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真贋問答4

「……こうして、俺は遠近に助けられて幽世へ来ることになったんだ」


 ――ぱちん、炭が再び爆ぜた。


 話を聞いているうちに、クロはお腹を見せて眠ってしまっている。

 水明はクロの上に上着を掛けてやると、小さく息をもらした。


「曲亭馬琴、か。その人がお前に影響を与えたのか」

「ああ! おもしれえ爺さんだったぜ。本当に融通が利かなくてなあ。なにかしら常に不満を抱えているような奴だった。直接文句を口にしないから面倒でな。こう……仏頂面のまま黙りこんで圧をかけてくるんだ。相手が察するまで延々と」


 東雲が馬琴の顔真似をした。やたら険しい顔つきに、水明はたまらず笑ってしまった。


「なんだそれは。絵に描いたような頑固爺だな」


 すると、三人分のお茶を淹れていたナナシも会話に加わる。


「懐かしいわね。アンタもそういうところあるじゃない? 馬琴に似たんじゃないかしら」

「うっせえな! 似るわけねえだろ。親子じゃねえんだから」

「そうお? ふたりに同じことされたわよ。それも塩鮭がしょっぱすぎるとか、沢庵の漬かりが甘いとかすごくどうでもいい理由で」


 ナナシが長火鉢の上に網を載せた。ゴソゴソとなにかの袋を漁っている。取り出したのは素焼きのせんべいだ。おやつの準備を始めるつもりらしい。

 醤油の瓶を手に笑ったナナシに、水明は首を傾げた。


「ナナシも馬琴のもとにいたことがあるのか? まるで一緒に暮らしていたみたいだ」


 東雲とナナシは顔を見合わせると、小さく笑みをこぼした。にんまりと妖しい笑みを浮かべて、水明を同時に見遣る。


「なあ、水明。視覚を失ってもなお執筆を続ける爺さんがよ、死んだくらいで創作を諦めると思うか?」

「…………。まさか」


 険しい表情になった水明に、ナナシはクスクス笑った。


「アンタが考えた通りよ。曲亭馬琴は死してもなお創作をしたいと願った。他に類を見ないほどの妄執は老文筆家を人外へと変えてしまったの」


 東雲はぐるりと居間を見回した。古びた造りの一軒家は、かつて馬琴が過ごした家にどことなく雰囲気が似ている。


「幽世の貸本屋の創業者は馬琴だ」


 水明が息を呑んだのがわかった。じっと東雲を見つめる薄茶色の瞳に笑みをこぼす。


「俺は――幽世で、掛け軸の付喪神から〝東雲〟になったんだ」


 そして東雲は再び語り始めた。人から人外に堕ちてまで創作を続ける老人と、人の姿を取れるようになったばかりの新人付喪神の話を。


***


 とある日の幽世。貸本屋の縁側に座った遠近は、喧々囂々とやり合うふたりを面白く思いながら眺めていた。


「うわっ! やめろっ! 爺さん落ち着け。落ち着くんだっ!」

「クソ掛け軸め……! まァた原稿に落書きしおって。今日という今日は許さん……!」


 居間に怒号が響いている。茶碗やら本やらが宙を舞う中、顔を真っ赤にして怒っているのは、創作への執念で自らを鬼へと変貌させた曲亭馬琴その人だ。


東雲いわく、人間であった時とはやや見かけが違うらしい。東雲が最後に見た時よりも多少若くなっていて、額から小さな角を生やしていた。視力はなくなっていないものの、やはり見えづらくはあるのかモノクルをかけている。

