鞍馬山の大天狗様2:伝説の天狗山
日本全国、天狗伝説は多々あれど、一番有名な場所と言えばここだろう。
鞍馬山――京都府にある、かつて密教による山岳修験の場として栄えた霊山である。古くは鞍馬山を「暗部山」と呼んだという説がある。「暗部」とは、暗い場所を意味するのだが、檜や杉の巨木が鬱蒼とした森を形作っているその山は、なるほど明るいとは言い難い。広葉樹が少ないせいか、秋だというのに少々色が乏しく、常緑樹の生命力溢れる緑で一面覆われている。その代わり、霊山と呼ばれるに相応しい、厳かな雰囲気が山の至るところで感じられた。
かの源義経は、ここで鞍馬天狗――別名、鞍馬山僧正坊から剣術を教わったとして知られている。今でも、叡山電鉄鞍馬駅には、駅前に大きな天狗の面が設置されていて、天狗伝説の山として人々から親しまれているのだ。
さて、現在も多くの人が訪れる蔵馬山だが、そこは今でも天狗たちの拠り所だった。それは、烏天狗である金目と銀目にとってもそうだ。
「爺ちゃん! ただいまー!」
「僧正坊様、戻りました~」
「おう。来たか」
ここは、鞍馬寺から離れた鞍馬山山中。杉の巨木に囲まれ、少し開けた場所にぽつんと廃寺があった。その廃寺が、双子の現し世での住まいだ。そして、そこには双子以外にもうひとり、住民がいた。
壊れた石灯籠の上に立って私たちを待ち構えていたのは――鞍馬山僧正坊だ。
僧正坊の姿は、まさに天狗そのものだった。真っ赤な顔に、長い鼻に髭。黒地の鈴懸に、金色の梵天。額には頭巾を着けていて、修験者らしい格好をしている。ゴツゴツとした足もとには、歯が長い漆塗りの高下駄を履いていて、やたら背が高く感じる。
僧正坊は、鞍馬山に棲む大天狗で、密教系の祈祷秘経「天狗経」にある、全国代表四十八天狗のひとつに数えられている。そして、わが家の昔ながらの常連のひとりで、五歳の頃、私が拾った双子の烏の雛を引き取ってくれたあやかしでもある。
因みに、その双子の雛が成長したのが、金目銀目だ。
――そう、わが家の虫干しはこの場所で行う。
表紙の色あせを防ぐため、直射日光は厳禁な虫干しに、この薄暗い場所は最適だった。境内は程よい広さがあって、わが家の豊富な蔵書も問題なく広げられる。そういう事情もあり、僧正坊に毎年場所を借りているのだ。
「僧正坊様、今年もお世話になります」
「夏織か。いい女になったなあ」
「え、そうですか? へへ……」
「もうちょっと尻と胸が成長すれば、文句なしなんだが」
「……怒ってもいいですか?」
私が不機嫌になると、僧正坊は、ガハハ! と豪快に笑った。まるで、親戚の無神経なおじさんのような発言に若干うんざりしていると、背後からドサリと何かを置く音が聞こえた。
「……じゃあ、ここに置いておくわよ」
それは、にゃあさんだった。幽世から大量の本を運んでくれたにゃあさんは、荷物を置くなり大きくあくびをした。そして、眠そうに瞳をしょぼしょぼさせながら言った。
「じゃあ、あたし寝てくるわ。虫干しのお手伝いは、肉球じゃ流石にできないもの」
「うん。ここまでありがと。ゆっくりしてきてね」
そして、トコトコとどこかへ向かって歩き始めた。風通しのいい場所で、お昼寝と洒落込むのだろう。茂みの中に親友のしっぽが消えていくのを見送った私は、腕まくりをして気合を入れた。
「よし! じゃあ、始めますか!」
「……待て」
するとその矢先、水明が水を差した。
「どうしたの?」
「どうしたもこうしたも……」
水明は、むっつりと不機嫌そうな顔で、ある場所を指差すと言った。
「この状況で、本が干せるのか?」
「あー……」
水明が指差した先、そこには――ぼうぼうと雑草が生い茂る、境内があった。地面には、僅かに石畳らしきものが顔を覗かせているものの、大部分が雑草で覆われていて、まるでどこかの空き地のような有様だ。正直、このままではまともに本を広げられそうにない。
すると、僧正坊がまた、ガハハ! と豪快に笑った。
「いやあ、すまんな。金目銀目に、今日までに草むしりしとけって言っといたんだがな!」
