神遊びの庭で2:北の大地に行く理由
どうして、水明と私が北海道にまで延滞料の回収に行かねばならなくなったのか。
それを説明するには、少々時間を遡らねばならない。
冬の始まりの頃、東雲さんの初めての本「幽世拾遺集」が発売された。
それは、幽世で生きるあやかしたちの情報と共に、彼らが語る物語を集めたもの。それを読めば、あやかしたちの実際の暮らしや文化が分かるという本で、東雲さんが何十年もかけて準備をしてきた肝いりの一冊だ。
盛大な出版記念パーティも開き、話題性たっぷりだったその本が発売した時は、貸本屋の店頭は多くのあやかしたちで賑わった。貸本分はほぼすべて借りて行かれ、販売分も順調に在庫が減っていった。
……が、しかし。
「金がねえ……」
「まあ、そりゃそうだろうね」
居間の隅っこで、東雲さんがぐったりと横たわっている。ペラッペラの座布団を、枕よろしく抱きしめている姿は、なんというか非常に痛ましい。
みかんを口に放り込みながら、横目で東雲さんの様子を窺う。どうにも、自分の想像していた通りにいかない現状に落ち込んでいるようだ。
「本を刷るのにもお金がいる。貸本屋は販売価格そのもので貸し出すわけじゃないし、普通に考えて掛かった経費を回収するまで時間がかかるよね。破損したら貸し出せなくなるし修理にもお金が掛かる。紛失してしまうこともあるし。資本が少ないから、大量に刷るわけにもいかない。となれば、単価は上がらざるを得ないし」
「ぐうう。冷静に分析するなよ……」
「そもそも、儲けを出したいなら流通経路をね」
「やーめーろー」
東雲さんは、まるで駄々っ子みたいに手足をバタバタ動かしている。私はクスリと笑うと、新たなみかんの皮を剥きながら言った。
「別にいいじゃない。東雲さんの本のおかげで、新規のお客さんが増えたし。今まで本に触れたことのなかったあやかしにも、その面白さを知ってもらえたし」
「だがなあ……」
「少なくとも、前よりは売り上げが上がってるんだからいいと思わないと」
そのおかげで、特Aランクとまではいかないまでも、前よりはマシなお米を食べられている。ありがたいことだ。日々の食生活の改善は心の安寧に繋がる。
「まあ、そのうち変わるよ。そもそも、今はみんな冬籠もりしているでしょう? 忙しくなる春に備えて、今のうちに次の本の原稿を書き進めておけば?」
すると、東雲さんは不自然なほどに満面の笑みを浮かべた。そしてゴロリと壁の方を向くと、座布団を抱え直して動かなくなった。
……ほほう?
私はギラリと目を光らせると、東雲さんににじり寄った。半目になって、東雲さんの顔を覗き込む。すると、如何にも眠っていますという風な寝息が聞こえてきた。
――なるほど。今は書きたくありませんって?
私はおもむろに両手を顔の前まで持ち上げると、
「いい加減に……しなさいっ!!」
猛烈な勢いで、東雲さんの脇腹に襲いかかった。
「あっ……あひゃひゃひゃひゃひゃ! やめ、なにすんだァ!」
「気分が乗らなくても、原稿はコツコツ進める! 玉樹さんに迷惑かけないの!」
因みに、玉樹さんとは「物語屋」という仕事をしている、ちょっと胡散臭いあやかしのことだ。今回の拾遺集を刊行するにあたって、色々と取り計らってくれた人で、無事に本を出せたのは彼の手助けあってのこと。編集作業も請け負ってくれていて、東雲さんの原稿の遅延に、一番影響を受ける人でもある。
『一途に待ち続ける……物語では美談だな。だが、実際に待たされるこちらの身になってみろ。その緩んだ顔をぶちのめしてやろうと何度思ったことか』
原稿を回収に来て、まったく出来てないことに腹を立てる玉樹さんの愚痴に付き合うのは私なのだ。原稿の締め切りくらい守ってほしい。
「作家っつうもんはデリケートなんだよ! こう……身体の内から溢れるものがないと、筆が進まねえもんなんだ!」
「知らないわよ、そんなこと! 書けるかどうかなんて、机に向かってみないとわからないでしょうが! スタートラインに立ってから言って!」
「やだ。俺の部屋、寒いんだもん」
「あんたは子どもか!?」
プイ、とそっぽを向いてしまった養父に苛立ちが募る。東雲さんは、執筆に関しては本当に気分屋のところがあって、駄目な時はいつもこんな調子だ。
「ああもう。また玉樹さんに怒られても知らないからね」
「へいへい」
寝たふりすらやめて、煙管を口に咥えた養父を呆れ混じりに見つめる。
――まあ、いいか。
私は脱力すると、苦笑いを浮かべた。
先日の八百比丘尼との一件。あのせいで、東雲さんはかなりの重症を負った。
「本体」である掛け軸を破壊され、本の出版を取りやめるように強要されたのだ。それは、掛け軸の付喪神であった東雲さんに、大きなダメージを与えた。結果的には本を無事に刊行することができたが、つい最近まで怪我の影響で苦しんでいた。今だって、まだ全快はしていない。因みに、破壊された掛け軸は然るべきところで修復して貰っている。暖かくなる頃には終わるらしいので、今から春が待ち遠しい。
本を出したばかりでもあるし、少しくらいは休んでもいいだろう。玉樹さんのネチネチした愚痴くらい、聞き流せばいいのだ。
――甘すぎるかな?
