表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
162/167

真贋問答6

 悩ましい日々が続いていく。


 泣きじゃくる夏織を必死に慰め、こぼした食事を必死に片付け、気休めに星を見に行ったり、今まで見向きもしなかった菓子を買ってみたりした。


 夏織はますます東雲に懐いた。ニコニコ東雲の後をついて回る。カルガモの親子だと揶揄したのは一体誰だったか。馬琴と住み始めた頃の東雲のようだと笑われもした。


 時が経つにつれて東雲は変な気持ちになった。

 夏織の世話を続ける日々は思いのほか充実している。文机の前に座り、なにも生み出せないまま悶々としていたあの頃よりかはよっぽど生きている実感があった。


「しのめめ! 見て」


 口の周りをケチャップだらけにした夏織が誇らしげに胸を張っている。


「おお。ちゃんと全部食えたのか。えらいなあ」


 少女は日々成長していた。少しずつ幽世の環境にも慣れてきて、しかし東雲のそばから離れると不安定になるのは相変わらずだ。


「しのめめ、どこお……」

「便所くらいゆっくりさせてくれよ……!」


 些細なことで何度も頭を抱える羽目になった。だが、それすらも面白く思う。


「まるで本当の父親みたいね」


 ときおり、ナナシが冗談交じりに茶化してきた。そのたびに東雲の胸は重くなる。


「偽物の父親なんていらねえだろ……」


 どうせ、現し世に本当の親がいるはずだ。そう思うほどに東雲の中に苦いものが広がっていく。夏織が自分に信頼のこもった視線を向けるたびにやりきれなくなった。


「……夏織に親はいなかったわ。頼れる親戚も。面倒を見られる人間はいなかった」


 そんなある日のことだ。黒猫が決定的な報告をしてきた。

一緒に話を聞いていたナナシも珍しく動揺したようだ。


「どういうこと!? 手がかりが見つかったって言ってたじゃない!」


 黒猫が秋田へ通っていたのは全員が知るところだ。『子どもを捜しています』というチラシも見つけた。だのに、母親がいなかったとはどういうことだろう。


「確かに手がかりはあった。でも――母親はいなかったのよ。それしか言えない」


 黒猫の口調は頑なだ。夏織のそばに寄るとフワフワの体を擦りつける。


「この子のことはあたしが守るわ。でもね、あたしは猫なの。人間の世話はできない。だからお願い。このままこの子を貸本屋に置いてやってくれないかしら」


 じいとオッドアイが東雲を見つめている。黒猫の目は本気だ。


「にゃあちゃん?」


 夏織が首を傾げた。黒猫は耳をピクピク動かすと「にゃあさんでしょ」と指摘する。黒猫の口調は以前と打って変わって穏やかだ。なにかあったのだろうとは察せられるが、火車の思うところまで東雲にはわからない。

 東雲はナナシと顔を見合わせた。夏織の世話をしているのは、なにも東雲だけではない。ナナシの負担もかなり大きい。彼の家業は薬屋で貸本屋ほど暇ではないのだ。


「……そう」


 ナナシは肩を竦めると、ぽつりと呟いた。


「このまま〝家族ごっこ〟を続けるしかないってことね」


 瞬間、東雲はたまらず顔をしかめる。〝ごっこ〟という言葉がやたらと耳に残った。

〝ごっこ〟――つまり真似ごとだ。本当ではない。つまり……〝偽物〟の関係。


 ナナシはぱさりと緑色の髪をかき上げた。大きく深呼吸をして不敵に笑う。


「上等じゃない!」


 ニッと笑んだナナシは、興奮しているのか頬が紅潮していた。


「望むところだわ。アタシ、ずっと家族がほしかったの。決めた。今日からこの子はアタシの娘よ。愛情をたっっっっぷり注いで、誰よりも素敵なレディに育ててみせる。絶対に離さないわ。この子が倒れそうになったらアタシが支えてあげるの。苦しい時はそばにいてあげる。夏織が誇れるような母親になってみせるわ!」


