神遊びの庭で1:カムイたちの生きる地
こちらから北海道・アイヌ編です。
アイヌ語の発音では小文字になる表記があるのですが、なろう上では限界があり大文字になっています。
その点、ご了承の上でお楽しみください!
ふう、と口をすぼめて吐き出すと、私の息はあっという間に白く染まった。
降り積もった新雪の上で、大の字になって寝転ぶことは冬のなによりの楽しみだ。
子どもっぽいかもしれないけれど、ふわふわの誰も踏みしめた跡のない雪を見ると、どうにも寝転びたくなってしまう。サラサラの雪の上となればなおさら!
覚悟を決めたら、手足を伸ばして目を瞑る。すると、ある音が聞こえてくるのだ。
――かさ、かさ、かさ。
それは雪が降り積もる音。綿雪が着地した瞬間、僅かな音を立てるのだ。それは、この季節にしか聞こえない音。私はそれを聞くのが好きだった。
「……おい、夏織。風邪を引くぞ」
そんな私の至福のひとときを、無粋な声が遮った。
うっすら目を開けると、誰かが私を見下ろしている。
新雪みたいに真っ白な髪。薄い色をした瞳は透明感があって、元々色白だということもあるのだろうが、寒さで鼻先がちょっぴり赤くなっている。
彼の名は白井水明。かつて現し世で祓い屋を営んでいた少年で、今は幽世の薬屋で働いている。そんな彼がしている赤いマフラーは、薬屋の店主であるナナシお手製で、黒いダッフルコートもナナシが拘って選んだものだ。
ナナシ曰く、十代男子のダッフルコート姿は国宝よりも価値がある。
……そうなの?
話によると、わざわざ袖口が長めのものを選んだらしい。細身の水明が大きめなサイズのコートを着ているとやや幼く見える。「それがイイのよ!」とナナシは熱弁していた。
――まあ、似合っているからいいけど。
私はゆっくりと身体を起こすと、あちこちに着いた雪を払いながら言った。
「帽子も手袋もしてるし、暖かいから平気だよ?」
「そういう問題じゃない。ここをどこだと思ってる」
「怒られた……」
年下男子にバッサリと切られ、クスクス笑う。
私は、水明の背後にいる人物に視線を向けると、小さく頭を下げてから言った。
「大丈夫。確かに、ここは極寒の地だけど、私たちが凍えることはないよ。実際、信じられないほど薄着で過ごせているでしょ? そうですよね、アペフチカムイ」
すると、その人……アペフチカムイは、皺が刻まれた顔をクシャクシャにして笑った。
その人は日本人に比べると、彫りの深い顔をしていた。
意志の強さを感じさせるような太い眉。波打った白髪には、幅広の鉢巻きが巻かれていた。過ごしてきた歳月を感じさせるような皺が刻まれた口もとには、男性の口ひげを思わせる入れ墨が彫られ、コソンテ……晴れ着を何枚も重ねて身に纏っている。腰帯には小刀を差し、手に黄金で作られた杖を握り、その杖は冬の薄日を反射して、辺りに穏やかな光を放っていた。
アペフチカムイは、アイヌたちが信仰しているカムイのうちのひとりだ。
彼女は「火」だ。囲炉裏の中に住まうとされ、老婆の形で現れる。アペフチカムイの纏う小袖は、まるで燃えさかる炎のように赤い色をしている。極寒の地に住まうアイヌにとって、火のカムイは最も身近な存在だ。
アイヌ、カムイ……そう、私と水明は北海道に来ていた。
「そろそろ行けそうですか?」
私が声をかけると、アペフチカムイはコクリと頷いた。
すると、樹皮や茅で作られた、チセと呼ばれるアイヌ伝統の家から、やや低めの身長の男性が姿を現した。
男性はアペフチカムイとは違い、樹皮などで作られた服……アットゥシを身に纏っていた。その上に鳥の羽で飾られた羽織を着ている。頭には獣皮で作られた帽子。綺麗に整えられた髭に、精悍な顔はよく研がれた刃のように鋭い。しなやかな身体は見蕩れるほど綺麗に引き締まっていて、強者の雰囲気が醸し出されていた。
その人は手甲の位置を直すと、
「待たせたな。さあ、行こう。キムナイヌを追わねば」
と言って、私と水明の肩を抱いてズンズンと歩き出した。
「ちょ、ちょっと待て」
状況が理解できていないのか、水明は驚いたような声を上げている。私は、水明を安心させるように声をかけた。
「大丈夫、大丈夫! とりあえずこの人について行けばいいから!」
「ちゃんと説明しろ、馬鹿! お前の大丈夫はな、全然大丈夫じゃないんだよ!」
どうも、本当に焦っているらしい。私の言葉を信じてくれないのは少し寂しかったが、思い返してみると、水明には色々と酷いことをしてきた。無理矢理地獄へ落としてみたり、命綱なしではるか上空を空中散歩をしてみたり……。
「あっ。自業自得だわ」
私は苦笑すると、男性の歩幅に合わせて、徐々に歩みを早めつつ説明した。
「幽世では、冬の間は大多数のあやかしたちは冬眠しちゃうの。だから、お店の方はすごく暇なのね。お店が暇なぶん、普段はできないことをするの。そう、たとえば……長期延滞者からの代金の取り立てとか」
「それは聞いた。これも仕事なんだろう? でも、どうしてこんな状況になっている」
「こんな状況って?」
「どうして、延滞金を取り立てにきた相手が逃げたのかと聞いてるんだ!」
すると突然、男性が走り始めた。釣られて私も走り出す。もちろんそれは水明も同じことで、困惑気味に顔を引き攣らせながらも、必死に足を動かしていた。
「ここに棲むキムナイヌはね……って、うわあっ!」
「うお……っ!」
しかし、私たちの足の遅さに苛立ったのか、男性が私と水明を両脇に抱えたせいで、説明が途切れてしまった。そしてそのまま、ドンドンと加速していく!
