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閑話 幻光舞う幽世で、想うは大切な人のこと3

 ――翌朝。俺はクロと共に、貸本屋のふたりと町はずれで合流した。夏織の親友の黒猫は、虎くらいの大きさに変化していて、その背中には大量の本が入った風呂敷を背負っていた。どうやら、それを届けに行くらしい。


「水明、おはよ。蝶避けの薬飲んできた?」

「ああ、飲んできた。また地獄を通っていくのか?」

「ううん。今日行くところ、そんなに遠くないんだ」

「……そうか」


 俺は小さく頷くと、腰に巻いたポーチに軽く触れた。そこには、戦闘用のナイフや護符が入っている。有事の際は、これを使ってクロと一緒に戦うつもりだ。とはいえ、これくらいの装備は普段からしていた。あやかしたちが跋扈するこの世界で、丸腰で過ごすなんて有り得ないからだ。今回は、ありったけの護符を持ってきている。それに、クロもいる。余程のことがない限り、最悪の状況は回避できるだろう。


「祓い屋は廃業したが……まだ腕は鈍ってないはず」

「ん? 水明、何か言った?」

「いや。何でもない」


 俺は、不思議そうに首を傾げた夏織に向かって首を振ると、目的地に向かって歩き始めた。




 そこは、幽世の町からそれほど離れていなかった。町から出て、三十分ほど進んだところに鬱蒼とした森がある。夏織が向かっていたのは、その森の中にある大きな湖だった。


「ああ、綺麗だなあ。水明も、そう思うでしょ?」


 その場所に到着した途端、夏織は自慢げに笑った。


 今日は風がなく、湖はどこまでも凪いでいる。磨かれた鏡のような水面には、赤みがかった幽世の秋の空が映し出され、空の色が微妙に変わるたびに水面もまた新しい色を映し出す。湖の中央には小島があり、何か建物が見える。島には、明かりを多く設置しているのだろうか。その小島だけ、周囲に比べるとやけに明るい。そこに向かって、湖岸から赤い橋がかかっている。


 見渡す限り湖面が広がっていて、まるで海のようだ。昏いせいか、水平線がまるで空と繋がっているようにも見える。ひと続きの空と湖。そこに浮かぶ無数の星々。それはまるで、星空に囲まれているようだった。――ああ、なるほど。確かにこれは美しいかもしれない。


……しかし、美しさと安全は別の話だ。

一見すると問題ないように見えるが、橋を渡っている間に、水中や空中から襲われたらひとたまりもない。これは、慎重に行かないと。そう思って夏織に声をかけた。


「気をつけろよ」

「橋から落ちたりしないよ~! 子どもじゃあるまいし!」


 そういう意味じゃない、と心の中で思いながらも、素人にはわからないかとため息をつく。何の警戒をすることもなく歩き出した夏織の後ろを、周囲に気を配りながら進む。


 京都にある渡月橋を思わせる橋は、なかなかしっかりした造りをしている。足音が橋の内部に響くと、太鼓を思わせる軽快な音に変わり、トントンと楽しげな音が辺りに響く。


 すると、随分先を歩いていた黒猫に、息を切らした夏織が叫んだ。


「にゃあさん、もうちょっとゆっくり歩いてよ。追いつけない!」

「――嫌よ。あたし、先に行ってるわ。最近、荷物運びばっかりで疲れてるのよ」


 どうやら、黒猫は早く荷物を下ろしたくて仕方がないらしい。俺たちを置いて、ひとりでさっさと橋を渡ってしまった。


「もう、にゃあさんったら。自分勝手なんだから」


 夏織は、いつものことと諦めたようだ。大きくため息をつくと、マイペースに橋を渡り始めた。するとその時だ。先行していたクロが、驚いたような声を上げた。


「わ、何これ……」


 クロは、橋の上から湖の中を覗き込んでいる。

 釣られて、俺も湖の中に視線を向けた。


 湖は随分と透明度が高いようだった。かなり深さがあると思われるのに、湖底までしっかりと見える。ゆらゆらと揺れる水草。群れをなしている魚は、まるで金魚のように尾が長く、鮮やかな赤色をしていた。


