神遊びの庭で3:困りものの神さま
東雲さんに、延滞料を回収してこいと厳命された数日後。
ナナシに許可をもらった私たちは、北海道へ行くことにした。どうして俺が……と渋る水明を無理矢理引き連れ、知り合いのあやかしに頼んで送ってもらう。
因みに、いつもなら一緒に来てくれるはずのにゃあさんは家で寝ている。冬は絶対に家を出ない――それが彼女のポリシーだからだ。猫は炬燵で丸くなるもの。それをしないで猫とは言えぬとは彼女の言葉だ。
ついでに言うと、水明の相棒、犬神のクロは――。
「…………オイラを置いてかないでぇぇぇぇ」
声をかけた途端、さめざめと泣き始めた。どうやらこの犬神、寒いのがめっぽう苦手らしく、行き先が極寒の北海道だと分かった途端にこんな調子になった。しかも、
「オイラ、雪の上を走るのすごく苦手なんだよね。正直、これっぽっちも役に立てる予感がしないけど! でもでもでも、連れてってえ……」
と、号泣しながら言うものだから、こちらまで言葉を失ってしまった。
クロは普通の犬よりもはるかに胴が長く、四肢が短いせいで、雪の上を走ると埋まってしまうのだそうだ。更には毛に雪が絡み、その重みで徐々に走行が難しくなるのだとか。ならば留守番をと頼んだのだが、水明をひとりでは行かせられないと固辞されてしまった。結果、クロは水明のリュックの中に入れて連れて行くことにした。
出発前、クロはリュックの蓋から顔だけ出すと、威勢よく言った。
「フフフ。今回のオイラは、所謂最終兵器って奴さ! いざとなったら呼んでよ!」
そして――現在。寒いのか、リュックの中で大いびきを掻いて眠っている。
「犬は喜び庭駆け回り、じゃないの?」
「クロを普通の犬扱いするな。デリケートなんだ、これでも」
こればかりは、相棒である水明も思うところがあるらしい。若干、渋い顔をしていた。
そんなこんなで、北海道へとやってきた。
朧車という牛車のあやかしに地獄経由での北海道行きを依頼し、到着した頃にはすでに昼を回っていた。朧車へお礼を言い、地獄の入り口へと戻るのを見送ると、ぐるりと辺りを見回そうとして……途方に暮れてしまった。
――あ、遭難したかも。
到着した途端に抱いた感想はそれだった。
そこは雪原のど真ん中。周囲に建物は一切なく、真っ白な雪しか見えなかったからだ。
風が唸る音が聞こえ、絶え間なく雪が吹き付けてくる。
冷たい風が頬を撫でると、肌の表面に痺れるような痛みが走る。足先の感覚はあっという間になくなり、不思議と指は熱を持っているが、むくんでいる時のように動かしづらい。
寒すぎるせいか、毛糸の帽子やダウンコートに雪が積もりすらしない。溶ける前に、風に飛ばされてしまうからだ。というか、このままでは私たちまで飛ばされてしまいそう!
「おい、本当にここでいいのか!」
水明が叫んでいる。すぐ隣にいるのに、その声すら風の音にかき消されそうだ。少しでも離れたら見失ってしまいそうで、恐ろしくなって水明の腕を掴む。
「知り合いのカムイが迎えに来てくれるはずなんだけど……。こんなに吹雪だなんて思わなかった! もっと厚着してくれば……いや冬山装備で来るべきだったよ……!」
一応、普段よりかなり着込んではいる。しかし、それが問題にならないくらいに寒い。これは絶対に氷点下だ。もしかしたらバナナが凍るレベル。でも、ナナシはこれくらい着込めば大丈夫って言っていたし……。あああ、でもすべてが手遅れだ!
