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真贋問答5

 網に載せられ、炭で炙られたせんべいの表面が、ぷくんと膨らんだ。ナナシが刷毛で醤油を塗っていく。部屋の中は香ばしい匂いで満ちていて、誰かがごくりと唾を呑んだ。


「お前の創作のルーツは馬琴だったんだな」


 水明がこぼすと、東雲は照れくさそうに頭を掻いた。


「そうだ。東雲という名もあの爺さんがくれた。ワクワクしたなあ。俺も馬琴のような〝本物〟の仲間入りができるんじゃねえかと嬉しく思った」

「……〝本物〟にはなれたのか?」


 問いかけに東雲はかぶりを振った。


「確かに馬琴は〝本物〟だ。創作が奴を〝本物〟たらしめているのは間違いねえ。だけど――俺も同じになれるかってえと話が違うだろ?」


 苦く笑う。


「あの頃の俺は本当に世間知らずだった。馬琴と同じようにしていれば、自動的に〝本物〟になれるような気がしてたんだ」


遠くを見つめて語る東雲に、ナナシは肩を竦めた。


「あの頃のアンタは荒れてたわねえ。上手く文章が作れないって大暴れしてた」

「仕方ねえだろ。いざやってみたらまったく書けなかったんだ」


 東雲は照れくさそうに笑って、遠くを見遣った。


「なんでだろうな。文字を綴るだけだぜ? 簡単にできると思ったんだがなあ」


 その理由は馬琴が教えてくれた。


『東雲、物語を綴るにはなにより〝心が動いた経験〟がいる』


 当時、馬琴は噛みしめるように語った。


『なんでもいい。感動したり、怒ったり、悲しくなったり、面白く思ったり……。人間の行動にはもれなく感情がつきまとうだろ? 感情なしには人は動かないんだ。それを描くためには、経験っていう種がいる。種がないとなにも生まれない。なにも知らないままじゃ、頭の中に像を造ることすらできない』

『……それが足りねえって?』

『そうだ。生まれたてのホヤホヤ。お前は赤ん坊みたいなもんだろう。普通はな、幼少期からの積み重ねがある。お前にはそれがない。世界を知らなすぎる。だのに世界を創ろうなんて、ちっとばかし焦りすぎてるんじゃないか』


 人は一本の木だ。

〝経験〟を得るに従って、徐々に枝葉を伸ばしていく。


 なにになるかは自由だ。枝を切って新しい道具を創ってもいい、鳥が休みやすいように枝を太くしても、葉をたくさん散らして大地を肥やしてもいいのだ。


『創作ってのはな、果樹が実を結実させるのに全力を注ぐようなもんだ』


 経験と妄想を混ぜ合わせ、独自の感覚で果実を枝先に実らせる。ぽとんと落ちた実がどんな芽吹き方をするのかは創作者にだってわからない。わかっているのは、命を削ってまで努力を積み重ねないとろくな実にならないということだけだ。


『物語を生み出すってのは、誰かの人生を創ってやるってことだ。生半可な覚悟じゃできねえ。時々……頭が変になったのかと思う時がある。周りから音が消えて、そこにあるのは自分と筆と紙だけになる。指先から物語がスルスルと出て行って、勝手に文字になりやがる。……すると、ふと息苦しくて正気に戻る。息をするのも忘れていたらしい。生きるのに絶対に必要なことすら忘れて、ただ――頭の中にある妄想を〝本物〟にする作業に没頭する。そのためには、経験の引き出しを簡単に開けられるようにしておかないと駄目だ』