「……嘘だろ?」


 魚たちの群れ。その向こうに、水中には絶対にあり得ないものが見えた。それが何かを理解した瞬間、俺は思わず声を漏らした。


 透明度の高い湖――その湖底に、巨大な平屋建てのお屋敷があった。それは、常識的に考えれば、かなり奇妙な造りをしていた。何故ならば、模型のように屋根がなく、室内が丸見えだったからだ。それだけを見れば、まるでアクアリウムのオーナメントのように思えた。


 けれども、それは明らかに飾りではなかった。巨大なお屋敷には、無数の個室があった。畳敷きの、寝具が置かれただけのシンプルな部屋だ。そこには――白装束を着た人間が大勢いたのだ。多くの人間たちは、ぐったりと目を瞑り横たわって、微動だにしない。顔色も随分と悪いように見える。やせ細った者も多い。目を覚ましている者は、膝を抱えて体を縮こませていたり、ぼんやりとどこかを見つめている。


 その部屋には、あまり見慣れないものがあった。それは格子戸だ。木製の、壁一面を占めるほどの大きな大きな格子戸――。


 そういうものがある部屋を、一般的にはこう呼ぶ。

 ――「座敷牢」だ。


 俺は、全身に鳥肌が立つのを感じていた。まるで、目にしてはいけないものを見てしまったような――そんな恐怖に囚われ、足がすくむ。


 見間違いじゃないかと、目を擦る。こんな場所に、人間がいるはずがない。俺は夢でも見ているのだろうか……? 確かに、ここ最近は寝不足が続いていた。そのせいで、現し世の幻でも見ているのかもしれない。

 すると、ふっと眼前を幻光蝶が通り過ぎて行った。


 ――ああ、ここは幽世だ。

 そのことをしみじみと実感して、同時に底知れない気持ち悪さを感じた。

 ならば、あれは何だ。あの人間たちは、何故ここにいる? ――どうして、湖底などに閉じ込められている?


 その瞬間、俺の中で何かが繋がった。


 ――そうだ。そうだった。幽世は、あやかしたちが跋扈する世界だ。現し世と似ているようで、まるで違う。おどろおどろしい異形たちが棲む世界。

 この世界に棲むあやかしには――人間を好んで食らう者も多い。


「夏織」

「ん? なあに」

「これは――……これは、何だ?」

「え?」


 背中に冷たいものが伝うのを感じながら、恐る恐る夏織に尋ねる。

 夏織は、キョトンと俺を見つめている。それは、まるで何もわかっていない顔だった。


「お前はこれを見てもなお、この風景が美しいというのか」


 震えそうになりながら、湖の下に広がる光景を指差す。すると、夏織は小さく首を傾げると、いつものように笑った(、、、)

 

「綺麗じゃない? 湖に沈む屋敷なんて、他じゃ見られないし」

「……っ」


 それを聞いた途端、俺は数歩後退った。

 すると、素早く俺の足もとにクロが駆け寄ってきた。頭を低くしたクロは、喉の奥で唸り声を上げている。


 ――なんだこれは。なんだ、コイツ(、、、)は!


 怖気が走り、思わず腰のポーチに手を添える。夏織が得体の知れない何かに思える。幽世で育った夏織は、時に驚くような行動に出ることがある。育った場所が違えば、常識も違うのは当たり前のことだ。価値観にズレが出ることなんて、同じ日本人ですらままある。世の中には、カルチャーショックなんて言葉があるくらいだ。


 何せここは、あやかしの世界だ。だからきっと、俺の知らないことなんて山ほどあるに違いない。けれど――弱った人間を、まるで家畜のように部屋に閉じ込めているコレ(、、)は。コレ(、、)だけは、受け入れられない……‼


「水明……? クロ?」


 ……ああ、目の前にいるコイツは一体、何なんだ。

 さっきまでは、とても近い存在のようだったのに、今はまったくそう思えない。俺の理解の範疇外にいる、これは。

 俺と同じ人間のはずなのに、よくわからないこいつは――……?


