神遊びの庭で5:延滞料はいただきます!
神遊びの庭にある一番大きなチセに戻ってきた私たちは、なにはともあれ食事をすることにした。
昼食を食べ損なっていたこともあり、くたくたでなにも手につきそうになかったからだ。囲炉裏端に座り、アペフチカムイの作った料理をご馳走になる。火の上では、クツクツとお鍋が煮えている。アペフチカムイが料理してくれたのは、鮭を使った汁物だ。アイヌ料理の特徴として、基本の味付けは塩だけだ。秋頃に獲り、乾燥させた後に囲炉裏の上で燻煙しておいた鮭がたっぷり入っていて、シンプルな味わいだが、素材の味がよく出ていて優しい味だった。
「はあ……身体が温まる」
「だな」
お腹が空いていたこともあり、私と水明はオハウを夢中になって食べた。
上空の冷たい空気に晒され続けた身体が温まると、ようやく人心地つくことができた。このまま眠ってしまいたいくらいだけれど、まだ仕事が残っている。お腹いっぱい食べた私は、キムナイヌに貸したままだった本を確認する。
彼が貸本屋から借りていたのは、主にアイヌたちが語り継いできた英雄叙事詩が書かれた文献だ。アイヌは文字を持たない人たちだった。彼らはすべてのことを記憶して、口伝えで遺してきたのだが、それらの本には、研究者たちがアイヌから聞き取った物語が集められている。アイヌの語る物語には昔話や神謡など様々あるが、その中でもユカラは特別な力を持った超人たちの冒険譚だ。
「……確かに、これで全部ですね。では、こちらは回収させていただきます」
本を鞄に仕舞う。そんな私を、どこか物悲しげにキムナイヌは見つめている。
すると、膝の上で丸くなって眠るクロを撫でながら、水明がキムナイヌに訊ねた。
「どうして逃げたんだ。延滞金を払いたくなかったのか?」
「まあ聞きづらいことをズバッと聞くね!?」
「寒いし、怖かったんだ。別にこれくらい聞いてもいいだろう」
水明は眉を顰めると、さあ話せと言わんばかりにキムナイヌに視線を向けた。
しかし、キムナイヌは口籠もるばかりでなかなか話そうとしない。どうも、言い辛いことらしい。すると、その隣で酒杯を空けていたカラパッチリカムイがずいと身体を乗り出して、やけに嬉しそうに言った。
「ならば、我が話してやろう。こやつはな」
「うわああああ! 待て、待ってくれ!」
カラパッチリカムイのお節介に、キムナイヌはようやく観念したようだ。ため息を零すと、事情を話してくれた。
「貸本屋の娘。お前はカムイのことをどれくらい知っている」
私は少し考え込むと、東雲さんから教わったことを思い出しながら答えた。
「……私たちが知っている神様とは違うもの。獣、植物、自然、道具とか、アイヌを取り巻くほぼすべてのもの」
それは例えば、熊であり大鷲であり火であり、道具や山菜だったりした。彼らは神の国では人間の姿をしていて、人間の世界へ来る時は、人間の目に見えるように衣服を身につけてくる。衣服とは、熊であれば肉体であったり、火であれば熱を伴った現象だった。つまり熊などのアイヌがカムイと呼ぶものすべて、御使いでもなんでもなく、神そのものなのだ。そしてそれらの衣服は、同時に人間への土産物になった。
「例えば……熊のカムイは、肉と毛皮をもたらしてくれます。そのお返しに、アイヌは感謝の言葉と『人間にしか作れないもの』を捧げ物として差し出しました。そうすると、カムイは神の世界でいい生活ができると考えられていたんです。人間の都合で狩っているのではなく、お互いに利益がある関係なのだとアイヌは考えていました。アイヌとカムイは対等なんです。養父から、そういう風に聞きました」
つまり、ギブアンドテイク。交易で栄えたアイヌらしい考え方だと思う。
私の説明にキムナイヌは頷くと、「人間にしか作れないもののひとつにユカラがある」と語った。
「土産物を渡し、魂だけとなったカムイを送る際に、アイヌはとても面白いユカラを語る。それはそれはすごい話だ。大きな化け物を倒したり、空を飛んだり! 怪我が一瞬で治ったりするのだぞ、ワクワクするだろう!」
キムナイヌは興奮気味に言うと、次の瞬間にはしょんぼりと肩を落とした。
「しかし、その話は必ずといって途中で終わってしまうのだ。しかも、一番盛り上がる手前で! 生殺しだろう。酷い話だ」
すると酒を呷っていたカラパッチリカムイがクツクツと笑った。
「アイヌからすれば、面白い話の続きを聞きにまた人間の世界へ来てくれ、という意図のようだがな。しかし、次の機会があったとしても、また話が途中で終わる。なんともはや、笑うしかない」
「ここの庭にも、中途半端な話を聞かされたカムイがわんさといるのだ」
キムナイヌは首を横に振ると、己の手をじっと見つめた。
「どうにかして物語の続きが知りたい。俺はそう思っていた。その時だ。東雲に出会ったのは」
東雲さんは、ユカラを集めた書籍があると教えてくれたのだという。最初、文字なんて読めなかったキムナイヌは、ユカラ読みたさに必死に勉強をした。そして、念願の本を借りるとそれを読みふけった。
