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閑話 幸せの定義、幸せのありか1:夏織の憂鬱

にゃあさん視点の閑話です。


 徐々に新年の足音が聞こえてきた、大粒の綿雪が静かに地上に舞い降りたある日。貸本屋の店頭に賑やかな声が響いた。


「おめでとう!」


 夏織がお祝いの言葉を述べると、その人は照れくさそうに笑った。


「ありがとう。まだ本番はこれからだけれどね」


 顔を喜色に染め、モジモジと額の角を弄っている。その仕草は如何にも幸せそうで、夏織はどこか羨ましげに顔をムズムズさせると、その人に話をねだった。


「ねえ、今どういう感じ? もうすぐ生まれるんだよね? お腹、触ってもいい?」

「あと三月もすれば生まれるはずよ。どうぞ、挨拶してあげて?」


 その人――貸本屋の隣家に棲まう鬼女、お豊は優しい笑みを浮かべるとお腹を摩った。


 お豊は結婚して二百年にもなる鬼で、しかし今まで子宝に恵まれなかった。鬼の妊娠期間は十年にも及ぶ長丁場だ。人間に比べると流れやすいとも聞く。だから、生まれる直前まで隣家に棲まうあたしたちにすら伝えなかったのだろう。


 暖房が入り、ともすれば眠くなりそうなほど暖かな店内で、椅子に座ったお豊は優しげな眼差しで己の腹部を見つめた。


「すごく元気な子なのよ。お腹をよく蹴るものだから、夜中に起きちゃうくらい」


 ようやく子が生まれるのだと告白できたお豊は、どこかホッとした様子だった。


「ねえ、にゃあさん。すごいね、ここに赤ん坊がいるんだよ」

「……フン」


 夏織はあたしに笑顔で言うと、恐る恐る膨らんだ腹に触れた。

 やけに嬉しそうだ。まあここ最近は、知り合いに新しい命が生まれることなんてなかったのもあるのだろうが、そんなにはしゃぐことだろうか? 思わず首を傾げると、それを見たお豊がクスクス笑った。