 ギュッと夏織を抱きしめる。「ん~?」と目を白黒させている夏織に、ナナシは熱烈なキスを見舞った。勢いそのままに東雲を指差す。


「東雲! アンタが父親なんだからね!」

「お、俺が!?」

「当たり前じゃない! ちゃんとしなさいよ。確かにこれは〝ごっこ〟よ。だけど、この子がちゃんと成長できるかはアタシたちにかかってる。責任を持ってやらなくちゃ」

「…………」

「この子の本当の父親になってあげて」


 ナナシはひとり張り切っている。困り果てた東雲は黒猫に声をかけた。


「おい、黒猫……」

「ちょっと。その呼び方はやめてくれる? あたしは〝にゃあ〟よ」

「お前……あんだけ嫌がっておいて」


 ツンとそっぽを向かれた。黒猫とナナシはふたりで盛り上がっている。話題に乗り遅れた東雲はぽつんと取り残された格好になった。


 暗澹たる気持ちになる。東雲はひとり唇を噛みしめたのだった。




 数日後の夜のことだ。ナナシがいない日に限って夏織のぐずりが止まらない。


 もう寝る時間だというのに夏織は泣きっぱなしだ。絵本を読むのも拒否され、抱っこしていても暴れるばかり。気分転換になればと店の外に出る。


「やだあああああああああ! きゃああああああああ!」


 静まり返った幽世の町に夏織の声が響いている。どこからか幻光蝶が寄ってきた。淡く光る蝶が心配そうに夏織のそばを飛んでいる。


「落ち着け。落ち着けってば……」


 いつもなら、ゆらゆら揺れながらあやせば泣き止んでいた。辛抱強く待ち続ければ、やがて泣き疲れて眠るのが常だったのに、今日に限って鎮まる様子がない。幽世に夏織が来てから数ヶ月。以前より体力がついたのかもしれない。


「ママ……ママ……ママ……」


 ――勘弁してくれよ……。


 げんなりしながら夏織をあやし続けるが、まるで終わりが見えない。だいぶ夜も更けていたし、東雲自身くたびれきっていた。早く休みたい。ひとりの時間を満喫したい。けれども相変わらず夏織は騒ぎ続けている。ママ、ママと居もしない母親を求め続ける少女に、ほとほと嫌気が差してきた。


「ママあああああああああ……」

「ああ……! ちくしょう!!」


じわじわと黒い感情がわき上がってきた。延々と終わりが見えない育児にも、〝本物〟になれそうにもない自分の未来にも。だから――つい、厳しい言葉が口から出た。


「ママはいねえ! 諦めろ。ここには俺しかいねえんだよ……!」


 一瞬だけ、夏織の泣き声が止まった。泣き止んだかと思えば、


「ぎゃああああああああああああ……!!」


 先ほどまでより更に強烈な声で泣き始める。幼児とはいえ、三歳ともなれば相手の言葉を理解できる。「ママはいない」という事実に感情を爆発させたに違いなかった。


 ――やっちまった……。


 心底後悔して夏織を抱き直す。ふとナナシの言葉が蘇ってきた。


『この子の本当の父親になってあげて』


 ふるふるとかぶりを振った。なにが父親だ。子どもひとりあやせない自分に父親など務まるものか。くしゃりと顔をしかめていると、途端に夏織を重く感じた。今にも取り落としそうになって、慌てて腕に力をこめる。


「うあああああああん……」


 夏織は暴れ続けている。まるで東雲の手から逃れようとしているかのようだ。


――もう無理だ。俺に育児なんてできない。


じわりと涙腺が熱を持った。視界が滲む。心がどうしようもなく弱っている。


――俺はコイツの〝本当の〟父親じゃないんだ。偽物になにができる。


すべてを投げ出したくなった。が、幼児を放り出すほど無情にはなれない。


 ――ああ! 本当に俺は中途半端だ。


創作だって、夏織の世話だってろくにできやしない。己の意志を貫き、なにかを成し遂げる〝本物〟たちとは正反対だ。なにもかも諦めきれない。だのに頭ひとつ抜けることもできずに、ズブズブと沼の底へ沈み込むまがい物……。


「ちくしょう」


 どうしてこうなったのだろう。


「ちくしょう……」


 自分はただ〝本物〟になりたかっただけなのに。


「ちくしょおおおおおおおおおおおおお……!!」


 ため込んでいた感情が爆発する。ボロボロと熱いしずくが瞳からこぼれた。まるで癇癪を起こした子どものように喚き続ける。流れた涙は腕の中の夏織まで濡らしていく。


「……しのめめ?」


いつの間にやら夏織は泣き止んでいた。キョトンと東雲を見つめ、不思議そうに目を瞬いている。やがて小さな手が動いた。小さな、小さなふくふくとした手だ。それは東雲の頭に伸びると、優しく撫で始めた。


