神遊びの庭で4:神々の遊び
大鷲に乗って雲を抜けると、北海道の空はどこまでも高かった。
濁りのない澄んだ青い空。眼下に広がる雲海はとても柔らかそうで、ベッドにしたらさぞ寝心地がいいだろうと思う。
……が、正直今はそれどころではなかった。
「ヒッ……わあああああああああ! やだ、落ちる落ちる落ちる!」
「夏織、喋るな。噛むぞ!」
「待って、待って! そんな急に言われて……へぐっ」
――舌、噛んだ!
カラパッチリカムイの背に乗って大空へ舞い上がってから、すでに数時間経っている。
その間、私は何度も何度も情けない悲鳴を上げていた。
カラパッチリカムイは、眼下にキムナイヌを見つけるたび、猛禽類らしく急降下して襲いかかった。そのたび、振り落とされまいと手の届く範囲のものに必死にしがみつく。カラパッチリカムイの羽やら、水明の腰やら……被っていた毛糸の帽子は、いつの間にかどこかへ飛んで行ってしまった。安全ベルトなしのジェットコースターのような状況に、目を回しながらも必死に耐える。しかし、私はこんな有様なのに、アペフチカムイは囲炉裏端でお茶をしているかのように涼しい顔をして座っていた。
――神様ってすごいなあ……!
素直に感心しつつ、涙目で水明の顔を見る。そう言えば、彼が高所を苦手としていたことを思い出したからだ。
「…………」
青白い顔をしつつも、水明は決して悲鳴を漏らすことはなかった。
詳しく事情を説明したおかげか、水明も覚悟を決めたらしい。雲の切れ目から見える大地を、真剣な面持ちで見つめている。
「アッハハハハハ! ほれ、あそこだ。毛むくじゃらがおる!」
本人が豪語していた通り、カラパッチリカムイはいとも簡単にキムナイヌを見つけることができた。けれども、キムナイヌの素早さは並大抵ではなく、上空から襲い来るカラパッチリカムイの鋭い爪を躱し、恐ろしいほどの身軽さで、ひと跳びで川を渡り、もうひと跳びすれば山を越えてしまう。
アイヌ語で「山の人」という意味の名を持つキムナイヌは、簡単に言うと山男だ。「山にいる神」や「山においでになる神」とも呼ばれ、アイヌたちの間では、石狩川の奥地にある彼が棲まう場所では、決して泊まってはいけないとされていた。
素手で熊を殺すほどの怪力を持つが、山中で荷物が重くて困っている時に、「守り神さんたち、手伝っておくれ(アネシラツキ ウタラ イカスウ ワ)」
と叫ぶと、荷物を軽くしてくれるような一面もある。
血を嫌うとされているが、一方で人間を喰ったという伝承もある。そして、キムナイヌに対する時、決して触れてはいけないものがあった。それは「禿げ頭」だ。キムナイヌは自身が禿げていることをとても気にしていて、安易にその話題に触れると、天変地異が起こり、路傍の大木が倒れたりするという。
「逃げても無駄よ。禿げ頭がチカチカ光りよるからすぐに見つかる。アッハハハハハ!」
しかしキムナイヌが嫌いだというカラパッチリカムイは、その禿げ頭を茶化しながら追いかけるものだから、顔を真っ赤にしたキムナイヌは、半ばムキになって逃げているようにも思えた。
――うう、延滞料回収できるのかなあ。
不安になりつつも、自分ではどうすることもできないので黙って見守る。
すると、何度も何度も爪で襲いかかられ、流石に疲れたらしいキムナイヌは、近くにいたエゾシカの群れに飛び込んで、一匹の雄に跨がって走り始めた。
「よしよし、上手くいった。鹿を司る神に頼んだ甲斐があった」
エゾシカと共に移動し始めたキムナイヌを見て、カラパッチリカムイはほくそ笑んでいる。自らを取り巻く獲物、道具、自然などに神を見いだしていたアイヌだが、彼らは自分たちの主食とも言えるエゾシカをカムイとはしなかった。鹿を司る神が、アイヌたちの祈りに応じて地上に放ってくれるものだと考えていたのだ。カラパッチリカムイの口ぶりからすると、予め鹿を司る神にエゾシカを多く配置してもらっていたのだろうか?
