鞍馬山の大天狗様1:秋の恒例行事
幽世の空が、鮮やかな葡萄色に染め替えられた頃。
ようやく、常夜の世界にも秋がやってきた。
秋は実りの季節。そして――冬支度の季節でもある。
幽世の山々が暖かな秋色に染まる頃――各地で収穫された野菜や穀物を満載した荷車が、鈍い音をさせながら町へ集まってくる。店頭には、普段と違って冬ごもりに向けた品々が並び、天秤棒に自慢の野菜たちを乗せたあやかしが、買い手を求めて町を練り歩く。道端で露店を開く者たちも大勢いる。塩が入った俵を担いだあやかしの背では、縄で括られた大きな魚が揺れている。
河童も、化け狸も、大鬼も、落ち武者だって、冬支度に大わらわだ。
秋の町には、あちこちで品物をやりとりする景気のいい声が響いている。
夏のお祭騒ぎとは違うけれど、秋の幽世の町もまた賑やかだ。
軒先には、保存食用の野菜や魚が干され、みんな冬に向けてせっせと忙しく働いている。けれども、その表情はどこか明るい。収穫を喜び、秋の味覚に舌鼓を打ち、過ごしやすくなった気候を心地よく思う。
夏は特別な季節だと思う。
けれど、秋だって特別には間違いない。
秋らしい暖色で彩られた世界は、厳しすぎる季節の前に、私たちに一時の優しさを見せている。
あやかしたちが、冬に備えて忙しくしている頃――。
わが家では、秋の恒例行事が行われていた。
「よいしょっと……」
店の前の通りにゴザを敷いて、その上に本を並べていく。本と言っても、文庫本からハードカバー、雑誌、百科事典まで様々だ。それらを分類し、運びやすいように並べておく。ゴザの上に、色とりどり、大小様々な本がずらりと並ぶ様は壮観だ。すると、そこをたまたま通りがかった、隣の若奥さん――因みに、結婚して二百年になる鬼女である――が声を掛けてくれた。
「あら、夏織ちゃん。虫干し? 精が出るわね」
「あはは。数が多いから、毎年大変なんですよね」
「ごくろうさま。後で、柿を持っていってあげるわ。みんなで食べてね」
「ありがとう!」
若奥さんが自宅に入っていくのを見送り、額に浮かんだ汗を拭う。
秋になったおかげで、風が爽やかで気持ちいい。汗もあっという間に引いていって、ベタつかないことに感動を覚える。ふわふわと辺りを飛び交っている幻光蝶も、夏の暑さから解放されて嬉しいのか、いつもよりも明るいような気がする。するとそこに、両手に本を抱えた水明がやってきた。
「おい、これはどこだ」
「あ、あっちにお願い」
「……わかった」
「手伝って貰ってごめんね。そういえば、クロは?」
すると、水明はどこか切なそうに、遠くを見て言った。
「アイツは――焼き芋を食いすぎてな」
どうやら、食べ過ぎで寝込んでいるようだ。
何ともはや、愉快な犬神である。
「……えっと、大丈夫なの? それ」
「大丈夫だ。少しはしゃぎすぎただけだ。どうも、最近楽しくて仕方がないみたいでな」
水明は、若干目元を和らげると、優しい口調で言った。
「誰も傷つけなくていいからか、浮かれている。……別に、それは構わないんだが」
祓い屋として、日々あやかしを追っていたクロと水明にとって、今の穏やかな生活は、まだ馴染まないのだろう。ふたりは、新しい生活に慣れるために、努力している真っ最中だ。
私は、「そっか」と笑うと水明に軽く頭を下げた。
「そんな日に、来てくれてありがとう」
「構わない。世話になっている礼だ。気にするな」
水明はそう答えると、次の本を取りに、本屋の中に戻っていった。
テキパキと本を運ぶ水明を頼もしく思いながら、若干だるくなってきた腕を回す。朝から本を運び続けた腕は、すでにパンパンだ。
今日の目標は――一階最下段の本を午前中のうちに外に出すこと。
「……終わるかな?」