だが――偏屈なのは相変わらずだった。


鬼のような形相で馬琴が詰め寄ると、東雲は脂汗を流しながら後退った。


「わ、わりいわりい。文字の勉強をしようと思っただけなんだ」

「他でやれといつも言っているだろう。儂の仕事の邪魔をするな」

「同じ屋根の下で暮らしてるんだ、そんな邪険にしなくたって……」

「やかましい。そばに寄るな、声を出すな、できれば息をするな!」

「――それじゃ死んじまうだろ!?」

「お前が死のうとも構わん。儂の執筆時間が確保されるならな!」


 きっぱりと言い切った老文筆家に、今度は東雲が顔を真っ赤にした。


「なんだそれ。元々はお前が俺に文字を教えてくれねえからじゃねえか!」

「誰がお前なんかに教えるものか!」

「教えてくれたっていいだろうが! 減るもんじゃあるまいし」

「創作に充てる時間が減る。文字を学びたいなら手習い所にでも行け。儂に頼るな!」


 プイとそっぽを向いた馬琴は、東雲に背を向けて原稿に取りかかり始めた。

 東雲はワナワナと震え、馬琴の背中に向かって叫ぶ。


「ちくしょう。諦めねえからな。俺は文字を学んで本を読むんだ。絶対に、絶対にだ!」


 馬琴は振り返りもせずに言った。


「好きにするがいい。儂には関係ない」


 東雲の目つきが険しくなる。拳を固く握ると、力いっぱい畳を叩き付けた。古びた家屋が揺れた。部屋の中が剣呑な空気に包まれる。


「あらまあ。今日も騒々しいこと」


 遠近の他に、馬琴たちのやり取りを見守っていた人物がいた。ナナシだ。茶を飲んでいたふたりは、思わず顔を見合わせた。


「アッハッハ。見たかい? ふたりとも元気だねえ」

「呑気ねえ。不機嫌なアイツらの相手をするのはアタシなのよ。勘弁してほしいわ」

「悪いね。掛け軸くんが人形の生活に慣れたら、徐々に自立するように促すよ。お詫びに薬の仕入れを増やすからさ。しばらくはふたりの面倒を見てくれると嬉しい」


 にこりと笑んだ遠近に、ナナシはわずかに眉を寄せた。


「……仕方ないわねえ。約束よ」

「もちろんさ! 僕が約束を違えたことがあったかい?」


 どこまでも朗らかな遠近に、ナナシは苦笑している。

 どうして幽世の貸本屋に東雲が住み込むに至ったのか? すべての原因は遠近にある。


 数週間前のことだ。騒動を起こしてしまった東雲を、遠近は幽世へ連れてきた。

 そこで問題になったのは東雲の棲み家である。

 人の姿を得たばかりの付喪神は赤ん坊同然だ。世の理も常識もなにも知らない。食事が必要なことすら気づかずに死にかける者すらいる。だから、養い親を立てて自立できるようになるまで面倒を見てもらうのが普通だった。

 誰に頼もうかと考えあぐねていると、東雲がこんなことを言い出したのだ。


『なあ! 俺、本が読んでみてえんだけど!』


 遠近は、東雲を開店したばかりの貸本屋へ連れていくことに決めた。先ごろ鬼になったという老人が営む店だ。本人に生活能力はないが、薬屋のナナシが生活の手伝いをしてやっていた。いざとなったら、面倒見のいい薬屋に押しつけてしまえと思っていたのだが……。


