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閑話 幸せの定義、幸せのありか4:変な女

 川赤子。それは鳥山石燕の「今昔画図続百鬼」にも描かれているあやかしだ。


 鳥山石燕の絵の中で、川赤子は川辺の葦から顔だけ出して、赤ん坊によく似た泣き声を上げている。しかし、実際のところどういうことをするあやかしなのかは伝え遺ってはいない。鳥山石燕は川太郎や川童……所謂河童の類いではないかと同書で述べている。


 あたしは地獄を通ってはるばる秋田までやってくると、川赤子と会うことにした。


 川赤子の棲み家は山の奥にあった。田沢湖周辺に広がるブナの原生林……秋風に黄色く色づいたブナ林の中に、穏やかに流れているのが先達川だ。場所によってはイワナやヤマメが生息していて、川赤子はそれを獲って糧としているらしい。


「昔はもう少し人里に近いところに棲んでいたんですがね。最近は人を脅かすこともなく、山奥で静かに暮らしているんです」

「昔からここに?」

「ええ、親の代から。だから、この辺りに棲んでいる人間の顔くらいは知ってますよ」


 川赤子という名に似つかわしくない落ち着いた声で、けれども名の通りに赤ん坊のような小さな身体をしたあやかしは言った。裸に赤い腹掛けを着て、随分と頭が大きいのに大人のように茂みの中を器用に歩く。


 もうじき冬が来ることを予感させるように、はらりはらりとブナの葉が降ってくる。目も眩むような金色の雨の中、川赤子はある場所に到着すると足を止めた。


「そら、そこだ」


 川赤子が指し示した先、そこに一軒のひなびた宿があった。木造平屋建て、どこか歴史を感じさせる佇まいで「夢の湯」と看板が掲げられている。どうやら温泉宿のようだ。辺りには硫黄の臭いが充満していて、どこか独特の雰囲気があった。


「それで、そのチラシを配ってたっていう女がここにいるの?」

「時々、暇つぶしに人間たちの様子を覗きに来るんですがね、そのチラシを持って出かけるのを何度も見てる。女の娘も、最近とんと姿を見ないし」

「……よく知っているのね」

「ここいらのあやかしはみんな暇を持て余していましてね。人間観察が大好きなのさ。小玉鼠なんて、床下に潜り込んで――」

「興味ないわ。案内、ありがとう」


 あたしは趣味が悪い話を無理矢理ぶった切ると、宿を目指して歩き出した。


 耳を澄ませながら歩く。三本の尾を一本に偽装するのも忘れない。まあ、たとえ人間にバレたとしても、その場で始末すればいいとは思うのだが、まかり間違って夏織の親を殺してしまったら元も子もない。

 夢の湯はかなり小さな宿だった。


 見る限り、近くにはなんの建物もない。この辺りは乳頭温泉郷とも言われていて、乳頭山麓の中に宿が点在しているのだそうだ。とは言っても、この夢の湯は乳頭温泉郷として大々的に紹介されている宿の中には含まれていない。ナナシによると、秘境中の秘境としてマニアには知られているらしいが……。


「……ただ単に、繁盛してないだけじゃないの」


 ぼそりと、雪の重みで歪んだらしい屋根を見つめて呟く。


 よくよく見るまでもなく、夢の湯はボロ屋だと断言できた。幽世の貸本屋もそれなりに年季が入っているように見えるが、ここはそれを上回っている。


 今にも潰れそうな場所を避けつつ、人の気配を探り敷地内を歩く。


「……臭いわ。鼻が駄目になりそう」


 ――せっかく夏織の匂いを覚えてきたのに。


 硫黄の臭いに辟易しながら歩いていると、人の気配がしたので身を潜めた。

 物陰からこっそり覗くと、そこには壮年の夫婦とおぼしき男女がいた。


「チッ……接客態度が悪いだあ? 部屋のタオルが臭い? 知らねえよ、こちとらもてなしてやってんだ。文句言ってんじゃねえ」

「ほんとだよ、あんた。あたしゃ言ってやったね、文句があるなら他へどうぞって。やだよやだよ、東京モンは。あいつら、真っ赤になって出てったよ。どうするんだろうね? 一番近い宿でもかなり歩くってのに」

「知らねえよ! 熊にでも会えばいい」


 ――極まってるわね……。

 接客業とは思えない発言の連発に、呆然と聞き入る。自分は猫であやかしだ。人間の感覚はよくわからないけれども、それでもかなり酷い態度であることはわかった。


 ――嫌な感じ。

 人間の仄暗い部分を見てしまったようで、ため息を零す。けれどもすぐに頭を振ると、気持ちを切り替えた。さっさと夏織の親を見つけて、ママ捜しから解放されるのだ。余計なことを考えている暇はない。

 あの壮年の夫婦は夏織の親ではないだろう。あんな幼い子の親だとしたら、年を食いすぎている。ならば、この他にも人間がいると思っていい。あたしは、夫婦に気づかれないように静かに踵を返すと、他の人間を捜しに行こうとして――。


「秋穂さん!? お客様がお帰りだよ。さっさと部屋の掃除をしておくれ!」

「はあい!」


 その時、耳に届いた溌剌とした声に、思わず足を止めた。


「早くしておくれ。夕方から新しい客が来るんだ」

「わかりました……」


 女性がひとり駆け込んでくる。その人は、茶色がかった髪を耳に掛けると、夫婦に向かって深々と頭を下げる。勢いよく上げた顔はどこか疲れているように見えた。


 あたしはその女性を見た瞬間、ママ捜しが終わったことを悟った。


 何故ならば、女性の顔――そこに、夏織の面影を見つけてしまったからだ。

 



