貸本屋の恋愛事情2:幽世の吉原
東雲さんの原稿が一向に終わりそうにないので、私たちは、雪が降りしきる幽世の町へ出た。いつもの喧噪を忘れてしんと静まりかえった幽世に、ぎゅ、ぎゅ、と積もったばかりの雪を踏みしめる音だけが響いている。私たちの周囲には、冬だというのに蝶が舞っている。それは幽世に多く棲まい、明かり代わりに重宝されている幻光蝶という虫だ。
ふわり、ふわりと遊ぶように舞う蝶の明かりを頼りに、常夜の世界を行く。
意気揚々と歩く遠近さんについて行くのは、私と水明、金目だ。
「いやあ、誰だろうね。楽しみだなあ~」
どこか浮かれた様子の金目とは対照的なのが水明だ。
「……わざわざ雪の中を移動するのか。面倒になってきた」
あまりの雪の多さにうんざりしているらしい。早くも帰りたくなっているようだ。私は彼らの隣を歩きながら、ちらと水明の様子を窺った。
――恋愛に興味、あるんだ。
そのことがどうにも気になって仕方がない。全身に吹き付ける冷たい風に負けないように、マフラーを口もとまで引き上げながら、ぼんやりと考えごとをする。
――どういう心境の変化なんだろう……。
胸の辺りがモヤモヤする。すると突然、水明が私に声をかけてきた。
「夏織、寒いのか?」
「う、ううん。大丈夫」
「そうか。寒かったら言えよ、マフラーを貸してやる」
そう言うと、長い睫毛に縁取られた瞳を細めて、水明は優しく微笑んだ。そして、幽世の赤く染まった空を見上げて、ふうと白い息を吐く。大きな瞳には、降り続いている雪が映り込んで、その先になにを見ているのだろうと気になってしまった。無意識にじっと見つめる。すると、ふとした瞬間に視線がかち合った。
「どうした? なにか着いているか?」
水明が不思議そうに小首を傾げる。
私は勢いよく首を横に振ると、なんでもないと誤魔化した。
押し込めていた感情を解き放ち、水明はどんどん表情豊かになっていっている。たまに見蕩れてしまうくらいには、変わってしまった。今だって……。
トクトクと心臓が激しく脈打っている。そのせいか、顔がじんわり赤くなってきた。
マフラーを更に引き上げて、万が一にでも水明に見られないように顔を伏せる。私の視界には、サクサクと雪を踏みしめるブーツだけが映っている。
――どうしてこう、ドキドキするのかなあ。
何故だろう。色々考えてはいるのだが、ちっとも答えが出ない。
恋なのかなあ、彼に惹かれているのだろうかとぼんやり考える。それと同時に、水明の第一印象からの変わりように戸惑っているだけなのかも、とも思う。
でも、ふとした瞬間の水明の表情に見蕩れている自分は確かにいて。
かといって、これを恋だと確信するには決定的ななにかが足りない。
零したため息が、冷たい空気に晒されて白く染まった。それは見る間に淡く溶けて、今の憂鬱な気分を更に煽る。
こんな時に思うのは、恋について気兼ねなく相談できる相手がいたらということだ。
相談相手の候補は頭の中に浮かんではいるものの、親友のにゃあさんはそもそも人間ではなく、母代わりのナナシに話すには気恥ずかしさが勝つ。
――人間の友だち、作っておけばよかったかな。
実は、人間の通う学校に行かせてもらったことがある。
それは東雲さんの発案からだった。人間なのだから、一度くらいは人間の社会で暮らしてみるべきじゃないか――? 完全なる善意から出た提案に、私は断ることができなかった。そして、三年間だけ都内の高校に紛れ込んだのだ。人間社会でも顔が利く遠近さんに手続きをしてもらって。
でも――どうしても、同い年の彼らに心の底から気を許すことができなかった。
恋や学業に勤しむ彼らとは完全に打ち解けぬまま、「無難に」三年間を過ごした。
――意味のない三年間だったと思う。当時は悩んでばかりいた。でも、仕方のないことだったと、今では思っている。
幽世で勉強だけはしていたから、授業に差し支えない程度には学力はあった。でも、クラスメイトとちょっとした雑談ができない。価値観がそもそも違う。私と彼らはどこかが決定的にズレていて、その違いは絶望的な溝を作っていた。それでも、無理に笑顔を作って親しいと思える友人は作った。人間の学校では、ひとりは目立ちすぎるからだ。そんな打算的な関係が続くわけはなく。その人たちとは連絡を取らないまま今に至っている。
あの時、同級生たちとしっかりと向き合っていたら、学生時代にちゃんと恋の経験値を積んでいたら……今更、こんなことで悩む必要はなかったのかもしれないけれど。
――もしかしたら、私も水明と同じなのかもしれない。
水明はすべてから遮断された生活を送っていた。
人だというのに幽世で過ごしていた私は、人間がごくごく普通に踏む段階を経験しないで生きてきた。物語を読み、本の中で登場人物が恋をするのを目にすることはあっても、それが自分もすることだとは思えなかったのだ。
人間と私は同じようで、同じじゃない。
恋なんて、私にとっては別世界の話だ。
むしろ……私に普通の恋なんてできるんだろうか?
