遠野の山の隠れ家4:養父の夢
「うあー……。できた‼」
東雲さんは、ぐんと両手を伸ばすと、そのまま畳の上に倒れ込んだ。文机の上には、きちんと整えられた原稿の束が載っている。黒と赤のインクで汚れた原稿は、だいぶヨレてしまっていて、まるで東雲さんの一張羅みたいだ。
東雲さんが一段落するまで待っていた私は、畳の上で、気持ちよさそうに寝転んでいる養父の顔を覗き込んだ。
「お疲れ様。ご飯とお風呂、どっちにする?」
「……うおっ⁉」
すると、東雲さんは勢いよく起き上がると、四つん這いで私に迫ってきた。そして、私の顔を両手でがっしりと捕まえると、まじまじと眺めながら言った。
「え? は? 原稿疲れで、幻覚が見えてんのか……?」
「幻覚には触れないでしょ」
「そりゃそうだ」
東雲さんは、手でグニグニと私の顔を弄ると、ニッと白い歯を見せて笑った。
「……ああ。紛れもなく俺の娘だ」
私は胸の奥がムズムズするのを感じながら、乱暴な手付きで東雲さんの手を払った。
「やめてよ。ご飯とお風呂、どっちにするのって聞いたでしょ」
「おー! そういう不機嫌そうな顔も、確かに俺の娘だなァ」
「いい加減にして‼」
「ワハハ‼ 悪いな。じゃあ、飯にする」
私は「まったく、これだから」なんてブツブツ言いながら、東雲さんを囲炉裏に案内した。囲炉裏には火が入れられ、自在鉤には、鉄鍋がぶら下がっている。その中には、白い湯気を上げている汁物が入っていた。
それを見た瞬間、東雲さんは顔を輝かせた。
「お! ひっつみ‼」
「どうせ、しばらく碌なものを食べてないんでしょ。油っこくない方がいいと思って。それに、ここは岩手だしね。せっかくだし、作ってみたんだ」
ひっつみ汁は、岩手県に伝わる郷土料理だ。小麦粉を、耳たぶくらいまでの柔らかさに捏ねた「ひっつみ」を薄く伸ばして、根菜などが入っただし汁で煮込む料理。「手で引きちぎる」ことを、岩手県の方言で「ひっつむ」ということから、こういう名になったらしい。だしや具材が家庭ごとに違うのも特徴で、まさに故郷の味という料理だ。
「東雲さん、普段からお肉ばっかりでしょ? 根菜と茸、たっぷり入れたからね。それとおネギも! 一応、鶏肉も入ってるけど、野菜をメインで食べること」
「……酒は?」
「だぁめ。見るからに疲労困憊しているじゃない。そんな状態で飲んだら、大変なことになるよ」
「ぐぬ……」
くやしそうに歯噛みしている東雲さんを余所に、盛り付けのためにお玉を手にした。
ひっつみは醤油ベースの汁物だ。鰹だしをベースに、みりん、淡口醤油で味付けされたもの。鶏肉や、だしがよく出る根菜や茸が盛りだくさん入っている。結果、汁の中には充分すぎるほどの旨みが溶け出し、渾然一体となって、どこかホッとする味となっている。
「いっぱい食べてね」
お椀にたっぷりの具材を盛って、それから汁を流し込む。醤油に染まった汁の表面で、くるくると鶏油が円を描き、ぼんやりと辺りの光を反射している。醤油のいい匂いが辺りに充満して、容赦なく胃を刺激する。夕食を済ませているはずの自分でさえ、食べたくて仕方がないくらいだ。
囲炉裏の上で、クツクツと鍋が煮立つ音をBGMにして食べる夕食というのも、なかなか乙なものだ。お椀を渡すと、東雲さんは目もとを和らげ、嬉しそうに中身を覗き込んでいる。
「そういや、にゃあは?」
「待ちくたびれちゃって、馬を見てくるって」
「ふうん」
他愛のない会話をしながら、次いで、自分のぶんも用意する。
食べてきたのだし少なめでいいや、なんて思っていると――。
「うめえっ‼」
「うわっ」
急に大声を出されたので、驚きのあまりにお玉を灰の中に落としかける。慌てて握り直して、ホッと一息つくと、じろり、東雲さんを睨みつけた。
「もう! まだ、いただきますしてないでしょ!」
「悪い悪い。そういや、もう何日も温かい汁もんなんて食ってなくて。我慢できなかった」
「子どもじゃあるまいし……」
「いいだろ? 別に」
そして、東雲さんはもうひと口、ひっつみ汁を飲むと、しみじみと言った。
