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閑話 幻光舞う幽世で、想うは大切な人のこと7

 女性との穏やかな日々は、あっという間に過ぎていった。

約束の十日目が近づくにつれ、自然と座敷牢への滞在時間が伸びて行った。それくらい、彼女とはたくさんの話をした。それと、ふたりでたくさんの本を読んだ。八百比丘尼から預かった本だけじゃなく、貸本屋にある本をいくつか選んで持ち込んだのだ。


 よくよく考えると、俺は碌に本を読んでこなかった。俺を育てた奴らからすれば、情操教育は余計なものだったからだろう。


女性に本を読んでもらい、それについて語り合う。彼女は、やはり絵本を好んだ。幼児向けの絵本の世界は、不思議で溢れていた。現実ではあり得ないことが、いとも簡単に実現する、どこまでも優しい世界。それは俺の想像力を掻き立て、心を震わせた。

俺は、この時始めて「心が豊かになっていく」という経験をしていた。


そして、最終日。十日目――。


その日は、八百比丘尼から夜に来るように言われていた。

相変わらず、理由は教えてもらえなかった。本当に、あの尼僧は「自分で考えろ」ということを徹底している。どういう理由かはまったくわからなかったが、とりあえずいつものように島に向かった。その日は、やけに空が眩しい日だった。


「……何だ?」


湖のほとりに立って、空を見上げる。秋になると、幽世の空は赤みを増す。それはまるで、空が紅葉するようだ。今日はその色合いが一層強い。星々の光が霞むほどに、空が光を放って地上を赤く染めている。その光景は、どこか心を不安にさせた。


橋を渡って、小島を目指す。

今日は水面が波立っていて、湖の中に沈む屋敷は見えない。俺は、そのことに少し安堵していた。慣れてきたとは言え、あの光景にはまだ馴染まない。それに――どうにも、今日は朝から憂鬱だった。理由はわからない。今日が仕事の最終日だというだけで、特別なことは他に何もないというのに。


すると、橋を渡り終えようとした時だ。

小島が、いつもと様子が違うことに気がついた。


多くの尼僧が、慌ただしく動いている。

その中心にいるのは、八百比丘尼だ。八百比丘尼の指示に従って、尼僧たちがあるものを運んでいる。俺はそれを見た瞬間、背中に冷たいものが伝ったのを感じていた。何故ならば、尼僧たちは明らかに人間を運んでいたからだ。黒い布を頭の先から被せられて、微動だにしない人間たちが、担架に乗せられて次々と運ばれてくる。


「おや、来たのかい」


するとその時、八百比丘尼が声をかけてきた。俺はビクリと身を竦ませると、八百比丘尼に向かって頭を下げた。そして、いつものように……いや、幾分かは早足で女性の下へと向かおうとした。急いだ方がいいと思ったからだ。けれども、俺の前にある人物が立ちはだかった。それは、朱塗りの格子戸の前にいつもいた、面布をつけたあの尼僧だ。


「本日、いつもいらっしゃっていた座敷牢は空でございます」

「……ッ!」


俺は勢いよく八百比丘尼の方を振り返ると、声が震えそうになりながら言った。


「……どこにいる」

「何がだい?」

「あの人は……俺が本を届けていたあの人は、今どこにいる‼︎」


すると、八百比丘尼は無表情のまま、ある場所を指差した。そこは、多くの黒い布をかけられた何かが、粗末な筵の上に転がされている場所だった。俺は次の瞬間には駆け出した。そして、手当たり次第に布を剥ぎ取ろうとした瞬間、「やめな‼︎」と八百比丘尼に制止されてしまった。


