられるとか、よく眠れるとか。楽しいとか。そういうことよ」


 あくまで猫的な幸せだけれど、と注釈をつける。夏織は「うーん」と首を捻ると、次の瞬間にはパッと明るい表情になって言った。


「ここのごはん、あったかくておいしいよ。おちゃをかけなくていいし」

「どういうことよ……」


 すると、拙い言葉ながらも夏織はあたしに一生懸命説明してくれた。

 どうやら、残飯を食べていたのは秋穂だけではなかったようだ。食事はほとんどが冷め切っていて、時間が過ぎていたせいか硬いものが多かった。それを美味しく食べるために、温かいお茶をかけるなどの工夫をしていたらしい。


「それにね、ねてるときぴゅーってつめたいかぜがはいってこないでしょ。ごほんもいっぱいよめてうれしい。ねむるとき……ママがいないのはさみしいけど」


 夏織はしょんぼりと肩を落とすと、ぷらぷらと足を動かした。見ると、瞳に涙が溜まっている。どうやら泣くのを必死に我慢しているようだ。


「この子、どんな環境で暮らしてたわけ……?」

「……ひでえな……」


 その話を聞いたナナシと東雲は、どこか沈痛な面持ちで俯いている。

 あたしはひとつため息を零すと、夏織に重ねて訊ねた。  


「ママ好き?」


 夏織はまるで花咲くみたいに顔を綻ばせると、はっきりと言った。


「うん。だいすき!」

「……そう」


 あたしはその一言で覚悟を決めると、居間を出て、貸本屋を後にした。


「おい、どうしたんだよ。さっきの質問、なんだよ。お前らしくない」


 追いかけてきた東雲があたしに声を掛ける。振り返ると、貸本屋の玄関から夏織が不安そうな顔をしてあたしを見ているのがわかった。


「夏織が風邪を引くわよ。戻りなさい」

「でもよ……」


 マゴマゴしている東雲に、チッとあからさまに舌打ちする。

 あたしは三本の尻尾を振ると、東雲に背を向けて言った。


「あんたはあの子の面倒を見ていて。悪いようにはしないわ」

「わかった。…………頼む」


 なんとも弱々しい声に、思わず後ろを振り返ると、なんと東雲が頭を下げているではないか。あたしは小さく笑みを零すと、やれやれと首を振った。


「随分と絆されたものね。あやかしの癖に」

「……! し、仕方ねえだろ。情が移っちまったんだ」


 あたしは再び東雲に背を向けると、空を見上げながら言った。


「アンタ、まるであの子の父親みたいよ」


 そして現し世へ向けて歩き出す。この時、東雲がどんな表情をしているかはわからなかったが、どうせとんでもなく情けない顔をしているのだろうな、とぼんやり思った。




 それから一週間経った。


 秋田県北部、それも田沢湖周辺の冬は早い。


 紅葉に染まっていた木々はあっという間に冬支度を終え、空からチラチラと白い欠片が落ち始めると、外気に触れるのが苦に感じるほどになる。


 陽が沈み、吐息すらも凍り付く山中で、あたしは川赤子に相対していた。


「猫の姐さんのおかげで、冬支度もまだですわ……まったく」

「いいから聞かせなさいよ」

「はいはい。姐さん怒ると怖いんで、さっさと報告しますよ」


 何度も会っているうちに、いつの間にか「姐さん」呼ばわりが定着した川赤子は、紅葉みたいな手で揉み手すると、話しを始めた。


「夢の湯を小玉鼠に探らせたんですがね」


 因みに、小玉鼠は秋田のあやかしだ。二十日鼠を丸くしたような姿をしていて、山の神の機嫌が悪いと、ポンッと弾けるような音をさせると謂われている。マタギの一派があやかしとなったとも謂われていて、隠れての行動などが得意なのだという。


 川赤子は呆れ顔で首を横に振ると言った。


「経営者夫婦、ありゃ人じゃないぜ。鬼だ、鬼」

「どういうこと? まさか本当にあやかしだったとか言わないわよね」

「その方が、しっくりきますがね……。秋穂とかいう女、病気でもう長くないそうで。経営者夫婦と行方不明の娘、すでに養子縁組してるんですわ」

「……それは当たり前じゃない? 誰かしら面倒を見る人間は必要だわ」

「まあ、それはいいんですがね。死んだ後は面倒を見てやるんだからって、秋穂の通帳を取り上げてるみたいで。しかも、すでに中身に手を着けてるようです」

「なんですって?」


 川赤子は、まん丸の顔に似つかわしくない苦い表情を浮かべると、忌々しげに言った。


「宿の経営が上手くいってないようでね。赤字を秋穂の貯金で補填してるんですわ。実際、秋穂の給料だって支払われているかどうかも疑わしい。なにせ、本人には一銭も渡ってないんですからね」


 給与明細は渡しているらしい。けれど、衣食住は宿の従業員用の施設で間に合っているのだからと、現金を渡したことはない――それが、従業員の中でまことしやかに囁かれている噂だった。