すると、カラパッチリカムイは、小僧! と水明に声をかけた。
「鹿どもを追い立てられるか」
「……できる」
すかさず水明が答えると、カラパッチリカムイはギャアと満足そうに鳴いた。
水明は大鷲の上を移動し、首の上に跨がると、
「夏織、俺の服でも掴んでいろ。落ちたらいけない」
と、言った。言われた通りにすると、水明は持ってきた鞄からクロを取り出した。
「ぐう……ぐう……」
どうやら、クロはまだ眠っているらしい。すやすやと心地よさげな犬神に、水明はボソボソとなにか呪いを唱えると、クロと一緒に取り出した護符に念を籠める。
その瞬間、クロの紅い斑が眩い光を放った。
「……クロ! 起きろ!」
そして、水明は大きく振りかぶると、クロを空中に放り投げた!
「うええええええええ!? クローーーー!」
「…………ん?」
驚きのあまり叫ぶと、ようやくクロが目を覚ました。しかし、まだ寝ぼけているらしい。数瞬ぼんやりしていたかと思うと、自分の状況を理解したのか悲鳴を上げた。
「う、うわああああああああ! なに、なんなのお!? 寒い! 落ちてる! ひええええええええっ!」
しかし、悲鳴は上げてみたもののクロの身体は既に空中だ。なすすべもなく、お腹に尻尾をくっつけたまま、あっという間に落ちていく。
「す、水明! あんた、なにしているのよ! クロが! クロが!」
思わず、ダッフルコートの帽子を鷲づかみにして揺さぶると、水明はうんざりしたような顔で言った。
「大丈夫だ」
その瞬間、大量の護符が飛んでいった。すかさず、水明が印を切る。すると護符は一箇所に集まると、見覚えのある姿を形作った。
――紙飛行機!
そして紙飛行機は素早くクロの下へと潜り込むと、その身体を受け止めた。クロはすぐさま起き上がると、ホッとしたように尻尾を振った。
「……すっごい!」
感激した私は、思わず水明に抱きついた。
「こんなこともできるんだ……! うわあ、本当にすごい!」
興奮のあまりに水明の身体を強く抱きしめる。すると、水明はボソボソと言った。
「……くっつくな。コントロールが乱れるから。真面目に」
「ん? なに?」
「……なんでもない」
その間に、体勢を整えたクロが動き出した。ぴょん、と紙飛行機の上で立ち上がり、ブルブルと身震いする。紙飛行機は、徐々にキムナイヌが跨がったエゾシカがいる群れへと近づいて行った。クロがお尻を高くして構えると、身体中の紅い斑模様が明滅しだした。
「……行くぞお!」
クロが勢いよく身体を捻ると、尾を振りきった瞬間に紅い衝撃波が飛んでいった。勢いよく放たれた衝撃波は、後方を走っていたエゾシカの足もとで炸裂する。すると、驚いたエゾシカたちは四方八方へと散ろうとするが、先回りするように衝撃波が飛んでいき地面を抉るので、逃げ場を失った群れは徐々に中央に集まり、一定方向に向かって走り出した。
「アッハハハ! 小僧、上手い上手い!」
それを見て、カラパッチリカムイは上機嫌で笑っている。
「……くっ!」
エゾシカの密集している真ん中には、キムナイヌの乗った雄がいる。
寿司詰め状態になっているからか、飛び降りることもできないらしく、キムナイヌは悔しそうに歯がみしていた。
やがて、景色が変わったのに気がついた。
果てなく続くと思われた雪原の中を悠然と川が流れ、川辺に立つ木々は雪化粧を施されている。あちこちに沼が点在していて、鳥たちが優雅に羽を休めていた。昼頃よりはだいぶ天気が回復してきたせいか、雲間から夕陽が漏れ、薄闇に包まれつつある川面を煌めかせている。夕陽に赤く染まった雪の大地――それは見蕩れるほど美しかった。
「ここは……」
「釧路湿原だろう。大鷲は塘路湖にキムナイヌを追い込むつもりみたいだ」
水明の言葉どおり、遠くに湖らしきものが見えた。凍っている部分もあるが、見るからに氷が薄い部分もある。あんな場所にエゾシカの群れが突入したら、きっと氷が割れて落ちてしまうに違いない。
「まさか水底にでも沈めるつもり!?」
それはやり過ぎなのではと青ざめていると、甲高い声で鳴いたカラパッチリカムイがゆっくりと降下していった。エゾシカの群れと、塘路湖がみるみるうちに近づいてくる。
「カラパッチリカムイ!」
思わず叫ぶも、その瞬間、タンチョウヅルが一斉に飛び立ち、羽音で声がかき消されてしまった。声はまるで届かず、カラパッチリカムイはキムナイヌに狙いを定めて降下を続けている。
――どうしよう……!