「ねえ、夏織」
「……っ、な、なに?」
するといつの間にか、金目がすぐ隣に来ていた。彼は金色の瞳を悪戯っぽく細めると、私の顔を覗き込んで言った。
「恋愛って言ったらさあ。夏織って、好きな人はいるの~?」
「え」
あまりにも突然な質問に、大いに動揺する。水明を見ると、彼も聞こえていたようで、じっと私を見つめているではないか。
私は辺りに視線を走らせると、曖昧に、そして消え入るような声で言った。
「わ、わかんない……」
「ふうん」
すると金目は「そうなんだ」と意味ありげに笑った。
「き、金目はどうなのよ?」
面白がっているような反応に、堪らず質問を返すと、金目はとても意外そうな顔をしてさらりと言った。
「恋? そんなもの、する必要あるのかな?」
そして、金目は首を小さく傾げると、どこか無邪気な笑顔で言った。
「恋人なんて……心の弱い人が作るものでしょ」
――金目が何気なく放ったその言葉は、私の胸に棘のように突き刺さった。
「諸君、ここだ」
歩き始めて三十分もすると、遠近さんはある場所で足を止めた。
「おおお。遠近さん、マジで~?」
「……なんだここは……」
金目は歓喜の声を上げ、水明は戸惑いの声をあげている。私はというと、その場所を見た瞬間に固まってしまった。
そこは、お歯黒どぶと呼ばれる深い堀で囲まれていた。堀の内側は高い木の塀で囲まれている。通行できる場所は一箇所だけ。大きな門があり、見た目どおりに大門と呼ばれていた。門を潜るとすぐに、小さな詰め所があるのが見える。
「やや、ご苦労さん」
遠近さんが声をかけると、詰め所にいた一つ目のあやかしが頭を下げた。
会釈をした遠近さんは、悠々と中に入っていく。
「と、遠近さん!? 私、東雲さんにここには来るなって言われているんですけど……!」
慌てて後を追い、引き留める。すると彼はニヒルな笑みを浮かべると言った。
「別に、問題ないと思うがね。君ももう大人だ」
「でも! ……大丈夫でしょうか」
私は情けない声を上げると、改めて周囲を見回した。
「うう、いいのかなあ。吉原に来て……」
――そう、ここは幽世の中で吉原と呼ばれている場所だ。
かつて江戸時代から昭和まで続いた遊郭として知られている「吉原」。
現し世では、昭和三十一年に可決した「売春防止法」によってその存在は幕を下ろしたのだが、実は幽世で続いていた。
何故ならば、幽世は現し世で失われてしまったものが蘇る世界だからだ。多くの人間たちが過ごし、様々な感情が入り乱れた場所ほど幽世で再生されやすい。私の知り合いのあやかしが多く棲む長屋なんかも、江戸時代に実際にあったものが幽世に再生されたものだ。
しかしながら、幽世の吉原は現し世の吉原とは決定的に違う部分があった。
吉原としての独特な町の形態は残しつつも、そこは遊郭として機能していない。幽世の住民はあやかしたちだ。彼らは人間のように女性を買う習慣はない。遊郭は必要とされていないのだ。
「まあまあ、なにはともあれ行こうじゃないか」
「はい……」
不安に思いながらも遠近さんの後に続く。
大門の内側に入ると、すぐに大きな通りがあり、往来のど真ん中に土が盛られ、桜の木が植えられていた。しかし今は冬だ。雪化粧を施された枝が寒々しい。けれど、麗らかな季節が訪れれば、この場所はさぞかし華やかなのだろうことが想像できた。
道の両端には、犇めくように建物が並んでいて、軒先には幻光蝶が入れられた提灯が並び、辺りを明るく照らしていた。
屋号が刻まれた暖簾がかかった店先には、呼び込みのための番頭台。暖簾の奥には、贅の限りを尽くした意匠が施された室内が垣間見える。建物の二階からは三味線や鼓の音が漏れ聞こえ、往来に軽やかな音を響かせていた。室内から漏れる光はかなり明るく、煌々と夜空を照らしている。『世の中は 暮れて廓は 昼となり』とかつて川柳で詠われたように、不夜城とはこのことなのだろう。
幽世の吉原。
町並みを眺めながら歩くだけならば、とても面白い場所だと思う。
見たことのないものがあちこちにあり、歴史に興味がある人間ならば心惹かれずにはいられないだろう。しかしながら、私は遠近さんの後を歩きつつも、どこか肝の冷える思いをしていた。
『……兄さん、兄さん。待ちなんし。わっちと遊んでくんなんせ』
