貸本屋の恋愛事情4:それぞれの恋事情
たっぷりと時間をかけて本を選び、水明が早速読み始めたのを確認すると、少し離れた場所で一息つく。
「さあさ、一献」
「ああ。ありがとう」
文車妖妃は禿が用意したお膳を前に、遠近さんにしな垂れかかり酒を嗜んでいた。
「次に来るのはいつ?」
「さあね。仕事が一段落したら寄るよ。山ほど新刊を抱えてね」
「むう、いけずなことは言いなんしな。ここは嘘でも、明日には来ると言うところではありんせんか。ああん、わっちを見て。遠近……」
ふたりの様子を遠目で見ながらぼうっとして、なんとなしに思ったことを口にした。
「どうせうぶですよ……」
遊女らしい手練手管を駆使して、遠近さんに接している文車妖妃の姿を複雑な気持ちで眺めつつ、ブツブツと口の中で文句を零す。同世代に比べると、自分がとんでもなく恋愛方面に関して鈍いのは自覚してはいる。けれど、それを他人から改めて言われると頭にくるのは何故だろう。
「お、夏織が怒ってる~。めっずらしい!」
そんな私とは対照的に、金目はヘラヘラ笑うと隣に座って顔を覗き込んできた。
「私だって、怒ることくらいあるわよ」
「ふうん? そうだっけ?」
おちょくるような金目の口調に、じろりと睨みつけてやる。すると、金目はカラカラ笑うと、畳の上に足を伸ばしていつもの調子で言った。
「僕なんてどろどろだよ? あんまりな言い草で、怒る気もしなかった~」
どこか軽薄な笑みを浮かべている金目に、私は少し躊躇してから訊ねた。
「どろどろって?」
金目は驚いたように何度か瞬くと、
「あ~。それ、訊いちゃう?」
と、首を傾げた。その言葉の奥に、普段の彼にはない粘着質ななにかを感じて軽く息を呑む。けれど、どうにも気になってしまったので思い切って訊ねてみた。
「……だって、さっき否定しなかったじゃない」
「さすが僕の幼馴染み。鋭い!」
金目はそう言って茶化すと、視線を文車妖妃へ向け――。
「僕はいつだってどろどろさ。本当のことだったから、否定しなかった」
普段とはまるで違う、真面目な口調で言った。
「恋をする必要がないって言ってたね。それと関係があるの?」
言葉を慎重に選びながら訊ねる。すると、金目は「そうだね」と笑った。
「みんなよくやるよ、とは思ってる。年がら年中発情している人間。あやかしの癖に、人間に惹かれて悲しい結末を迎えるやつ。あやかし同士だってそうさ。好き合って番になった癖に、喧嘩してばかりの夫婦なんて意味がわからない」
金目は前髪を指先で弄ると、ふうと息で飛ばした。
「あの女が言ったとおり。僕は僕の中で完結しているんだよ。僕の世界はもう定員に達してる。恋人なんていらないさ。同じところをぐるぐる、ぐるぐる……新しい景色なんていらないんだ。そのうち全部が混じり合って、どろどろ、どぉろり。なんだか、回りすぎてバターになっちゃった虎みたいだ」
まるで歌うように語った金目は、機嫌よさげに口角を持ち上げた。すかさず質問を重ねる。なんだか、今ならすべて話してくれそうな気がした。
「金目の世界には誰がいるの?」
すると、まるでそれが常識みたいな気軽さで、金目はある人の名前を口にした。
「銀目。双子だからね、当たり前だろ?」
――金目と銀目は烏天狗の双子だ。ふたりとの出会いは、私が五歳のころ。
麗らかな春の森で、草むらの中にいる双子の雛を見つけたのだ。彼らの母親らしき烏は、辺りを見回してみてもどこにもいなかった。いたのは、ピィピィと物悲しげな鳴き声を上げる雛たち。そして落下の衝撃で壊れてしまった巣の残骸。私は彼らを保護すると鞍馬山僧正坊へ預けた。すると、なんの力も持たなかった双子の雛は、あやかしの烏天狗となって戻ってきた。それ以来、私と双子はまるで姉弟みたいに同じ時間を過ごしている。