 馬琴にしてはずいぶんと長い語りだった。それだけ創作に対して強い想いを抱いていたのだろう。


『〝本物〟……』


馬琴の静かな語りに東雲は泣きたくなった。物語を創ってみたいのに、自分にはなにもかもが足りない。もどかしい。苦しい。書きたいという想いばかりが溢れる。


ふと、あることに気がついた。


――物語が書けないのは、経験が足りないんじゃなくて。


『……俺が〝偽物〟だからか?』

『東雲? なにか言ったか』


 ふるふるとかぶりを振る。東雲は天井を見上げて途方に暮れた。


『クソッ! 俺は一体、いつになったら物語を創れるようになるんだろうな』


 情けない声を上げた東雲に、馬琴は優しく声をかけてくれた。


『都合がいいことに、あやかしってもんはずいぶんと長命なようだ。焦る必要はない。ひとつひとつ経験していけばいいんだ』


 馬琴の言葉はいつだって優しい。だが容赦がない。


『一度やると決めたんだ。絶対に諦めるなよ』


 思い返すたびに東雲は笑ってしまう。ああ、馬琴と出会えてよかったと心から思う。


「――馬琴は俺に辛抱強く付き合ってくれた。俺は貸本屋の仕事の手伝いをしながら、少しずつ物語の作り方を学んで行ったんだ。あやかしの中には馬鹿にする奴もいた。なにせ、元々人間でもなかったあやかしが創作するなんて前代未聞だったからな」


 創作は人間がするもの。

 そういう考えが長らくあやかしたちの中にあった。


「その思い込みを打破したのが『幽世拾遺集』か」


 東雲と玉樹が創り上げた本。執筆者はまぎれもなく付喪神の東雲だ。

 水明の言葉に、東雲は苦笑を浮かべた。


「いや――……。あれもまだ、俺の物語とは言えねえ」

「どうしてだ? 本を出したんだろう」

「考えてもみろよ。拾遺集ってのは、他人の話を集めたもんだろ?」

「……あ」

「確かに俺の解釈やら紹介文なんかも載せてある。だけどな、まだ……創作した物語を本にしようって勇気がなかったんだ」


 ふう、と東雲はひとつ息を吐いた。目尻に皺を作って優しげに微笑む。


「とはいえ、拾遺集を出すのだって勇気がいったんだぜ。自分の文章が、他人が読むのに耐えられるレベルなのかわからなかった。馬琴は書き方を教えてはくれたが、内容の批評はしてくれなかったからな。それでも『幽世拾遺集』を出そうって思えたのは、玉樹っていう仲間を見つけられたことと――」


ふいに階段へと視線を向ける。


「お前がいてくれたからだよ。夏織」

「…………」


 いつの間にやら夏織が階上から下りてきていた。なにか物言いたげな顔をして、じいっと東雲を見つめている。夏織の姿を見つけたナナシはぱっと顔を輝かせた。


「あらあら! やっと下りてきた。おせんべいを焼いた甲斐があったわ」

「うっ……。もしかして私をおびき寄せるために?」


 辺りには焦げた醤油の匂いが充満している。夏織でなくともそそられる匂いだ。


「ウフフ。天岩戸を開ける方法はね、大昔から変わってないのよ。ほら、焼きたてが一番美味しいわ。座って食べましょう?」

「……うう。釈然としない」


 夏織が顔をしかめた。久しぶりに見た愛娘の顔に東雲はたまらず笑みをこぼす。同時に、苦しくも思った。少しやせたような気がする。自分の死の影響を実感して黙りこむ。


 俯いて長火鉢を見つめ始めた東雲に、夏織はひとつ息を吐いた。東雲の隣まで来ると、すとんと座った。肌と肌が触れ合うほどの距離だ。子どもが親に甘える時のような近さ。


「……なによ。私も最初から聞きたかった」


 唇を尖らせた夏織に、東雲は朗らかに笑った。


「ちゃんとおめえにも話そうとは思ってたけどな」

「……水明ばっかり先に聞くの、ズルくない?」


 夏織の言葉に水明の瞳が揺れた。内心動揺しているらしい少年をおかしく思いながらも、夏織の頭を撫でてやる。


「俺はどっちでもいいと思うがなあ。悪かった。謝るから」

「あら! アタシには謝らなかった癖に」

「うるせえぞ、古女房」


 ナナシを軽く睨む。すると夏織が東雲の袖を引っ張った。上目遣いで訊ねる。


「曲亭馬琴がうちにいたなんて初耳なんだけど。会ったことないし。まさか……」


 なにやら余計な勘ぐりをしているらしい夏織に東雲は苦笑した。


「別になにもねえよ。爺さんはな、紀行文を書きたいっつって旅に出たんだ」

「紀行文って……旅行記みたいな?」

「そんなもんだな。元々旅が好きだったみたいだ。貸本屋の店主の座を俺に押しつけて、とっとと創作の旅に出ちまった。十年単位で戻ってこねえからなあ。夏織が知らねえのも仕方がないが……本当に創作のことしか頭にねえんだ。さすが〝本物〟は違う」