ひとり後悔の念に駆られていると、私の言葉を聞いた水明が顔を顰めた。
「カムイ……って、アイヌの神のことか?」
「うん。そう」
なにも考えずに頷くと、何故か微妙な顔をされた。訝しんでいると「いつもながら非常識な奴だな」と呆れられた。どうやら、神様と知り合いなのが変ということらしい。
「神様でも、お客さんはお客さんだと思うんだけど」
「まあ、それはそうだが。お客様は神様です、が現実になると思うと……」
「あ。ほんとだ。うまい! 座布団一枚!」
自分では決して湧かない発想に感心して、寒さでかじかんだ手で水明をバンバン叩く。すると、水明はとても迷惑そうな顔をして私の手を払った。
――ひゅう。
その時、一際冷たい風が吹き込んできて身体が震え上がった。
「ささささ、寒い……」
思わず、水明の腕に抱きつく。けれど、辺りを吹き荒れる冷たい風は容赦がなく、ちっとも暖まらない。
「このままじゃ凍死しちゃうよ……」
真剣にそう思って、同意を得ようと水明の顔を見上げると、彼の頬や耳がやけに赤くなっているのに気がついた。
「わあ、寒すぎて真っ赤だよ。大丈夫?」
「…………別に。問題ない」
何故か視線を合わせてくれようとしない水明に首を傾げる。それにしても寒い。早く迎えに来てくれないものだろうか――そう思っていると、唐突に寒さが和らいだ。
「こんにちは」
驚いて顔を上げると、そこには赤い衣を何重にも重ねて着た老婆の姿があった。
「アペフチカムイ!」
それは「火」のカムイだった。炎のように色鮮やかな衣を纏った老婆から、まるで太陽みたいに強い熱を感じる。不思議なことに、アペフチカムイの傍にいるだけで冷え切っていた身体がじわじわと末端から解けていくような感じがして、ホッと一息つく。
やがて、アペフチカムイは大きく頷き、くるりと踵を返した。
アペフチカムイが歩き出すと、途端に寒さが増す。この暖かい感じは、彼女から離れると効力を失うらしい。私は水明と顔を見合わせると、急いでアペフチカムイの後を追った。
すると、水明が私に訊ねた。
「で、目的地はどこなんだ?」
水明の問いかけに、私は小さく頷いて言った。
「カムイミンタラ。神々が遊ぶ庭に、会いたい人がいるの」
そこから五分ほど歩いた頃だろうか。吹雪で白く染まった世界が突然開けた。
「わあ……!」
そこには、見たこともない光景が広がっていた。
一面に広がっていた雪景色が途切れ、突然、円形に切り取られた花畑が現れたのだ。
曇天の真ん中に、まるで穴を空けたみたいに青空が広がっている。
この辺りには、ポツポツと石が転がっているくらいで、背丈の高い草花や木々はどこにも見当たらず、平坦な地面に花の絨毯が広がっている。咲いているのは高山植物だ。可憐な白い花弁、中央に黄色いおしべが密集しているチングルマ。紅紫色の花弁が眩しいエゾコザクラ。ピンクの紡錘形の花が鈴なりになっているエゾツガザクラ。
さっきまでの寒さはどこへやら、暖かいとまではいかないが、爽やかな風が花畑の上を渡っている。白く染まった世界から一転、青空を写し取った水たまりの輝き、鮮やかな花の色……まるで初夏を思わせる光景に心が躍る。
「綺麗……」
「どういうことなんだ……?」
うっとりしている私とは対照的に、水明は困惑気味に周囲を見回している。
その気持ちは分からなくもない。遠くを見ると、そこは相変わらず吹雪いている。どうみたって尋常じゃない。なにか特別な力で作られた、特別な場所だとしか思えない。
――ここが、神々の遊ぶ庭。
やっと到着できたことに達成感を覚えていると、先導していたアペフチカムイが立ち止まった。釣られて私も足を止める。すると、アペフチカムイの向こうに家が建っているのが見えた。
それはアイヌ伝統の家であるチセだ。掘立柱に寄せ棟屋根、木造のシンプルな家が建ち並んでいる。それに高床式の倉庫と、木を組んだ檻のようなものが見える。どうやら、ここで集落を形成しているらしい。
家の周囲にはたくさんの人がいて、彼らもアペフチカムイのように、アイヌ伝統の衣装を着ていた。老若男女様々だが、誰も彼もが楽しげに笑っている。
「キムナイヌはどこにいますか」
立ち止まっているアペフチカムイに訊ねると、彼女はにこやかに頷いて、また歩き出した。どうやら案内してくれるらしい。
その時、出発前に聞いた東雲さんの言葉を思い出した。
――「火」のカムイであるアペフチカムイは、アイヌたちに最も近いカムイだ。いつだって、人と神を繋いでくれる。困ったらアペフチカムイを頼れ。大丈夫、夏織ならやれる。
「すっごく怒ってた癖に、アドバイスはしっかりしてるんだよね」
