大歩危の爺4:あやかしと本
「えれえ目にあった」
山爺は、ぐったりと地面に座り込むと、恨めしげな視線を私に寄越した。
さっきまで血走っていた瞳の色はすっかり収まり、瞳に理性の光が戻ってきている。どうやら、痛みは収まったらしい。私は、湿布の匂いをぷんぷんさせている山爺へ、お土産で持ってきたお酒を徳利に注いでやった。
「正気になってよかったねえ」
「嫌でも正気に戻るわい。寧ろ、腰の痛みよりも、景気よくぱしーんぱしーんやられるのが、最高に辛かったんだが」
「えー? 貼る時は勢いよくやれって、この間、東雲さんが言っていたんだもの」
「今度あったら、おめえの養父の頭を齧ってええか?」
「どうぞどうぞ」
山爺の顎の力は、猪や猿の頭を簡単に噛み砕いてしまうほど強い。きっと、あの東雲さんも山爺に齧られると思ったら、のんびり寝てはいられないだろう。
私は慌てる養父を想像して笑いを零すと、美味しそうに酒を飲む山爺を眺めた。
そして、ちらりと遠巻きにこちらを見ている水明を見て苦笑を漏らす。彼はまだ、山爺が襲ってきやしないかと、半信半疑のようだ。
すると、山爺は徳利の中身を飲み干すと、徐に口を開いた。
「そう言えば、何をしに来たんだ。こんな遠いところまで。何も、わいの腰の治療に来たんじゃねえだろう?」
「あ! そうだった。小鬼くんがね、本を読んでもらいたいんだって」
「ほおん」
――そう言えば、肝心の小鬼はどこに行ったんだろう。
慌てて辺りを見回す。すると、岩の影に隠れてこちらを覗いている小鬼を見つけた。
「おうい。こっちおいで」
小鬼に向かって手招きしても、ブルブルと震えてこちらに来ようとしない。
どうやら、正気を失った山爺を見るのは初めてだったらしい。山姥と違って普段は大人しく、他人を害することが少ない山爺の豹変ぶりに、驚いてしまったようだ。
すると、岩陰に隠れていた小鬼の体がひょいと持ち上がった。見ると、大きくなったにゃあさんが、小鬼の首根っこを咥えているではないか。
「みぎゃー!」
にゃあさんは、山爺の目の前に、まるで子猫みたいな悲鳴を上げている小鬼をぼとん、と落とした。そして、くるりと踵を返して、何処かへ行ってしまった。
取り残されたのは、恐怖に取り憑かれている非力でか弱い小鬼ひとり。すると、未だブルブル震えている小鬼を、山爺はじっと見下ろすと、乱暴な手付きで藁みたいな頭をワシワシと撫でてやった。
「おお、その本を読んで欲しいのか」
「う、うん……。山爺、もう平気? いつもの山爺? オラをガブガブしない?」
「ああ。しねえさ。どうれ、本を貸しな」
山爺は、体格の割りに大きな手で本を受け取ると、目を細めてそれを眺めた。
「ここは暗すぎる。もう少し奥に、月明かりが差し込む岩場がある。そっちへ行こう」
そう言って、小鬼の手を取ると、小さな体を揺らして岩の裂け目の奥へと進んでいった。
*
先ほどの場所から更に奥に行くと、天井にある裂け目から青白い月の光が差し込む場所があった。周囲が暗いせいもあってか、その場所はまるで舞台のようにぼんやりと浮かび上がり、山爺が本を読み上げる姿は、彼の異質な見かけもあって不思議な雰囲気を醸し出している。
小鬼はそのすぐ横に腰掛けて、本を覗き込んでいた。先ほどの恐怖なんてすっかり忘れてしまったかのように、きらきらした眼差しで山爺を見つめ、頬を上気させている。
山爺というあやかしの特徴として、その大きな声がある。
ひと度山爺が本気で叫べば、天変地異を巻き起こすほどだと言われている。確かに、山爺の声はとても大きい。けれども、今物語を読み上げている山爺の声は、決して煩く感じることはなく、岩場に上手いこと反響して、寧ろ心地よく鼓膜に響いてくるから不思議だ。
目を瞑って、流れ込んでくる物語に浸る。低く、お腹に響くような声。時折、阿波弁混じりで紡がれる物語は、私の鼓膜から脳に響き、広がり、沁みて、溶けていく――。
すると、すぐ隣に水明がやって来た。私は片目だけ開けると、ちらりと水明を見て言った。
「ありがとうね」
「……なにがだ」
私の言葉に、水明は憮然とした表情をしている。
……ああ、こいつは捻くれているぞ、なんて思いながら言葉を続ける。
「湿布。貼ってくれるの手伝ってくれたじゃない」
「そんなこと、手伝いの内に入らないだろう」
「そうかなあ。じゃあ、一緒に来てくれてありがとう」
「お前がついてこいと、無理矢理引っ張ってきたんだろう」
「む。なんだか、水明を褒めるのは難しいねえ」
私は、水明の顔を覗き込みながら、にっと笑った。
「なんか、さっきからずっと不機嫌そうだね。どうしたの?」
「不機嫌? 俺が? そんなことないだろう」
「そうなの?」
すると、水明は小さく肩を竦めると、月明かりの下で本を読むふたりに目を遣った。そして、ぽつりぽつりと話し始めた。
「……俺は祓い屋だ。それも、歴史ある祓い屋一族の跡取りだ。今はこんな体たらくだが、少し前までは仕事を何件も抱えて、沢山のあやかしを祓ってきた」
「へえ。意外」
