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閑話 幻光舞う幽世で、想うは大切な人のこと8

「かあ……さん?」


 みどりとは、俺の母の名だ。


『強く生きなさい。どうしても寂しくなったり、感情を爆発させたくなったら、犬神を抱いて眠るのよ』


 そう言い残して、俺が五歳の時に亡くなった――母の。


「みどり。みどり。起きてよ。みどり‼」


 クロは必死に、鼻の頭で黒い布に包まれた母らしい人の体を揺さぶっている。けれども、その魂は何も反応を返さない。


「ああ、もう‼ みどりは、相変わらずお寝坊さんなんだから‼」


 すると、痺れを切らしたクロは、黒い布を噛むと思い切り引っ張った。すると、そこには――酷くやせ細った女性がひとり、横になって眠っていた。


「……」


 それを見た瞬間、俺は何も考えられなくなった。

 俺の中にある母とは、艷やかな黒い髪を持ち、青白くはあるものの美しい顔をしていた。薄茶色の瞳で優しく俺を見つめていた様を、今もまざまざと思い出せる。


 なのに、目の前の母「らしき」人は、どうだろう?


 顔はやつれ、髪には白髪が混ざっている。唇は割れて乾燥していて、目の周りは落ち窪んでいた。白装束から覗く鎖骨は、酷く浮き上がって見え、今にも儚くなりそうな印象があった。


 ……これが、俺の母なのだろうか。

 本当に、これが?


 頭の中がぐちゃぐちゃになって、どうにも混乱する。美しかった母。大好きだった母。温かく俺を抱きしめてくれた母。母はいつだって俺のすべてを受け止めてくれ、とても強い存在だったのに。


 するとその時だ。女性は薄っすらと瞳を開けると、酷く弱々しい声で言った。


「……ゆ、め……かしら。クロちゃんが見える」

「みどり……‼ 夢じゃないよ。オイラだよ、クロだよ‼」

「フフ。元気いっぱいね。相変わらず可愛い」


 そして、ゴホゴホと何度か咳き込んだその人は、長く細く息を吐いてから微笑んだ。


「魂の終わりに、クロちゃんに会えるなんて。とっても素敵……」


 そしてまた、ゆっくりと目を瞑ってしまった。


 ――ああ。やはり、母だ。この人は、母なんだ。


 それを理解した途端、呼吸が困難になるほどに胸が苦しくなった。思わず、その場に膝をついて胸を押さえる。吐き気がこみ上げてきて、全身から脂汗が噴き出した。視界が揺れて、立っていられない。グルグルと世界が廻っている。自分の体なのに、まるで他人のもののように言うことを聞いてくれない。


「す、水明⁉ 大丈夫⁉」


 すると、クロが駆け寄ってきた。震える手で、その小さな体に手を伸ばして触れる。温かく柔らかなそれに触れると、少し落ち着いてきた。けれども、頭の中にはたくさんの疑問符が浮かんでいた。


 どうして、どうして、どうして、どうして――。

 どうして、母は転生を拒んでいる?


「すい、めい……?」


 すると、クロの声が聞こえたのか、母が声を上げた。

 恐る恐る、横たわっている母に視線を向ける。すると、母は顔だけをこちらに向けて、薄っすらと目を開けていた。


 そこには、記憶にあるとおりの、俺と同じ薄茶色をした瞳があった。

 

「私の、可愛い子がそこにいるの? 本当に……?」

「……あ」


 そして、自分の体を見下ろして愕然とした。

 母の中では、俺はまだ五歳のままらしい。途端に、成長してしまった自分が憎らしくなる。仕方がないとは言え、母の求めている自分じゃないことが腹立たしい。


 自分が、あなたの息子だと名乗り出てもいいものか。

 がっかりされたりしないだろうか。


 そんな想いが浮かんでは消える。すると、そんな俺の迷いとは裏腹に、ぴんと尻尾を立てたクロは、鮮やかなピンク色の舌を出して、やや能天気にも聞こえる声で言った。


「そうだよ! みどり、水明はここにいるよ‼」


 ――ああ、その無邪気さが若干恨めしい。

 思わず眉を顰めると――ふと、母と目が合った。

 母は、まじまじと俺を見ていたかと思うと――途端に、顔をくしゃくしゃにして笑った。


「まあ。こんなに立派になって」


 そして、ゆっくりと両手を広げた。一瞬、その意図がわからずに思考が停止する。けれども、すぐに抱擁を求めているのだと気がついた俺は、ゆっくりと近づいていった。


「――お、かあ……さん?」


 傍らにしゃがみ込み、母を呼んだ。どうにも抱きしめるのは気恥ずかしくて、その手に触れる。……ああ、牢の中で触れたままの手だ。ひんやりとして、ほっそりとして、手触りがいい。その手は、俺の頬をゆっくりと撫でた。優しく、どこまでも優しく。まるで、宝物に触れるように。