「なかない。だいじょうぶだから。なにもこわくないよ」


 それは東雲が夏織に何度も投げかけていた言葉。真似をしているのだろう。その慰めが最も効果的だと思っているのだ。なぜだかその事実がたまらなく愛おしくて。

 ぐっと奥歯を噛みしめると、情けない顔をしたままぎゅうと夏織を抱きしめた。


「……ごめんな、偽物の父ちゃんで。ごめんな、ごめん。ごめん……」

「んん……。しのめめ、苦しい」


 夏織が苦しげに暴れている。だのに、どうしても腕の力を緩められる気がしなかった。

手を離してしまえば、とうとう自分は救いようのないなにかに変わり果ててしまう。そんな予感がしたからだ。


「まったく。相変わらず不器用な奴だ」


 その時、東雲の耳に聞き馴染みのある声が届いた。

 心臓が軽く跳ねる。そろそろと振り返れば――三度笠に縞合羽を着た老人がいる。


「馬琴」


 震える声で呼べば、馬琴は日に焼けた顔を歪めて笑った。


「執筆は捗っているか。弟子」


 東雲は息を呑んでふるふると首を横に振った。


「なんにもわかんねえ」

「だろうな」


 馬琴が静かに笑っている。夏織は東雲と馬琴ふたりを見合わせると、


「あのおじいちゃん、だあれ?」


 と首を傾げていた。





 部屋に戻った夏織は、泣き疲れたのかすんなり眠ってしまった。壁に寄りかかってぐったりした体を労っていると、旅装を解いた馬琴は東雲の正面に座る。


「なにがあった」


 言葉少なに問われ、東雲はこくりと頷いた。

 そして語り出した。執筆が行き詰まっていること。物語を書ける気がまるでしないこと。ある日、女の子を預かることになり苦労していること……。


「子どもの面倒を見てると一日があっという間に過ぎちまう。他になにも考えられねえ。自分のことをできないうちに日が暮れちまう。執筆をしなくちゃって焦っているのに、そんな余裕なんて欠片もなくて。まあ、一時的なことだしいいかって思ってたんだが……」

「娘をずっと育てることになった?」

「ああ! ……コイツの親はもうどこにもいねえんだと」


 馬琴の表情が険しくなった。すやすやと眠る夏織の寝顔を痛ましげに見つめている。

 東雲は固く拳を握ると、苦しげな思いを絞り出すように吐き出した。


「今の俺はなにもかもが中途半端だ。どうしてこうなったんだろう。〝本物〟になりたい。ただそれだけなのに」


 ぴくりと馬琴の眉が上がった。視線を宙に惑わせると、ボソボソと東雲へ訊ねる。


「……前から気になってた。どうしてそんなに〝本物〟にこだわる?」


 かあ、と東雲の顔が赤くなった。勢いよく俯き、固く拳を握りしめる。

思えば馬琴にすら自身が贋作であることを告げていない。実際のところ、玉樹や遠近、ナナシにも明かしていなかった。贋作である事実が恥のように思えて隠していたのだ。


 強く、強く拳を握りしめる。白くなってしまった手を見つめて、大きく息を吸う。

死ぬまで隠し通すべきだと思っていた。

 だが――馬琴になら明かしてもいいかもしれない。

 自分が初めて見つけた〝本物〟で。名をくれ、師匠になってくれた人になら。


「――俺は。俺は贋作なんだ」


 決心して口を開く。馬琴がわずかに目を見開いた。羞恥と恐怖をまぎらわすように早口で己の来歴を明かす。作られたのは江戸のあばら屋。生みの親は贋作師。円山応挙作というのは嘘っぱちで、〝幸運を呼び込む掛け軸〟という謳い文句も詐欺師がでっち上げたもの。