 ――『化け物』。

 一瞬、そんな単語が浮かんで、息を呑んだ。そして、そんなことを考えた自分に驚きを隠せなかった。俺は一体、何を考えているんだ。夏織相手に――何を。


「え? どうしたの⁉ ふたりとも」


 すると、俺たちの様子に困惑したのか、夏織がこちらに手を伸ばしてきた。

 俺は、思わず一歩後ろに下がった。すると、夏織は酷く傷つけられたような顔になった。


「……あ」


 夏織が悲しそうな顔をしているのを見て、胸が痛んだ。傷つけたのは俺なのに、どうしてか胸がジクジクと痛む。その時、自分がどうしようもない間違いを起こしたことに気がついた。相手のことがよくわからないからと拒絶するだなんて、それじゃまるで、俺を「恐怖」と「嫌悪」の眼差しで見つめていた奴らと何も変わらないじゃないか。


「あらまあ」


 するとその時、呆れの混じったような声が聞こえた。夏織の後ろから、誰かが橋をこちらに向かって歩いてきている。俺は、素早くポーチから護符を取り出すと、相手にバレないように手のひらの中に握り込んだ。夏織は、ゆっくりと振り返ると……相手の名を呼んだ。


八百比丘尼(やおびくに)

「随分と面白いことになっているねェ。夏織」


 その人は、湖の中央にある小島からやってきたようだった。

 尼僧頭巾を被り、白い袈裟に紫色の絡子を首から下げている。右手には、凝った意匠の煙管を握り、同時に長い数珠を手首に絡ませていた。尼と言えば、どちらかというと老齢のイメージがある。けれども、そこにいたのは美しい容姿を持った若々しい女性だった。


「アンタ、ここは初めてかい? ここの『異様さ』は、初めて見た奴にしかわからないだろうねェ。慣れというのは、怖いもんだよ。フフ、フフフ。普通、見知らぬものや理解が難しいものを目にしたら、誰しも少なからず恐怖を抱くものさ。困惑するのも仕方がない。だから、私はこう思っている。新しいものとなんて出会わない方がいい。自分の知っているものの中で生きた方が楽だし、諍いもないだろう? ねェ?」


 のらりくらりとした、どこか癖のある口調の八百比丘尼は、煙管を口に咥えると、ふう、と白い煙を吹き出して言った。


「ま、アンタがどんな誤解をしようが勝手だがねェ、夏織に免じて説明してやろう。この場所はね、アンタが考えているようなところじゃない。ここは、傷つき過ぎた魂が休む場所。生きてる人間なんて、ひとりもいない。このご時世、病んでいる人間が多くてねェ。あんな形で魂を管理している。別に――食おうだなんて、思っちゃいないよ」


 八百比丘尼はそこまで言い終わると、くるりと小島の方へと体の向きを変えた。そして、くつくつと喉の奥で笑った。


「寛げるほど綺麗な場所じゃないけどねェ。ゆっくりしていきなよ。少年」




 橋を渡り終えた向こうには、また見慣れない光景が広がっていた。あまり大きくない島じゅうに、木片で作られた卒塔婆が無造作に突き刺さっている。それはまるで、誕生日ケーキに雑に挿した蝋燭のようだ。


 小島の中央にあるのは、無計画に増築を繰り返したような本堂だ。二重三重に重なるように建てられた本堂は酷く歪だ。正面にある扉は閉め切られていて、中にどんな仏像が安置されているのかわからない。――いや、その中に、祈りを捧げるための対象は本当に存在するのだろうか? もしいたとしても、それそのものが本堂のように歪んでしまっているのではないかと想像してしまうほどには、その建物はただならぬ雰囲気を醸し出していた。


