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永遠に語り継がれる物語4

 その日の晩。私は貸本屋へ戻った。からりと引き戸を開ければ、不安そうな顔をした東雲さんが待ってくれていた。よほど落ち着かなかったのか部屋の中が煙草臭い。


 すん、と洟を啜って、泣きすぎて真っ赤な顔のまま笑いかける。


「ただいま」


 いつも通りの私の言葉に、東雲さんはわずかに安堵の色を滲ませた。


「おかえり」


 東雲さんの隣に座って、じっと養父の顔を見つめる。以前よりも格段に顔色が悪い。東雲さんの寿命は確実に削れていっている。


「仕事の引き継ぎ、急がなくちゃね」


 ぽつりとこぼした私に、東雲さんはくしゃりと顔を歪めた。


「いいのか」


 言葉少なに訊ねてきた養父に寄り添う。東雲さんの一張羅の袖を指で引いて言った。


「最期まで一緒にいるから」


 じわりと東雲さんの青灰色の瞳が滲んだ。私の視界も輪郭が朧気だ。黙りこくったまま、いそいそとお茶の用意をする。当たり前の日常の風景。永遠に続くと思っていた日々にも終わりがあるのだ。知りたくもなかったことを理解して、私はまたひとつ大人になった。




 木々が装いを変え、幽世に身も凍るような風が渡るようになった頃。


 冬の貸本屋は例年なら閑散期に入る。しかし、今年ばかりは忙しい。日本各地にいる東雲さんの顧客と顔合わせして、貸本屋が代替わりすると挨拶をして回る。


 それと平行してナナシや遠近さんと綿密に打ち合わせをした。目が回るほどの忙しさだったが、絶対にやり遂げてやると疲労で悲鳴を上げる体に鞭打って頑張った。


 そうしている間にも、東雲さんは少しずつ弱っていく。食が細くなり、やがて歩くのも困難になった。車椅子で過ごせるように、貸本屋をバリアフリーに改造したりもした。それでも東雲さんは日々机に向かうのをやめなかった。なにを書いているのだろう。物語の内容を東雲さんは教えてくれない。

黙々と執筆を続ける父の背中を眺めているうちに、幽世は純白の雪に一面染められてしまった。しんしんと降り積もる雪はあらゆる音を飲みこんで、わが家をも包み込んだ。


その頃には挨拶回りもその他の準備も一段落していた。執筆を続ける東雲さんのそばで、思うさま本を読みふける。あえていつも通りに過ごす。普通の日々の大切さをしみじみ感じていたからだ。


ぺらり、とページをめくるたびに物語は進んで行く。

ぺらり、ぺらり、ぺらり。


静かな冬だった。穏やかで……一生忘れられない冬。

物語の最終章はすぐそこに迫っていた。


***


 ――そして、再びの春。


 暖かな風が花畑の上を渡っていく。

 東雲は困惑していた。朝から夏織の姿が見えなかったのもあるが、唐突にナナシに連れ出されたのだ。不機嫌そうに顔を歪めてネモフィラ畑を眺める。


 今年もネモフィラは見事に丘一面を覆っていた。風が吹くたびに青い花がうねる。まるで紺碧の海だ。海辺を訪れたような錯覚を覚える。潮の匂いがしないのが不思議なほどだった。見事な眺めだ。夏織が好きな風景のひとつ。


しかし、今日はいつもと様子が違った。花畑の中にいくつもの行灯が設置されている。中に閉じ込められているのは幻光蝶。蝶が羽ばたくたびにちらちらと黄みがかった明かりが揺れる。それだけではない。大勢のあやかしたちがこの丘に集結しつつあった。誰も彼もが提灯を手に歩いている。揃って黒い装いをして丘の頂上を目指していた。


「なあ、ナナシ。なんだこれは……」


 わけもわからず連れて来られた東雲は困惑するばかりだ。車椅子を押していたナナシは琥珀色の瞳を細め、どこか意味ありげに笑った。


「別に変なことじゃないわよ。アンタは黙って乗ってればいいの」

「黙ってって……。クソ。人が動けないからって好き勝手しやがって」


 東雲の体はすでに衰えきっている。ろくにひとりでは車椅子から立ち上がることすらままならない。介護はありがたいが、どうにもプライドが邪魔をする。それも面倒を見てくれるのが嫌みったらしいナナシともなればなおさらだ。


