閑話 幻光舞う幽世で、想うは大切な人のこと5
ぽたん、ぽたんと、どこかで水滴が滴る音がする。軋む音を立てる廊下を裸足で歩きながら、ふと窓の外に目を向けた。すると、外を大きな魚が掠めるように泳いでいった。群れをなしている赤い魚は、ギョロリとまん丸の瞳で俺を睨みつけ、尾を揺らして通り過ぎていく。俺は視線を正面に戻すと、提灯の中で羽ばたいている蝶に視線を落とした。
今、俺がいるのは、湖の下に沈んでいるお屋敷だ。
不思議なことに、この屋敷の中は空気が満ちていて、溺れることはない。
廊下に沿って、ずらりと並んだ座敷牢の奥から、複数の人間の唸り声や叫び声、すすり泣く声が聞こえてくる。座敷牢の奥から、ねっとりと粘ついた視線が絡みついてくるのを感じながら、無言で目的の場所に向かって進む。ぼこん、と歪な音をさせて、時々水泡が湖面に向かって立ち昇っていく。それを聞く度、もしも空気がなくなったなら、なんて嫌な妄想が脳裏を過ぎって、気分が沈む。俺は、少しだけ歩くスピードを早めた。
「おはようございます」
ほどなくして、朱塗りの格子戸の前に到着した。そこには、ひとりの尼僧が立っていた。その尼僧は、何故か神事で使われる面布を着けて、顔が見えないようにしていた。座敷牢の住民たちを世話している尼僧は、みんなそうやって顔を隠している。そのことに意味があるのだろうか。
不思議に思っていると、格子戸を開けた尼僧は、俺にいつもと変わらぬ台詞を投げかけてきた。
「この先、明かりはご遠慮ください。それと、牢の住人とは必要以上に親しくなりませんよう。名を聞いたり教えたりはもってのほか」
「わかっている」
「ゆめゆめ、このことを忘れませんよう……」
提灯を尼僧に渡して、中に一歩足を踏み入れる。この先にあるのは、島をくり抜いて造った座敷牢だ。そこには、一切の光が差し込まず、濃密な闇に沈んでいる。けれども、天井に発光する苔がびっしりと生えているから、目が慣れてくるとそれほど暗くは感じない。細く、長く奥まで続いている廊下の両側には、ずらりと座敷牢が並んでいる。この辺りの座敷牢には、目的の場所以外には住民がいないのもあって、辺りは静寂に包まれている。
すると程なくして、ようやく目的の座敷牢に到着した。
天井の苔の光は、牢の奥までは届かないようだ。格子戸の向こうは、墨で塗りつぶされてしまったようで、まったく中の様子は窺い知れない。
「――いらっしゃい。今日もきてくれたのね」
俺が近づくと、座敷牢の奥から女性の声が聞こえた。
女性は、白い手を牢の中から外に伸ばすと、早くと言わんばかりに手招きをした。ほっそりとしたその腕は、血が通っているようには思えないほど白く、幾筋もの血管が浮き上がっている。けれども、小さな手のひらから伸びる長細い指は、如何にも女性らしく、たおやかだ。
俺は、その手に持参した薬と本を握らせた。そして、本のタイトルを告げる。すると、その手はするりと座敷牢の向こうに消えて行った。
「まあ。懐かしいわ」
クスクスと、女性の笑い声が聞こえる。その人は、しばらく本を捲っていたかと思うと、優しい声でそれを読み上げ始めた。
女性の声が、座敷牢の中に響いていく。俺はそれに耳を傾けながら、ゆっくりと目を瞑った。女性と過ごす時間は、酷く穏やかだ。それが、もう三日も続いている。
八百比丘尼から依頼を受けたのは、ある魂の救済の手伝いだった。
その人を救うために、八百比丘尼が用意したのは数冊の絵本だった。それは子ども向けというよりは幼児向けの絵本で、赤ん坊に母親が読み聞かせるようなものが大半だった。八百比丘尼から、それを一冊ずつ、十日かけて届けて欲しいと依頼されたのだ。
同時に、薬屋で調合した薬も一緒に持っていくようにと言われていた。
提示された報酬は、仕事内容に比べると破格であったと思う。
もちろん、こういう仕事を依頼されたことはナナシにも報告してある。十日ともなると、決して短い期間ではない。初めは渋い顔をされるかと思ったが、ナナシは快く賛成してくれた。
『じゃあ、その間は薬屋のお仕事はお休みでいいわ。せっかく依頼を受けたんだもの、きちんとやり遂げてくるのよ』
――本と薬を届けるだけ。なんて楽な仕事だろうと思う。
ここ最近の寝不足もあって疲れていた俺は、これ幸いとのんびり過ごすことに決めた。
「私ね、子どもがいたのよ。妊娠中ずっとずっと、きちんと親になれるかしらって不安だったのよ。でもね、産まれたての、まるでお猿さんみたいなわが子を見た瞬間、笑っちゃった。ああ、この子は私の子どもだわって、本能で理解したのね」