 そして、その島で何よりも特徴的だったのが、蝶の多さだ。

 本堂の屋根にも、その傍に生えている大柳の葉にも、地面にも、卒塔婆にも、あらゆる場所に幻光蝶が止まっている。夏織が、蝶避けの薬を必要とした理由がわかる。万が一にでも、ここに生身の人間が迷い込めば、集まってくる蝶で窒息死しかねない。


 島には、灯籠などの明かりは一切設置されていない。蝶の放つ明かりだけで充分だからだろう。あらゆる場所で翅を休めている蝶たちは、静かに辺りに光を放っていた。


 ――昏い昏い幽世で、無数の蝶が集う小島。蝶たちは、小さな影すら塗りつぶさんとするように、辺りに強い光を放ち続け、島を取り巻く湖には、数え切れないほどの座敷牢が沈んでいる。そこはあやかしの世界でも「異様」で「異端」だ。そんな場所が、人間の魂の休息所なのだという。


 そして、「異様」で「異端」、まるきり普通じゃない場所を管理しているのが、八百比丘尼……()人間の尼僧。かつて人魚の肉を食べて、不老不死となってしまった女性だった。


 俺は、橋を渡り終えるなり、夏織に謝罪をした。


「夏織。すまなかった」

「ううん。説明をしなかった私も悪いよ。私にとっては当たり前の光景だったから、知らない人が見たらどう思うかなんて、考えもしなかった」


 すると、安堵の表情を浮かべた夏織は、自分の胸に手を当てて言った。


「でも、びっくりした。水明が、突然知らない人を見るような目で見てくるんだもん。どうしようかと思っちゃった」

「本当に、悪かったと思ってる」

「あ、責めてるわけじゃないんだよ。勘違いって誰にでもあるよ、気にしないで」


 夏織は少し慌てたように手を振ると、「にゃあさんはどこに行ったんだろう」と、辺りを見回し始めた。俺は、続けて口にしようとした謝罪の言葉をぐっと飲み込んで、夏織の後ろ姿を見つめる。価値観が違うと感じた途端に拒絶反応を起こした自分が情けなくて、言い訳を並べたい衝動を必死に堪える。


 ――自分がされて嫌だったことを、相手にもしてしまうなんて。


 夏織は、気丈にも明るい態度で接してくれている。けれど、きっと傷ついたはずだ。俺は、唇を強く噛みしめると、二度と繰り返すまいと心に誓った。


「なあ、夏織。この場所のことをもっと教えてくれないか」


 まずは相手を理解することだ。深く知れば、意味もなく恐怖を抱くことはなくなる。すると、ほんの僅かな間、夏織は俺をきょとんと見つめていたかと思うと――会心の笑顔を見せた。


「……っ」


 ……ああ、まただ。

 心臓が鷲掴みにされたように苦しい。鼓動が自然と早くなっている。これは、一体どういうことなのだろう。夏織の笑顔には、何か特別な効果でもあるのだろうか?


 こっそりと首を傾げていると、当の夏織は、少し戯けたような口ぶりで話し始めた。


「じゃあ、幽世初心者な水明くんに、お姉さんが説明してあげよう。魂は廻ってる。死んだとしても、また新しい生が待っているんだよ」


 そう言って、夏織はかつて八百比丘尼から教えてもらったという話をしてくれた。それは輪廻転生と呼ばれ、亡くなった後の魂が、何度も生まれ変わるという考え方だ。その考えは、多くの宗教で取り入れられているが、夏織が教わったのは仏教の教えのようだった。

 

「人間はね、死んだら六道――天・人間・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄の世界に生まれ変わるって言われているんだって。確実に人間になるわけじゃないけど、何かしらに生まれ変わるんだね。ここにいるのは、すぐにでも転生できるはずの魂なんだ。でも――この人たちは、それに耐えられるだけの力が残ってない」