 それから、あたしは慎重に情報を集めていった。


 母親の名は、村本秋穂。他の従業員との雑談から察するに、今はひとり身のシングルマザー。夢の湯経営者夫婦とは血縁で、あの壮年の男性が叔父にあたる。一年前、夫と死別したのをきっかけに、経営者夫婦に世話になることになった。


 当時二歳だった一人娘、夏織と共に宿の従業員用の部屋で寝泊まりしている。


 けれど、その娘は数ヶ月前に行方不明になっている。近年まれに見る大型台風の接近で、乳頭温泉郷へ続く道が倒木で塞がれてしまった時のことだ。風でガラスが割れたのを秋穂が修復しているうちに、忽然と居なくなってしまった。


 警察へ捜索を頼もうにも、陸の孤島と化してしまったこともあり、色々と後手に回ってしまったらしい。道が復興した後に捜索するも、一人娘の足取りは一向に掴めなかった。


 ――これが、幼児行方不明事件の顛末だ。


「なるほどねえ……」


 忙しく働いている秋穂を眺めながら、こっそりと頷く。

 台風の日。恐らくなんらかの拍子に、幽世と現し世が繋がってしまったのだろう。

 つまりあの子は――「神隠し」されたのだ。


 幽世と現し世は、薄い壁一枚で隔たれているようなものだ。

 ふとした瞬間に幽世へ踏み込み、行方不明になった人間が、現し世では神隠しなんて言われている例はごまんとある。有名なところで言えば、岩手の寒戸の婆や……ああ、秋田であれば、天狗に未来を見せてやると言われて、八十年後に現し世へ戻された百姓、作之丞の話なんかもあった。


 ――あの子、本当に運がいいわね。


 今ごろ、幽世でぬくぬくと甘やかされているのだろう幼子を思い出して、ゆらゆら尻尾を振る。まあ、それはいいのだ。東雲に守られ、安全が確保された幼児よりも――問題はこの母親だ。


「本当、どこいっちゃったのかねえ……。夏織ちゃん」

「…………」


 洗い場で食器を洗っていた秋穂は、同僚の言葉に皿を洗う手を止めると、ニッコリと爽やかな笑みを浮かべて言った。


「大丈夫ですよ。夏織は生きてます! ちょっと迷子になってるだけです」


 それだけ言って作業に戻る。同僚は曖昧な笑みを浮かべると、自身も皿洗いを再開した。


 ――頭が痛くなってきた。なんなのかしら、この女……。


 思わず木の上から落ちそうになって堪える。


 なんの根拠があって、数ヶ月もいない娘の無事を確信しているのか。


 小さく頭を振って、再び秋穂の様子を確認する。


 この女が夏織の母親で間違いはないようだ。茶色がかった髪の色も、栗色の瞳も、猫の目を通して見てみてもそっくりだ。ならば、あたしが今するべきことは、夏織をここに連れ帰ってくることだろう。けれど――。


「ゴホッ……ゴホ、ゴホッ……」

「大丈夫? 休んでていいのよ?」

「へ、平気です。叔父さんに甘えるなって怒られるし」

「でも……」


 仕事の手を休めない秋穂に、同僚はどこか同情めいた視線を送っている。


 ――なんだか不穏なのよね。


 このまま、すべてを終わらせるのは簡単だ。

 でも、どうにも踏ん切りがつかなかった。


「……確認は慎重にするべきよね」


 あたしは心の底から嘆息すると、ひらりと木から飛び降りた。



 宿泊客たちの食事が終わり、片付けが終わると、ようやく従業員たちの休憩時間となる。朝から働き通しだった秋穂は、浴室の清掃までの時間、自室に戻って軽食と仮眠を取るのが習慣となっているようだった。


 自室へ戻る秋穂の後をこっそりとつける。


 平屋建ての一番奥の奥。階段を数段下がったところに、秋穂の部屋はあった。


 客室から見えないようにという配慮からなのだろうか。衝立で隠されたその場所は、他と比べると一段と古めかしい。扉に張られたふすま紙は黴びて黒ずみ、階段はたわみ、今にも踏み抜いてしまいそうだ。


 ――立て付けが悪いのかしら。開けっぱなし。不用心ね。


 うっすらと開いた扉の隙間に身体を差し込み、ソロソロと中に侵入する。

 中も随分と黴の臭いがする。畳も腐っているのだろうか。なんだかフカフカしていて、歩きづらいことこの上ない。


「……おかしいわね?」


 すると、余り広くない部屋の全貌が見えてきたところで足を止めた。六畳ほどの和室だ。押し入れ以外に部屋はなさそうになのに、秋穂の姿がない。


 違和を感じてピンと髭を逆立てる。その瞬間、背後に気配を感じて勢いよく振り返った。


「ねっこちゃあああああん!!」


 その瞬間、視界いっぱいに広がったのは、目を欲望でグルグルさせながらあたしに飛びかかってくる秋穂の姿。あまりのことに混乱した私は――。


「ぎゃあああああ! 変態ぃぃぃぃぃぃ!!」


 ここが現し世であることをすっかり忘れて、素で絶叫したのだった。


 ――これが夏織の母、秋穂とのあたしの出会い。

 あたしが秋穂に最初に抱いた印象。それは――「変な女」だった。

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