「やっぱり、うめえなあ。夏織の飯が、何よりのご馳走だな」
「…………」
東雲さんは、あち、あちなんて言いながら、だしが染みて茶色くなったひっつみと格闘している。私は、自分もお椀に視線を落とすと、おもむろに口をつけた。
――素材の旨みが複雑に混ざりあい、それを醤油が上手に纏めてくれている。食べごたえがあって、もちもちのひっつみは、まるですいとんみたいで美味しい。うん、美味しくできたと思う。けれど、私にとっては普通の味だ。何故なら、何度も何度も味見をしたから、舌が慣れてしまって今更感動なんてない。
けれど――。
「おかわりくれ‼ ひっつみ多めでな。あと……頼むから鶏肉もサービスしてくれよ」
「……はいはい」
この人は、本当に美味しそうに食べてくれる。私がいないと、ちっとも食べてくれない癖に、一緒に食卓を囲むと、途端に食欲が旺盛になる。
お椀を受け取りながら、にやけないように俯いた。同時に、鼻の奥がツンとしてきた。視界が滲みそうになって、慌てて気を引き締める。
「ああ、うめえなあ。これ、また作ってくれよ」
「うん」
ふたりで囲炉裏を囲んだその時間は、どこまでも優しく、どこまでも温かかった。
「――そうか。ここにいるって、玉樹に聞いたのか」
東雲さんは、ボリボリと頭を掻くと、紫煙をくゆらせながら気まずそうに笑った。
「それにしても、マヨイガにいるだなんて。ここのお家のものを持って帰って、億万長者にでもなるつもり?」
「そうじゃねえよ。それに、この家は借りているだけで、招かれたわけじゃねえ。ここの家のものを持って帰っても、祟られることはあっても恩恵はねえよ。そういうもんだ」
「そうなんだ」
私は、膝の上ににゃあさんを乗せて、その背中を撫でながら東雲さんに尋ねた。
「よかったら、何をしているのか教えてくれない? 理由を知らないまま、留守番ばかりしているのは不安だよ」
すると、東雲さんは一瞬だけ迷っていたようだったが、すぐに立ち上がると、先ほどの部屋から何かを持ってきた。それは、東雲さんが文机で格闘していた原稿の束だった。
「見てみろよ」
「いいの?」
「内容は他言無用だぞ」
恐る恐る、原稿を捲る。
「……これは?」
その内容を目にした瞬間、驚いて東雲さんの顔を見た。
原稿には、私の知っているあやかしの名や、知らないあやかしの名……その住まいや来歴、どういう伝説があるかなどが細かく書かれていた。以前、店で本を貸す代わりに、あやかしたちから聞かせて貰ったエピソードなども盛り込まれている。
すると、東雲さんは照れくさそうにはにかむと、事情を詳しく教えてくれた。
「俺は――俺たちは、幽世版の拾遺集を作ろうと思っているんだ」
「拾遺集?」
「あやかしたちが語ってくれた話を、集めた本だ。これを読めば、幽世じゅうの色んな話を読めるし、ソイツら自身の由来や、伝承を知ることができる。挿絵も入るんだぜ、すげえだろ」
まじまじと改めて原稿を見つめる。確かに、それはすごいかもしれない。現し世にも、あやかしたちの伝承や由来を集めた事典や資料なんかはあるが、「本人」から聞いた生のエピソードを集めたものなんて、面白くないわけがない。内容を紐解けば、あやかしたちが、どういう暮らしをしているかなんてのも知ることができるだろう。これは、文化研究的な意味でも、重要な資料になるのではないか。
「東雲さん。すごい! 幽世発の本だなんて、聞いたことないよ」
「ああ。間違いなく、初の試みだろうな。知り合いの伝手を使って、印刷所の手配もしてある。これができたら、すげえことになるぞ」
そして、東雲さんはやや得意げに語ってくれた。
メディアや流通の発達によって、あやかしの存在が「空想」や「想像」、「虚構」のものであるとされてしまった現し世。大昔、人間たちは、自ら体験したものを「恐怖」と「注意喚起」を含めて世に残してきた。けれども、人間とあやかしの距離は、時代が流れるにつれて離れていった。人はあやかしを信じなくなり、人々はあやかしを目にすることもなくなった。なぜなら、あやかしたちも現し世から幽世へと棲み家を移したからだ。