「……面白かった。腹を抱えて笑ったし、ハラハラしてページを繰る手が止まらなかったこともある。俺は貪るようにユカラを読んだ。読み終わると、また一から読み始めた。何度も何度も……一文字たりとも読み逃さないように」
それはキムナイヌにとって、心躍るひとときだった。内容をすっかり覚えるくらいに読み込むと、次は知り合いのカムイにユカラを語った。するとそれが評判になり、次第にキムナイヌのもとへ、客人が押し寄せるようになった。
「最近は、人間の世界から神の世界へと送られる機会も減ってしまった。俺は、俺のやり方でユカラを遺したいのだ。いつか立派な語り部になれれば……そう思っている。しかし、どうにもアイヌのようにはいかぬ。つい話を忘れることがあるものだから、本を手放したくなかった。悪かったな」
キムナイヌは、純粋に本を、物語を楽しんでくれている。
それを知った時、私は胸の奥が暖かくなったような気がした。
あやかしたちにも、物語の……そして本の素晴らしさを伝えたい。それは東雲さんと私の願いだ。そのために貸本屋をやっていると言っても過言ではない。
その想いが、キムナイヌには確かに届いている。それがどうにも嬉しかった。
「なら、本の買い取りをしませんか」
キムナイヌに話を持ちかける。貸本屋では、定期的に本の入れ替えをする。貸し出し頻度が著しく減ったものなどを、古本屋へ売るのだ。図書館などとは違い、貸本屋はラインナップをどんどん入れ替えていかないと客が飽きてしまう。どうしてもブームに寄った仕入れになってしまうので、読者の熱が冷めると余剰在庫が必ず出る。それを売って、新刊を買う足しにするのだ。
そしてわが家では、入れ替え予定の本は、希望者に買い取ってもらったりしていた。ユカラの本も、在庫にやや余裕があるはずだ。それに、野外に棲み家を構えているあやかしと違い、キムナイヌであれば本の保管は問題なくできるだろう。
しかし意外なことに、キムナイヌは私の申し出を断った。
「東雲との出会いがあって今の自分がある。本を買い取ってしまったら、その繋がりは切れてしまうであろう? それに、本を借り続けた方が貸本屋の利になることは明白だ。与えられたものは、きちんと返さねばならない。俺は君たちから本を借りたい」
「……!」
アイヌの神らしい言葉に思わず顔が綻ぶ。
――ああ、貸本屋をやってきてよかった。
私は、感激のあまりにキムナイヌの隣に移動すると、彼の手を握って言った。
「ありがとうございます! とっても素敵な考え……! キムナイヌ、応援しています。是非素晴らしい語り部になってください。これからも幽世の貸本屋をどうぞご贔屓に!」
笑みを湛えて、大柄な身体を丸めて座るキムナイヌの顔を覗き込む。
するとどうしたことだろう。
「…………」
キムナイヌが固まってしまった。
「あれ……? キムナイヌ?」
眼前で手を振っても反応がない。ぼうっとしていて焦点が定まっていないように見える。体調でも悪いのかと思っていると、突然、カラパッチリカムイが笑い出した。
「アッハッハッハ! 綺麗ごとばかり並べおって。貸本屋の娘、今の話は真実の一部分でしかない。そやつは本当に嘘つきだ」
「……嘘?」
ヒヤリとして、勢いよくキムナイヌを見つめる。
――キムナイヌは、神様の癖に嘘をつきやがる。気をつけろ。
東雲さんの言葉を思い出し、思わずキムナイヌを睨みつけた。
「……どういうことですか?」
低い声で訊ねると、青ざめたキムナイヌはモゴモゴと言葉を濁した。すると、上機嫌のカラパッチリカムイが教えてくれた。
「語り部? そやつがユカラを語るのは年頃の娘子にだけよ。なにが客人が押し寄せるだ。ユカラを出汁にして娘子を招き、誰彼構わず食い残しの飯を分け与えているだけだ」
「……ご飯を? 何故ですか?」
「アイヌの慣習では、茶碗の半分だけ飯を食べ、残りを女へ渡すのが求婚とされている。女が受け入れ、残りの飯を食べてくれれば成立だ。だが、こんな汚い手を使う奴のところに、誰が嫁に行くと思う? 禿げ頭でしかも卑怯。救いようがない」
そして、皮肉の籠もった笑みを浮かべると、私に憐憫の籠もった眼差しを向けた。
「貸本屋の娘、気をつけろよ。キムナイヌは――」
すると突然、キムナイヌが食べかけのオハウを勢いよく掻き込み始めた。ギョッとしてその様子を凝視する。……ああ途轍もなく嫌な予感がする。一刻も早く離れた方がいい気がして、ソロソロとキムナイヌの隣から移動しようとした。
「どこへゆく?」
しかし、キムナイヌに手首を掴まれてしまった。自分の手よりも遙かに大きなその手は、私の手首をしっかり掴んで離してくれない。さあっと血の気が引いていく。
「あの、その。えっと」
ワタワタしていると、その瞬間、あることを思い出した。
――夏織、これは絶対に忘れるな。
それは東雲さんの言葉。出発前に、やけに真剣な顔で教えてもらったことだ。
――キムナイヌは馬鹿みたいに惚れやすいんだ。交渉ごとは、小僧に代わってもらえ。
「……すっっっかり忘れてた……!」
どうしてこんな大事なこと忘れてたの!