東雲さんたら、怒り心頭の様子でお前たちが行けばいいと言っておきながら、出発前にアイヌについて色々と教えてくれた。日本人とはまるで違う文化を持つアイヌの神と会うのは緊張したが、東雲さんのおかげで少しは不安が和らいでいる。
――それにしたって過保護。
呆れ半分嬉しさ半分で笑っていると、アペフチカムイはあるチセの前で立ち止まった。
建ち並ぶチセの中でも一番立派なものだ。どうやら、そこに目的の相手がいるらしい。
私は水明と目配せをすると、チセの入り口の前まで移動した。
そして、アイヌでの訪問時の作法を思い出して、コホンコホンと咳払いをする。
すると中から、なにか毛むくじゃらのものが、ぬうと顔を出した。
「……ッ」
一瞬、動物が出てきたのかと思って身構える。しかしそれはきちんと人の形をしていて、けれども獣と見間違えそうなほどに多くの毛で覆われていた。
「あがって休みなさい(アフプ ワ シニ ヤン)」
そう言って、ニカッと鋭い犬歯を見せて笑ったのは、かなり大柄な男性だった。癖のある黒髪を肩まで伸ばし、顔の大部分がゴワゴワした髭で覆われている。人とは思えないほどに体毛が濃く、複雑なアイヌ文様が縫い取られたアットゥシの袖や襟元から、毛皮と見紛うほどの黒い毛がはみ出していた。手甲や脚絆を着けてはいるが、毛で埋もれて見えなくなりそうなくらいだ。しかし、額から頭のてっぺんにかけてはつるりと禿げ上がっていた。全身の毛量が多いぶん、やけにその部分が目立って見える。
「キムナイヌ……ですよね?」
チセの中に戻ろうとする男性に訊ねる。すると、その人は指で頭をボリボリと掻くと、「そうだ」とだけ答えた。そして、榛色の瞳で私をちろりと見ると、先ほどよりも低く聞こえる声で言った。
「それでお客人。今日はなんのご用かな」
剣呑な光が宿った瞳で見つめられ、緊張で身体を竦ませる。
私は鞄から一通の書類を取り出すと、キムナイヌに差し出しながら言った。
「――私、幽世の貸本屋、東雲の娘で夏織と申します。本日は未返却の本の回収と、延滞金を頂きに参りました」
するとその瞬間、キムナイヌの立派な太い眉が寄ったのが見えた。
私はコクリと唾を飲み込むと、出発前に聞いた東雲さんの言葉を思い出していた。
――キムナイヌは、神様の癖に嘘をつきやがる。気をつけろ。
どんな嘘をつくのだろう。言葉巧みに追い返されでもしたら堪らない。絶対に騙されないぞと覚悟を決め、奥歯を噛みしめてキムナイヌの反応を待った。すると――。
「そそそそそ、そうだったかねえ? 返したと思ったが!?」
キムナイヌはタラタラと滝のような汗を流し、榛色の瞳をあらぬ方向に向けて、小鼻を膨らませると、裏返った声で答えたではないか!
「――わかり易すぎる……!」
「は? なにか言ったか」
「い、いいえ!?」
慌てて首を振って否定する。しかし内心はかなり動揺していた。もっと、高度な心理戦でも繰り広げられるのかと思ったが、バレバレ過ぎてため息しか出ない。
「貸し出し帳には、きちんと記録が残っています。どうぞご返却を」
やや冷静になって、キムナイヌをじっと見つめる。すると、まるで熊みたいに大きな身体を持ったキムナイヌは、小さく背中を丸め、渋い顔をしたままウンウン唸り始めた。
「あの……その、だな」
「おお、客人を中に招かずに立ち話など。なにかあったか!」
するとその時、チセの奥からもう一人誰かがやってきた。
その人はキムナイヌの隣に立つと、ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべた。
「どうしたのだ、キムナイヌ。困りごとか?」
その人は私たちに気がつくと、自分は「カラパッチリカムイ」であると名乗った。
カラパッチリカムイは大鷲のカムイであると東雲さんから聞いていた私は、彼に向かって頭を下げる。そして改めて貸本屋であると告げた。
「ほほう? 貸本屋か。今年は若い娘子なのだな」
私を繁々と見つめたカラパッチリカムイは、次にどこか憐れむような瞳をキムナイヌに向けた。
「キムナイヌ、顔色が悪いな。もしや、また残した飯を食ってもらえなかったのか(求婚を断られたのか)」
「……! ち、違う」
「それとも、誰かに嗤われたか? 仕方ないだろう、お前がロンコロオヤシ(禿げ頭のお化け)なのは間違いないのだ、きっとそのせいで嫁もこないのだろうし」
「…………」
カラパッチリカムイは、私たちにはよくわからない話題を次々に続けた。水明と無言のまま視線を交わす。アイヌ語や私たちにはわからない風習の暗喩が混じるせいで、言葉の意味を理解できてはいないが、不穏な空気が流れていることは間違いない。
――どうしてこんなことを……?
