閑話 幻光舞う幽世で、想うは大切な人のこと1
――俺は、果たして人間なのだろうか?
時々、そう思う時がある。
――感情を殺せ。
思えば、幼い頃からずっとそういう風に言われ続けてきた。
何故ならば犬神憑きが他人を羨むと、相手に苦痛を与えたり、ものを台無しにしたり、病気にさせてしまうからだ。何の感情が嫉妬に繋がるかわからない以上、感情を殺すことは、俺が普通の人間のように生きるために必要なことだった。
けれど、俺は自分のせいで誰かが苦しんでいるのを見たことがなかった。
何故ならば、口の端を少し上げる。目を細める。眉を下げる。眉根を寄せる――。それをした途端、過剰に反応した周囲の大人たちに取り囲まれ、責められたからだ。まるで、俺が許されない罪を犯してしまったかのように、どうして感情を露わにしたのかと詰問する大人たち。幼い俺は、小さな手で自分の顔を覆い隠して、ひたすら許しを請うた。
「笑ってないよ。泣いてないよ。怒ってないよ。だから、叱らないで……」
『『『――感情を殺せ!』』』
「大丈夫だよ。誰も羨んだりしてない――だから少しくらい」
『『『すべてはお前のためだ。だから――自分を殺せ‼』』』
お前のため――。
それは本当に、俺のため……?
その疑問は、いつも俺についてまわった。
あの頃は、本当に辛かった。感情を殺し、心を殺し、自分を殺した。
しかし、それもすでに過去のことだ。
今はもう、感情を殺す必要はなくなった。しかし、そういう風に育ったせいか、未だにどういう風に感情を表に出せばいいのかわからない。誰かが傷つくんじゃないかと、怖くなる。
『大事なお客さんを苦しめたら大変だ。だから、我慢しておくれ』
耳の奥には、実父の声が今もこびり着いている。実父は、いつも大きな体で俺を抱きかかえ、歪んだ笑顔を浮かべて、ヒソヒソと耳元で囁く。耳朶にかかる父の生ぬるい息に、鼻を摘みたくなるような酒の匂い、背中に感じる馴染まない体温――。骨ばった手は、色が抜けてしまった俺の髪をゆっくりと撫でている。
俺は、耳を塞ぎたくなる衝動を必死に堪えて、その永遠とも思える時間を耐えていた。
『なあ、水明。うちの犬神憑きは、お前しか残ってないんだ。不出来な母さんは、お前を置いて死んでしまった。この家を守れるのは、もうお前しかいないんだよ?』
――だから、心なんて殺してしまえ。感情なんて捨て去ってしまえ。
お前は祓い屋だ。たっぷり稼いで、父さんを幸せにしておくれ。
『水明、人形になれ。父さんの思うがままに動く操り人形に……』
光の一片も差し込まない、懲罰房。
呪詛のような父の声が、部屋の中によく響いていたのを覚えている。
人間は感情を持つ生き物だ。
俺だって、ずっと懲罰房に入れられていたわけじゃない。他の人間と会うことだってある。そいつらはみんな、思うがままに感情を発露していた。さも、それが当たり前だと言わんばかりに。笑って、泣いて、怒って――。
感情を持つことは、人間であれば誰にだって許される、当たり前の権利だ。
……ああ、そう言えば。
俺が誰かと話をする時、相手がよく浮かべていた感情がある。
白い髪を持つ、無表情の子ども。
それも犬神という理解の範疇を超えた何かを従えた俺は、普通の人間からすれば、さぞかし気持ち悪く映ったのだろう。俺と相対する、多くの人間が浮かべた感情。それは――……。
「恐怖」と「嫌悪」だった。
――俺は、果たして人間なのだろうか?
誰もが許されていることを許されないなんて、俺はどんな罪を犯したというのだろう。もしかしたら、自分が人間であったというのは、俺の思い込みだったのかもしれない。
……そうだ、きっとそうに違いない。遥か上空には、今でも俺を繰る人形遣いの手が躍っているのだ。
「――水明‼ 起きて、起きてよう……‼」
焦ったような声が聞こえて、ゆっくりと目を開く。部屋の中は薄暗く、一瞬、まだ夜なのかと思う。けれども、照明の中をパタパタと羽ばたいている幻想的な蝶を見つけて、別の可能性に思い至った。
――そうだ、ここは幽世だった。
常夜の世界なのだから、暗くても朝の可能性はある。時間の感覚が覚束ない。幽世に住み始めてしばらく経つが、こればかりはなかなか慣れない。
ゆっくり息を吐くと、徐々に頭が覚醒してきた。すると、頬が濡れていることに気がついて、思わず顔を顰めた。
「すごいうなされてたんだよ」
すると、視界に犬の顔が入り込んできた。
黒い毛並みに赤い斑。犬にしてはひょろ長く、イタチにしては頭が大きい。短い足を俺の胸に乗せ、顔を覗き込んできたソイツは、犬神のクロだ。
クロは、ふんふんと俺の顔面の臭いを丹念に嗅いでいる。そして、俺の頬を濡らしていた涙をぺろりと舐めて、悲しそうに「くうん」と鳴いた。
俺は再び瞼を閉じると、大きく息を吸った。そして、日々の習慣となりつつある質問をクロに投げた。
「そんなに酷かったか?」
「いつもどおりだよ。いつもどおりに――酷かった」
「そうか」
俺は、寝転んだままクロを抱き上げると、その小さな体を抱きしめた。クロの体は、とても柔らかい。その体から感じる温もりは、肌にとてもよく馴染んで心地よい。
クロの温もりは安心する。俺が辛い時、苦しい時、誰よりも傍にいてくれたのがクロだったからだろう。
――クロ。
俺の相棒でありながら親友。
そして……俺を苦しめた元凶でありながら、救い。
俺はクロの首もとに顔を埋めると、恐る恐る尋ねた。
「クロ、今日も俺はちゃんと――人間ができるかな」
「……水明……」
「ちゃんと、笑えるかな……怒ろうと思った時、哀しいと思った時に、正しい反応ができるだろうか」
口から出てきたのは、どうしようもなく情けない声。こんな震えた声を聞かれたら、アイツは――誰よりも自由な感情を持つアイツは、どう思うのだろう。
……他人にどう思われるかを気にするなんて、俺らしくもない。
クスリと笑って、長く息を吐く。
すると、クロは俺の頬をぺろりと舐めると、穏やかな声で言った。
「安心して。最近の水明は、とっても上手に笑えてたよ。大丈夫――」
そして、クロは長い尻尾をゆらゆらと揺らすと言った。
「それに、水明は紛れもなく人間だよ。オイラが言うんだ、間違いない」
「そうか」
俺はクロをもう一度強く抱くと、その温かさをしみじみと感じた。