ハラハラしていると、誰かが私の袖を引っ張った。驚いて振り返ると、それはアペフチカムイで、穏やかな表情を浮かべた老婆はなにか物言いたげに私を見つめている。
――アペフチカムイはいつだって人と神を繋いでくれる。困ったらアペフチカムイを頼れ。大丈夫だ、夏織ならやれる。
東雲さんの言葉を思い出して、ハッとする。
水明と違い、私にできることはない。彼らを信じるしかないのだ。
「アペフチカムイ……お願いします」
切なる願いを込めて、頭を下げる。するとアペフチカムイはにっこり笑ってくれた。
グッと奥歯を噛みしめて、エゾシカたちが塘路湖の上に突入する様を見守る。
雪煙を上げながら走り続けたエゾシカたちは、塘路湖上に侵入すると、途端に体勢を崩した。やはりまだ氷が薄かったらしい。氷を踏み抜いて焦っているようだ。
しかし次の瞬間、私は自分の目を疑った。
「……ハァッ!!」
キムナイヌが気合いを入れたかと思うと、キシキシとなにか硬いものが擦れ合う音がしたのと同時に、塘路湖上が一斉に白く染まった。いや――凍り付いたのだ!
「ワハハハハハ! 残念だったな!」
愉快そうに笑ったキムナイヌは、エゾシカに跨がったまま軽快な足取りで湖を渡り始めた。湖面はしっかり凍っていて、エゾシカの体重程度ではびくともしない。
「逃げられちゃった……?」
呆然と呟く。すると「まだだ!」とカラパッチリカムイが叫んだ。
「アペフチカムイ!」
すると、カラパッチリカムイの呼び声に応えるかのように、アペフチカムイを中心に熱が広がっていった。それは、ともすれば真夏の太陽を思わせるような熱だ。塘路湖の氷を溶かそうとしているのだろう。あっという間に湖面の氷にヒビが入る。
「無駄なこと!」
すると、アペフチカムイに気がついたキムナイヌは、また不思議な力を使って湖面を凍り付かせた。しかしすぐにアペフチカムイが熱を発して、湖面に熱が広がっていく。
――どうなるんだろう。
固唾を呑んで見守る。
すると、キムナイヌが湖の中央に到達した頃に事態が動いた。
「……お? おおおおおおっ!?」
キムナイヌが困惑の声を上げたかと思うと、エゾシカたちの足もとの氷が、突然隆起し始めたのだ!
ミシミシと嫌な音を立てて、氷の表面に大きな亀裂が入っていく。落ちると思ったのか、慌てたキムナイヌが力を使うと、益々耳障りな音が響いて氷が盛り上がった。
勢いよく走っていたエゾシカたちは、盛り上がった氷に激突したり、驚いてあらぬ方向に走り出したりしている。
そしてキムナイヌが乗っていた牡鹿は、亀裂に脚を取られて倒れてしまった。
「うおおおおおおおっ!」
すると、エゾシカの背から落下したキムナイヌは、まるでカーリングの球みたいにクルクル回って氷上を滑っていった。すかさず降下の体勢を取ったカラパッチリカムイは、キムナイヌに向かって一直線に降りて行く!
「アッハッハッハ! 俺の勝ちだ。キムナイヌ!」
「くそっ! くそっ! くそっ!」
――こうして、キムナイヌは捕らえられた。
大鷲姿のカラパッチリカムイの爪に顔面を押さえつけられ、動くこともままならないらしい。顔を真っ赤にして悔しがっている。
カラパッチリカムイの背から降りた私たちは、恐る恐る氷上に降り立つと――。
「…………疲れた」
「…………同感」
ヘナヘナとその場に座り込んでしまった。
夕陽に照らされて、湖面の氷がキラキラ光っている。まるで、誰かが移動した軌跡をなぞるように隆起する氷。私はこの現象の名を知っていた。
「御神渡り……」
長野県の諏訪湖などでも見られるこの現象は、夜と昼の寒暖差によって起きるものだ。それを、キムナイヌの冷気とアペフチカムイの暖気で無理矢理起こさせたらしい。
「これぞ、本当の御神渡りぞ。アッハッハッハ!」
カラパッチリカムイの笑い声が辺りに響いている。私は、あまりにもスケールの大きい神々の仕業に、こっそりとため息を零した。