『うおおおおおおおおっ! お、おま、お前……! 馬琴の爺さんじゃねえか!』

『……?』

『俺だよ、俺、俺! 懐かしいなあ。まだあの変な体操してんのか?』

『まったくわからん……お前は誰なんだ』


 ふたりが知り合い(?)であったようなので、貸本屋に棲まわせることにしたのだ。


「よくもまあ、あの偏屈爺が承知したわよね」


 苦い顔をしたナナシに、遠近はにこりと笑んだ。


「――ん? 馬琴の許可は取ってないけど」

「は? どういうことよ」

「墓場で途方に暮れていた鬼の老人を拾って面倒を見たのも、この店を手配したのも、資本金を提供したのも僕だ。馬琴が文句を言えると思っているのかい?」


 雑貨商として現し世で財を築いている遠近は、ぬらりひょんから委託され現し世で困っているあやかしの面倒を見てやっている。鬼になった馬琴を連れてきたのも遠近だ。

 さも当たり前のことのように語る遠近に、ナナシは呆れかえっている。


「えげつないことするわね。アタシもアンタに店を世話してもらったから、文句が言えない気持ちもわかるけど」

「無言で睨みつけられはしたけどね。きっと腸煮えくり返ってると思うなあ。でもね、こんなに荒れるのは今だけだよ。そのうち落ち着くだろう」

「……? どうしてそう思うのよ? 毎日、近所中に響くくらい喧嘩してるってのに」


 不思議そうに首を傾げるナナシに、遠近はくすりと笑んだ。


ちらりと室内を覗き見れば、黙々と執筆を続ける馬琴の背中を東雲が不満そうに見つめていた。床に転がった没原稿へと手を伸ばす。クシャクシャに丸まった紙を手で伸ばして眺め始めた。指先はちゃぶ台の上を滑っている。文字の練習を始めたようだ。


「あのふたり、最初はひとことも交わさなかったんだ。でも、喧嘩するまでになった。これってすごい進歩だと思わないかい? 少しずつ上手くやっていくよ。そんな気がする」


 東雲が手にしている没原稿を眺めて、遠近はたまらず笑みをこぼした。

 戯作の原稿にしてはずいぶんと易しい内容である。難しい漢字には丁寧にふりがなまで振ってあった。素直じゃないと心底思う。物語をなにより大切に思い、創作に命をかけている馬琴だ。本を読みたい、文字を学びたいという東雲を無下にもできないのだろう。


だが――いささか親切が遠回しすぎやしないだろうか。東雲に優しさがちっとも伝わっていない。まあ、東雲もどっこいどっこいだが。素直に教えを請えばいいのに、けんか腰で話しかけるものだから、偏屈な馬琴はつい反発してしまう。


「ふたりとも不器用だよねえ。すごく生きづらそうだ」

「……そういう生き方しかできないんでしょ。まったくもう面倒くさいわね」


 ナナシの言葉に遠近はクツクツ笑っている。


 ――さてさて、このふたりはどう変わって行くのかな。


 ひとりほくそ笑んだ。遠近は、時々こうやって暇つぶしを仕掛けることがある。

 たとえば――そう。相性の悪そうなふたりを同じ家に放り込んだり。

 自分でも悪趣味だと思う。とはいえ常に善人面しているのも辛いものがあった。

 遠近は河童のあやかしである。河童はもれなくいたずら好きな生き物なのだから。


「アッハッハ! 伝説的な文筆家と生まれて間もない付喪神。どうなるか見物だね! 実に楽しみだ……!」

「面倒なことになっても知らないわよ」

「その時はぬらりひょんに丸投げするさ。幽世のもめ事は僕の管轄外でね」

「……うわあ」


 げんなりした様子のナナシに、愉快に思った遠近はカラカラ笑う。

瞬間、がたりと物音がしたので、ふたりで室内を覗きこんだ。


 原稿に向かっていたはずの馬琴が立ち上がっている。キョトンと目を瞬いている東雲に近寄ると、こめかみに血管を浮かべて胸ぐらを掴む。反対側の手には原稿が握られていた。子どもの落書きのような絵入りの原稿だ。


「掛け軸……! こんなところにまで落書きしやがったな!?」

「わ、わりい。つい……」

「表に出ろ。根性をたたき直してやる……!」


 鬼へ成り果てた馬琴は、以前よりもいささかけんかっ早いようだ。揉めているふたりをよそに、遠近とナナシが顔を見合わせている。ナナシはやれやれと首を横に振った。


「先が思いやられるわ。というか……いまだに掛け軸呼ばわりってどうなの」


 元々器物である付喪神は名を持たない。だから、養い親が名付けてやるのが普通だった。しかし、馬琴はなかなか東雲に名を与えようとしない。する気もないようだ。


「そのうち名付けるだろうさ。駄目なら君がつければいい。そうだね、できれば男らしい奴を頼むよ」

「あら~! じゃあ可愛いの考えておくわ。花子ちゃんとかどうかしら」

「ワハハ! 掛け軸くんが荒れる未来しか見えないなあ! でも、それも面白そうだねえ。ちょっと見てみたいかも」


 馬琴と東雲。ふたりの始まりは遠近のいたずら心からだった。しかし、この判断が東雲に強い影響をおよすことになる。頑固な馬琴も、熱心に教えを請う東雲に徐々に絆されていったのだ。それを置いておいても、似たもの同士のふたりは思いのほか気が合ったのである。