「残っていない? どういうことだ?」


 すると、夏織の話を引き継いで、八百比丘尼が話し始めた。


「生きているうちに、心をすり減らし過ぎたのさ。ほんと、今の現し世はどうなってんのかねェ。新しい生なんていらない。このまま消え去りたい――そういう魂が増えている。そういうのを無理矢理転生させると、歪に生まれてしまう。だから、ここで休ませているってわけさ」


 八百比丘尼はやれやれと肩を竦めると、煙管を咥えて笑った。


「そいつらの尻を叩いて、回復させる。それが私の仕事。知ってるかい? 魂ってねェ、何にも縛られることはないんだ。するっと何でも通り抜けられるんだよ。あの座敷牢は形だけさ。あいつらは、出ていこうと思ったらすぐにでも出ていける。そもそも、天井がないんだ。牢の意味がない」


 ぐったりとして、微動だにしない人間たちを思い出す。すぐに出ていける場所から、出てこない人々。彼らを囚えているのは、きっと彼ら自身の心だ。


「その魂を救う手伝いに、私たちがきたのよ」


 すると俺たちの前に、どこからか黒猫が飛び降りてきた。どうやら、本堂の屋根の上で、居眠りしていたらしい。ふわ、と大あくびした黒猫は、夏織の前で体勢を低くした。背に乗せたままの荷物を降ろせということのようだ。何とも自由な黒猫に、夏織は苦笑を浮かべると、荷物を解いていった。すると、風呂敷の中から現れたのは、雑誌や漫画、コミック誌や小説……絵本などだ。


「……本を読ませるのか?」


 それにしても、古いものから最新のものまで様々だ。古い本ともなると、紙が茶色く変色していたり、小説なんかは戦前のものまであったりして、古文と言っても差し支えないような文章のものすらある。読書家でもなければ、読むこと自体苦労しそうだ。

 一冊の本を手に取って首を捻っていると、八百比丘尼はニヤリと笑った。


「古いもんはねェ、心を癒やすのよ。本ばっかりじゃない。他にもたくさん用意してる。ゲームやら映画やら音楽やら色々ねェ。何も、闇雲に用意しているわけじゃない。これらは、その魂が必要としているもの。あのまま放っておくと、転生もできずに消えてしまうからねェ」

「へー! やおび……やおびきに、さんは、そうやって弱っている魂を救ってるんだ。すごいね!」

「クロ、ビキニじゃない」


 クロは感心したように、つぶらな瞳で八百比丘尼を見上げている。

 すると、八百比丘尼はクツクツと喉の奥で笑うと、どこか捻くれたような笑みを浮かべて言った。


「自分を救えるものを持っていない魂がここにきた場合、お手上げだけどねェ」

「……そうなのか。魂の救済が仕事なのに、救えない相手がいるのは心苦しいだろうな」

「フフ、フフフ。私は神様でも仏様でも何でもない。全部を救おうだなんて、無理だしねェ。別に何とも思いやしないよ。――それに、私はそんなに優しくない」

 

 八百比丘尼は、意味ありげに目を細めると、どこか遠くを見て言った。


「それに、私がどう足掻こうと、生きているうちに自分を助ける何かを見つけられなかった奴らは、手の施しようがない。そういう奴らがここに来ちまった場合――消えるだけさ」


 その言葉に、俺は何も言えなくなって口を噤んだ。つまりは、八百比丘尼はその人が救われるための「蜘蛛の糸」を垂らしているのだ。その糸は、生前自分で用意した何かでできている。結局は、自分を救うのは自分自身なのだと言いたいのだろう。だが、芥川龍之介の同名の作品では、その糸を垂らすことをした人こそがお釈迦様であったと思う。


「この世に優しいことなんて、これっぽっちもないよ。辛いことばかり。だから、人は膝を抱えて蹲るんだ。新しいものが目に入らないように。自分の中に閉じこもる。それが一番優しいからねェ」