私は、若干不安になりながらも、水明の後に続いて店に戻ったのだった。
貸本屋にとって、秋は虫干しの季節だ。
本というものは、放っておくと虫が着くことがある。有名なもので言えば、紙魚だろうか。紙魚を放っておくと、本の糊付けされた部分を壊してしまう。古い本であればあるほど、虫がつく危険性が上がるから、普段から本を取り扱う私たちにとって、虫干しは非常に重要な仕事である。
ついでに、店内の大掃除と、本のメンテナンスも兼ねているから大変だ。埃を払い、表紙の汚れを拭い、修理が必要な本を分けておく。この作業は、全部終わるまでに一ヶ月ほどかかる。
「ああ、やっと終わった」
数時間かかって、一階最下段の書架の本を運び終えた私は、ホッと一息ついた。近くにあった椅子を引いて座る。そして、改めて店内を眺めると、その本の多さに感心した。
わが家は、幽世の町の大通りの端に位置している。周囲の建物に比べると、やや古く見える二階建ての木造建築だ。一階の一部が店舗になっており、外から見るとそれほど大きくは見えない。
そんなわが家だが、中に入ってみるとその印象はガラリと変わる。十畳ほどしかない店内には、壁一面に本棚が設えられている。本棚は天辺が見えないほどに背が高く、その中には東雲さんが長い時間をかけて蒐集した本たちが、みっしりと詰まっている。
店内の明かりは、幻光蝶が入れられた吊り下げ照明のみだ。蝶が羽ばたくたびに、照明もゆらゆら揺れて、周囲をぼんやりと照らしている。古めかしい傷だらけの梯子がいくつも設置されていて、高いところにある本を手に取れるようになっているのだ。
――小さい頃は、あそこに登りたくて仕方がなかったなあ。
梯子を見たら、登りたくなるのが子ども心というものだ。
きっとあの梯子の上には、本で読んだような不思議な何かが待っているに違いない――。
そう思った私は、幼い金目銀目を引き連れて冒険に出かけたものだ。
……夏織少女の大冒険は、毎回、養父に怒られて終わるのだけれど。
クスリと思い出し笑いをして、空になった書架を拭き上げていく。
思えば、この店には不思議がたくさんある。
建物の構造からすれば不自然なほどに高い、入れても入れても満杯にならない本棚。――そうそう、地上に近い本棚には可動式のものもある。襖のように横に動かすと、その奥にもまた本棚が現れるのだが、決まった手順で動かすと、更に奥にある地下室に入れるようになるのだ。
まるで隠し部屋のような地下室の管理は東雲さんがしていて、私ですら普段は立ち入りが禁止されている。その部屋には、貴重な蔵書が多く収められているから、下手に触るといけないのだろうと今では想像できるのだが、幼い頃は不満に思ったものだ。
冒険好きな夏織少女からすれば、そこは格好の遊び場だ。何度も忍び込んでは、東雲さんに怒られた。
立ち入りが禁じられた部屋――……。
そこは幼い私にとって、とても魅惑的な場所だった。
流石に、最近は入っていないけれど、小さい頃は、暇があれば地下室への侵入を試みていたっけ。
――そういえば。あれはまだあるのかな。
はたと思い出して、歩き出す。東雲さんは、今日はどこかに出かけていていない。なら――少しくらい覗いても、いいんじゃないか?
「おお……」
本棚を動かして、地下室を覗き込む。その中は、蝶の入ったランプが置かれているだけでかなり薄暗い。それほど広くない内部には、木製の棚が置かれていて、巻物などの古めかしい書物が並んでいるのが見える。すると、幼い頃に感じていた好奇心が蘇ってきた。
……入ってみようかな?
「何をサボってる」
「ひゃっ⁉」
口から心臓が飛び出るほどに驚いて、勢いよく振り返る。そこにいたのは、不機嫌そうな水明だった。
――まずい!