結果、あやかしの「生」の情報を使った本は、現代では作られなくなってしまった。物語を創ったり、本にしたりするのは人間の為せる技だ。あやかしは記録として遺される方であって、自ら本や物語を創ったりはしない。
「だから、俺らが――あやかし自身が、自分たちの生き様を遺すためにやってやろうってなったんだ。この世から、誰にも知られずにいなくなるあやかしを、少しでも減らすために」
――そう言えば、と思い出す。
あやかしを取り扱った書籍は、うちの店の人気上位に入る。特に鳥山石燕の本は、ひっきりなしに借りていかれる。文章もそう多くないイラストメインの本だから、何故だろうと思っていたのだけれど……そういう理由だったらしい。彼らは、自分たちの生き様を本に見ていたのだ。
東雲さんは、やや渋い顔をすると煙管をひとくち吸った。そして、紫煙を吐き出しながら話を続けた。
「こればっかりは、あやかしにはどうにもならねえ問題だ。そうも思ってた。だが――ある日、玉樹が言ったんだ。変えてやろう。できないなら、できるようになればいい。いや、むしろ……できないと思っているだけなんじゃないか? って」
「あやかしにだって――本を創ったり物語を創ったりできるってこと?」
東雲さんは頷くと、インクで黒ずんでいる自分の手を、じっと見つめて言った。
「それで思い出したんだ。俺……夏織が小さい頃、お前の成長を日記に書いてたんだ。それを引っ張り出して読んだら、意外と面白い。現し世に『育児本』ってあるだろう? 商業作品に比べたら、そりゃ拙いもんかもしれないが、『読み物』っぽい何かになっている気がした。俺は、知らないうちに何かを創り出していたんじゃねえか――?」
更には貸本屋の業務をしているうちに、あやかしたちが、それぞれ面白いエピソードを持っていることに気がついた。彼らは、創作をしているつもりは一切ない。しかし、面白いと思う出来事を覚え、それを友人や家族に語ってコミュニケーションを取っていた。そこには、あやかし個人の嗜好や、相手に面白く思って貰うための工夫がなされ、同じ話をとっても、語り部に寄っては内容が全然違ったりした。
思い返してみると、そういった一連の行動は、大昔に紙が貴重だった頃……人間たちがしていたことと何ら変わらない。
「あやかしだって、実は人間と大差ない。今まで、自分たちで本を作ろうと思わなかっただけじゃねえかってな、そう思ったんだ……」
そのことに気がついた東雲さんは、代金を持ち合わせていないあやかしたちから、エピソードを聞き出して書き残すことにした。そして、それを「原稿」として、玉樹さんに売った。いつか、書き溜めたものを本にするために。
「……嘘。私が物心着いた頃には、代金の代わりに話を聞いたりしてたよね⁉」
「へへ。足掛け十年以上かかってんだぜ、すげえだろ」
東雲さんは、どこか誇らしげに言うと、ぽんと原稿の束の上に手を置いて言った。
「昔、現し世で本が高価だった時代。人間の文学者たちは、多くの人に本を読んでもらおうと、貸本屋を開いたりしたんだぜ。戦時中、空襲警報の合間を縫って人が殺到したらしい。そいつらはな、そのうち貸し出すだけじゃ飽き足らず、本の自費出版を始めたんだ。不思議だよな、気がついたら俺も同じことをしてる。あやかしと人間はまるで違うもんだ。なのに――行き着く先は一緒だった」
すると東雲さんは、やや興奮した口ぶりで語った。
「幽世に棲まうあやかしたちの色んな話が読める本……人気がでねえわけがねえよ! こんな本、現し世にだってねえ。玉樹的に言えば、『にーず』に合致? してるってことだ! 自分の話が載ったあやかしはもちろん、口コミでも評判が広がるにちげえねぇ。そうすりゃ、いっぱい、いっぱい……今より、たくさんのあやかしがこの本を借りに来るだろ?」
「うん」
「そしたらよ、生活も楽になる。お前にアルバイトしてもらう必要もなくなる」
「……え?」