「夏織はどこ行ったんだよ。夏織は」


 苛立ち混じりにブツブツ呟いた。すでに大声で怒鳴る気力もない。


 ナナシは「だんだんと馬琴の爺さんに似てきたわねえ」と東雲の機嫌を逆なでするようなことを言った。たまらず東雲が仏頂面になっていると、ひょいと顔を覗きこむ。


「湿気た面しちゃって。アンタがそんな顔じゃあ、夏織が悲しむわよ」

「は? なんで夏織が――」


 思わず首を傾げていれば、ナナシがある場所を指差した。怪訝に思って視線を向ければ、視界に飛び込んできた光景に心臓が止まりそうになった。

 紺碧の海のただ中に、穢れひとつない白い衣が浮かび上がって見える。


「花嫁……?」


 それは白無垢を着た女性の後ろ姿だ。生成りの正絹の白打掛が目に眩しいほどだった。

東雲が到着したことに気がついたのか、わずかに顔をこちらに向ける。だが、角隠しを被っているせいでよく顔が見えない。だのに、東雲はその人物が誰かわかってしまった。当たり前だ、三歳の頃から毎日顔を見て過ごしてきた――大切な娘だ。


「……夏織!」


 声をかけると、美しく着飾った娘がしずしずと歩いて来る。透明感のある白い肌に、目にも鮮やかな真っ赤な口紅が映えて見えた。幼かったあの頃の面影はまるでない。美しい。ただただ、美しい大人の女性がそこにいる。


「来てくれてありがと。びっくりした?」


 東雲の前に到着すると、夏織はにこりと笑んだ。


 ――ああ、無理矢理笑ってやがる。本当は泣きたい癖に。


 自然と娘の気持ちが理解できた。苦しく思いながらも訊ねる。


「……どういうことだ。説明しろ」


 思いのほかぶっきらぼうな声が出てしまった。ちくしょうと内心で毒づいて、ちらりと丘の上を見上げた。頂上で誰かが待っているのが見える。あれはきっと――。


「私と水明の結婚式だって。ナナシと遠近さんが準備してくれたの」

「馬鹿野郎っ! 俺は――……」


 まだそこまで許した覚えはねえ、と叫ぼうとした瞬間に咳き込んでしまった。息ができずに顔をしかめていれば、東雲の背中をさすりながらナナシが笑う。


「あらあら。父親の複雑な心境って奴かしら。遅かれ早かれくっつくって自分でも思ってたでしょうに」


 声が出せずにジロリとナナシを睨みつけた。だが、渾身の睨みも古女房には通じない。


「隠れ里の職人さんね、生涯で一番のできだって言ってたわ。アンタのために寝ずに仕上げたんですって。綺麗でしょう? 本当に似合っている」


 夏織のまとう白無垢は眩いほどの光沢を持っていた。いつか夏織が嫁入りする日に備えて、東雲が注文しておいた布で仕立てられているらしい。唐糸御前から余命いくばくもないと告げられた時、娘の花嫁姿は見られないと残念に思ったものだ。まさか目にする日が来ようとは。