でもまあ、東雲さんを甘やかせるのは私くらいだしね。
「……そう言えば」
その時、あることを思い出した私は、寝転がっている東雲さんに声をかけた。
「今年って、延滞金の回収はどうするの?」
「あ」
すると、東雲さんはサッと顔を青ざめさせた。視線をあちこち彷徨わせ、困り果てたように眉を下げる。
「毎年、俺が行っていたが……。流石に今年は無理だな。まだ本調子じゃねえ」
「近場に棲むあやかしならともかく、遠方のあやかしたちはねえ……」
あやかしは大抵、奥地に棲み家を構えている。まだまだ傷が癒えていない東雲さんが行くのは難しいだろう。それに、延滞金が多額になればなるほど回収は困難を極める。以前、私もついて行ったことがあるが、逃げるあやかしを追うようなこともままあるのだ。だからこそ、延滞金の回収は東雲さんの役割だったのだが――。
「春まで待つ?」
「それはそれで面倒だ」
「だよね」
わざわざ、寒い冬に延滞金の回収をする理由。
それは、店が暇だからというのもあるが、冬はあやかしたちが棲み家に引き籠もっていることが多いからだ。つまり居場所が特定しやすい。春になれば、冬ほど容易にあやかしを見つけられなくなるだろう。
「本を作るのに現金を使っちまったし……行かないわけにはなあ」
「そうだね。このままだと、お正月を越せるかどうか」
東雲さんと顔を見合わせ、はあとため息を零す。
延滞金を回収できれば、結構馬鹿にならない金額になる。客の来店数が減る冬の貴重な収入源だ。それがなければ、新刊の購入すらままならない。冬籠もりの間に読むのだと、本をたっぷり借りていったお客さんが、暖かくなると大勢押しかけてくる。気に入った本の続刊に、心ときめかせて来店した彼らのがっかりした顔なんて見たくない。
その時、店の方で誰かの気配がした。
店と居間を繋ぐ戸へと向かう。戸を開けると、そこには見知った顔がいた。
「……おう」
「いらっしゃい」
やってきたのは水明だった。外はかなり吹雪いているようで、あちこち白い雪が付着している。かなり眠いのか、目がトロリとしていて頭がユラユラ揺れていた。
「大丈夫?」
「……ん」
水明は靴を脱ぐと、フラフラした足取りで居間に入ってきた。どうやら、眠気が限界のようで、ぼうっとして居間の真ん中で突っ立っている。
「ほら、コート。脱がなくっちゃ」
「……んん」
しかし、声をかけても反応があまりない。目が半分閉じかけている。
「もう」
ため息をついて、水明の正面に回る。仕方がないので、コートを脱がしてやる。
水明は私と同じ人間で、元祓い屋の少年だ。相棒である犬神のクロを捜して幽世にやってきた。無事、クロを見つけることができ、祓い屋を廃業して今では薬屋で働いているのだが、元々あやかしを狩る仕事をしていたせいか、幽世ではなかなか熟睡できなくて困っているらしい。しかし、人間の私がいるせいか、わが家では熟睡できるのだそうだ。それもあって、限界になるとうちに眠りに来るようになっていた。
「お腹空いてない? 寝る前になにか食べる?」
ダッフルコートの次は赤いマフラーを外す。外気に晒されたせいか、頬が赤くなっていてやたら冷たい。
「外、寒かったね。お布団、いる?」
ひんやりした頬を手で温めてやる。すると、水明はふるふると首を横に振って、ゆらゆら揺れながら私に近づいてきた。そして――。
「……毛布がいい」
そう言って、私に寄りかかってきた。いきなり体重をかけられて倒れそうになる。慌てて水明の身体を支えると、彼はボソボソ小声で言った。
「寒いのは嫌いだ。夏織は温かい。ぬくぬくする」
そんな子どもみたいなことを言って、スリスリと頭を私に擦りつける。それがなんとも擽ったくて抗議しようとすると、私に寄りかかったまま寝息を立て始めてしまった。