そして、ギラリと鋭い瞳を双子に向けると、低い声で言った。
「どうしてこういう状況なのか、説明してもらおうか。おお?」
「「……!」」
すると、双子は途端に青ざめると、水明の下に駆け寄って行った。
「だ、大丈夫だ。爺ちゃん。すぐにやるからさ!」
「うんうん。別にサボってたわけじゃないですよ。偶々、時間がなかっただけですって~。それにほら、今日は水明もいるから、すぐに終わると思いますし」
「おい、お前ら……一体、何を」
「「な、水明。手伝ってくれるよな。俺(僕)たち、友だちだろ⁉」」
双子はそう言って、水明に潤んだ視線を送っている。
「……」
水明は、しばらく黙っていたけれど、やがて諦めたように深く嘆息した。
「……仕方ない」
「おお、流石水明! 糞爺とは違うな。惚れちまうかも!」
「いやあ、本当に助かった。うちの爺様、魔王みたいに怖いんだ~」
「小僧ども、何か言ったか」
「「いいえ。何も‼」」
僧正坊の言葉に、ピシリと直立した双子は、すぐに水明の肩を抱いて雑草の方へと歩いていった。
「……仲いいなあ」
「アホなだけだろ」
私は、僧正坊と顔を見合わせて笑うと、虫干しのための準備を始めた。
虫干しのやり方は、到って簡単だ。手袋をしたら、本のページをパラパラ捲る。そうやって、中に潜んでいる虫を落とす。そして、本を九十度に立て、風通しがいいように少し開く。後はしばらく置いておくだけだ。
本の大敵は、湿気だ。黴びてしまった部分につく虫もあるし、何より本が傷む。黴には充分に気をつけているつもりなのだが、どうしても常夜の世界だからか湿気やすい。だから、毎年の虫干しはとても重要だ。冊数が冊数だし、大変な作業ではあるけれど、お客様に貸し出す大切な本だ。一冊一冊を大切にしていきたいと思いながら、草むしりが終わった場所で作業を進める。
すると、しばらく経った頃のことだ。
さわさわと葉の擦れる音と、木々の間を風が通り抜けていく音を聞きながら作業をしていると、黙々と草をむしっていた水明が手を止めて叫んだ。
「~~~~‼ 終わらん‼」
そして、その場に座り込んで空を見上げた。
現し世の秋の空は高く、澄み渡っている。小鳥の声が響く山中は、湿度も低く、外に出てもまったく苦にならないどころか、お昼寝したいくらいに爽快だ。けれど、流石に延々と草をむしり続けるのに飽きたらしい。水明は、その場にゴロリと横になってしまった。
「大丈夫?」
用意しておいた水筒とタオルを持って、傍に近寄る。水筒の中身は、冷たい紅茶だ。蜂蜜を少し落として、優しい甘さに仕上げてある。水明は体を起こして水筒を受け取ると、ごくごくと喉を鳴らして飲んだ。それで、ようやく一息ついたようだ。恨めしげな瞳を僧正坊に向けて、ぽつりと言った。
「雑草くらい、天狗の技でパパッと何とかできないのか」
「ガハハ! これも修行だぞ、坊主。忍耐力と握力、集中力が鍛えられる」
「……俺は、修行なんぞいらん。今は薬屋だ」
すると、僧正坊はにやりと不敵な笑みを浮かべて言った。
「薬屋だって、祓い屋だって、忍耐力や集中力は必要だろうが?」
それを聞いた途端、水明の表情が険しくなった。自分が、元祓い屋であったことを知られていたとは思わなかったのだろう。しかし、すぐにその表情は緩んだ。何故なら、大騒ぎしながら草むしりをしている双子の声が聞こえてきたからだ。
「……そういや、アイツらの師匠だったな」
「あの二人、何でもかんでも報告してくるからな! お前のことも色々聞いてるぞ」
「……はあ」
水明は深く嘆息すると、未だ草ぼうぼうな境内を眺めて言った。
「それにしても、どうしてここはこんなに荒れ放題なんだ? この山には、立派な寺がいくつもあるだろう。天狗を参りにたくさんの観光客が来てるじゃないか。少しぐらいは、直したらどうなんだ」
すると、僧正坊はまたガハハ! と豪快に笑うと――スッと、真顔になって言った。
「そりゃおめえ……ここが、こんなにも荒れ放題になったのは、あやかしが人間から『いないもの』だって思われるようになったからだよ」