 ふたりはいつでも一緒だ。というより、東雲が子ガモのように馬琴の後をついて回ったと言った方が正しいかもしれない。


 朝起きると庭で一緒に体操をした。食卓を共にして沢庵の味に文句をつけては、ナナシに思いっきり嫌味を言われる。茶を一服したら執筆の時間だ。黙々と物語を綴る馬琴の隣に机を並べ、東雲はひたすら文字の練習をする。やる気に溢れている東雲の上達はめざましいものがあった。時には馬琴が手直しをしてやることもある。


「オイ。さすがに細かすぎるだろう!?」

「なにをいう。これくらい当たり前だ」


 紙面中に赤を入れられ、それが諍いのもとになる場合もしばしばあったが、数時間もすれば忘れてしまった。喧嘩をするより、もっと魅力的なものがあったからだ。


 ――本である。


 馬琴は、幽世にやって来てからというもの、以前よりも更に物語漬けの生活を送っていた。日中は思うさま執筆を続け、貸本業でその日暮らすぶんだけ稼ぐと、さっさと店じまいして空が白むまで本を読みふける。


 もちろん、東雲も馬琴と枕を並べて読書に熱中した。

 努力に努力を重ね、最近では簡単な本なら読めるようになってきている。以前は未知の存在であった文字の世界は、東雲にとって想像以上に面白いものだった。床の間に飾られ、ただただ時が過ぎるのを待っていた頃には考えられないほどの刺激を本は与えてくれる。東雲はあっという間に本の世界の虜になり、次から次へと新しい本へ手を伸ばした。わからないことがあれば、すぐさま馬琴へ訊ねる。こういう時、不思議と馬琴は嫌がらなかった。


「なあ、これのどこが面白いんだよ。ちっとも良さがわからねえ」

「……貸してみろ。時代背景を考慮しながら読まねばなにも意味がない」


 思えば、馬琴が親しくしていた友人たちはみな鬼籍に入っている。物語について語らえる友人がいなくなってしまったことを、どこか寂しく思っていたのかもしれない。同じ物語を共有できる相手は得がたいものだ。


「確かにそう考えると面白えかも……!」


 東雲が本の面白さを知る様子を、馬琴は静かに見守っていた。なにも言わないまま、次に読むべき本を枕元に用意してやるのは馬琴らしい気遣いだったのだろうか。

 こうして、たびたび衝突しながらもふたりは長い時間を一緒に過ごした。最初は東雲の存在に文句ばかりだった馬琴も、やがて不満を口にしなくなった。


 ある日、いつも通りに眠る前の読書に耽っていた時のことだ。

東雲は隣で本を読んでいる馬琴へ声をかけた。


「なあ、もうちょっと文章が読めるようになったらさ」

「…………」


 黙々と読書をしている馬琴は反応を示さない。いつものことだと気にせずに話を続ける。


「俺、『南総里見八犬伝』を読んでみようと思ってる」

「…………」

「二十八年もかけて完結させた物語……すげえよな。目が見えなくなっても書き続けたんだろ。『南総里見八犬伝』にはお前の魂がこもってる気がする。〝本物〟の仕事って感じだ。楽しみだなあ。いつ読めるかな」


 ちら、と馬琴が東雲へ目を遣った。


「掛け軸……」


 なにかを言いかけて口を噤む。不思議そうに首を傾げる東雲に、馬琴は気まずそうに頭を掻くと、そっぽを向いて呟いた。


「あれはずいぶん長いぞ。お前ごときが読み切れるかどうか」


 東雲はニカッと白い歯を見せて笑って、得意げに言った。


「大丈夫だ。絶対に最後まで読む。感想も言うぞ! 楽しみにしてろ」


 ごろりと布団の上に寝転がった。天井を見つめて小さく呟く。


「本を一冊読み終わるたびに思うんだ。物語を創作できる奴のすごさを。だって、どこにも存在しない誰かを創り出すんだぜ。神様かよって思う。なんか、すげえ……憧れる。そん中でも、みんなに愛される話を書いた馬琴の爺さんは一等すげえ奴だ」