「なのに、どうしてか俺は真作になっちまった。偽物なのに、金を掴まされた鑑定師が〝本物〟だって言ったせいで――」


 こくりと唾を飲みこんだ。馬琴の視線が怖くて顔が上げられない。


「本当なら贋作として朽ちて終わるはずだった。だが、真作にされちまったせいで俺は大切にされて……なんの因果か付喪神にまでなっちまったんだ」


 だから〝本物〟になりたい。

偽物として生まれ、まがい物の真作にされた付喪神は〝本物〟に焦がれている。


「……ブハッ!」


 そこまで語り終えると、なぜか馬琴が噴き出した。驚いて顔を上げる。馬琴は肩を揺らして、クツクツと喉の奥で笑っていた。


「なんで笑うんだよ。そんなに滑稽か?」


 たまらず剣呑な声が出た。信じていた相手に裏切られたような気持ちになっていれば、目尻に浮かんだ涙を拭った馬琴が、実にあっけらかんと言った。


「いや。お前さんの生みの親が、すげえ奴だと知って感心してただけだ」

「は……?」


 ポカンと口を開けたまま固まる。

馬琴は懐から煙管を取り出すと、葉を詰めて火を着けた。


「贋作であるお前が、真作にされちまったって? 別になんも不思議なことはねえだろう。贋作が真作を越えたってだけの話だ」


 実に美味そうに煙を吸って、ニヤリと不敵に笑った。


「円山応挙は確かにすげえんだろうな。下地になった絵を生み出した応挙はまぎれもなく〝本物〟だ。確かにお前の親は贋作師だった。偽物ってモンはいつかバレるものだ。どこかに綻びが出て、絶対に誰かが疑問に思う」


 二の句を継げずにいる東雲に、なにかを思い出しているのか馬琴は遠い目をした。


「お前がうちに来た時のことを覚えているか」

「あ、ああ! もちろんだ」

「うちにお前の掛け軸を持ち込んだのは、小津桂窓って男だ。奴の審美眼は間違いねえ。商人としても文筆家としても信頼の置ける男だった。儂の……大切な友人だ」


 懐かしげに目を細める。ふう、と白い煙を吐き出した馬琴は、ニッと笑んだ。


「アイツがまがい物を持ってくるはずがねえ。だからお前は〝本物〟だ」

「ま、待てよ! だから、俺は贋作師が作った偽者で――!」

「うるせえな。お前には小津よりも美術品を見る目があるってのか!?」


 一喝されて身を竦めた。ビクビクしている東雲に、馬琴は淡々と話を続けた。


「正直、誰が描いたかなんて些細なことだ。問題はその品がいいか、悪いかだ。儂は己の目を信じるぞ。東雲――」


 馬琴の目が糸のように細くなった。目尻に皺がより、口角が上がって、眉尻が下がる。いつも仏頂面な馬琴の初めて見せたえびす顔。


「お前の絵は、すげえ」

「……!」

「お前さんの生みの親はすごい奴だったに違いねえ。元の絵を儂は知らねえが……きっと、お前の絵よりは迫力で劣るに違いないと思う」


 東雲はあばら屋で懸命に筆を動かし続ける贋作師の姿が思い浮かべた。瞬きひとつせず、息をするのも忘れ、黙々と筆を動かし続ける男。東雲を生んだ男だ。己の作品が贋作であることを誰よりも理解しながら、決して作品作りに妥協しなかった――生みの親。後世に名を残せなかった男の仕事が認められた瞬間だった。

止まったはずの涙が再びこぼれ始める。胸が熱い。嗚咽が漏れてどうしようもない。


「……ば、馬琴」


 ボロボロ涙をこぼしながら、けれども俯かないように必死に耐えた。師匠が大切なことを教えてくれている。そんな時は背筋を伸ばして耳を傾けるべきだろう。

そんな東雲の気概が伝わったのか、馬琴は実に気持ちよさげに話し続けた。


「お前は儂から見れば〝本物〟だ。だが肝心な中身はどうだ。まだまだ甘ちゃんじゃねえか。これじゃせっかくの絵も台無しだ。みんなに大切にされて付喪神になったんだろう。なら、ちゃんとしろってんだ」

「で、でも」


 ぐしぐしと袖で涙を拭う。眉尻を下げた東雲は、迷子のような顔になった。


「どうすればいい。物語も書けない。かといって他に興味も持てない」

「……まったく。お前は本当に不器用だな。もうちょっと周りを見ればいいものを」


 ため息をこぼした馬琴は眠っている夏織を見遣った。


「――いい種だなあ」

「種?」

「これからすくすく育ちそうだ」


 クツクツ笑った馬琴は、じいと東雲を見つめた。


「娘を育てなくちゃならねえなら、育ててみればいい」

「俺が? この子を?」

「お前は外側だけは立派だが、中身はてんで駄目だ。経験が足らねえ。この子は見た目からして幼いな。中身も相応に子どもだ」

「……なにがいいたい?」


 モノクル越しに見つめられ居心地が悪い。たまらず訊ねれば、馬琴はこともなげに言った。


「前にも言っただろう。お前に必要なのは経験だ。なにも考えずにこの子を育ててみろ。自分が偽物だって思うなら、本当の父親に負けないくらいに必死になれ。経験が足りないなら、この子と一緒に増やしていけばいい。そのうち、自然と書きたいものが溢れてくる。無意識に筆へ手を伸ばしてるだろうよ」