「猫は多産って言うものね。赤ん坊なんて、そんなに珍しいことでもないわよね」

「別にそういうことじゃないわ。はしゃぐ理由がわからなかっただけ」


 ため息と共に零すと、ガタガタッと背後で音がした。


 嫌ぁな予感がして、後ろを振り返る。するとそこには、何故か赤い目をまん丸にしたクロの姿があった。


「ね……猫? ねねねねね、猫ってさあ」

「なによ。というか、なんで駄犬が当たり前のように店にいるわけ?」

「す、水明の昼寝に付き合ってるだけだし!? それよりも、多産って子どもをたくさん産むってことだよね?」


 私は何度か目を瞬くと、クロをじっと見つめて言った。


「アンタ……駄犬の癖によくわかったわね? 結構、字画が多い熟語だと思うけど」

「ばっ……馬鹿にしないでよ!? 最近は、オイラだって本を読むんだ。これくらいはわかるし! ……それでさあ、猫。猫って……」


 クロはこくりと唾を飲み込むと、どこか真剣にあたしに訊ねた。


「子ども、産んだこと……あるの?」

「あるわよ?」


 サラリと言うと、クロは顎が外れそうなほどに口を開け、固まってしまった。


「……どうしてそんな反応なわけ……?」


 意味がわからずに首を傾げると、クスクスと笑い声が聞こえてきて顔を顰める。振り返ると、そこには必死に笑いを堪えているお豊と夏織の姿があった。


「犬神と火車かあ。色々複雑そうねえ?」

「私、クロの自ら茨の道を進もうとする姿は嫌いじゃないよ……」

「ねえ、ふたりで勝手に納得しないでくれる?」


 苛立ち混じりに言うと、ふたりは素直に謝った。


「それにしても、にゃあさんが経産婦だなんて初めて聞いたかも」


 夏織は意外そうな顔をすると、興味深そうにあたしを見つめた。


「聞かれなかったから。言う必要もないし。過去の話だわ」

「過去のことだから、話さなかったの?」


 私はゆっくりと瞬きをすると、夏織をじっと見つめて言った。


「今が満ち足りていたら、過去を思い返す必要なんてないもの」

「……そっか」


 夏織は嬉しそうな顔をすると、あたしを抱き上げて喉を撫でた。反射的に喉を鳴らす。

 すると、そんなあたしたちを見てお豊が言った。 


「いいわね、ふたりの関係。うちの子にも、あなたたちみたいな関係を築ける友人ができるかしら……」


 夏織は顔を綻ばせると、大きく頷いた。


「大丈夫、きっとできるよ」

「そうね」


 お豊は、慈愛に満ちた表情でお腹を撫でると、まるでわが子に語りかけるように言った。


「この子には誰よりも幸せになって欲しいの。自分が本当にいい親になれるのか……不安しかないけれど、精一杯、いろんなことをやってあげるつもり」

「それはいいわね。子どももきっと喜ぶわよ」

「フフ、困ったことがあったら、先輩としてアドバイスしてくれる?」

「……猫と鬼の子育てに共通項があるとは思えないけれど?」

「やだ。冗談よ」


 朗らかに笑うお豊に、あたしも釣られて笑みを零す。

 しかし、不意にいつもなら喜んで会話に参加する夏織が黙っているのに気がつくと、あたしはこっそりと嘆息したのだった。




 その日の晩のことだ。いつものように夏織の布団に潜り込んで眠っていたあたしは、そっとそこから抜け出すと、ひらりと窓辺に飛び乗った。


 今日は随分と月が明るい。そのせいか、濡れた鼻が凍りそうなくらいに冷たい空気が辺りを包んでいる。雲がある日は、地上に蓋がされたような形になって暖かい空気が逃げづらいのだという。だから、晴れている日こそ冷え込むのが冬。どおりで寒いはずだ。


 その場に腰を下ろして、窓の外を眺める。


 月が出ている冬の夜。この窓から見える光景は格別だ。

 別にすごく眺めがいいわけじゃない。ボロ屋の二階からの眺めなんてたかが知れている。

 でも――こんな晴れ間が覗いた冬の日は、魔法に掛かったみたいに印象が変わるのだ。


 大きな月が照らす幽世の町。どこもかしこも雪で白く染まっている。


 その雪に月光が当たると、光を反射して雪自体が鈍く光る。所謂、雪明かりだ。


 空も雪も、全部が光っている。小さな小さな雪の結晶が、まるで息をしているみたいにチカチカと瞬く。なのに、辺りは死んでいるみたいに静寂に包まれている――。


 動く者は誰もいない。まるで世界が自分だけのものになったみたいだ。


「綺麗だね」


 すると、いつの間にか夏織が背後に立っていた。半纏を羽織り、どこか眩しそうに瞳を細めて外を見つめている。


「眠りをこよなく愛するにゃあさんにしては珍しいね? こんな時間に起きるなんて」


 あたしは片耳だけを夏織の方向に向けると、非難めいた口調を心がけて言った。


「誰かさんがモゾモゾモゾモゾ動くから。眠れやしないわよ」

「う……ごめん。なんだか寝付けなくて。お詫びにこちらどうぞ」


 夏織は苦笑いをすると、あたしを半纏の中に招き入れた。するりと中に入り込むと、暖かくて、ほどよく狭くて落ち着く。思わず三本の尻尾をゆらゆら揺らすと、夏織は「満足してくれたみたいね」と悪戯っぽく笑った。