 手をかざして眺める。馬琴の手とはまるで違う。老文筆家の手はいつだって墨で汚れていて、指にはたこができていた。なにかを創り出した人間の手だ。東雲の手は大きいだけでなんの特徴もない。まだなにも創り出したことのない手だ。


「馬琴の爺さんが物語を書いている時の背中、すげえかっけえよ。俺もいつか、物語を書けたらいいなあ。俺が書いた物語で、誰かをハラハラさせたり感動させてみたりしたい! そうしたら――爺さんみたいな〝本物〟になれる気がする」

「…………」


 それきり東雲は黙りこくった。どうやら眠ったらしい。寝息が聞こえてくると、馬琴はおもむろに顔を上げた。視線の先には、東雲の本体である掛け軸が飾ってあった。雲上を泳ぐ龍。しらじらと夜が明けようとしている明け方、悠々と空を駆ける龍の姿には得も言われぬ迫力があった。


 掛け軸をじいと見つめていた馬琴は、ぱたんと本を閉じた。行灯に手を伸ばす。被せていた蓋を開ければ、ふわりと幻光をこぼす蝶が逃げていった。途端に部屋に暗闇が満ちる。布団に潜り込んだ馬琴は、しばらく眠ることもせずに思索に耽っていたのだった。




 ある日のことだ。


「掛け軸、お前は奥に下がってろ」


 部屋で文字の練習をしていた東雲に、馬琴がこんなことを言い出した。

 なんだなんだと訝しんでいれば、どうも店の方がやかましい。客が来たようだ。邪魔にならないように引っ込んでいろと言いたいらしい。


「別に邪魔なんてしねえし」


 ぷうと子どもみたいに頬を膨らませた。馬琴が店に戻ってからも、しばらくは文字の練習に励んでいたが、接客をしている馬琴にムクムクと興味が湧いてきた。ちょうど文字の反復練習にも飽きてきた頃である。筆を置いた東雲は、そろそろと忍び足で店へ向かった。居間と店を繋ぐ引き戸を薄く開ける。隙間から覗くと馬琴が接客しているのが見えた。


 ――いや、あれは客か……?


 思わず首を傾げた。疑問を抱くほど客の態度が横柄だったのである。


「いやはや。幽世で私が尊敬する大先生に出会えるなんてね!」


 ひとりは裕福そうな身なりをした鬼だ。でっぷりと太っていて、目が異様に細く、鼻が潰れている。芋虫のような指で本を握りしめ、興奮気味に馬琴へ話しかけていた。


「私も最近鬼になったばかりでね。幽世は娯楽が乏しすぎて困っていたんだ! 退屈を持てあましていたら、町外れに貸本屋ができたというじゃないか。他人の手垢のついた本なんて反吐が出るが、退屈をまぎらわすにはちょうどいいと足を運んだのさ。なあ?」


 男が同意を求めると、背後に立った大男が無言で頷いた。土気色の肌をした男からはまるで生気を感じない。屍鬼の類いかもしれない。


「ここで出会えたのは、まさに運命だと思うんだ!」


 興奮で頬を染めた男は、べらべらとひとりで喋り続けている。馬琴はたまに相づちを打つだけだ。東雲の位置から表情は見えないが、目が死んでいるであろうことは察せられる。


――接客って大変だな……。


馬琴を憐れに思っていれば、調子に乗った男が予想もつかないことを言い出した。


「よし、決めた。私を馬琴大先生の弟子にしてくれても構わない!」


 東雲はギョッと目を剥いた。同時にあきれ果てた。構わないってなんだ、お願いしますじゃねえのかと、男の頭を心配する。男は断られるとは露ほどにも考えていないようで、絶対に大成する、期待してくれたまえと自信満々だ。