「…………はあ」
ちょっぴり頬が熱くなっているのを自覚しつつ、水明の胴に腕を回す。よっこいせと気合いを入れて、引きずるようにしてストーブの前に連れて行った。やや苦労して、水明の身体を横たえると、頭の下に二つ折りにした座布団を差し込む。
――毛布、持ってこなくっちゃ。
そう思って、おもむろに立ち上がろうとした、その時だ。
何故か、目をまん丸にした東雲さんと視線がかち合った。
「……どうしたの? 変な顔して」
思わず首を傾げると、パクパクと口を動かしていた東雲さんが真っ青になった。
「どどどどど、どうしたもこうしたも!」
「五月蠅いよ。水明が寝てる」
「す、すまん……って、いやいやいや、なんだ今のやり取り!!」
東雲さんは勢いよく起き上がると、四つん這いのまま私に近づいてきた。
「ちょ、ちょっと待て。夏織、動くな。そこに座ってろ。話がしたい」
「ええ? 毛布……」
「そんなの、後でもいいだろォ!?」
「そ、そう?」
東雲さんの勢いに押され、訳も分からずその場に正座する。すると、東雲さんはやけに焦った様子で、しかし慎重に言葉を選びながら言った。
「そうじゃねえとは思いたいが。か、夏織。お前、この小僧と……」
――ゴクリ。東雲さんはそこで言葉を切ると、唾を飲み込んでから言った。
「付き合ってるのか?」
「…………ん?」
付き合う。
言葉の意味がすぐに飲み込めなくて、一瞬固まる。
そんな私を、東雲さんは恐ろしい形相で見つめている。まだお酒は飲んでいないのに、飲み過ぎた時みたいに真っ赤だ。青くなったり、赤くなったり忙しいなあとぼんやり思っていると、唐突に言葉の意味を理解した。
「つっ!? つつつつ、付き合うってなによ!!」
「痛え!?」
思わず、衝動的に東雲さんをビンタしてしまった。小気味いい音が響いて、東雲さんが痛みに呻いている。
「ああああ、ごめん。東雲さんが変なことを言うから!」
慌てて東雲さんの頬を撫でる。すると、叩かれた頬を手で押さえた養父は、どこか乾いた笑みを浮かべて言った。
「だよな、だよな。付き合ってるわけねえよな。いやあ、俺が原稿に追われている間、なにかあったのかと思っちまったよ」
そんな養父に、私も笑みを浮かべて答えた。
「そうよ、そうだよ。付き合うだなんてあるわけないよ。別になにもな……」
その瞬間、脳裏に秋頃の光景が思い浮かんだ。葡萄色に染まった秋空。星々を映した凪いだ湖面。綺麗な蝶に彩られた橋の上、水明が私に言った言葉――。
『お前といると、胸の辺りが変だ。これも「愛」って奴なのか?』
それを思い出した瞬間、顔に火がついたみたいに熱くなる。隙間風が頻繁に吹き込むような古い家だ。決して暑すぎることはないはずなのに、じんわり汗が滲んできて、どうにも居たたまれなくなって俯いてしまった。
「……グフッ」
すると、まるで蛙が潰された時みたいな変な音がした。何事かと恐る恐る顔を上げると、とんでもないものが目に飛び込んできて、肝が冷えた。
「……殺す」
それは怒りのあまり、青灰色の瞳を黄金色へと変化させた東雲さんだった。
東雲さんは、普段はやる気なんて微塵も感じさせないような姿をしているのだが、一度怒り出すととんでもなく怖い。額には血管が浮かんでいるし、額から生えた角はなにやら電撃を帯びている。ボサボサの髪は逆立ち、まるで鬼みたいな形相だ。
「ちょ……っ! 東雲さん!? 待って待って待って」
慌てて東雲さんの身体に縋りつく。そして、逆立っている髪を元に戻そうと、必死で手で撫でつけながら言った。
「勘違いしないでね? 別になにもなかったよ。なかった! 水明はいい友だちだし、きっとこれからも友だち!」
――このままじゃ、水明が殺されてしまう!