「卵の殻を破ってこの世に生まれた時も。地面に落ちたせいで母さんに見捨てられた時も。お腹が空きすぎて死を覚悟した時も。ずっとずっとずっと、僕の傍にいたのは銀目だったよ。夏織も知ってる癖に」
「……そうだったね」
「僕は銀目さえいればいいよ。恋をしたい、恋人が欲しいって……なにかが足りないって思っているからそう思うんだろ? 足りてないものを、なにかで埋めたいんだ。今が満ち足りていたら、そんな風には考えないはずだ。実際、僕がそうだからね」
ぐるぐる、ぐるぐる。
……確かに金目はずっと同じところを回っている。金目が大事に大事に抱えている世界。それはきっと、小さな巣の中で母親の帰りを待ちわびていたころから変わっていないのだ。隣にはいつだって銀目がいて、まあるく切り取られた世界(巣)の中で完結している。
「なのに、みんな僕に言うんだ。いつかは番を作れって。本当に馬鹿らしいよ」
金目は苛立たしげに顔を歪めている。彼がこんな顔をするのは本当に珍しい。
私は静かに息を吐くと、素直に感じたことを口にした。
「銀目は、金目にとっての唯一で一番なんだね……」
しみじみ呟く。すると、金目は顔から笑みを消した。
「そう、だね」
「……?」
金目が浮かべた表情の意味が理解できずに固まっていると、パッと表情を切り替えた彼はやけに嬉しそうに言った。
「そういえばさ、銀目……最近、すごく頑張ってるんだよ」
「……そうなんだ?」
「今日だって大張り切りでさ、このクソ寒いのに滝行なんて行っちゃって。お腹が六つに割れてきたってずっと自慢してる。成果が表れてきて、楽しいんだと思う。銀目は面倒くさがりなところもあるけど、ああ見えてやる時はやるんだ……」
そしてどこか困ったような顔になりながらも言った。
「今度、鞍馬山へ遊びにおいでよ。修行の成果、夏織に見せたいって言ってたからさ~」
徐々に普段通りの口調に戻ってきた金目に、戸惑いながらも頷く。
すると彼は嬉しそうに微笑むと――。
「銀目も喜ぶよ。ありがとう、夏織」
そう、無邪気に言った。
「――なるほどなあ」
すると突然、誰かが背後に立った。ギョッとして後ろを向くと、そこにはふむふむと納得顔で頷いている髪鬼がいた。
「興味深い!!」
髪鬼はそう叫ぶと、私と金目の間にドスンと割り込んで座った。迷惑そうに顔を顰めた私たちには一切構わず、薄目で文車妖妃を見ながらしみじみと語り始める。
「色々と考えているのだな。しかし、恋をするだのしないだの。恋人が必要だのいらないだの。そう深く考える必要はあるまい」
「……どうして、そう思うんです?」
あまりにも自信満々な様子に堪らず訊ねると、彼は煙管を蒸かしながら言った。
「正気のまま、恋をしようとするのが間違っているのだ」
「……しょ、正気?」
あまりの意味不明な発言に、髪鬼はニヤリと笑うと、煙管を私に突きつけた。
「ひとりは楽だ。なにをするにも自由だし、気を遣う必要がない。しかし俺は恋をする。敢えて他人を自分のテリトリーへ入れる。それは何故か? ……それは、相手に惹かれてしまったからだ。妖しく艶めく髪から香る匂いに、心を奪われてしまったからだ!」
煙管の先端が、とん、と私の肩に当たる。
「その雄がどうにも気になる。相手のことをもっと知りたいし、傍にいたい」
次は二の腕、手首、ふともも。