『おお、べっぴんだなあ』
『そう思うなら。ささ、どうぞ』
遊郭としては機能していない。そのはずなのに、遊女と客のやりとりが聞こえる。
『足抜けだ! 追え……!』
『はあ……はあ……はあ……はあ……』
『捕まえろ。絶対に逃がすな!』
『はあ、はあ……絶対に帰るんだ。……おっかさん……おっかさん……』
誰かの激しい息づかいが耳もとを掠め、それを複数の足音が追って行った。
『どうしてだ! 俺は「馴染み」のはずだ。大枚はたいて通い詰めたんだぞ! なのに、どうして会ってくれない!』
『お帰りなんし。わっち、主さんのようなお人、好きじゃありんせん』
『君が好きなんだ。一目惚れしたんだ。どうして……!』
『どうぞお帰りなんし……!』
男性の悲痛な声。それに対して、女性の声はどこか冷え切っている。
私は、ふと不安になって周囲を見回した。その瞬間、つんざくような女性の悲鳴が聞こえた。同時に、すすり泣く声まで聞こえてきて、全身が粟立った。しかし、どこにも声の主の姿は見えない。声ははっきりと聞こえるのに、その姿はどこにもない!
「どういうことだ……? なんだ、この声は!」
水明は、困惑気味に周囲を見回している。片手は腰のポーチに伸びており、臨戦態勢だ。遠近さんと金目は足を止めると、混乱している私たちのもとへとやってきた。
「大丈夫だよ、これはただの声だから、なんの害もないよ?」
金目は優しく微笑むと、私の両耳を塞いだ。周囲の音が遠くなってホッとする。でも、ずっとこうしてはいられない。私は金目の手をどけると、お礼を言った。
「ありがとう。話には聞いてたんだけど、思ったよりもしんどいね、これ」
今も女性の声がする。郷に帰りたいけど帰れない……そんな恨み言がすぐ傍で聞こえて、慌てて頭を振って誤魔化す。
「まあねえ~。人間には厳しいかもしれないね。だからこそ、東雲はここに来るなって言ってたんだろうけど」
「おや、金目くん。連れてきた僕が悪いみたいじゃないか。夏織くんももう大人だ。こういうことから遠ざけてばかりじゃあ、いけないと思っただけなんだがね」
――姿が見えない誰かの声が聞こえる理由。
それは、現し世から幽世へ生まれ直した場所には、かつてそこに生きていた者たちの魂の叫びがこびりついているからだ。幽世にその場所が馴染めば、魂の叫びも消え、現し世にあった姿から徐々に変容していく。それは、幽世では極々当たり前の常識だった。
東雲さんはそれもあって、私へここに立ち入るなと言いつけていた。普通の場所ならばともかく、ここ吉原には、女たちの悲痛な叫びや絶望に囚われた声が多すぎて、同じ女性である私への負担が多すぎるからだ。
眉を顰める。姿も見えない遊女たち。けれど、彼女たちの境遇を思うと、胸が痛くなって、息が詰まりそうになる。すると、金目は私の眉間を指でぐりぐりと弄った。
「いもしない人間に感情移入する必要はないよ。まったく、夏織は馬鹿だな」
そして私をじっと見つめると「眉間の皺。癖になっても知らないよ」と笑った。
「うっ……。皺は嫌だ。でも、声が聞こえるんだもの」
「まあ、そういうところが夏織っぽいところなんだけどね~。この声を無視したって、誰も悲しまないし、傷つかない。だから聞こえないふりをするんだ。わかった?」
「うん。……ありがと、金目」
すると、私の背後に視線を移した金目が笑い出した。
不思議に思っていると、金目は私の顔から手を離し、まるで降参する時みたいに両手を挙げて言った。
「ああ、なんか久しぶりに幼馴染みっぽいことしたなあ。よおし! これ以上、誰かさんに睨まれるのはごめんだから、さっさと行こうかな! 遠近さん、目的地はあっち?」
「睨む……?」
さっさと私に背を向けた金目に、首を傾げてから背後を振り返る。しかしそこには、やけにニヤニヤした遠近さんと、いつも通りに無表情な水明しかいなかった。
「青春だねえ。いやあ、久しぶりに心ときめいた」
遠近さんはそう言うと、浮かれたような足取りで金目に続いた。残された水明を見つめる。すると、彼はスイッと私から視線を逸らして、遠近さんの後を追った。
「……? なんなの」
私は首を傾げると――。
「夏織? 早くおいでよ~」
金目の声に背中を押されるように、彼らの後を追ったのだった。