「……そうか」
その人は、本を受け取るたびに子どものことを話してくれた。その語り口は、どこまでも優しく、温かい何かで溢れている。
「もちろん、育児で疲れ切った時もあったわ。夜なんて、授乳のために二時間おきに起こされるのよ。ゆっくり寝たいって、何度思ったことか。でもね、ふわふわのわが子を抱きしめて、乳臭い匂いを胸いっぱいに吸うの。そしたら、何だかやる気が出たのよね。フフ。面白いでしょう」
「赤ん坊が近くにいたことがないから、よくわからない」
「あら! それは人生損しているわ。どこかで小さな子を見かけたら、匂いを嗅がせて貰いなさい」
「……そんなの、ただの不審者じゃないか」
すると、女性は「確かにそうね」とコロコロと笑った。
「この本は、縁側で虫の声を聞きながら読んだわ。真っ赤な丸に、白い丸。風船の丸に、虫食いの林檎。ちっちゃな手が、興味深そうに絵に触れるのよ。大人の私から見ると、ただの色のついた丸なのにね。……あの時、あの子の目には、この絵はどういう風に映っていたのかしら」
女性と過ごす時間は、ゆっくり流れているように感じた。時々、ボコンと歪な音をさせて、水泡が湖面に浮かび上がる音が遠くから聞こえるだけで、奥まった昏い座敷牢に響いていたのは、女性の声だけだったからだ。
――俺の母親も、こんな風にわが子を想っていたのだろうか?
女性と話していると、時折、そんなことを思う。同時に、どうにもやるせない気持ちになって、胸が苦しくなる。もう、いなくなってしまった人だ。二度と会えない人だ。けれど、あの温かさを思い出すと、切なくて苦しくて泣きたくて――会いたくなって。
誰かを、強く抱きしめたくなる。
これは――この感情は、何という名を持つのだろう。この、くすぐったくて、苦くて、けれどもずっと感じていたいような、この感情。
こんなものが、俺の中にあっただなんて、意外だった。
すると、女性は少し弾んだ声でこう言った。
「ねえ――見えないけれど、何となくあなたが笑っているような気がするわ」
「どうしてそう思う?」
「あなたの纏う空気が、ちょっぴり柔らかくなったと思ったのよ」
「そうか」
この仕事を受けてよかった。何も見えない暗闇の中というのは、自分に向き合うのに最適だった。あの時、怒りを覚えることができなかった自分にも、きちんと感情があるのか再確認するにはもってこいだったからだ。
それに――。
こんなに深い、昏い場所にいたら、俺を操ろうとする「糸」も、きっと届かないだろうから。ここにいる間は、自由な自分でいられる気がした。
俺は、暗闇の中で名も知らぬ女性と話をしながら、これからも人間であろうと――必死で、自分の心と感情に向き合っていた。
女性と別れた俺は、座敷牢の中から本堂に繋がる梯子を昇った。そして、重い金属の扉を押し開けて、外に出た。新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んで、おもむろに空を見上げる。幽世の空は、相変わらず昏いままだ。そこを、光を放つ蝶の群れがゆっくりと飛んでいる。パタパタと楽しげに空を舞う蝶たちは、気の向くまま風の吹くまま、自由を満喫していた。
「水明!」
「……夏織」
するとそこに、夏織が駆け寄ってきた。夏織は俺の隣に並ぶと、「一緒に帰ろう」と声をかけてきた。
「注文の本を届けにきたんだけどさ。もうすぐ水明もくるよって、八百比丘尼が教えてくれたんだ」
「そうか」
「お仕事は順調?」
「届け物をするだけだからな」
「そっか」
夏織は、それは良かったと笑みを浮かべている。ふたりで、他愛のない話をしながら、湖岸と島を繋いでいる橋を渡る。夏織と過ごす時間は、あの女性と過ごす時間と同じくらいに穏やかなものだ。
「なあ。夏織は――自分の母親のことを覚えているのか」
何となく、そんなことを尋ねる。すると、夏織は一瞬驚いたような顔して、それから少し寂しそうに眉を下げた。
「ううん、覚えてない。物心つく前に幽世に迷い込んじゃったからね」
「そうか」
「どうして、急にそんなこと聞くの?」
夏織は、足を止めて不思議そうにこちらを見ている。話していいものかと、一瞬だけ躊躇する。けれども、初めに話題を振ったのは自分だ。心を決めて、口を開いた。
「今、薬と本を運んでいる相手がな、よく自分の子どもの話をするんだ。何というか……すごく嬉しそうに」