ようやく咳が治まった東雲は、しみじみと夏織の姿を眺め、ぽつりとこぼした。


「……ああ」


 夏織と目を合わせる。どこか不安そうな愛娘に言った。


「すごく綺麗だ」


 夏織の表情がくしゃりと歪んだ。ふいっと顔を逸らす。泣くまいと必死に耐えているようだ。ハハッと東雲は小さく笑った。婚姻の儀式の前に化粧が崩れたら大変だろう。

 瞬間、ナナシが東雲の肩に羽織を掛けた。黒地の紋付き羽織だ。


「花嫁の父親がくたびれた一張羅じゃ恥ずかしいじゃない」

「てめえ……」

「文句なら後でたっぷり聞くわ。ほら……」

「東雲さん」


 気がつけば夏織が真横に立っている。手を差し出されて反射的に握った。


「一緒に行ってくれる?」


 花婿のところに、という意味だろう。

 ぐう、と喉の奥で唸った。ちらりと夏織の顔を見れば、穏やかな表情をしている。


「…………。わ、わかった」


 しぶしぶ了承すれば、夏織が嬉しげに笑った。


 ナナシに車椅子を押してもらいながら、ゆっくり、ゆっくりと丘を上って行く。

 春の風が丘の上を渡っていく。暖かく優しい。命の産声を運ぶ風に応えて、ネモフィラがざざ、ざざざざ……と波音のように騒いだ。東雲の眼前を光る蝶が横切っていく。蝶の行方を目で追うと、そこには眩いほどの娘の姿があった。


 みずみずしい肌。キラキラ輝く瞳は星空を写し取っている。真っ赤な唇には、東雲が知らなかった夏織自身が持つ色香が垣間見えた。きっと、誰もが夏織を美しいと讃えるだろう。大勢を魅了するに違いない。なにせ、夏織の中には生命力が溢れている。まるで未来そのもののようだ、と東雲は笑んだ。自分には未来はない。それはとても悲しいことのはずなのに――どうしてこう胸が熱いのか。


 やがて丘の上に到着した。そこには紋付き袴を着た水明と、父である清玄――。

 そして人魚の肉売りの姿があった。


「お前……」


 思わず怪訝な顔をしていれば、一歩前へ進み出た肉売りが口を開いた。


「最後の……本当に最後の確認だよ、東雲」


 魚籠から人魚を取り出す。肉売りの緑がかった瞳が不安げにゆらゆら揺れている。


「人魚の肉はなんでも願いを叶えてくれる。……君には、必要かな?」


 東雲はしばらく黙りこむと、ふるふるとかぶりを振った。


「いらねえよ。俺に人魚の肉がくれる永遠は必要ない」


 肉売りは泣きそうな顔になると、「そっか」と短く答えて踵を返す。とぷん、と手近な影の中に飛び込み姿を消してしまった。代わりに前に進み出たのは清玄だ。しっかり紋付き羽織袴を着込んだ清玄は、東雲に向かって大きく頷いた。