一瞬、誤魔化そうかと考える。けれど、すぐに思い直した。
……そうだ。水明も共犯にしてしまえばいいじゃないか。
「へい、少年。お姉さんと冒険してみないかい」
気取った口調で、水明に声をかける。すると、水明はどこかげんなりした様子で顔をしかめた。
「馬鹿か。くだらないことを言ってないで――」
「ははは。十七の若者が何を言ってるのよ。若いうちに冒険しなくてどうするのよ」
水明の言葉を遮り、腕を掴んで、地下室に引っ張り込む。水明は、初めは抵抗していたものの、途中から諦めたのか素直についてきた。
階段を降りた先は、やけにひんやりとしていた。湿った空気の中に、若干の黴臭さが混じっている。石造りの壁に設えられた燭台の下には、溶けた蝋がこびり着いているのが見えた。
「ここは何なんだ?」
「ここで、稀少本とか古い資料を保管してるの。現し世に現存してないものもあるんだよ。だから、普段は東雲さん以外は立ち入り禁止なんだけど、この奥に変なものがあって」
「変なもの?」
そろそろと足音を消して、ゆっくりと地下室を進む。
それほど広くない地下室は、すぐに最奥までたどり着いてしまった。
「……あ、あった」
そこには、何枚もの札で厳重に封印された扉があった。赤く塗装された扉に、意味不明の呪文が書かれた黄色い御札がベタベタと貼られている。
この扉の存在は、小さい頃から知っていたけれど、未だに中を見たことはない。
「昔から気になってたんだよね。何が入っているのかな」
謎めいた扉を眺めながら、ぽつりと呟く。
嫌々連れられてきたわりに、水明は興味深そうに扉に貼られている御札を眺めている。
「あまり見たことのない形式の札だな。封印目的で作られたものには違いないのだろうが――大陸製か? 少なくとも、最近貼られたものではなさそうだ。凄い力を感じる。弱いあやかしなら、近づくことも厭うだろうな」
「そんなに強力なの?」
「ああ。人間にはあまり効果はないだろうが……あやかしには効果てきめんだろう。だが、どうしてこんなものが?」
祓い屋である水明ですら、よくわからないらしい。
これはいよいよ怪しくなってきた。
「義理の娘にすら中身を見せられないものってなんだろうね」
「さあな」
こんなに厳重に封印されているとなると、よっぽどのものが入っているのだろう。
――気になる。でもなあ。
「東雲さんのエッチな本とかだったら知りたくないかも……」
「夏織? そこにいるの?」
「ひっ‼」
するとその時、女性にしては低く、けれども艶のある声が聞こえて、思わず飛び上がった。恐る恐る地下室の入り口に視線を向ける。するとそこには、にっこりと笑顔を浮かべた――私の母代わりのあやかし、ナナシの姿があった。
「あの部屋は入っちゃ駄目って、いつも言っているでしょ」
「ごめんなさい。つい……」
――もう、子どもじゃないってのに。
まさか、二十歳にもなってこんな風に怒られるなんて、情けない。
がっくりと肩を落としていると、ナナシは琥珀色の瞳を細めて、くすくすと笑った。
「別に怒ってるわけじゃないのよ。でも、中に入る時は東雲の許可を取ること」
「ナナシ……」
「それよりほら、隣の若奥さんが柿を持ってきてくれたの。剥いたから食べなさい」
「あ、美味しそう」
一瞬で復活した私は、いそいそとちゃぶ台の前に座った。
熟れきった柿は、フォークで持ち上げると、滴るほどの果汁を溢れさせている。口の中に入れると、疲れた体に甘さが沁みる。果物なのに、まるで和菓子のような上品な甘み。崩れそうなほどに柔らかく、噛みしめると一瞬にして溶けて、喉の奥に流れ込んでいく。
「秋だねえ……」
秋到来を感じさせるその味に、思わず私まで蕩けそうになっていると、隣で柿を食べていた水明が、ぽつりと呟いた。
「ところで、これからどうするんだ? 外に本は運び出したが……普通、虫干しは、太陽の光があるところでするもんじゃないのか?」
そう言って、水明は窓の外を見つめている。幽世の空は雲ひとつない晴れで、星明かりが美しい。けれども、常夜の世界に太陽の光が差し込むことはない。これでは、外に持って行ったとしても、本に着いてしまった虫はどうにもならないだろう。
なら、解決方法は簡単だ。太陽の差す場所に持っていけばいいのだ。
「大丈夫、大丈夫。あの本をね――」
「俺んちに持っていくんだよ」
その時、聞き慣れた声がしたので、振り返る。
「お、柿! 俺にもくれよ!」
「こんにちは~。銀目、挨拶が先でしょ」
そこにいたのは、烏天狗の双子、金目と銀目だった。