「触れたい。触れられたら嬉しい。触れてほしい」
そして――胸のまんなかに当たった。
「自分を、そして心を知ってほしい。そう思った瞬間にそれは恋だ。ゴチャゴチャ難しいことを考えても無駄だ。その時点ですでにお前は正常じゃない」
――ドキン。心臓が高鳴り、みるみる顔に血が上ってくる。
髪鬼はにんまりと笑って、鶯色の瞳で私を見つめた。
「若人よ。今のうちだ。衝動的に生きろ。迷うことなんてひとつもあるものか。心のまま行け! 理屈なんて知らん。そんなものは捨てろ。狂乱の域へと自ずから足を踏み出せ」
髪鬼はそう言い切ると、反対の手で金目の頭を抱き寄せて続けた。
「若き烏天狗よ。恋をする権利があるように、恋をしない権利もある。型に嵌まることが幸せなのだと誰もが思いがちだ。よかれと思って口にした言葉が辛い時もあるだろうな」
すると髪鬼の腕の中で、金目はとても迷惑そうに言った。
「いい加減にしてくれませんか。僕は説教は嫌いだ」
「ハハ。俺には誰かに認めてほしくて、巣の中からピィピィ叫んでいるように見えたが」
「……なっ!」
すると金目は、髪鬼の手を振り払って睨みつけた。しかし、髪鬼はどこか余裕の表情で金目の視線を躱すと、次の瞬間にはとても優しい顔になって言った。
「説教臭かったのは謝る。年を取るとどうにもお節介を焼きたくなるものでな」
そして自分の髪を手で梳くと、どこか達観したような顔になって言った。
「凝り固まった想いは、時に別のものへと成り果てて、大切な人へ牙を剥く。好意が呪詛になるのはとても簡単なことだ。俺のような歪なものを創り出すなよ」
髪鬼――女性の怨念が男に取り憑き、際限なく髪を伸ばし続けているあやかし。そのことを思い出したらしい金目は、じっと彼の話に耳を澄ませた。
「恋人や伴侶でなくとも、誰かひとりを大切に想い続ける。それは一見するとまったく違う物のように思えるが、結局は同じことだと俺は思う。卑屈になることはないのだ」
「――ふ」
すると、金目の肩が揺れているのに気がついた。
「ふ、ふふふ……」
揺れは、笑いと共に徐々に大きくなっていく。やがてお腹を抱えて笑い出した。
「アハハハハハ! やっぱり説教臭い。やばい。おっかしい!」
「ぬ。冗談は言ってないぞ?」
「そんなこと、言われなくてもわかってますよ。それよりも――」
金目は文車妖妃と遠近さんを指さすと、ちらりと横目で髪鬼を見た。
「いいんです? アレ」
「……ふぐっ……!」
それを目にした途端、髪鬼は苦しげに呻いた。
文車妖妃たちはお酒がいい感じに入ってきたのか、お互いにうっとりと寄り添っている。
「……遠近……」
「いやあ、おじさん参っちゃったなあ!」
真っ赤に酔っ払った遠近さんに、蕩けそうな文車妖妃。直視するのはちょっと遠慮したいくらいに、ピンク色の雰囲気が辺りに漂っていた。
――これはやばいのでは!?
修羅場の予感に戦々恐々としていると、髪鬼はブルブル震えながら言った。
「いい……!」
「はい?」
「他の男の腕の中で頬を染める妖妃。堪らん……!」
うっとりと褐色の頬を染めた髪鬼は、グッと拳を握りしめると、ふたりを凝視したまま動き出した。
「――そ、そういう性癖で?」
彼の背中に思わず訊ねると、振り返った髪鬼は爽やかな笑顔を浮かべ大きく頷いた。
「「…………」」
私は金目と視線を合わせると、同時に脱力した。
「いろんなあやかしがいるもんだ……」
「疲れちゃったよ、僕。まったくもう」
そしてクスクスと笑うと、
「難しいね」
「まったくだ」
と、ふたりして苦笑いしたのだった。