「若いふたりの面倒は私に任せてくれたまえ」

「……おめえにできるのかよ?」

「ハハッ! 厳しい言葉だ。だが確かにそうだね。思えば、私は息子にずいぶんとひどいことをした。だけど……君と違って私には充分すぎるほど時間があってね」


 清玄もまた人魚の肉で永遠を得た人物だ。


「時間をかけて信頼を勝ち取っていくよ。いつかはいい父親になってみせる」

「…………」


 穏やかに語りかけてきた清玄に、東雲はいささか不満そうに唇を尖らせた。


「しゃあねえな。……頼んだ」


 手を差し出す。清玄は東雲の手を握り返すと「約束するよ」と笑った。


「東雲」


 最後に東雲の前に立ったのは水明だった。

 透き通るような薄茶色の瞳で東雲をまっすぐ見据えている。表情に不安などは欠片も見えない。無許可で結婚式を断行したわりには肝が据わってやがると内心笑った。


「一発殴っておくか?」


 水明が放った予想外の言葉に噴き出しそうになった。


「ハハッ……! お前なあ」

「殴れば気が済むだろう」

「そうかもしれねえけどな」


 ちらりと夏織の様子を覗き見る。ハラハラしているのが丸わかりだ。くすりと笑みをこぼした。正直なところ、水明を殴るほどの膂力が残っていない。


「勘弁してくれ。花婿を花嫁の前で殴ったら一生恨まれそうじゃねえか」


 格好をつけてみる。柔らかく目を細めた水明は、その場に膝を突いた。


「幽世に落ちた俺を最初に見つけてくれたのは東雲だったな」


 あれは雨が降りしきる夜のことだった。幻光蝶の群れの中心に少年が倒れているのを見つけた時は、幽世での生活が長い東雲もさすがに仰天したものだ。


「ソイツが娘婿になるとは思わなかったがな」

「俺もだ」


 水明と笑い合う。やがて真顔になった水明はまっすぐ東雲を見据えた。


「――夏織を幸せにすると誓う」


 決意のこもった言葉。東雲は固く口を引き結ぶとたまらず顔を逸らした。


「絶対だぞ。約束を破ったら祟ってやるからな……!」

「望むところだ」


 水明は力強く頷いてくれた。だが、なんとも言えないやりきれない思いが満ちてきて思わず俯く。その時、タイミングを見計らったかのようにナナシが口を開いた。


「さあ、そろそろお行きなさい。花嫁がいつまでも父親のそばにいたら駄目よ」


 ハッとして顔を上げた。夏織が東雲のそばから離れて行く。とてつもない寂しさがこみ上げてきた。思わず手を伸ばす。


「夏織」


 水明の隣に立った夏織は、東雲に向かって微笑んだ。


「東雲さん。……ううん、お父さん」

「か、夏織」

「私を育ててくれてありがとう。いつもそばにいてくれて、愛してくれてありがとう」

「夏織! ゴホッ……」


 再び咳き込みそうになった東雲へ、夏織は大粒の涙を流しながら続けた。


「あやかしは、死んだ後も巡り巡って帰ってくるんだよね? 私、東雲さんが帰ってくるまで待っているから」


 予想外の言葉に目を見開く。


「まさか、お前……。人魚の肉を食うつもりか?」


 愕然としながら問えば、夏織はふるふると首を横に振った。


「違うよ。待っているのは私じゃない。幽世の貸本屋が潰れないように、私の子どもに引き継いでいくの。そしてその子どもは、店をまた誰かに引き継ぐ。そうしたらきっと、東雲さんが帰ってくるその日まで店は存在しているはず」


 夏織は水明に目配せをした。今度は水明が口を開く。


「俺たちは、東雲がしてきた仕事を途切れさせないようにする。日本各地のあやかしのもとへ物語を届け、誰にも知られないまま終わるあやかしがいなくなるように『幽世拾遺集』の刊行も続ける」

「『幽世拾遺集』にはね、永遠に残すべき〝価値〟があると私たちは思ってる」

「手探りで始めることになる。上手く行かないかもしれないが……」

「私たち、頑張るよ。東雲さんがいなくなった後も諦めない。そうすればきっと――」


 夏織と水明が微笑み合った。


「永遠の命を手に入れたのと同じだよね。私たちが繋いでいった想いは、遠い未来に戻ってきた東雲さんにも届くはずだもの」


 ふたりの手は自然と繋がっている。互いを見つめる眼差しには確かな信頼があった。


 ――ああ。夏織が巣立っちまった。


 しみじみ実感して、東雲は静かに涙を流した。次から次へと熱いしずくがこぼれるたびに、夏織と過ごした思い出が脳裏に浮かび上がってくる。本当に大変だった。何度挫けそうになったことか。だけど――それ以上に楽しかった記憶の印象が強い。


