若狭国の入定洞2:行き着く先は
複雑に重なり合った可動式の本棚を、手順通りに動かしていく。本がぎっしりと詰まった棚は重く、腰を入れて押さないと動かないほどだ。
ほどなくして貸本屋の地下へと続く階段が姿を現すと、中から底冷えするような空気が漏れてきた。途端に、全身に鳥肌が立ってしまい、腕を擦った。
「……行こっか」
「ええ」
ごくりと唾を飲み込み、ナナシと目を合わせて頷くと、ゆっくりと地下へと足を踏み入れた。私の後ろには、玉樹さんとにゃあさん、水明にクロも着いてきている。
「怖っ。暗いし、めちゃくちゃ寒いんだけど⁉」
「うるさいわよ、駄犬。だったら、アンタだけ帰りなさいよ。現し世に」
「幽世から追い出すのは、流石にいくらなんでも酷くない⁉」
にゃあさんとクロがやりあう声を聞きながら、無言のまま足を進める。奥にある燭台の火が消えていることもあって、地下室の中は真っ暗で何も見えない。それは予想していたので、幻光蝶を何匹か提灯に入れてきていた。提灯の明かりにぼんやりと照らされた本たちは、以前見た通りの姿のままここにあった。変わったことと言えば、真新しい蜘蛛の巣が張ってあることくらいだ。
けれど、一筋の光も入らない部屋というものの闇の濃さは尋常じゃない。光が奥まで届かないせいで、その奥に何かが潜んでいるような気がする。常夜の世界に育ったから、暗い場所には慣れているのにも拘らず、地下室の闇が空恐ろしく感じるのは、この奥に東雲さんの「本体」があるという事実が、私を動揺させているのだろう。
――「本体」。
本体とは何だろうか。普通のあやかしには、そんなものはない。東雲さんに、私の知らない秘密がある……そのことに、何とも言えない気持ち悪さを感じていた。
「……!」
けれども最奥に到着した瞬間、恐怖や気持ち悪さなんて、すべて忘れてしまった。それ以上の衝撃と驚きが、私を襲ったからだ。
私の手にした提灯の明かりが、地下室の最奥を照らし出す。封じられた赤い扉。長年、謎を持って私の興味を引き続けていたそこの――封印が解かれている。元祓い屋である水明にも、強力だと謂わしめた札が破かれ、封印が解かれてしまっている!
「おやまあ。派手にやりやしたねえ」
玉樹さんが、楽しげな声を上げている。笑い事じゃないと怒る気力すら沸かない。私は、その場にしゃがみ込むと、床に落ちていたそれを拾った。ミミズがのたくったような呪文が書かれた黄色い紙片からは、何の力も感じない。すると、水明と玉樹さんが何やら話しているのが聞こえてきた。
「これほどの札を、こうも簡単に破るなんて。……よほど、力のあるあやかしの仕業か?」
「さあ。どうでしょうなあ。見るに、あやかし以外には大して効果を表さない札のようですぜ?」
「……つまり、犯人は人間ということか? この世界に、俺たちの他にも人間がいるのか?」
「はて。どう答えたものか。自分で考えてみては?」
「お前は、自分で言うほど親切じゃないな」
「そうですかい? 心外だなあ」
水明の言葉に、玉樹さんが笑っている。何もかも知っている癖に、情報を小出しにするその感じが厭らしい。
そんなふたりを余所に、札の欠片を拾いながら赤い扉に近づく。明かりをかざしてみると、扉自体も壊されていた。鈍器で殴りつけたのだろうか。あちこちが凹み、無残な姿を晒している。
「ねえ、奥から東雲の匂いがする!」
すると、辺りの臭いを嗅いでいたクロが、扉の奥へと向かった。ドキリとして、その後を私も追う。するとそこには、二畳ほどの小さな部屋があった。何もない部屋だ。岩壁に囲まれた、棚も飾りもない部屋だ――そこの奥の壁に、千切れた掛け軸が一幅、下がっていること以外には。
「掛け軸しかないよ? なんで? 東雲はどこにいっちゃったの?」
クロは「くうん」と鼻を鳴らして、不思議そうに首を傾げている。
私は壁にかけられたそれに近づくと、じっと眺めた。
「まさか」
その掛け軸は、一匹の龍を描いたものだった。細長い身体をした龍が、身をくねらせながらゆったりと雲間を泳いでいる水墨画だ。残念なことに、下部はビリビリに破られてしまって、どういう構図だったのか窺い知ることはできない。
「……東雲、さん?」
そっと、掛け軸に描かれた龍に触れる。
墨で描かれたとは思えないほどに、細かく書き込まれた龍は、まるで生きているようだ。鱗一枚、一枚が丁寧に描かれていて、太陽光を反射してきらりきらりと輝きながら空を飛ぶ姿が思い浮かぶよう。長い体をくねらせて飛ぶ様は迫力があって、どれだけ見ていても飽きない。
特にその瞳だ。こちらを睨みつけているような、いや、私の心の奥底を覗き込んでくるような不思議な瞳。そして、透明感のあるその双眸――。思わず、吸い込まれるように見つめる。
そうしていると、水墨画の表面にじわりと色が滲んできた。墨の濃淡で描かれた絵のはずなのに、見る間に色鮮やかに画面が彩られ始める。それは、色鮮やかな黄金。秋の風にそよぐ田園、夕暮れ時の太陽の光なんかを思わせる、眩しい色だ。
「……綺麗」
するとその時だ。ナナシに両目を塞がれてしまった。
「これ以上は見たら駄目よ」
「……どうして?」