内心、ヒヤヒヤしながら見守っていると、カラパッチリカムイがキムナイヌの禿げ上がった頭をするりと撫でた瞬間、彼の顔が茹で蛸みたいに紅くなった。
「黙って聞いておれば……!」
「ハハハ。事実であろう? 主がいつまでも独身であるのは誰もが知ることだ」
キムナイヌの眉間に血管が浮かび、元々太かった腕や脚がみるみるうちに膨張していく。縮れた髪が逆立ち、全身を覆う黒い毛もまた逆立った。
――やばっ……!
素人目にも激怒している様子に、思わず後退る。すると、水明が私を背後に庇ってくれた。それでも、キムナイヌの放つ怒気が恐ろしくて、水明の背中にしがみつく。
カラパッチリカムイは、怒りが収まらない様子のキムナイヌの肩を抱くと、彼の耳もとでボソリと言った。
「――それで、貸本屋からあの本を借りたのか。知っているぞ。我は主があの本でなにをしているか知っている。早く返したほうがいいのではないか? いつまでも手もとに置いておいたって……」
――その時だ。
どおん、と地面が震えるほどの爆音がして、降り積もっていた雪が舞い上がった。途端に真っ白になった視界に、思わず目を瞑る。すると、遠ざかっていく足音が聞こえた。嫌な予感がしたけれども、すぐには目を開けられずにグッと堪える。
やがて舞い上がっていた雪が落ち着くと、私はようやく状況を確認することができた。
「ああっ……!?」
目の前にいたはずのキムナイヌの姿が消えている。慌てて周囲に視線を巡らせると、遙か遠く――豆粒みたいなキムナイヌの後ろ姿が見えた。
「逃げられた! それにしても足速すぎない……!?」
愕然としていると、更に状況が変化した。
先ほどまで集落の周りだけ晴れていたはずなのに、ぽっかり空いていた晴れ間が埋まっている。風が強まり吹雪いてきた。一面の花畑があっという間に雪に埋まっていく。
「おうおう、キムナイヌの野郎。天候を操作しやがったな」
カラパッチリカムイは空を見上げると、カラカラと楽しげに笑った。
私は涙目になると、カラパッチリカムイに詰め寄った。
「な、なにをしてくれるんですか! 逃げちゃったじゃないですか……!」
「あやつ、雪で目隠しをしている間、ちゃっかりチセの中から本を持ち出していたぞ。アッハッハッハ! やるではないか!」
「笑いごとじゃないですよ! なんでキムナイヌを煽るようなこと……!」
すると、顎髭をするりと撫でたカラパッチリカムイは、楽しげに目を細めて言った。
「悪いな。我は熊みたいな黒い毛むくじゃらは嫌いなのだ」
「は……?」
「キムナイヌは熊ではないが、熊に似ているから好かぬ。それだけだ!」
「はああああ……?」
どうやら、ただの私怨であったらしい。その時、脳裏に東雲さんの言葉が蘇ってきた。
――キムナイヌとカラパッチリカムイは仲が悪い。近づけるなよ。
……ああもう、思い出すのおっそい……!
思わず脱力していると、カラパッチリカムイはドンと自分の胸を叩いて言った。
「問題ない。我も手伝おうではないか。準備をしてこよう。……なあに」
そして自分の目を指さすと、黄金色の瞳を細めて言った。
「大鷲の目は決して獲物を逃がさぬ。毛むくじゃら如き、すぐに見つけてやろう」