「お前は、一言多いと言われないか。……まったく。兎にも角にも、俺は祓い屋だ。祓い屋の飯のタネはあやかし。あやかしは祓うもの――人間に仇なす、駆逐するべきもの。そう教えられてきたし、そう思ってもきた。でも、あれは何だ。仇なすどころか、こんなに近くに人間がいると言うのに、本に夢中になっている。物語に浸っている。それも、人間が書いた物語を、だ。あれは、なんなんだ……」
それが余程カルチャーショックだったのか、水明は瞼を伏せて考えこんでしまった。
私はじっと水明の顔を見つめると、徐に頬を指で突いた。
「うっ。……何をする」
「柔らかいほっぺ! 君の頭も、それくらい柔らかくなればいいのにね」
私はにっこりと笑うと、両手で水明の頬をムニムニと抓った。水明は、必死に私の手をほどこうともがくけれど、私は暴れる水明を抑え込み、頬から手を離さずに言った。
「同じ国に住んで、同じ言葉を使って、同じ時間を過ごしている。そんな相手が、どうして同じ物語に惹かれないと思ったの?」
すると、水明は暴れるのを止めて、黙って私の言葉に耳を傾け始めた。私は内心ほくそ笑むと、柔らかいほっぺを思う存分堪能しながら続けた。
「確かに、人間とあやかしじゃあ、価値観は違うよね。体のつくりも、姿形も、生まれも育ちも――全然似ていない。でもさ、生きている場所は一緒でしょう? 目に映る景色は同じだわ。だったら、惹かれるわよ。人間の創り出す物語って、それぐらいパワーに満ち溢れていると思うもの」
私はそう言うと、ほっぺから手を離して、その薄茶色の瞳を覗き込んだ。
「確かに、人間を襲って、祓い屋のお世話になるあやかしもいるね。でも、十把一絡げにして欲しくないな。こういうあやかしがいるってことを、知って欲しい。……それでもって、仲良く出来るならして欲しいんだ。人間にも、あやかしにも」
「……」
すると、水明はゆっくりと首を振った。
「それは難しいだろうな。人間とあやかしは、決定的に違ってしまっている。人間の多くは、自分と違うものに寛容ではない」
「そう。……そうよね。そうだよね」
私はゆっくりと天井を見上げた。
――私だって、あやかしと人間が分け隔てなく過ごせる世界を……なんて、大層な夢は抱いていない。私の目の届く範囲だけでも、あやかしと人間が仲良くしてくれればいいと、そう思っただけだ。でも、そんな小さな願いすら難しい。それが、あやかしと人間の現状なのだろう。
「なかなか、上手くいかないものだねえ」
「……ああ」
ふと、本に夢中になっているあやかしふたりの方に視線を向ける。
岩の割れ目から差し込む月明かりが、ふたりを優しく照らし、包み込んでいる。気がつけば、洞窟の中には沢山のあやかしたちが集まって来ていた。土地柄のせいか、やたら狸のあやかしが多い。
彼らは月明かりの下、物語を語る山爺の声にじっと耳を傾け、身じろぎひとつせずにいる。山爺の語る物語は、彼らを惹き付けて離さない。創り手の人間と、物語を享受しているあやかしの間には、こんなにも深い溝が出来ているというのに、だ。
すると、ぽつりと水明が私の名を呼んだ。
「なあ、夏織」
「なあに、水明」
私も水明の名を呼び返す。
すると、水明はまるで謎掛けみたいなことを言ってきた。
「お前は、なんなんだろうな。人間か? あやかしか?」
私はそれに迷うことなく答えた。だって、それは私が何度も何度も考えたことだからだ。
「……体のつくりは紛れもない人間だよ。でも、心は――心だけはあやかしなのかもしれないね。寧ろ、人間のことの方がわからない。おかしいでしょう? どっちつかずの半端者。それが私」
――ああ、なんだか自己紹介みたいだな。
そう言えば、水明とはまともに自己紹介していなかったかもしれない。
私は手を服で拭うと、さっと水明に向かって差し出した。
「村本 夏織。そんな私だけれど、どうぞよろしく」
すると水明は、一瞬だけ瞳を揺らすと、徐に私の手を握り返した。
「どうも。あやかしに、正体を簡単に見破られる迂闊な祓い屋だ。……いや。元、祓い屋かな。家業は開店休業状態。それが俺だ。名は、白井 水明」
私が「上手いこと言うねえ」と茶化すと、水明は「なんにも上手くない。情けないったらない」と少しだけむくれた。
……ああ、白井 水明と言う人が、少しだけわかった気がする。
この人は、一見すると無表情で無愛想。ぶっきらぼうだし、育ちの良さが窺える。でも、優しくて心配性。目の前で価値観を覆されても、それを受け入れる懐の深さがある。
……それに、妙に掛け合いが心地良い。
私はクスクスと笑うと、冷たい岩壁に寄りかかって目を瞑り、山爺の紡ぐ物語に耳を傾けた。
すると丁度、物語の主人公が大きな岩に躓いて、すってんころりん、肥溜めに落ちてしまった。途端に、あやかしたちからどっと笑いが沸き起こる。私も、主人公の情けない状況を想像して笑ってしまった。ふと、隣を見ると、水明もなんとも言えない表情をしている。
――なんて優しい時間だろう。物語を共有することで生まれるこの時間が、私は大好きだ。
つらつらと、そんなことを思いながら目を瞑る。そして、山爺の紡ぐ物語の世界に、再び入り込んでいった。