驚きのあまり言葉を失っていると、東雲さんは大きな手で私の頭をくしゃりと撫でた。
「いつまでも、だらしねえ親父じゃいられねえよ。俺も変わらなきゃな。俺は、本を創る。そんでもって、自分だけの稼ぎで娘に飯を食わせられるような、大黒柱になるんだ。娘が自慢できるような、そんな父親に。……夏織、応援してくれるか?」
それは、東雲さんの「夢」だった。
幽世初であり、幽世発の出版物の刊行。
東雲さんは、以前に比べると少しやつれたように見える。けれども、その青灰色の瞳は、キラキラと眩しいくらいに輝いていて、まるで少年みたいだった。
――ああ。胸が震える。東雲さんが自分の夢を叶えようと、一歩踏み出そうとしている‼
私は、頬が熱くなるのを感じながら、激しく頷いた。
脳裏に思い浮かんでいたのは、幼い日に養父とした約束。満天の星空の下、大好きな養父と交わした大切な約束だ。東雲さんは見つけたのだ。大人になってからも、自分がなりたいものを。自分がなるべき「何者か」を。
「……私、応援する。絶対に応援するから!」
「お前には迷惑かけるな」
「そんなことないよ、気にしないで。応援してるから……お義父さん」
笑ってそう言うと、東雲さんは渋い顔を蕩けそうなほどに緩めて、私の首に腕を回してきた。そして、無精髭でジョリジョリになっている顔を私のそれに擦りつけると、楽しそうに笑った。
「ああ。頑張るからな。ぜってぇ、成功させてやる!」
「髭痛い! 痛いってば、刺さるぅぅぅ‼」
腕の中で、必死に東雲さんを遠ざけようと暴れる。
けれども、力の差は歴然としていて、どうにも腕の中から逃れることができなかった。
――ああ、この人の娘で本当に良かった。
心からそう思う。そして、この人の娘でこれからもありたいと思った。娘として支えていきたい。大切にしたい。そのためには――髭の刺さる痛みくらい、我慢するべきだろう。
私は苦く笑うと、東雲さんに体を預けた。……――その時だ。
突然、すぐ側で紙の破れるような音がした。もしかして、暴れすぎて破いてしまったのかと、慌てて原稿に視線を落とす。けれども、東雲さん入魂の原稿は無事で、ホッと胸を撫で下ろした。
「東雲さん、何か破れる音が――……」
東雲さんに声をかけようとして、やめる。何故ならば、私に抱きついていた東雲さんが、ゆっくりと倒れていくのが見えたからだ。頼もしいその腕が、私の首からいとも簡単に外れたのに気がついたからだ。すぐ傍にあった心地いい温もりが、離れていくのを知ってしまったからだ。
「……え?」
――ドスン、と鈍い音がして、板間に東雲さんの体が転がる。知らぬ間に、東雲さんの体に、いくつもの亀裂が入っているのに気がついた。それは、まるで陶器に入ったヒビのような。もしくは……破いた紙を、無理やりつなぎ合わせたような、そんな亀裂。
「かお……かお、り……」
東雲さんは、私にゆっくりと手を伸ばしてきた。状況がまったく理解できず、私も手を伸ばす。けれども、その指先が触れそうになった瞬間、また紙の破ける音が聞こえた。
それはすべてを切り裂くような。鼓膜を強制的に震わせる、いやに不愉快な音。怖くなって、慌てて東雲さんを抱きしめようと手を伸ばした。東雲さんは、青ざめた顔で私をじっと見つめ――。
「だい、じょうぶ。しん、ぱい、するな」
そう言って、東雲さんは私を安心させるように笑った。その次の瞬間、まるで存在自体が幻であったかのようにかき消えてしまった。
――大切な、私を守り育ててくれた養父は。大切にしたいと思ったばかりの養父は。
温もりだけを残して、消えてしまった。
「いや……」
私は自分で自分を抱きしめると、その場に蹲った。何故か、寒くて寒くて堪らない。けれども、自分自身の熱だけでは足りない。あの力強くて、大きくて、頼りになる、私を救ってくれた養父の温もりでなければ、この寒さは拭えない。
「いやああああああああああああああああああ‼」
そのことに気がついた瞬間、私は何も考えることができなくなってしまった。そして、まるで子どもみたいに、大きな声で泣き叫んだ。