『東雲さん! まったくもう。いつもぐうたらして。無精髭剃ってって言ってるでしょ!』

『執筆お疲れ様。どうする? ビール一本までなら飲んでもいいよ』

『ねえねえねえ! 希覯本が買えたの! すごくない? 一緒に読もう!』


 夏織はいつだって元気いっぱいで、いつだって信頼のこもった眼差しを向けてくれた。無邪気に笑ったり、怒ったり、時には失敗して東雲に頼ってきたり。


 記憶の中の夏織の姿が徐々に幼くなっていく。多感だった十代。無邪気だった幼児期。出会った頃の三歳ほどの年齢になると、東雲は思わず手を伸ばした。


『ママァ……』


 小さな小さな夏織は不安で仕方がないという顔をしている。


 ――大丈夫だ。大丈夫だぞ、夏織……。


 手の中に収まるほど小ぶりな頭をぐりぐり撫でてやる。力いっぱい抱きしめてやれば、涙目だった夏織はキョトンと目を瞬いた。


 ――お前はな、将来こんなに綺麗なお嫁さんになるんだ。頼りになる旦那も見つかる。仲間もいっぱいだ。なにも心配することはねえ。お前の道は希望の未来に繋がってんだ。


 幼い夏織の頬が薔薇色に染まった。ぱあ、と顔を輝かせ――。


『ぜんぶ、しのめめがいっしょにいてくれたからだね! ありがとう! だいすき……!』


 小さな腕で力いっぱい東雲を抱きしめた。


「さあ、指輪の交換を」


 清玄の声が聞こえてハッと顔を上げた。

 いつの間にやら婚姻の儀式が進んでいる。現し世では見られない幽世独自の形式だ。あやかしの世では神に永遠の愛を誓わない。立ち会ってくれた仲間たちに幸福を約束する。


 やがて、夏織の指に水明が誓いの指輪を嵌めた――その瞬間。


 列席していたあやかしたちが、行灯や提灯の中に入れた幻光蝶を一気に解き放つ。自由を得た蝶たちは、ふわふわと夏織と水明の周りに集まった。ふたりの周囲を舞い飛ぶと、やがて群れとなって空へ帰っていく。まるで光の帯だ。天まで突き抜けた蝶の帯は――新米夫婦の行く末を祝福してくれているようだった。


 蝶が作り出す光景に東雲が見蕩れていると、ふと遠くに場違いな格好をした人物がいるのに気がついた。三度笠に縞合羽。今どき珍しい旅装を着た老人だ。その人は目をキラキラ輝かせて蝶の群れを眺めていたかと思うと、そそくさと背を向けて去って行く。きっと、なにかしら創作意欲が刺激されたに違いない。


 ――馬琴。俺はやったぞ。夏織の父親としてやり遂げた。


 誇らしい気持ちでいっぱいになって、泣き笑いを浮かべる。腹の底に今まで積み上げてきた経験という種が、発芽する瞬間を今か今かと待っているのがわかった。


 果たして東雲は〝本物〟になれるのか。試練の時はすぐそこだ。


 だが今は――美しい光景を目に焼き付けておこう。

東雲は晴れやかな気持ちで笑ったのだった。


***


 東雲さんは新しい夏を迎えることなく生涯を終えた。


 あやかしは死を悼まない。魂が巡り巡って戻ってくるのを知っていたし、再び出会えるまで待てるほど長命な者が大半だったからだ。


 なのに東雲さんの死後、貸本屋を大勢のあやかしが弔問に訪れた。東雲さんとの思い出を語り、手向けだと本を借りていく。東雲さんの死を悼む余裕がないくらいの忙しさだった。意気消沈していた私には、ちょうどよかったのかもしれない。客足がようやく落ち着いた時には、すでに秋の気配が濃厚に漂っていて、虫干しだ棚卸しだとまた忙しくなったから。


 水明と一緒に暮らすための準備も進めている。わが家はそう大きくないから、東雲さんの部屋も整理しなければならない。本当は手を着けたくなかった。養父の気配をずっと感じていたかった。だけど、終着点に到着してしまった東雲さんとは違い、私の前にはこれからも進むべき道が続いている。いつまでも放置しておくわけにはいかない。


 ――それにしても、東雲さんは〝本物〟になれたのだろうか。


 私の胸の中にはずっと疑問が渦巻いていた。東雲さんが、死の直前まで夢中になってなにかを書き続けていたのは知っている。だけど、遺品を整理していてもそれらしい原稿は見つからなかった。結局、東雲さんは物語を一から創作できたのだろうか。養父の親しい友人たちも知らないらしく、真実は誰にもわからないままだ。


 ある日、水明とふたりで東雲さんの部屋の片付けをしていた時だった。

 押し入れの奥に古びた木箱を見つけた。不思議に思って開けてみる。


「……あっ! 懐かしい」

「ダイダラボッチの件以来だな」


 中に入っていたのは『竹取物語』だ。ページを繰ると空中に絵が浮かび上がるという特別製で、あまりにも泣き止まない私に困った東雲さんとナナシが作り上げたという一点物。


「ないと思ったらこんな場所に仕舞い込んでたんだ」


 懐かしさに胸を熱くしながら本を取り出す。

すると、下にもう一冊本が入っているのを見つけた。


「『幽世貸本屋奇譚』……?」


 不思議に思いながら表紙を撫でる。作られてから間もないらしい。紙は白く、糊の匂いがした。きっちり装本され、カラーの表紙までつけられている。表紙をまじまじと眺め、たまらず水明と顔を見合わせた。


「なあ、これ。ここの店じゃないか」

「うん……」


 水明の言葉に頷く。入り組んだ作りをした古い日本家屋。壁際にはずらりと本棚が並び、あちらこちらで幻光蝶が舞い飛んでいる。東雲さんと過ごした店の雰囲気そのままだ。表題にある『幽世貸本屋』とはまさかうちの店なのだろうか……?