「お母さん」

「ああ。奇跡だわ。奇跡が起きたのね。水明……本当に水明なの」

「お母さん」

「こんなに大きくなって。もっと早く気づけばよかった。本を運んでくれたあなたが、私の子だなんて、ちっとも気が付かなかった。暗かったものね、仕方ないわね」

「お母さん……っ‼」


 何を言えばいいかわからなくて。何を話せばいいかなんて、思いつかなくて。ただひたすら、馬鹿みたいに母を呼ぶ。母はどこかおかしそうに、目尻に皺をたくさん作って笑っている。その皺に沿うように、ぽたぽたと透明な雫を滴らせながら。俺に、愛おしそうな視線を向けている。


 すると、母が変なことを言い出した。


「これでもう、心残りはないわ。すっきりした気持ちで、消えていける」


 それを聞いた瞬間、俺は眦を釣り上げた。


「ど、どうして。どうして、お母さんが消えなくちゃいけないんだ。理由がないだろう?」

「フフ。そんなことないわ。理由ならちゃんとあるもの」


 母は、うっすらと目を細めると――どこか苦しげに言った。


「私は、あなたを不幸にしてしまった。それが私の罪。それ以上も、それ以下もないわ。母親が、大事な子どもを守りきれなかった。母親が、子どもに辛い思いをさせた。母親として、傍にいてやれなかった。それだけで充分、次の生を拒む理由になる」


 そして、母は俺の白くなってしまった髪に触れると――また、大粒の涙を零した。


「辛かったわね。苦しかったわね。……人形だなんて。本当にごめんなさい……」


 そして俺をじっと見つめると、更に謝罪の言葉を重ねた。


「あなたを産まない選択もできたの。どう考えたって、あの家に生まれたら幸せになんてならないもの。でも、私は産んだ。可愛い赤ちゃんに会いたかったから。あなたは被害者なのよ。私という人間のエゴの被害者。愚かな母を恨んでね」


 そして、俺の頭を撫でていた手をゆっくりと下ろした。力なく、重力に従って落ちていくそれを、俺は呆然と眺め――けれども、それが落ちきる前に手で受け止めた。母は、何度か目を瞬かせると、驚いたように俺を見つめている。その時、俺はしみじみと感じていた。


 ――俺は『愛されていた』。

 本当に、心から母に『愛されていた』んだ。


 まるで太陽が胸に宿ったように、そこから温かいものが広がっていく。

 あの、座敷牢で聞いた話は、すべて俺のことだったのだ。愛おしかった、大切だったと何度も語ってくれた、あの話の中にいた子どもは――俺自身だった‼


 己のことよりも何よりも、俺という子どものことを一番に考えてくれているこの人が、自分の母であるという事実が、とても誇らしく思えてならない。横たわっている母が、何よりも大切なものに思える。その存在が、たまらなく尊く、狂おしいほどに切ない。


 ――ああ。これが……これが、『愛』するということか。


 俺は、自分の中に湧き上がってきた感情の名を知り、横たわる母に手を伸ばした。そして、そのやせ細った体を強く抱きしめる。母の存在を確かめるように、俺を産み、育ててくれた存在に想いを馳せながら――。


「……俺、今でも覚えているんだ。お母さんの温もり。ほんの僅かだけど、見せてくれた笑顔。柔らかい感じ、いい匂いがしたこと。確かに辛いことも多かったよ。でも、そういう時に思い出したのは、いつだってお母さんのことだった」