 途端に夏織の表情が曇った。


「寂しくないの? 育ててくれた人でしょ?」


 自分の状況と重ねているらしい。東雲は娘を愛おしく思いながら笑った。


「ちっとは寂しいけどな。あの爺さん、不思議と俺ひとりじゃにっちもさっちもいかなくなりそうな時に顔を見せるんだぜ。ひょっこりとな。何度助けられたか……」


 馬琴の旅装は江戸時代から変わらない。三度笠に縞合羽。振り分け荷物に小袖をまくって脚絆を履いている。困り果てた時にその姿を見つけると心底ホッとする。自分の中にある馬琴の存在の大きさを感じる瞬間だ。


「――前に帰ってきたのは、夏織を拾ったばかりの頃だ。聞きたいか?」


 こくりと夏織が頷いた。

 口を開きかけると、東雲の話に夏織が耳をそば立てているのがわかった。

 ひどく懐かしい気がして、自然と顔が綻ぶ。


 ――ああ、まるで小さい頃に絵本を読んでやった時みたいだ。


***


 物語の描き方を学び始めた東雲はすぐに行き詰まってしまった。


 原稿を前にしてもなんの物語も溢れてこない。筆は止まったまま、つまらないアイディアばかりが浮かんでは消え、紙を墨で汚しては捨てるを繰り返していた。


馬琴は決して面倒見のいい師匠とは言えなかった。ある程度の基本を教えたら、あとは好きにしろと言わんばかりに旅に出てしまったのだ。貸本屋店主の座を押しつけられた東雲は途方に暮れ、しばらく怒った後――馬琴らしいなと笑ってしまった。


なりゆきで任された貸本屋の仕事だったが、非常にやり甲斐があった。本来なら届かない場所に物語を届ける仕事は面白く……少しだけもどかしい。自分が本当にしたいこととズレているからだろう。東雲はいまだに〝本物〟になるという夢を捨てきれないでいた。


〝本物〟は、鳥肌が立ってしまうほど凄絶な生き様をしている。なにかに夢中になりながらも、世の中に価値のある作品を生み出し続ける才能を持った存在。


 ――いつか〝本物〟になれたら。


 憧れは日々強くなって行き――いつかっていつ来るんだよ、と諦めが広がっていった。

 別に〝偽物〟のままであってもなんら生活に支障はなかった。誰もが穏やかな日々を願う世界の中で、自分がおかしいのかと思い始めるくらいだ。


 ――やっぱり〝贋作〟として生まれたから〝本物〟になれねえのかなあ。


 絶望的な考えが何度も頭を過る。そのたびに必死に否定した。〝本物〟になるためには、創作以外の道もあるかもしれないじゃないか。そう思うのに、創作や物語以上に興味が湧く対象を見つけられない。脳裏に浮かぶのは、一心不乱に机へ向かう馬琴の背中。そして――思い出すのも忌々しい、己を生み出した贋作師が絵を描いている姿だ。


気がつけば、なにもかも中途半端になった。文机の上は散らかり放題、筆は乾いたまま放置され、硯の上にはうっすらと埃が積もっている。


「葛藤は登場人物に必要な行為だ。乗り越えられたキャラクターは強い」


 玉樹と知り合ったのもちょうどその頃だった。


 いつも陰鬱な表情を浮かべ、なにを考えているかわからない。物語屋なんて怪しすぎる家業を営み、物語になぞらえて話をする。古きものを憎み、新しいものが正義だと信じる男は、いつだって永遠の命を捨てようとあがき続けていた。