自分のあまりの愚かさに愕然とする。同時に段々と腹が立ってきた。
つまり。つまりだ。キムナイヌは女性をたらし込むために、本を手もとに置いておきたかったのだ。本を一度返却してまた借りればいいものを、その手間さえ惜しんで、婚活に明け暮れていた……そういうことになる。
――そのせいで、あんなに大変な目に……!
大鷲の背に乗り大冒険! と聞けば、まるで英雄譚みたいで耳障りがいいが、当事者からすれば死ぬ思いをしたという感想しか抱けないし、ちっとも面白くない!
……要するに。
私たちはこの山男の我が儘に振り回されただけなのだ。
「キムナイヌ……」
怒りを籠めて、キムナイヌを睨みつける。すると、なにを勘違いしたのか、頬をポッと赤く染めたキムナイヌは、半分だけ中身を食べた椀を私に差し出した。
――この期に及んで、求婚しやがった……!
キラキラとした期待の籠もった眼差しを向けられた私は、無表情のまま手の甲で椀を逸らすと、親指と人差し指で輪っかを作って言った。
「それよりも。キムナイヌ、私たちにはまだすることがあります」
「……へっ?」
途端に顔が引き攣ったキムナイヌに、私は笑みを深めると――次の瞬間には、氷点下よりも冷たい表情を浮かべて宣告した。
「延滞料の精算をしましょうか」
「……ちょっ」
その瞬間、さっとキムナイヌの顔が青ざめる。逃げようとしたのか、キムナイヌの腰が僅かに浮かんだが、すかさずカラパッチリカムイが両肩を押さえた。
「返却予定日から、三七五日経過しています。東雲さんからの再三の返却要請にまったく応じなかったみたいですね?」
「そそそ、それは」
「それと、今回は延滞料回収のために出張もしましたから、交通費も頂戴しますね」
「交通費……!?」
「ここに来るのに、朧車に送迎をお願いしているんですよ。これが本当のお車代……っていうのは冗談として。ええと、そうですね……」
私は鞄から電卓を取り出すと、パチパチと数字を打ち込んでいった。そして、間違いがないか確認をした後、大きく頷いて額を提示した。
「延滞料……経費諸々含め、こちらになります」
「……うっ……!」
その瞬間、キムナイヌは苦しげな声を上げた。激しく瞬きをして、電卓の数字を信じられないような顔で見つめている。やがて、私に怯えたような視線を向けると、どこか遠慮がちに言った。
「ちょっとまけてもらうわけには……」
「いきませんね」
私は口もとに笑みを浮かべると、きっぱりと宣言した。
「耳を揃えてお支払いくださいね?」
私の声が薄暗いチセの中に響く。すると、大汗を流していたキムナイヌは、引き攣った笑みを浮かべると、なにを思ったのか、もう一度食べかけの椀を差し出してきた。
まさか、結婚して延滞料をチャラにしてくれってこと!?
――この男は……!
沸々と怒りが湧いてきて、思わず怒鳴ろうとした……その時だ。
私の目の前にあった椀が消えた。横から水明が奪ったのだ。
「……なっ!?」
「――お前」
水明は凍り付いた湖よりも冷え切った眼差しでキムナイヌを見つめると、椀の中身を鍋の中へと戻して言った。
「結婚とは、相手のことを思いやり、支え、助け、守ることだ。返却期限すら守れない男が、誰かを幸せにできると本当に思っているのか?」
「……!」
それを聞いたキムナイヌは、がっくりと肩を落とすと――。
「……は、払います……」
そう言って、大柄な身体を小さく縮めたのだった。
「あー! 終わった! さっぱりしたー!」
キムナイヌから延滞料をきっちり回収した私は、チセを出た途端に大きく伸びをした。
結局、延滞料は砂金で支払ってもらった。
砂金がたっぷり詰まった袋の重みったら!