 俺は、母を抱く腕を緩めると、驚きの表情を浮かべているその顔を覗き込んだ。


「だから、罪なんていわないでくれ。後悔しないでくれ。……どうか、俺のお母さんを悪く言わないでくれ。俺にとって、かけがえのない大切な人なんだ」

「水明……」

「確かに、俺は不幸だったかもしれない。思い出すのが辛いことも多い。でも、今は――とってもいい仲間に囲まれてるんだ」


 相棒で親友のクロ。世話焼きな夏織。よくわからない部分もあるが、やけにおせっかいなナナシ。俺にやたらと構ってくる金目に銀目。懐深く、俺を貸本屋に居候させてくれた東雲。


 それに、今はもう、あやかしを狩らなくてもいい。危ないことをしなくても、薬屋で収入を得ている。それはなんて、生きやすいのだろう。命を懸けなくとも、生きていけるというこの状況は素晴らしい以外の何ものでもない。


「俺、多分……今が一番幸せなんだ。だから、だからさ」


 喉の奥がひりつく。何故だか、声が上手く出なくなってきた。でも、言わなければ。夏織が言っていた。気持ちを理解したら、きちんと相手に言葉にして伝えなければ。このまま、母とすれ違ってしまうのは、絶対に嫌だ‼


「――生まれ変わって、欲しい。消えたりしないでくれ。子どものわがままを聞いてくれよ、お母さん……‼」


 すると、母は一瞬、大きく目を見開くと――気の抜けたような笑みを浮かべた。


「……転生したら、どこかで水明に再会できるかしら。それもとっても楽しそうね」

「オイラ! オイラだって‼ みどりにまた会うよ‼」

「まあ! フフ、みんな一緒ね」


 後ろ足だけで立ったクロは、両手をぴょこぴょこ動かしてアピールしている。それを見た母は、心からおかしそうに笑った。俺も、微笑みを浮かべて、クロと母のやり取りを見守っていた。けれど、そんな暖かな時間はすぐに終わりを告げた。


 突然、母が虚ろな瞳になったのだ。そして――空をぼんやりと眺めて言った。


「水明。もっとあなたに本を読んであげたかった。たくさん物語を共有して、一緒に笑ったり泣いたり怒ったりしたかった。これからは、自由に生きるのよ。水明が苦しまないように、感情を我慢しちゃ駄目よ。いつでも――自分に素直にいなさい」

「……お母さん? どうしたんだ。そんな、まるで遺言(、、)みたいな」

「それが母の願いよ。水明――辛い時は、犬神を抱いて眠るのよ。そして、できれば――あなたを抱きしめてくれる誰かを見つけなさい」


 その瞬間、母の瞳から一際大きな涙が溢れた。


 ――ぽつん、と俺の手に触れたそれは、やけに温かかった。


「おかあ……」


 思わず、声をかけようと口を開いたその時だ。母の体が、解けた(、、、)

 ほろほろと、体の末端から、まるで絡まっていたリボンが解けるように、崩れていく。そして、崩れた体は端から蝶に姿を変えて、空に向かって飛び立ち始めた。


「駄目だ……。待って、お母さん。待って‼」


 俺は子どもみたいに喚きながら、母の体から飛び去っていく蝶に手を伸ばした。けれども、蝶はひらひらと優雅に宙を舞って、俺の指をすり抜けていく。


 その時、俺は沸々と体の中から激流のようなものがこみ上げてくるのを感じていた。それは、火口から流れるマグマのように俺のすべてを飲み込み、灼熱の炎で燃やし尽くし、塗り替えていく。頭の芯の部分が、じん、と痺れて何も考えられなくなる。その炎の矛先は、自分に向かっていた。自分が……何もできずにいる自分が憎くて、憎くて堪らない……‼


「ふざ、けるな」


 みるみるうちに変わっていく母の体。徐々に軽くなっていくその体に、俺は思わず叫んだ。


「――嫌だ。ふざけるなよ‼ チクショウ。愛しているんだ。愛してるんだよ。お母さん‼ うああああぁあああぁぁあああ‼」


 その瞬間、俺の腕の中にいたはずの母は、大量の蝶と成り果てた。

 強く抱きしめていたはずの体は消え失せ、明かりを撒き散らしながら蝶は空に散っていく。それを知覚した瞬間、俺は呆然と手の中を見つめた。


 ――何もできなかった。喪失感が心の中を占めて、煮えたぎっていた頭を冷やしていく。

 