「――邪魔するんじゃないよ。馬鹿者め」

「別に邪魔をしようだなんて思っていない」

「アンタのそういう行動が邪魔だって言ってんだ。黙って見ていな。それに――その布を剥ぎ取って、どうしようってんだい。アンタ、相手の顔も知らないだろう?」


俺は、なおも黒布に伸ばそうとした手を止めた。

確かに、俺が知っているのは――……彼女の、声と手だけだ。

すると、俺が動かなくなったのを確認した八百比丘尼は、おもむろに空を見上げた。彼女は、何かの訪れを待っているようだった。


「……何だってんだ」


俺は、どうすればいいかわからなくなって、その場に立ち尽くした。

周囲では、相変わらず尼僧たちが忙しく動き回っている。俺は、ちらりと持参した鞄の中を覗き見た。そこには、女性に渡すはずだった本が入っている。その本は、いつも渡していた本とは意味合いが違うのだと、女性がこっそりと教えてくれたものだった。


何故ならば、それは「子どもが大きくなったら一緒に読みたかった」本だったからだ。


「楽しみにしていたのに」


ぽつりと零してから気付く。楽しみにしていたのは、果たして女性だったのか。それとも、自分だったのだろうか。

するとその時、誰かの悲鳴が聞こえた。


「ああっ……! 駄目。行っては駄目よ‼︎」


その声の主は、ひとりの尼僧だった。その人は筵に膝をつくと、黒い布を手で押さえている。何をしているのかと不思議に思って、その様子を見つめていると――黒い布の中身が、蠢いているのに気がついた。


「――始まった」


すると、それを見た八百比丘尼は、天に向かって人差し指を突きつけて言った。


「今日は、しし座流星群が極大を迎える日だ。星が流れる時――それは、誰かの魂が燃え尽きる時」


――この尼僧は、何を言っている?


意味がわからず、八百比丘尼を凝視する。すると、俺の視線に気がついた八百比丘尼は、片眉を釣り上げて言った。


「この胸糞悪い日に、何も知らない客人がいるってのも、変な話だね。そもそも、アンタは客人じゃない。紛れもない当事者だ。知る権利があるだろう。今日の私は、気分がクサクサしててね。特別に教えてやろうじゃないか――」


そう言って、八百比丘尼は筵の上で横たわる人々を眺めながら言った。


「古来より、流星は不吉なものとされてきた。三国志の時代には、諸葛亮孔明が五丈原の戦いで自分の死を予感した……何て話もある」

「そんなもの、迷信じゃないのか?」

「ハハ。忘れちゃいけないよ。ここは現し世とは別の世界だ。何もかもが違う。幽世では、流星は本当に人の死を伝えるものなのさ。……幽世の空は怖いよ。誰かが力尽きた瞬間を、まざまざと見せつける。そんなもんを弱った魂が目にしたら……気がおかしくなっちまうよ。だから、私は魂たちを湖底にかくまっていた。空から最も遠い、昏い昏い湖底でねェ」


八百比丘尼は、忌々しそうに空を見上げると、チッと舌打ちをした。


「今日は、年に何度かある流星群が地球に最も近づく日だ。弱りきった魂は、問答無用に連れて行かれる。だから、今日を超えられなさそうな人間の魂をここに並べた。これが最後のチャンスだからねェ」


 星が流れるから、誰かが死ぬのか? 誰かが死ぬから、星が流れるのか――? そんな疑問が脳裏を過る。けれども、俺はその質問を飲み込んだ。今、重要なのはそういうことじゃない。今日、多くの人の魂が消えてなくなるということだ。


 すると、八百比丘尼は大きく息を吸った。そして、筵の上に転がされている人間の魂たちに向かって叫んだ。


「もう、充分に休んだだろう‼ いい加減、次の生へ行く覚悟を決めな‼ 今日は星が流れる日だ。このままじゃ、星に連れて行かれちまう。連れて行かれたら――全部、なくなっちまうんだよ。だから、頼む。私たちの話を聞いておくれ」


 けれども、その声に誰も答えはしない。八百比丘尼はくしゃりと顔を顰めると、「ああ、今日は本当に胸糞悪い日だよ」と呟いた。


 その瞬間、上空で一迅の光が走った。それは、空に白い線を引きながら儚く消えていった。するとどうだろう。様子がおかしかった魂に、劇的な変化が表れた。黒い布の中から、ぼんやりと光が漏れ始めた。その光は、徐々に強さを増していき、眩しくて見ていられないほどだ。やがて――ひらりと、黒い布の中から何かが姿を現した。