悲痛な思いを籠めて叫ぶ。
すると、腕の中の東雲さんが大人しくなっているのに気がついた。
「……東雲、さん?」
恐る恐る顔を覗き込むと、東雲さんはどこか弱りきったような顔をしていた。
「別に、お前に恋人ができるのは構わねえよ。……うん、構わねえ。人間が恋をするのは極々当たり前のことだし。うん……うん」
そして次の瞬間には、苦虫を噛み潰したみたいな顔になった。
「恋なんて、付喪神の俺にはよくわからねえ。でも、人間は恋をして、番い、子を産み、育てるもんだしな。仕方ねえよ。ハハ、子かあ……子ってどうやって作るんだっけ」
「東雲さん、白目! 白目剥いてるから。駄目、正気に戻って!」
ガクガクと揺さぶると、東雲さんはハッと意識を取り戻した。そして、ゴロリとその場に横たわると、ボソボソと掠れた声で言った。
「小さい頃はよかったなあ……。東雲さんのお嫁さんになるって言ってくれたっけ。可愛かったなあ、あの頃……」
――駄目だこりゃ。
私はため息を零すと、東雲さんを放って置いて二階へと向かった。そして、押し入れの中から毛布を取り出すと、一階に戻る。そうしている間も、東雲さんはブツブツとなにやら呟き続けている。幼い頃からずっと私の面倒を見ていたから、血は繋がっていない親子といえ、心中複雑らしい。
――私がお嫁に行くことになったら、東雲さんどうなるんだろう。
先日まで、口を開くと「早く嫁に行け」とばっかり言っていたのに、付き合っていないうちからコレだ。先が思いやられる。
もう何度目か分からないため息をつき、水明に毛布をかけてやる。すると、薄茶色の瞳と視線がかち合って、心臓が跳ねた。
「あ……水明、起きてた? ごめん、五月蠅かったでしょう」
横たわったままの水明は、私の言葉には応えずに、薄目を開けて私を見つめている。
寝ぼけているのかと、再び口を開こうとした――その時だ。
「夏織……」
へらりと口もとを緩めた水明は、薄い色をした瞳で私をじっと見つめた。そして、まるで子どもみたいな無邪気な笑みを浮かべると、とても嬉しそうにこう言ったのだ。
「あったかい。ありがと」
そしてそのまま目を瞑った。すうすうと健やかな寝息が聞こえ始める。やっぱり寝ぼけていたみたいだ。
私はというと、
「…………くうっ!」
普段は無表情なことの多い水明とのギャップに悶えていた。
この時、抱いた感想を端的に表すと、
――可愛い過ぎる……!
その一言に尽きた。
真っ白な髪を思う存分撫で繰り回したい衝動と必死に戦っていると、やけに刺々しい視線を感じて、ハッと正気に戻る。慌てて東雲さんを見ると、養父は血走った瞳で私を睨みつけていた。ギクリとして背中に冷たい汗が一筋伝う。別にやましいことはなにもないのに、どうにも居心地が悪い。
すると次の瞬間、東雲さんが突然大の字に寝転んだ。そしてどこか自棄気味に叫んだ。
「ああもう知らん! 全部どうでもいい!」
「なに、急に……!?」
どうやら、なにか悪いスイッチが入ってしまったらしい。
まるで駄々をこねる赤ちゃんみたいに、今年の冬はなにもしないぞと言い始めた。
「原稿どうするのよ! 延滞料の回収は!?」
慌てて問い詰める。すると、東雲さんは両手で顔を覆って言った。
「原稿は……玉樹に土下座でもなんでもしてやる。放って置いてくれ!」
「じゃあ、延滞料は!?」
「延滞料は……そこの元祓い屋と一緒に回収してくればいいじゃねえか」
「水明と……?」
「別にふたりきりでも構いやしねえだろ!? 逃げるあやかしを追うのは、祓い屋の得意分野だ。そうだ、そうだぜ。俺が行くよりも、よっぽど適任だ!」
すると、東雲さんはどこか怒りを堪えているような声で言った。
「まさか――ふたりきりだと恥ずかしいとか、そんなこと言わねえよな……? 付き合ってねえなら、別に問題ないはずだ」
指の隙間から見える瞳が、黄金色の光を放っている。
――ああ、こりゃ本当に駄目だ。
私は深く嘆息すると、脱力しながら言った。
「だから付き合ってないってば。わかったよ、ふたりで行ってくる」
――大変なことになった。
ちらりと眠っている水明に視線を遣る。
「……ぐう……」
この時ばかりは、気持ち良さそうに眠っている少年が憎らしく思えた。
こうして――水明とふたりで、延滞料の回収をする羽目になったのである。