「へえ」
「その話を聞いていると、どうも死んだ母のことを思い出すんだ。すると……この辺りが」
トン、と人差し指で自分の胸を叩く。そして、言葉を続けた。
「苦しくなったり、温かくなったり……変な感じになる。何らかの感情なんだろうが、これの正体がわからなくて、困っている」
すると、夏織は何度か目を瞬くと――途端に、プッと勢いよく噴き出した。そして、お腹を抱えてケラケラと笑い出した。何となくムッとして、夏織を睨む。すると、目の端に浮かんだ涙を拭った夏織は、腰に手を当てて――少し気取った様子で言った。
「それは『愛』だね。『愛』‼」
「――『愛』?」
「そう。誰かを好きになったりとか、大切に思ったりする気持ちの『素』だよ。とっても、大切な気持ち」
そして、夏織はにっこりと笑うと「水明は、お母さんを愛していたんだね」と言った。
「……そうなのか?」
そっと、自分の胸に手を当てる。今も、母のことを想うと、ジワジワと熱を持った何かが広がっていく感覚がある。俺は母を愛していたのか? そして、母も――俺を、愛してくれていたのだろうか。
「……いまいち、よくわからないな」
思わず首を捻ると、夏織は「気にすることはないよ」と教えてくれた。
「愛されているかどうかなんて、相手が傍にいたって、わからないことの方が多いよ。『愛』ってさ、与えられることが当たり前になると、ついつい忘れちゃうものなんだよ。誰もが欲しがるのに、すっかり忘れるの。それで喧嘩したり、すれ違ったりするわけ。変だよねえ」
――なるほど。「愛」とは中々複雑なものらしい。
夏織は、俺に背を向けると湖を眺めながら言った。
「だから、相手を『好き』だとか『大切にしたい』って思ったら、きちんと気持ちを伝えなきゃって思う。お互いに気持ちを常に伝えあっていれば、忘れたりしないと思うからさ。言葉にするのって、大事だよね。気持ちや感情は目に見えないからね」
そして、夏織は大きく伸びをすると、言った。
「あー! 私も最近、東雲さんに言ってないかも。お義父さん、ありがとうー! 美味しいご飯をお腹いっぱい食べたいから、もっと稼いでくれー‼ って」
夏織は少し戯けて笑うと、ひとりケラケラ笑い始めた。
楽しそうな夏織を眺めながら、小さく肩を竦める。
「それは違うんじゃないか?」
「かなあ?」
俺がそう言うと、上機嫌な夏織は、やけに軽やかな足取りで橋の上を歩いている。
――つまりは、胸が苦しくなったり、温かくなるのはそういう感情を伴う反応なのか。
人間とは――いや、心とは、中々複雑にできているのだなと感心していると、ふとあることを思い出した。
「夏織、聞いてもいいか?」
「……わ、どうしたの。水明」
夏織を呼び止めて、その手を掴む。俺よりも体温が高いらしい夏織の手は、手の中にすっぽりと収まるほどに小さく、同じ人間のものとは思えないほどに柔らかい。じっと、夏織を見つめる。三つ歳上の夏織は、俺よりほんの少し背が高い。それがちょっと不満だった。
俺は、驚きの表情を浮かべている夏織に、おもむろに尋ねた。
「お前といると、胸の辺りが変だ。……これも『愛』って奴なのか?」
「はあっ⁉」
「先ほどのお前の話だと、どうもそういうことになるようだが」
すると、夏織は途端に慌てだした。顔を真っ赤に染めて、辺りをキョロキョロ見回し、握った手に汗を滲ませている。俺は、そんな夏織を見ながら、やはり胸の辺りが異常な反応を起こしているのを実感していた。
――つまり、俺は……。
俺が、脳内で結論を出そうとしたその時だ。夏織は、勢いよく俺の手を払いのけると、いやに興奮した様子で言った。
「せっ……説明が足りなかったね⁉ ええと、そういうのにも色々ありましてね⁉ たぶん水明のソレは、えっと……年上のお姉さんに対する、少年の淡い憧れ的な奴だと思うんだよね‼」
「お……ねえさん? お前が?」
「そう‼ お姉さん‼ もしくは、心肺の異常‼ 病院案件‼」
夏織は勢いよくそう言うと、ジリジリと俺から距離を取った。そして、酷く動揺した様子で片手を上げて言った。
「じゃ……じゃっ‼ そういうことで‼ 夏織お姉さんの相談室は、終了! さよなら‼」
そして夏織は踵を返すと、とんでもない勢いで走り去っていった。
その後姿を見送った俺は、小さく首を傾げた。
――なるほど。この胸のもどかしい感じは、また違うものらしい。
「難しい……」
俺は幽世の空を見上げると、深くため息をついた。