まるでそれが無事に正月を越せる確約のように思えて、心底ホッとした。
「やっと帰れるな……」
するとそこに、荷物を満載したソリを引いた水明がやってきた。
ソリの上には、乾燥させた鮭や熊の肉、山菜類が山積みになっている。
北海道の幸満載の荷物。それは、足りなかった延滞料代わりにもらったものだ。
「甘いな。不足分を現物で支払わせるなんて」
「あははは……。それはどうだろう」
呆れた様子の水明に、私は少し気まずく思いながら説明した。
実は、延滞料がかさんでしまったお客さんに対しては、ほとんどの場合、全額をもらうことはしていない。基本的には、本の原価を回収すれば終わりとしているのだけれど、キムナイヌは延滞常連者であったし、反省している様子もなかったのできっちり回収することにしたのだ。
「期日通りに返せば払わないで済んだのにね。次回からはちゃんとしてくれたらいいな」
支払額の多さに肩を落としていたキムナイヌだが、アイヌをモチーフにした新刊が入荷済みであると報せると、目をキラキラさせていた。懲りずにまた借りに来てくれればいい。
……求婚は、もう勘弁して欲しいけれど。
私は水明の隣に並んで歩き出すと、彼の顔を覗き込んだ。
「さっきはありがと」
「なにがだ」
相変わらず無表情な水明にニヤリと笑みを浮かべる。
「私の代わりに怒ってくれたじゃない。お客さん相手に怒鳴るのは流石にまずいからね。助かったよ。本当、水明って頼りになるよね」
すると、水明はみるみるうちに顔を赤くした。
「なっ……別に、そんなことはない」
「あったり前だよ~!」
その瞬間、水明の鞄からクロがひょっこり顔を出した。そして、赤い瞳をキラキラさせながら、どこか自信満々に言った。
「水明はオイラの相棒だもの! 頼りになるに決まってる! キム……なんとかいう奴にはお嫁さんは一生来ないだろうけど、水明のお嫁さんになりたい人はたくさんいるだろうね。フフフン。夏織、予約するなら今のうちだよ?」
「はっ……!? よやっ……」
「クロ、やめろ。なにをはしゃいでる!」
「えー。だって……」
激しく言い争っているふたりを余所に、早足で歩き出す。
太陽が沈み、アペフチカムイも傍にいない今、かなり冷え込んでいるはずなのに、顔が信じられないほど熱い。どうしてこんなにも動揺しているのか理解できず、頭の中を渦巻いているいろんなことを誤魔化すみたいに言った。
「ま、まだ延滞者はいるんだからね。今日は帰るけど、明日もまたよろしくね!」
「はあっ!?」
その瞬間、水明が素っ頓狂な声を上げた。足を速めて隣に並ぶと抗議の声を上げる。
「聞いてない。キムナイヌだけじゃなかったのか!」
「当たり前でしょ。まだまだいるわよ。年明けまでに全部回収するから」
「だ・か・ら! 予め説明をしろとあれほど……!」
苦しげに呻いた水明は、ジロリと私を睨みつけると、「次は誰だ」と訊ねた。
「えっと、たしか秋田のなまはげだったような。そっちは半年くらい延滞してるはず」
「トラブルの予感しかしない! 包丁で追い回される未来が見える!」
「オイラ、寒いところはもう嫌だよお!」
悲鳴を上げたふたりに、私は澄まし顔で言った。
「仕事だから、好き嫌いしないの。それに、クロは鞄の中で寝てればいいでしょ! いざとなったら投げるから」
「投げる前提はやめてぇ!?」
私たちの賑やかな声が、星明かりで青白く光る雪原に広がっていく。
肌がチリチリするほど冷え込んでいるけれど、心はどこかポカポカと温かくて。
ひとりでクスクス笑っていると、釣られたのか水明やクロまで笑い出した。
冬は厳しい季節だ。寒くて、凍えそうで、できれば暖かい場所で眠っていたいくらいの季節。でも、一緒にいて楽しい人さえいれば、暖かく過ごせるんだ。
そんなことを思いながら、真新しい雪の上に足跡を刻みながら歩いて行った。
「あ、お~い!」
そして、迎えに来ていた朧車を見つけると、私は勢いよく手を振ったのだった。