「そ、それで……っ」
――ああ、舌を噛みそう!
そのあまりの速さに、私は口を噤むとまっすぐに前を向いた。
どこまでも広がるように見える雪原。けれども、徐々に尾根が近づいてきている。男性はやや前傾姿勢になると、木の皮で作った靴で地面を強く蹴った。
――どおんっ!
その瞬間、爆音と共に粉雪が舞い上がった。視界が白く染まり、なにも見えなくなる。
一瞬、気管に恐ろしく冷たい空気が流れ込んできて、思わず息を止めた。同時に、ふわりと身体が浮かび上がる感覚がして、なにか柔らかいものに着地する。気がつけば私を抱えていた男性は消えていて、私は足もとのふわふわしたものを手で掴むと、白く烟る向こうをじっと見つめた。
やがて――舞い上がっていた雪が周囲から消えると、一気に視界が開けた。
「わあ……!」
そこに広がっていたのは、なんとも雄大な景色だった。
どこまでも広がる大地。目の前には大きな峰が見える。それは、御鉢平カルデラを中心に大小様々な山々が連なっている大雪山系だ。白い雪を被った山肌に、ところどころなにかが動いている。
――エゾシカだ!
しなやかな身体を持つエゾシカが、複数頭集まって、人間ならば滑り落ちてしまいそうなほどの急な坂にへばりついている。それに、遠くに見える丸く窪んだ大地の底から、白い煙が立ち上っているではないか。火山性のガスか……それとも、温泉でも湧いているのだろうか?
冬ならではの景色に見蕩れていると、誰かが私の肩を掴んだ。
それは顔面蒼白になった水明だった。彼はカタカタと唇を震わせながら言った。
「……どういうことか、説明しろ」
怒気溢れる声に顔が引き攣る。私はへらりと笑うと、途中だった説明を再開した。
「えっと、だからね。あそこに棲んでいるキムナイヌってカムイがいるんだけど、延滞の常習者でね。今回は一年以上延滞してて、延滞料が結構な額になってるんだよね」
「……俺は聞いてないぞ」
「うん。言ってない。延滞料の取り立てが大変だってことも」
きっぱり断言すると、水明のこめかみに血管が浮かんだ。
こりゃやばいぞ、と私は無理矢理笑みを形作ると、辺りをキョロキョロと見回した。
私たちのすぐ後ろにアペフチカムイがいるのを確認して、視線を送る。そして、足もとのふわふわしたものをゆっくりと手で撫でてから言った。
「アペフチカムイも、カパラッチリカムイも、よろしくお願いしますね!」
そして右の拳を突き上げると、気合いと共に言った。
「頑張って、キムナイヌから延滞金をもらうぞ! おー!」
アペフチカムイは、私の声に合わせて小さく拳を突き上げてくれた。嬉しくなって、水明を見る。すると、彼は私の両肩を掴み――。
「だから、いつもいつも言っているだろうが!! 予め説明をしろ! どういう状況が待っているか分かるだけで、心構えが全然違うだろうが! 少なくとも――」
そして、必死な形相で私を揺さぶると、悲痛な叫びを上げた。
「人間っぽいものが、急に大鷲に変身しても! それが人間が乗っても平気なくらいでかくても! 腰を抜かしそうになることはないだろうが!!」
「あっはっはっは! 腰抜けちゃったんだ?」
「抜かしそうになっただけだし、笑いごとじゃない……!」
私の笑い声と水明の怒声が、冬の北海道の空に響いている。
空に向かって甲高く鳴いたカパラッチリカムイは、ゆっくり旋回すると、翼を大きく羽ばたかせて更に高度を上げていった。
アイヌ関係調べるのめちゃくちゃ大変でしたけど、楽しかった~~!