 表紙には更に気になる部分があった。


「ねえ、この子たち」

「……似てるな」


 表紙にはふたりの人物と一匹が描かれていた。ひとりは本を手にして座る少女。かたわらにふてぶてしい顔をした黒猫を携えている。もうひとりは白髪の少年だ。どこか遠くを見て佇んでいる。


「私たちだよね? たぶん……」

「黒猫のしっぽが三つ叉でオッドアイだ。たぶん、そうだと思う」


 ――もしかしたら。


 ドキドキしながら表紙をめくった。瞬間、淡い光が本の中から溢れ出す。

 この本も『竹取物語』と同じ仕様のようだ。二度と同じものは作れないといっていたのにと驚きながらも、映し出され始めた物語を眺める。


「…………」


 私と水明は言葉を発することもできずに、本が描き出す物語に夢中になった。

 内容は、貸本屋を営む少女と幽世に迷い込んできた少年の成長譚だ。

 ふたりは日本中を駆け回り、物語を必要としているあやかしたちに物語を届け続ける。苦労することもあった。辛いこともあった。だけど――互いを支え合うように寄り添い合ったふたりは、ひとつひとつの問題を確実に解決していく。


 やがて物語は終局を迎えた。ふたりは黒猫と黒い犬と一緒に歩き始める。道の先には眩い光が見えた。彼らは笑顔を浮かべ――果てなく続く道へ足を踏み込む。


「……東雲さん」


 物語が終わった時、私の頬は自然と濡れていた。

 奥付を指で撫でる。発行年月日は、東雲さんの最期の日から少し前のことだ。


 ――養父は物語を完成させていた。


 その事実に胸が震えて、私はまた涙を溢れさせた。


「頑張ったね……」


 ぽつりと呟いて、しかし寂しくも思う。この話が私たちをモデルにしているのは間違いない。なのに、物語の中には東雲さんらしきキャラクターがいなかった。私の人生には東雲さんという存在は欠かせないものなのに。どうしてだろう。自分を登場させるのが恥ずかしかったんだろうか?


 本を抱きしめて泣いていると、水明が驚いたように目を見張った。


「夏織」


 水明が裏表紙を指している。どうしたのだろうと本を裏返せば――。


「ああ……!」


 私はたまらず歓喜の声を上げた。

 表紙から続く一枚絵。二匹の烏と紅い斑のある黒犬と一緒に、見慣れた東雲さんの部屋が描かれている。そしてそこには――。


「お父さん」


 黙々と執筆を続ける東雲さんの姿があったのだ。


「絵の中でまで執筆してるなんて。フフ……」


 笑いながらしゃくり上げる。いろんな感情がこみ上げてきてたまらない。


 すると、水明が肩を抱いてくれた。体を預けてしみじみと表紙絵を眺める。一体誰がこんな仕掛けをしたのだろう。よくよく絵を眺めていれば、「T」というサインがあった。


「玉樹か。遠回しだな。アイツらしい」


 表紙は玉樹さんが亡くなる前から制作を進めていたのだろう。完成前の物語の表紙を作るだなんて苦労しただろうに。


「すごい。すごいなあ。東雲さんは本当にすごい」

「ああ。そうだな」


 私たちは固く手を繋ぎ合った。東雲さんの贈ってくれた物語のように、私たちはこれから手と手を取り合って前へ進まなければならない。


大切な人たちが遺してくれた最後のプレゼント。


私たちはうっとりと目を瞑ると――養父が綴った物語の余韻に浸ったのだった。

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