 お互い創作に関わってきたからだろう。玉樹とは不思議と話が合った。


「誰しも夢中になっていたものに嫌気が差す瞬間がある。今はそういう時期なんだ」


 筆を握ることすら辞めてしまった東雲に、玉樹は語った。

 渋い顔で酒を飲んでいる東雲を眺め、サングラスの向こうで目もとを和らげる。


「だが、体の芯から創作を愛しているのなら」


 ぐい、と酒を呷る。ちらりと己の右手に視線を注いだ。


「否が応でも戻らざるを得なくなる。今は休んでいればいい」

「……そういうもんかねえ」

「そういうものだ」


 一生涯をかけて創作に取り組んだ男の言葉はやたら重く、馬琴同様に容赦がない。


「再び書きたくなったらすぐに言え。読んでやろう。ケチョンケチョンに貶してやる。それでも創作を続けるというなら、本を作るまでの道筋を整えてやってもいい」

「……えらそうに」

「ハハッ! 創作者というものは、たいがい新参者には厳しいものだ」


 玉樹と過ごす時間は東雲にとって他では得がたいものだった。東雲にとって玉樹は初めてできた友人だ。一緒にいるとなんとなく落ち着く。やがてそこに遠近が加わった。


「なになに? しみったれた顔をしてなにを話しているのかな。いい女の情報だったら東雲なんかより僕に優先してほしいんだけど?」

「出たな、河童野郎。新宿に女ができたんじゃなかったか? ぞっこんだったろ? ずいぶん惚気てたじゃねえか」

「東雲ったら野暮なことを言うねえ。新宿? 確かにそんな女もいたかもしれないけど、もう忘れちゃったよ。僕は決して過去を振り返らない男なんだ……!」

「…………。一度くらい、ひとりの女を愛し尽くしてみる気はないのか」

「おや、意外だ! 玉樹は純愛派なのかい? なんだなんだ、聞かせてくれよ。君の愛した女の話をさ……!」

「絶対に嫌だ。アイツが穢れる」


 三人でいるとそれだけで心が弾む。軽口を叩き合える関係も東雲にとっては初めての体験だ。東雲の中に経験が、そして感情の種が蓄積していく。だが、それでも筆を執るまでには至らなかった。紙を目の前にすると恐怖が先に立つ。なにも書けなかったら――〝本物〟への道が閉ざされるような気がしてならない。


 ――息が詰まりそうだ。


 閉塞感に頭を抱える。本体を離れられなかった頃とは違い、今の東雲はどこへでも行けるはずなのに、どこへも行ける気がしない。


 そんな東雲のもとへ小さな命が転がりこんだ。今から十八年前のことだ。


「うわあああああああん……!」

「ねえ、東雲。この子を預かってくれないかしら」


 黒猫が連れてきたのは人間の子どもだった。三歳くらいの女の子。栗色の瞳は怯えきっていて、ポロポロと絶え間なく涙をこぼしている。


 どう考えても親が必要な年齢だった。少女を連れてきた黒猫は「人間の本で商売してるんだから、子どもくらいどうってことないわよね?」と適当なことをうそぶいている。東雲は困惑するしかなかった。当然だ。付喪神の東雲に子育ての経験などないのだから。


「ちょっと、黒猫!? アンタどういうつもりよ!」

「どうもこうも、ここが適当だって思ったから連れてきただけだわ」

「ママァ。ママああああああああああ……」


 ナナシと黒猫が子どもそっちのけでやり合っている。ボロボロ泣いている少女を放って置けなくて、たまらず手を伸ばした。ぽん、ぽんと優しく頭を叩いてやる。どこかの父親が子どもにやっているのを見たことがあったからだ。


「泣くなよ。泣いたってどうにもならねえだろ?」


 しゃがみ込んで顔を覗いた。ニッと笑顔を作ってやれば、少女はキョトンと目を瞬いた。

涙で濡れた目で東雲をじっと見つめている。栗色の瞳には曇りひとつない。今まで東雲を真作だと讃えてきた人間とは違う瞳をしていた。


「おじさん、ママはどこ……?」

「ママは――あ~。どこにいるんだろうなあ」


 ひょいと抱っこしてやる。少女は辺りをキョロキョロ見回していた。そして母親がいないことを再確認すると、顔を歪めて東雲の首に抱きついてきた。


「……ママ……ママァ……」

「俺はママじゃねえけどな……。泣くなよ。大丈夫だから。なにも怖いものはねえ」


 優しく頭を撫でてやれば、少女はますます東雲に抱きつく力を強める。少女は得も言われぬ温かさと柔らかさを持っていた。初めての感触に東雲は困惑するばかりだ。

 そんな東雲をナナシと黒猫がじっと見つめていた。


「やけに子どもの扱いに手慣れてるわね」

「まさかどこかに隠し子でもいるわけ?」

「バッ……! んなわけあるかっ! てか、こういう時だけ気が合ってんじゃねえよ!」


 真っ赤になって全力で否定する。


「ひうっ……」


 大きな声を出したせいか、少女が再びぐずり始めた。


「うわあ! 悪かった。悪かったから泣くのはよせ!」


慌てて宥めて、今後どうするのかを相談する。結局、黒猫が夏織の母親を捜している間、貸本屋で預かることになった。完全なるなりゆきだ。一歩外へ出れば、人間の血肉に飢えたあやかしどもがゴロゴロいるのだ。小さな女の子を放り出すほど無情にはなれなかった。