「悪いが弟子をとるつもりはない」


 当然、馬琴はすっぱりと男の申し出を断った。

 だろうなあと東雲はクツクツ笑った。文字を教えることすら渋るジジィである。横柄な態度をとり続ける男を弟子にしようだなんて思うはずがない。


「え、あ……? わ、私の聞き間違いかな?」


 想定外の言葉に男は動揺しているようだ。視線をさまよわせ、全身から汗を噴き出させている。まっ青な顔で表情を取り繕った男は、なおも馬琴に弟子入りをせがんだ。


「私のような優秀な男を弟子にできるなんて幸運なんだよ? 私が活躍すれば、馬琴先生の名声も上がる。鬼に身をやつしてはいるが、現し世の出版社にも伝手がある。希代の名作の誕生を手伝わせてやると言っているのに」

「弟子はいらん。何度も言わせるな」


 しかし、馬琴は頑固として首を縦に振らない。


「……お、おま、お前! ふざけるなよ……!」


男は一変して険しい表情になると、手にしていた本を床に叩きつけ、怒りに任せて本性を現し始めた。牙を剥き出し、額に血管が浮かぶ。男の肌がみるみるうちに青く染まった。額から突き出していた角が伸び、爪が鋭く尖り始める。青鬼だ。正体を露わにした男は、唾を飛ばしながら叫んだ。


「せっかく、人がへりくだって弟子入りしてやると言っているのに! 断るなんて信じられない。鬼になってまで耄碌してるんじゃないよ!」


 馬琴へ詰め寄ると、胸ぐらを掴んですごむ。


「ったく、これだから年寄りは困る。なにが曲亭馬琴だ。無駄に数だけ出版してる駄文製造機じゃないか!」

「…………」

「私が本当に尊敬しているのはね、山東(さんとう)京伝(きょうでん)だよ! あの人の創る世界は本当に素晴らしい。そういや、お前……京伝から弟子入りを断られたんだっけか。ハハッ! それを恨みに思って断ったのか? いやはや見下げた根性だ」


 馬琴は暴言にじっと耐えている。それをいいことに青鬼は言いたい放題だ。


「そういう腐った性格をしているから弟子入りを断られるのさ。ああ! そういえば、馬琴の代表作と言えば『南総里見八犬伝』だったか――」

「…………」


 ぴくりと東雲のこめかみに血管が浮かんだ。徐々に表情が険しくなる。青鬼は東雲の存在には欠片も気づかずに、鼻を膨らませて言い切った。


「――あれは実にくだらない話だった。無駄に話が長くてねえ。展開が冗長で読み進めるのが億劫だったよ。そもそも、あれは本当にすべてがお前の考えた話だったのかい? 友人の間では『水滸伝』の引き写しじゃないかってもっぱらの噂だったけど」


 青鬼の顔が歪んだ。この世の汚い感情をすべて煮詰めたような醜さを全身から醸し出した青鬼は、馬琴を乱暴に突き放した。


「どうせ他の作品もすべて誰かの話を真似したんだろう。そうしなければ話を作れない作家〝もどき〟め! 〝偽物〟のお前に私の師匠になる資格なんて――ブハッ!?」


 瞬間、男の体が勢いよく後方に吹っ飛んだ。

 怒りの炎を瞳に灯した東雲が、拳で殴りつけたのだ。


「てめぇ。誰が〝偽物〟だって!?」


 東雲が叫ぶと、バチバチッと雷光が拳からほとばしった。肌には鱗が浮かび、全身から青白い光を放っている。大男に受け止められた青鬼は、鼻血を流しながら抗議した。


「な、なにをするんだっ! ……父にも殴られたことがないのにっ!」

「うるせえ。腐れ野郎!!」


 東雲は完全にキレていた。全身から雷をほとばしらせ、ジリジリと青鬼へ近づく。ヒッと息を呑んだ青鬼は、慌てて大男の陰に逃げ込んだ。


「近づくな。私は事実を言っただけだっ!」

「あァ……?」


 東雲が剣呑な声を上げた。大男が東雲を睥睨している。東雲と大男の身長差はかなりあった。端から見ると大人と子どもほどの体格差だ。大男が今にも殴りかかってきそうな雰囲気だが、東雲は決して臆することはなかった。