「……あ……」


 けれど、最後に手の中に残ったものを見た瞬間、俺は小さく声を上げた。


 それは、小さな小さな胎児だった。黄金の光に包まれ、まだ完全に人になりきれていないのにも拘らず、小さな手足を縮めて、目を瞑っている。胎児は、ふわりと宙に浮くと――ゆっくりと、空に向かって昇って行ったのだった。




「珍しいこともあるもんだねェ」


 何も考えられずに呆然としている俺に、いつの間にか傍にいた八百比丘尼は、そう言って笑った。


「母は……どうなったんだ」


 恐る恐る尋ねると、八百比丘尼はニヤリと意味深に笑った。


「自分で考えな。私は優しくないんだ」

「……そうか」


 俺は脱力すると、手をついて足を伸ばし、空を見上げた。

 幽世の空を、大量の蝶が舞っている。群れを成し、大きな帯を形作って飛ぶその様は、何も知らなければ美しくも映るのかもしれない。けれども、それの正体を知ってしまった今、複雑な想いしか浮かんでこない。


 すると、俺に背を向けて去ろうとしていた八百比丘尼が、ちらりとこちらを振り返って言った。


「そうだ。蝶の正体だけどねェ。夏織には内緒にするんだよ」

「……どうしてだ?」


 思わず尋ねると、八百比丘尼は片眉を釣り上げて言った。


「あの人間の娘は、知らなくていいのさ。蝶は蝶のままでいい。昏い幽世を照らす、綺麗な蝶のままでね。男なら、気を遣うことを覚えるんだねェ」

「……そうか」


 俺は頷くと、絶対に口にしないと約束した。そして、満足げに去ろうとしている八百比丘尼に向かって言った。


「お前、優しいんだな」

「はあ⁉ 何いってんだい、馬鹿も休み休み言うんだね‼」


 八百比丘尼は、よほど腹に据えかねたのか、乱暴な足音を立てて去って行った。


「……水明?」


 すると、八百比丘尼と入れ替わりになるように夏織がやってきた。いつもと違う島の様子に困惑しているらしい夏織は、おっかなびっくり、俺に尋ねてきた。


「何かあったの? ナナシに、迎えに行っておいでって言われて来たんだけど」


 そして、今日はいつもよりも更に蝶が多いね、なんて言って空を見上げている。


 ――ああ、俺の傍にいるのは、本当に優しい奴らばかりだ。


 俺は苦く笑うと、慎重に体に力を入れて立ち上がった。空には、今も眩しいほどに町の群れが飛び交っている。俺は、それを見つめると眉を顰めた。


「帰るぞ」

「え? あ……うん。そうだね」


 そして橋へ向かおうとした、その時だ。急に、腕を引かれた。驚いて振り返る。するとそこには、少し迷っているような表情をした夏織がいた。


「……? どうした」

「えっとね。何て言ったらいいかわかんないんだけど」


 夏織は、少し覚悟を決めたような顔になると、おもむろに両手を広げた。


「泣きたい時は、泣いてもいいんだよ」

「……え?」


 困惑している俺に、夏織は言った。


「佐助とはつ(、、)の時のこと、覚えてる? 悲しくて堪らない癖に、泣けなかった私に水明はこう言ってくれたんだ。『悲しんで何が悪い。寂しくて何が悪い。別れを惜しんで何が悪い』……って。だからさ……」


 夏織はゆっくりと俺に近づいて、遠慮がちに抱きしめてきた。そして、どこまでも優しい口調で言った。


「なんとなく、苦しそうだから。今度は私に言わせてね。……『我慢するな、泣け。馬鹿』」

「……っ!」


 ――ああ。胸が苦しくて、切なくて……でも、甘酸っぱくて、心地いい。


 俺は自然と目の奥から溢れてくる雫を、少し不思議に思いながら――ゆっくりと夏織の背中に手を回した。


「水明、頑張ったね。いい子、いい子だね」

「……子ども扱いするな、馬鹿」

「ごめん、ごめん」


 そして、夏織の肩に顔を埋めて、涙が止まるまで抱き合っていた。

 夏織から伝わる温もりは、どこまでも俺の肌に馴染んだ。そのあまりの心地よさに、心の奥にある凝り固まった何かが、ジワジワと溶かされていくようだった。

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