 ――まあ、少しの間だけだ。本当に育てるわけじゃねえ。


 相変わらず執筆は手につかなかった。これも経験だと自分に言い聞かす。

 それから二週間ほど経った。すぐに見つかるだろうと思っていたのに、黒猫は母親捜しに苦労しているようだ。幼子の世話は苦労の連続だった。親と離された不安からか少女はよく粗相をする。常に怯えていて、自分にまとわりつく幻光蝶が怖いのだと涙をこぼした。


日に何度着替えをしただろう。何度慰めただろう。何度抱き上げてやっただろう。

夜になると東雲はクタクタだった。だのに少女が眠るまで横にいなければならない。


「ママ……ママ……ママ……」


 まどろんでいる夏織が小さく母親を呼んでいる。隣で横になった東雲は、なにをするでもなく暗闇をじっと見つめていた。


 ――ひとりで寝られねえとか。人間ってモンは本当に厄介だな……。


 苛立ちを覚える。本当なら本の一冊でも読みたかったが、明かりをつけるわけにもいかない。本すら読めない事実に悶々とする。


――こんなに大変だとは思わなかった!


幼子の世話の大変さをしみじみと実感しながら、いっそナナシひとりに押しつけてしまおうかとも思う。だが――。

 ちらりと着物の袖を見遣れば、夏織がしっかり握っているのがわかった。

 夏織は東雲に一番懐いている。ナナシが嫌いなわけではないようだが、東雲の姿が見えなくなるだけで情緒が不安定になった。

 頼れるのは自分(しののめ)しかいないと、かよわい手が語りかけているような気がする。


 ――俺はこんなことをしている場合じゃねえのに。


「う、ううん……」


 夏織が寝返りを打った。少女と視線が交わる。


「しのめめ」


 花が綻ぶように笑う。ポンポンと腹を叩いてやった。「寝ろよ」と促すと「うん……」と小さく頷く。夏織の瞼が落ちた。すうすうと健やかな寝息を立てている。ようやく寝たらしい。寝かしつけ完了。これからはやっと自分の時間だ。


「なにがしのめめだ。俺は東雲だっての。バァカ……」


 起こさないように夏織の指を袖から外した。起き上がってため息をこぼす。黒猫が夏織の母親を捜し始めてずいぶん経つ。ここのところ黒猫の様子がおかしい。なにか事情があるのだろうが、夏織の母親の行方を明かそうとしないのだ。


――いい加減にしてほしい、早く夏織を連れ帰ってくれ……。


 じいと眠っている夏織を見下ろした。子どもは汗っかきだ。たいして暑くもないのに、髪が濡れてしまっている。このままでは風邪を引いてしまう。敷いているタオルを変えるべきかと悩んで、たまらず顔をしかめた。


 ――親じゃあるまいし。なにを考えてるんだ。馬鹿らしい。一体なにを。


 はあ、とため息をこぼした。


 ちらりと文机に視線を移した。夏織が触ったらいけないと綺麗に片付けられている。がらんとした机の上に罪悪感を覚えた。夏織が来てからというもの、創作に意識が向いていない。子どもの世話が大変で、夏織のことで頭がいっぱいだったのだ。


 ――こんなんじゃ〝本物〟どころかなににもなれやしねえ……。


 自嘲気味に笑う。しょせん贋作は贋作だ。偽物のまま一生を終えるのだろうか。


「…………。〝本物〟になりてえなあ。偽物で居続けるのは嫌だ」


 膝を抱えて丸くなった。胸が痛い。先が見えない不安に押しつぶされそうになる。


「はあ……」


 ため息をこぼせば、ふと暗闇の中で夏織と目が合った。


「おしっこ」


さあ、と血の気が引いて行った。寝かしつけ失敗。振り出しへ戻る――。

東雲は遠くを見遣ってひとり途方に暮れた。

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