「なにが事実だ。うちの爺さんはすげえんだぞ!!」


 東雲が一喝すると、雷光が更に激しくほとばしる。ひい、と情けない声を上げた青鬼へ、東雲は訥々と語り始めた。


「朝から晩まで物語のことばっかり考えてやがる。引き写しだって? 他人の真似にあんなに時間をかける馬鹿がどこにいるってんだよ! いつだって血反吐を吐きそうになりながら話を作ってる。魂を削ってんだ。偽物なわけがあるか! コイツは誰よりも真剣に創作に向き合ってる!」


 感情の昂ぶりと共に、東雲のまとう雷光が強くなってきた。まるで雷の化身である。


「やめ、やめろ。こっちに来るんじゃない! お前、私を助けろ……!」


青鬼を庇うように立った大男は、無表情のまま巨大な拳を振りかざした。

 ぶうん、と巨大な拳が東雲の顔面に迫った。東雲は上半身を捻って拳を躱すと――。


「あの偏屈ジジィはなあ! 誰よりも〝本物〟なんだよ……!」


 くるりと体を反転させ、大男のみぞおちを強烈な力で蹴り込んだ。


「……!?」

「ぎゃ、ぎゃああああああああああっ!?」


 大男ごと青鬼が吹っ飛んでいく。戸をなぎ倒し、ふたりは大通りに転がり出た。東雲は怒りの表情を湛えたまま、ふたりの後を追った。とん、と軽く地面を蹴ると、あっという間に吹っ飛んだふたりへ追いついた。拳に雷光をまとわせ、青鬼たちに叩き込もうとして――。


「やめろ」

「ぐうっ……!?」


 ぐい、と襟首を掴まれてつんのめってしまった。


「ゲホッ……! なにすんだよ、爺さん!」


 涙目で抗議すれば、肩で息をしている馬琴がしかめっ面になった。


「まったく。あれを見ろ」


 大男を指差す。東雲に見事な一蹴りを食らわされた大男はすでに意識がないようだ。追撃するほどではないと言いたいのだろう。


「それにあれも」


 更に貸本屋を指差した。東雲が視線を向けると、ギョッと目を剥いた。東雲が放った雷のせいで、店のあちこちが焼け焦げてしまっている。


「わ、わりぃ……」


 バツが悪くなって頭をかくと、馬琴は小さく息を漏らした。じっと東雲を見つめる。不思議に思って東雲が首を傾げていれば、大男の隣に転がっていた青鬼がうめき声を上げた。


「くそっ……私にこんな仕打ちをするなんて、お前ら覚悟……っへぶう!?」


 しかし、馬琴に足蹴にされて意識を失う。唖然と馬琴の様子を見つめていた東雲は、馬琴の発言に再び仰天する羽目になった。


「……東雲ってえのはどうだ」

「は?」


 ボリボリと馬琴が頭をかいている。


「朝方の東の方にたなびく雲。夜明けって意味の名だ」

「いや、うん。だからなんだよ、それ」


怪訝そうに眉をしかめる東雲に、馬琴はあらぬ方向を見つめたまま、ボソボソと今にも風にかき消されそうな声で言った。


「師匠が弟子の雅号を考えるのはよくあることだろうが」


 それだけ言い残すと店に足を向ける。意味がわからずキョトンとしていた東雲は、たまらず馬琴の背中に声をかけた。

「ど、どういうことだよ!? で、弟子? 俺が?」


 馬琴は足を止めると、ちらりと後ろを振り返り――。


「物語を書いてみたいんだろ? なら……誰か教える奴がいた方が上達が早い」


 再びスタスタと歩き出した。

 東雲は馬琴の背中を唖然と見つめると、


「う、うおおおおおおおおおおっ!!」


 雄叫びを上げて馬琴へ駆け寄った。バシバシと背中を叩いて「マジかよ、爺さん!」と笑っている。馬琴はうざったそうに東雲の手を払うと「それよりも店の修復だ」とため息をこぼし――。


「偏屈ジジィってのは誰のことだ」


 と、ジロリと東雲を睨みつけたのだった。

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