 そして馬琴は、東雲に「日記をつけろ」と勧めた。日々の記録を書く行為は、それだけで考えを文字として吐き出す練習になるんだ、と。


「……そういや、アンタも日記魔だったな」

「儂の日記が現し世で本になってるのを見た時にゃあ、ちっと仰天したがな」


 馬琴は上機嫌で笑っている。戸惑っている様子の東雲をちろりと見遣り、


「大丈夫だ。お前なら」


 と、言葉少なに励ました。


「……! そうか。そう、なのか」


 こくこくと何度も頷く。東雲にとってそれがわかっただけで充分だった。否定し続けていた親を認めてもらっただけでもすごいことなのに、更に見えなかった道を指し示してもらったのだ。馬琴の存在のなんと大きなことだろう。彼の弟子になれた事実を誇らしく思う。


「俺……本当に中身も〝本物〟になれるかな?」


 弱々しい声で訊ねる。道は見えたものの、歩き通せる自信はまったくない。

馬琴は小さく笑みをこぼし、己を見つめる弟子に言った。


「その時になってみねえとわからん。この子が大人になって、お前から独り立ちする頃には答えが出ているだろう」


 こくりと頷いた。夏織が大人になるまでずいぶんとある。途方もない。途中で道を踏み外したらと思うと恐怖が募る。でも――やるしかないのだ。

 夏織には自分しかいないのだから。


「……腹が決まったようだな」


 そう言うと、馬琴は三度笠を手に取った。旅装を整え始めた馬琴に東雲は焦りを浮かべる。


「なんだよ、またどこかに行くのかよ。少しくらいはゆっくりしてってもいいだろ!? 夏織にも紹介してえし、それに友だちもできたんだ。貸本屋の客も前より増えた。ナナシも、遠近だって会いたがってる!」


 引き留める東雲に、さっさと支度を終えた馬琴はニッと笑った。


「悪いな。書きたいものが山ほどあるんでね」


 くるりと踵を返す。しかし、一瞬だけ足を止めると、


「そうだなあ。この子が大人になった頃。ちっと覗きにくるかねえ――」


 それだけ言い残して再び旅へ出た。あれから十八年。いまだに馬琴が戻ってくる様子はない。きっと今もどこかで執筆に没頭しているのだ。





それからというもの、東雲は夏織の育児に集中した。


共に笑い、共に泣き、時には父親らしく怒ったりしながら日々を過ごしていく。日記をつけるのも忘れない。夏織が寝静まった後、日々起きた出来事を綴り、時には読み返す。父親らしくできたか、もっといい方法があったんじゃないかと反省をする。東雲の夜はそうやって更けていった。


夏織が十歳になった頃のことだ。東雲は、現し世との関わりが薄くなっていくあやかしの実情を憂いて、なにかできることはないかと模索していた。このままでは、誰にも存在を知られないまま消えてしまうあやかしが出てくる。どうしたものかと頭を悩ませていた時だ。自分の日記を読み返しているうちに、なんとなく筆を執ることへの忌避感がなくなっている事実に気がついた。東雲は、玉樹へあやかしたちの話を集めた『幽世拾遺集』の作成を持ちかけてみる。


「書ける奴がいないから自分で書くと? ……お前にできるのか?」

「俺が創作するわけじゃねえ。たぶん、大丈夫だ」


 それが本作りに取りかかったきっかけだ。『幽世拾遺集』を執筆するかたわら、少しずつ創作の練習も始めた。やはり一から話を創るのは難しい。物語づくりは難航した。だが、以前と違って東雲の心が挫けそうになることはない。なにも焦ることはないのだ。


 ――夏織が大人になるまで、だ。


 愛娘が独り立ちするまでに書ければいい。

 夏織への愛情と共に、創作の種をじっくりと根気強く育てていく。


『東雲さんがなりたいものがなにかはわからないけど、それになれるように協力する!』


 ある夏の終わりの日。夏織にそう言われた時は、本当に驚いた。

 東雲が〝本物〟になりたいという願いを抱え続けている事実を、無意識に感じ取ったのだろう。幼子の願いはしみじみ心に沁みて、健気に自分を想ってくれている娘が本当に愛おしくてたまらなかった。温かいものに全身が満たされ、充足感で泣きそうになったくらいだ。


『もしも、俺になにかなりたいもんが見つかったら、そん時はよろしくな』


 答えた声は震えていなかっただろうか?

父親なのに情けない声になっていなかっただろうか?