意味がわからず、水明と顔を見合わせる。すると、僧正坊はニッと黄ばんだ大きな歯を見せて笑った。
「まあ、聞けよ。たぶん、日本に住んでいて、あやかしの存在を知らねえ奴はあんましいねえよな。それだけ、あやかしってもんは日本人に馴染みの深いもんだ。何せ、長い間ずっとお隣さんだったからなぁ」
「アニメとか漫画でもよくモチーフになってるもんね」
「そうだな。ポピュラーなあやかしなら、子どもから大人まで知っているだろう」
すると、僧正坊は「それだよ」と私たちを指差した。
「そういうもんが俺たちを『殺した』んだぜ? アニメやら漫画だけじゃねえ、夏織がせっせと干してる本もそうだ。テレビとかいう奴もな」
「えっ……?」
思わず絶句していると、僧正坊は滔々と語り始めた。
「俺たちは、元々『現実』と『妄想』の間に生きてきた。『在る』と思う奴には『在る』し、絶対に『いない』と思う奴には『いない』。そういうもんだった」
いるかどうかわからない。けれども、本当はいるかもしれない。
そんな曖昧な存在があやかしだ。遠い昔――人々は、光の届かない闇の向こうに、「何か」の存在を感じていたし、どこかから聞こえてくる得体の知れない音や、理解し得ない現象を「何か」の仕業だと考えてきた。
けれど、メディアや科学の発達によって、あやかしは「存在しないもの」とされてしまった。彼らの纏っていた闇は払われ、明るい世界に引きずり出されてしまった。
「人間は、俺らのことを『誰かの創作物』『妄想』『非現実的』だとか言って、最初から存在しないものにしちまった。カガクテキ? な検証で、俺らはまったく不思議なものじゃなくなっちまった。昔は、俺らが『居る』と思ってくれた奴らと親しくして、この境内なんかも直して貰ったりしたもんさ。俺らも、それなりの見返りを与えたりした」
僧正坊は、「あの頃は楽しかったなァ」と笑うと、少し切なそうに言った。
「そういう時代はもう終わっちまったんだ。俺らを本気で『居る』って思ってくれる奴らは、みんないなくなっちまった。現し世に棲むあやかしの多くは、幽世に棲み家を移してる。少々寂しいが――『古いもの』は淘汰されていくってことだろう。しゃあねえよな」
――本が、現し世に棲むあやかしを殺した。
そのことは、少なからず私に衝撃を与えた。
虫干ししている本に視線を落とす。これらの「物語」は多くがフィクションだ。あやかしが出てくるものも少なくない。私は、それらを楽しく読んでいた。知り合いのあやかしが出てきたら、それを嬉しく思ったりもした。
けれど、その「物語」自体が、私の大好きなあやかしたちの居場所を奪う原因となっているだなんて――……。
スッと血の気が引いていく。体が末端から冷えて行って、立っているのが辛い。すると、そんな私に気がついた僧正坊は、苦笑いを浮かべて言った。
「別に、夏織が気にすることはねぇよ。栄枯盛衰。世は流れていくもんだ。誰にも責任なんてないぜ。そう、本にだってな」
そして、何かを思い出したのか、髭を指で擦りながら呟いた。
「そういや、最近こんな話を誰かともしたな。あれは――……東雲だっけか?」
「え、東雲さん?」
すると、僧正坊はポンと手を叩いた。
「そうだそうだ。取材とか言ってたな。変なこと聞くよな、アイツも」
「そう、なんだ……」
「まあ、何はともあれ気にすんな。別にお前が直接何かしたわけじゃない」
僧正坊は、大きな手で私の頭を撫でると、ガハハ! とまた豪快に笑った。
「別に、人間に信じて貰えなくたって、構わねえよ。義経みたいな面白い奴と二度と会えねえってのは寂しいが、所詮、人間とあやかしは別もんだろ? 偶然、隣にいたのが、また離れ離れになったってだけだと思うぜ、俺は」
「――……」
――そんなの、寂しいな。
私は、また笑い始めた僧正坊から視線を外すと、ゆっくりと瞼を閉じた。
そして、肌を撫でていく風がどこか冷たく思えて、ギュッと自分で自分を抱きしめた。