「……とんでもないわね」


 まさに鬼畜の所業。あたしが経営者夫婦の行いに絶句していると、こんなのまだまだと川赤子が続けた。


「これは、姐さん自身で確認して欲しいんですが。……どうも、子どもの行方不明事件にも一枚噛んでそうな感じがします」

「それは本当なの!?」


 喰い気味に川赤子に詰め寄る。川赤子はやや及び腰になると、どこか引き攣った笑みを浮かべた。


「こればっかりは自分で確かめてくださいよ。違ったと後で文句を言われたら敵わない」

「確かめるって……どうすればいいのよ」


 すると、川赤子は言った。


「まるで台風みたいに風が唸り声を上げる日に、経営者夫婦の奥さんの方がやたら取り乱すんだそうです。ほら――こんな日ですよ」


 その瞬間、息が詰まりそうなほどに強い風が吹いた。木々が揺れ、辺りが一気に騒がしくなる。星明かりに照らされた木のシルエットがまるで化け物のように蠢き、真冬の山中に居るあたしたちを嘲笑っているかのように思えた。


 あたしはコクリと唾を飲み込むと、川赤子の話に耳を傾けた。


「やつらの寝床の床下へ行ってみてください。きっと今日も大荒れでしょうよ」


 あたしは静かに頷くと、強風吹き荒れる中、夢の湯目指して駆け出した。




 ――まだ本格的に雪が積もる前でよかったわ。


 大量の埃とゴミ、それに凍てつくような冷気に耐えながら床下に潜り込んだあたしは、自慢の毛が汚れるのに辟易しつつも、その場でゆっくりと目を瞑った。


 真上には経営者夫婦の部屋がある。

 そこでは、今まさに修羅場が繰り広げられていた。


「いい加減にしろ! おめえが死んだってどうにもならねえじゃねえか!」

「やめて。止めないで! あの子が見てるの。あの子が私を!」

「誰も見てねえ。正気に戻れ!」


 バチン! 痛そうな音がして顔が引き攣る。妻の目を覚ますために男が叩いたのだろう。だが、妻の嘆きは徐々に深くなっていく。


「……ああ。だから嫌だったのよ。子連れの死にかけの女を居候させるのも。小金のためにあれこれ画策するのも。全部あんたのせいよ。あんたが私を巻き込んだんだ!」

「しっ……仕方ねえだろ、俺たちにはこの宿しかねえんだ。潰れたら路頭に迷うのは目に見えてる。生きるために仕方なくやったことだ。お前だってわかるだろうが!?」

「だからって! 子どもに……!」

「――黙れ」


 女が子どもの話題に触れた途端、男は声を顰めた。


「誰かに聞かれでもしたらどうする。客もいるんだ」

「……ご、ごめんよ。あんた……」


 正気を取り戻したのか、女は弱気な声で謝った。けれども、こみ上げてくるものを耐えきれなかったようで、さめざめと泣き始める。


「忘れられないんだ、あの子を突き落とした時のこと。三歳だよ? まだなにもわからないだろうに必死に抵抗してた。細い首に手をかけて……無理矢理落としたんだ。荒れ狂う川に小さな身体が揉みくちゃにされて、すぐに姿が見えなくなっちまった」

「いいから寝るんだ。きっと疲れてる。なあ……」

「……手に感触が残ってるんだよ……。ねえあんた、どうすれば赦される? ああ、風が唸ってる。風の音に混じって、あの子の悲鳴が聞こえるんだ……」

「誰も赦しちゃくれねえよ。お前も、俺も。金がねえんだ。子育てには金がかかる。面倒なんて見られない。一足先に母親の向かう場所に行ってもらっただけだ。あの世で幸せに暮らすさ……」

「……育てるつもりもないのに養子縁組だなんて。あの親子は本当に運がない……」


 そこまで聞いた時点で、あたしは床下を後にした。


 恐ろしいほどの怒気と吐き気がこみ上げてきて、耐えられなかったのだ。


 いつの間にかうっすらと雪が積もっている庭を駆け抜け、木の根もとに蹲る。その瞬間に胃の奥にあったものが逆流してきて、その場にぶちまけてしまった。


 ――怖い。あたしはなにを聞いたの。あれは本当のことなの。あれは本当に人間なの。


 激しく咳き込みながら、必死に考える。

 違う。あれが人間だなんてなんの冗談だ。あれは悪鬼か羅刹かのどちらかに違いない。

 本当に理解できない。どうしてこうも自分本位になれるの? あの女、性根が腐っている。なにが赦してほしいだ。嘆きはする。哀しみはする。後悔はする。けれども、罪を償おうとはしない。共犯者の男に縋って罪悪感を発散させているだけだ。


 ――ああ。そういうことか。


 あやかしの中には、人間から堕ちてきたものが少なからずいる。今まで、明るい世界で生きている人間が、どうしてあやかしになったのかが謎だった。


 けれども、今回のことで確信した。


 どんな人間も、薄皮一枚破れば――そこには、昏い色をした粘着質のなにかが詰まっているのだ。どろりどろどろ。決して光を通さないものを抱え込んでいて、なにかのきっかけでそれに染まりきると――鬼と変わらぬ、なにかへと変貌する。


「……猫ちゃん?」

「……っ!」


 突然、声を掛けられて、飛び上がりそうなほどに驚く。心臓を宥めながらゆっくりと振り返る。するとそこに見知った顔を見つけて――けれども、その内に抱えているだろうものを想像すると、素直に再会を喜べなかった。


「また遊びに来てくれたの?」


 ――……ああ。一週間前よりも痩せている。


 着実に死の淵へと足を踏み出し続けているであろう秋穂は、星明かりにぼんやりと青白く照らされて、にっこりと笑みを湛えたままそこに立っていた。

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