「べ、別に……。寒かったからよ」

「はいはい」


 半纏の袂から顔だけ出して、適当な返事をした親友を睨みつける。クスクス笑っている夏織をじっと見つめて、私は訊ねた。


「それで、どうして落ち込んでいるの」

「……!」


 すると、夏織が息を呑んだのがわかった。


 栗色の瞳を何度も瞬き、瞳をあちこち彷徨わせている。しばらく黙り込んでいた夏織だったが、やがて観念したように長い息を吐くと、困ったように眉を下げた。


「バレてた?」

「アンタ、昔から悩み事があると寝付きが悪くなるのよ。あたし、知っているんだから」

「にゃあさんには敵わないなあ……」


 夏織は寒さで赤くなってしまった鼻を指で掻くと、窓の外へ視線を投げた。


「……綺麗だね、外」

「そうね」

「私の心も、これくらい綺麗だったらいいのに」


 なにも言わずに次の言葉を待つ。夏織はどこか泣きそうな顔になると言った。


「生まれてもいない赤ちゃんが羨ましかったの。本当に馬鹿みたいだね」


 夏織の瞳に涙が浮かんでいる。瞳の表面でゆらゆら揺れる涙の雫に、まん丸の月と赤い星空、雪明かりが映り込んで思わず見蕩れる。


「自分が今置かれている状況に満足はしてるんだ。東雲さんもいる。友だちも。でも、ふとした瞬間に考えちゃうんだ。……生みの親のこと」


 世界の美しいものをすべて写し取ったみたいな涙。でも、それはなんだかとても寂しそうな色をしていた。綺麗かどうかもわからないうちに、ふとした瞬間に瞳から零れ落ちると、儚い光を辺りに放ちながらすぐに砕け散ってしまう。


「夏織は心の底から幸せじゃないのね」


 思わず零すと、夏織はすぐさま首を振って否定した。


「ううん、私は幸せ。それは自信を持って言える。多分、こう思うのは……きっと、すごく欲張りなんだと思う」


 まるでそれが、恥じるべきことなのだと言わんばかりの夏織の様子に、あたしは鼻で笑ってしまった。


「欲張りでなにが悪いの? 強欲なのは人の特徴だわ。それ故に、人間は自分たちの生活を豊かにしてきた。猫にはないものよ」

「それは生きるために必要だったからでしょ? これは違うもの。生みの親のことなんて、知らなくても生きていける」

「……変な子ね。言い訳にしか聞こえないわ」


 あたしは身体を伸ばして夏織の顔に自分のそれを近づけると、チョン、と鼻と鼻をぶつけて言った。


「あたし、幸せって丸い形をしているのだと思っているの」

「丸……?」

「陽だまりをくれる太陽も、寝心地のいいクッションも、美味しい缶詰も丸でしょ?」


丸いものには幸せがみっちりと詰まっている。だからあたしも丸くなって眠るのだ。自分が幸せそのものに近づくように、形を似せて温かな夢を見る。


「丸は綺麗な形をしているから、丸でいられるの。ちょっとでも歪んだり欠けていたら、それはもう丸じゃないわ。あたし、今の夏織は丸じゃない気がする」


 私は夏織の半纏の中から抜け出すと、窓辺に座って彼女を見上げた。


「だから教えてあげようか?」

「なにを?」


 不思議そうに首を傾げた夏織に、私は色違いの瞳を細めると言った。


「夏織の心を丸くするかもしれないこと。夏織が……幽世に来た時のこと。現し世に夏織の親を捜しに行った時のこと。現し世であたしが見て、知った、すべてのこと」


 夏織は顔を強ばらせると、あたしをじっと見つめた。

 あたしは夏織の耳の傍に顔を近づけると、囁くように言った。


「知りたい? 聞きたい? これを聞いた後、本当に夏織が丸に戻れるかなんてあたし知らないわ。自由気ままに、自分の仕出かしたことに責任を取らないのが猫なの。覚悟があるなら話してあげる」


 ――夏織が拘っているのは、自身の過去についてだ。


 今に不満はないのならば、過去を知れば気が収まるのだろう。

 でも、人間はそう単純にはできていない。余計なことを知ってしまったせいで、今が辛くなったりするかもしれない。――でも、なにも知らないままじゃ、いつまでたってもその場で足踏みしているだけ。それを幸せだと思わないなら変えるしかない。


 あたしが心から望むのは、夏織の幸せ。夏織が笑顔でいられること。


 あの日した約束を守ること。


「どうなっても本当に知らない。でも、前に進みたいのなら」


 あたしは猫らしく無責任に言い放つと、あやかしらしく妖しげに笑った。

 すると、夏織はコクリと生唾を飲み込むと、真剣な面持ちで頷いたのだった。

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