 まるで救いのないことを口にした八百比丘尼は、ふう、と白い煙を吐き出した。そして、この話はもう終わりだと言わんばかりに、夏織に指示を飛ばした。


「この本は本堂に持って行ってくれる? あの、デカイ猫に持っていかせるといい。代金は検品してからだ。わかったかい?」

「はい。わかりました!」


 夏織が元気よく返事をすると、八百比丘尼は目を眇めて、ジロジロと彼女を眺めた。


「それと――……夏織、その恰好」

「はい?」

「女の子が、素足を晒すんじゃないよ。まったく、将来子どもを産む時に後悔しても知らないよ。昔は、スカートなんて滅多に履かなかったじゃないか。色気づいちまってまあ……」

「ちょ、待って。八百比丘尼、待って‼」


 夏織は、真っ赤になってワンピースの裾を押さえている。

 けれども、顔を顰めて煙管をひと吸いした八百比丘尼の勢いは止まらない。八百比丘尼は、鼻から白い煙を噴き出しながら言った。


「好いた男のために着飾るよりも、好いた男の子どもを無事に産むために、自分を守るんだねェ。冷えは女の大敵だ。股引、貸してやろうか。下半身は冷やすんじゃないよ」

「股引……って、そ、それはちょっと勘弁して下さい‼︎ じゃあ私、本を運びますね!」


 夏織はそれだけを言い残すと、「にゃあさん⁉ どこー⁉」と、いつの間にかいなくなっていた親友を捜しに、この場を離れた。


「あらま、逃げた。まったく、若いのは人の話を最後まで聞かないんだから」


 八百比丘尼は、遠ざかっていく夏織の後ろ姿にブツブツと文句を言っている。どうやら、かなりおせっかいな質らしい。しかも、相手を思い遣りはするものの、ズケズケと物を言うから若者に嫌われるタイプだ。


 すると突然、八百比丘尼がこちらを振り返った。

 自分も何か言われるのかと思わず身構える。すると、八百比丘尼は俺をじっと見つめて言った。


「……そうだ。忘れるところだった。アンタに訊きたいことがあるんだった」

「何だ?」

「アンタが、例の犬神憑き……祓い屋で間違いないかい?」


 その瞬間、俺は八百比丘尼から距離を取った。その動きに合わせて、クロも戦闘態勢に入る。あやかし共の中には、祓い屋に悪感情を持っている者も多い。俺は素早くナイフを取り出すと、それを構えながら言った。

 

「確かに、俺は少し前までは祓い屋だった。だが、今は薬屋だ」

「ナナシのとこに世話になっているのかい。祓い屋よりかはよっぽどいいね」


 八百比丘尼は、さも面白いものを見るような目をすると、気だるげに尼僧頭巾の境目をボリボリと指で掻いた。

 

「アンタの話は色々と聞いているよ。小さい頃から、随分と苦労したようじゃないか」

「ナナシとは親しいのか? ……俺の話は、ナナシから聞いたのか?」

「必要があれば、薬を処方してもらうこともあるからねェ。……仕事相手のひとりさ。でも、アンタのことは、ナナシから聞いたんじゃないよ。あの男が、自分の所の従業員の個人情報をペラペラと他人に話すと思うかい?」

「…………」


 ナナシは薬屋という職業上、俺だけじゃなく様々なあやかしの個人的な情報を知り得る立場にある。だから、そういう部分に関しては口が堅いのは重々承知していた。夏織たちも同様だ。ならば、この食えない尼さんに自分のことを話したのは誰だ……?


 八百比丘尼は、不思議な笑みを湛えて俺を見つめ続けている。

 俺は、その視線をただ受け止めることしかできなかった。手のひらに汗が滲んで、酷くナイフの柄が滑る。ほんの少し力を緩めて、柄を握り直したその時だ。八百比丘尼は俺から視線を外して、ひらひらと手を振った。


「まあいいわ。さっさとおいき。あと、か弱い尼僧に武器を向けるんじゃないよ」


 そして、そのまま俺に背を向けて去って行った。

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