いつか――成長した夏織に聞いてみたいと思った。


更に時は流れ、少女だった夏織は立派な女性になった。なにもできなかった幼子は、いつしか東雲の世話を焼くまでに成長した。背も伸び、女性らしい体つきになった。いろんな経験をして、恋をして、好きな相手をも見つけてしまった。


少しずつ。少しずつ東雲の手から離れていく。自立していく。


今の夏織は誰が見たって立派な大人だ。もう守られるだけではない。これからはきっと、自分のための家族を作っていくのだろう。


 だから、唐糸御前に「もう直らない」と言われた時も、東雲はそうショックを受けなかった。予感していたというのもあるが、己の中に撒いた種が確かに芽吹いている実感があったからだ。もう少し。あとちょっとで――新しい、自分だけの物語を生み出せる気がする。


実のところ、東雲の中にあった〝本物〟への渇望は薄れていた。


今の自分は――夏織にとって〝本当の〟そして〝本物の〟父親になれていると感じていたからだ。愛する娘を置いて逝く事実は寂しくもあった。だが、なによりも自分の中で育んできた物語への期待感でワクワクしていたし――。


命が燃え尽きる瞬間に新しい物語を生み出すなんて、ものすごく〝かっこいい〟じゃねえか、なんて思っている。


***


「……だから永遠はいらないの?」


 長い、とても長い話を語り終えた東雲に、夏織は震える声で訊ねた。

 東雲は長火鉢に視線を落とすと「ああ」と言葉少なに頷く。


「俺は付喪神としての生の最期に、とっておきの物語を創り上げるんだ」

「馬鹿っ! 馬鹿、馬鹿、馬鹿!」


 夏織に腕を掴まれる。ガクガク揺さぶられて、東雲はたまらず苦笑してしまった。


「それでも、一緒に居てほしいって願うのは私のわがままなの……?」


 絞り出すような夏織の声を聞いた途端に真顔になる。俯いたままの夏織の表情は窺い知れない。でもきっと――今までで一番苦しんでいるのだろうことはわかった。


「わがまななのは俺の方だ」


 夏織の頭に手を伸ばす。ポン、ポン、ポン。優しく叩いてやれば、夏織の肩が大きく震えた。夏織の手が東雲の袖を掴んだ。ぎゅう、と皺になりそうなくらいに握られて、小さい頃と変わんねえなあとしみじみ思う。


 それきり、夏織は黙りこんでしまった。ナナシや水明は言葉を発することすらできない。


 いつもは騒がしくて仕方がない幽世の居間に静寂が満ちている。


――ぱちん、と長火鉢から音がした。

 ぱちん、ぱちん、ぱちん。炭と一緒に夏織と東雲の想いも淡く爆ぜた。





 その日の晩、東雲が眠る準備をしていれば、珍しく夏織がやってきた。手にはボロボロになった絵本を抱えている。


「……ねえ、東雲さん。本を読んでよ」


 成人した娘が、どういう想いでそれを口にしたのかはわからない。東雲はこくりと頷いて、自分の布団の隣にもう一組用意した。


 ごろりと並んで寝転ぶ。それは、ネズミの兄弟がパンケーキを作る本だ。擦りきれるほどに何度も呼んだ本を、幼い頃と同じように読んでやる。夏織はじっと東雲の声に耳を傾けていた。無言で文字を追う夏織の瞳に、行灯の光が映り込んでいる。まるで目の中に宇宙があるみたいだと思うのは、いささかロマンチックが過ぎているだろうか。


 やがて美味しそうなパンケーキが出来上がった頃。


 ふと隣を見遣ると、夏織が背を向けていることに気がついた。


「……寝るか」


 行灯の蓋を外せば、ふわりと蝶が逃げていく。薄く窓を開けてやる。パタパタと外へ出て行く蝶を眺めていると、小さくすすり泣く声が聞こえた。


 ――ごめんな。


 そう口にしようとしてやめた。

 自分なりの信念がある。だから最期を決めた。謝ったらすべてを否定したのと同義だ。それだけは絶対にしてはいけない。


 窓の外へと視線を向ける。夜も更けた幽世の町は、外を歩くあやかしも少ない。視界の中に目当ての人物を見つけられずに落胆する。東雲はそのまま布団の中に潜り込んだ。


 翌朝。目が覚めると隣の布団はもぬけの殻だった。


 バリバリと頭をかく。適当に布団を片付けると、


「やるか」


 東雲は文机の前に座って墨をすり始めたのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