 ――ひらり、ひらひら。中から現れたのは眩い光を周囲に放つ、霊体の蝶だ。


「……幻光蝶」


 思わず、蝶の名を呼ぶ。するとその声に答えるように、無数の蝶が黒い布の中から現れ、空に向かって飛び去って行った。


「ああっ……‼」

「待って。駄目……っ‼」


 それが合図だったように、周囲から次々と尼僧たちの悲鳴が上がった。やけに周囲が明るくなる。まさか、と慌てて周囲の様子を確認する。すると――あちらこちらで蝶が生まれ、空へと飛び去っていくではないか。蝶たちは宙に舞い上がると、遊ぶようにお互いの周囲を飛び回り、ひとつの群れとなって飛んでいく。蝶が集まり、ひとつの帯のように連なって飛ぶ様は、まるで小さな天の川のようだ。その天の川を追うように、空には幾筋もの星が流れた跡が残っている。


 辺りには、尼僧たちの嗚咽や泣く声が響いている。転生を拒んだ魂たちを、一生懸命に世話してきたらしい尼僧たちは、ポロポロと大粒の涙を溢して、魂の終わりを嘆き悲しんでいる。


「幻光蝶は、魂の成れの果て。明るく光を放ち、燃え尽きるようにして消えていく――。ああ、美しくもなんて胸糞悪い虫だろうねェ」


 八百比丘尼は、次々と数を増やしていく蝶を眺めて、忌々しそうに呟いている。確かに、幻光蝶の正体は衝撃的だ。だが、正直なところ俺はそれどころではなかった。


 ――どうすればいい。


 俺は、焦りを感じていた。

 あの女性もこの場所にいるはずだ。このままでは、あの人まで蝶と成り果ててしまう。しかし、名前も顔も知らない俺に何ができる? 


 そうやって悩んでいる間にも、次から次へと蝶が生まれ、空へと旅立っていく。


「……水明?」


 するとその時、聞き慣れた声が後ろから聞こえた。


「――クロ」


 俺は、泣きそうになりながら、ゆっくりと振り向いた。ちょこんと地面に座ったクロは、俺のことをまじまじと見つめている。


「どうして、ここに?」

「オイラ、やおび……? えっと、あの尼さんに呼ばれたんだ。今日は特別な日で、水明が困るだろうからって手紙を貰って」


 その言葉に酷く驚いて、思わず八百比丘尼を見る。八百比丘尼は、泣き崩れている尼僧の背中を擦ってやっている。


「ねえ、水明。何だかよくわからないことになっているけど、困ってるんだろ? オイラ、役に立てるかなあ」


 つぶらな瞳で、クロは俺のことをじっと見上げている。


 ――ああ。あの自称(、、)優しくない尼僧は、本当に素直じゃない。


 俺は苦く笑うと、クロの前にしゃがみこんだ。


「頼む。クロ……お前に捜して欲しい人がいる」


 そして、ポケットからあるもの取り出した。それは、黒と赤の玉で作られた数珠だ。あの女性から貰った唯一のもの。俺の幸運を願ってくれた、綺麗なお守りだ。すると、クロはそれの匂いを嗅ぐと――ピタリと動きを止めた。


「クロ?」


 思わず声をかける。すると、クロはゆっくりとこちらを見上げて――言った。


「……水明、一体誰と会っていたの?」

「何だって?」


 そして、怒涛の勢いで駆け出した。


「クロ‼ 待て‼」


 クロは、俺の制止も聞かずに弾丸のように飛び出していく。慌ててその後を追う。クロは、風のように駆け抜けると、ある魂の前で立ち止まった。やっとのことで追いついた俺は、その場で微動だにしないクロに声をかけた。


「……クロ? 一体、どうし……」

「水明」


 すると、クロは俺を見上げて言った。


「どうして、ここにみどりがいるの」

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