視界を塞いでいた手を外して、ナナシに尋ねる。すると、ナナシは少し間を置いてから教えてくれた。
「…………人間がこの掛軸を見すぎるとね、魅了されてしまうの」
「魅了?」
「そう、魅了。この掛軸には不思議な力が籠もっている」
そして、ナナシは小さく首を横に振ると、物憂げに言った。
「これはね、持ち主に幸運をもたらすといわれた、呪いの掛け軸」
「幸運をもたらすのに、呪いなの?」
「ええ、そうよ。この掛け軸の効果を求めて、多くの人間が奪い合い、殺し合った。一時は、この掛け軸が争いを呼ぶとまで謂われたのよ。だから、呪い。東雲は……この掛け軸の付喪神なのよ」
「そう、なんだ」
東雲さんが――付喪神。
そう言えば、娘だ娘だと言いながらも、東雲さんのことをほとんど知らない自分に気がつく。養父がどこから来て、どうしてこの場所に店を持つに到ったのか。それすら知らないでいた。それなのに、娘になりたいだなんておこがましいんじゃないか。
ギュッと手を握りしめる。自分の不甲斐なさを実感してしまって、情けなくて堪らない。
「私、東雲さんのことをもっと知りたいよ」
悔しさのあまり、そう呟くと、ナナシは穏やかに笑って私の肩を抱いた。
「本人に聞けばいいわ。大丈夫。まだアイツは死んでない」
「本当⁉ 下半分がなくなってるけど……大丈夫なんだよね⁉」
「ええ。死んだなら、ここにある分もただじゃすまないはずだもの」
ナナシはそう言って、私を安心させるように大きく頷いてくれた。
嬉しくなって、表情を輝かせる。するとそこに、何かを手にした玉樹さんが入ってきた。玉樹さんはそれを私に渡して、ニヤニヤと厭らしい笑みを浮かべながら言った。
「どうやら、犯人は自分が思っていたとおりの相手のようですぜ。東雲を連れ去った奴は、元人間で決まりだ。それなら、この封印を解くのも容易かったでしょうな。随分と自信満々のようだ。自分を表す花を置いていきやがった。ま、その純真無垢な花と違って、ご本人は随分と歪んじまってるようですがね」
私は手の中のそれに視線を落とした。
それは、穢れひとつ知らないような純白を持っていた。五枚の花弁に、中央には黄色い雄しべが密集している。葉は濃緑で、白い花とのコントラストが美しい。
藪椿……枝ごと手折られたそれは、私の手の中でひっそりと咲き誇っていた。
***
長い……なんて、長い一日だろうと思う。
昨日、焼き芋を一緒に食べようと、東雲さんを待っていたのが随分と昔のことのように思える。ようやく朝を迎えた現し世の空は白み始め、鳥たちは朝日を歓迎するかのように遠くに向かって飛んでいく。空気は透き通り、目覚めを促すように冷たい空気で全身を包んでいる。
貸本屋の地下室で白い藪椿を見つけた後、私たちはすぐに移動を始めた。無言のまま、地獄を通って目的地に向かう。大騒ぎしながら沖縄に向かったあの日が懐かしい。あの時は怖がっていたクロも、水明の腕に抱かれたまま大人しくしていた。
意外だったのは、玉樹さんだ。彼も、文句ひとつ言わずについてきてくれた。何かしら思うところがあるのだろう。普段通りに怪しさ満点ではあるのだが、素直に私たちを目的地まで案内してくれた。
玉樹さんに連れられてやってきたのは、福井県小浜市にある寺院、空印寺だ。大永二年(一五二二)に、若狭守護武田元光が、後瀬山城の山麓に移した若狭守護館の跡地に建っている寺院で、小浜藩主酒井家の菩提寺である。
「ここは、犯人に縁がある場所でね」
玉樹さんはそう言って、ずんずんと寺の敷地内に入っていく。すぐそこに見える小高い山が、後瀬山のようだ。まだ薄暗いながらも、ところどころ赤や黄色に色づいた葉が顔を覗かせているのが見え、様々な色が山を彩っている。
「……」
玉樹さんの後に続きながら、はあと息を吐き出すと、白く煙った吐息が空に溶けていった。
一睡もしていないのに、不思議と眠気は襲ってこない。それくらい、気持ちが張っているということなのだろう。東雲さんが本当に無事なのか。気になるのは、そのことばかりだ。
「夏織、無理しちゃ駄目よ」
そんな私を、ナナシが気遣ってくれている。
――でも、今この時に無理をしなければ、いつするというのだ。
私は曖昧に微笑むと、わざとそれには答えなかった。すると、ナナシは寂しそうに表情を曇らせた。つきりと胸が痛んだが、こればかりは仕方ない。私は……私の東雲さんを助け出さねばならないのだから。
すると、ほどなくして玉樹さんが足を止めた。
そこには、綺麗に整えられた生け垣に木柵が設えてあった。その奥には、山肌にぽっかりと大きな洞窟が口を開けている。すると、洞窟のすぐ傍に人影を見つけて、心臓が跳ねた。
「……あ、違う。人じゃない」
しかし、すぐに見間違いだと気がついて、ホッと胸を撫で下ろす。それは、ある人物を模した石像だった。手に椿らしき花を持っている尼僧の像……それは、朝日に照らされて、ぼんやりと白く光って見えた。それは、誰よりも色白だった彼女を思わせて、また胸が苦しくなってしまった。
――八百比丘尼入定洞。
そこは、人魚の肉を食べて不老不死となってしまった八百比丘尼が、最期の地に選んだ場所だった。




