閑話 あやかしの夏5:再会の約束
「……本当に大丈夫?」
「うん。行けるよ」
「そう。じゃあ、これはお香。一緒に焚いてあげなさい。本当に、ついていかなくて大丈夫なの?」
「いいの。これで、充分。ありがとうね、ナナシ」
ナナシは、大きな花束を渡しながら、夏織を心配そうに見つめている。東雲は、その様子を少し離れた場所で煙管を吹かしながら眺めている。イライラしているのか、やたらと吸うペースが早い。
夏織は花束を受け取って微笑むと、ふたりに向かって小さく頷いた。
――それは菊の花。純白の花弁が、何重にも折り重なったその花は、しっとりと雨に濡れている。
今日は生憎の雨。けれど、俺たちは森に向かわねばならない。
はつと佐助、今日は――ふたりを見送る日だ。
*
ふたりと出会ってから、もう既に10日が経とうとしていた。
初めの頃は元気だったふたりは、日に日に力を無くして、最後には立ち上がれないほど衰弱していた。
夏織はそんなふたりを甲斐甲斐しく世話をしていた。
この頃には、夏織の顔からは作り物めいた歪な笑みは消えて、自然な表情に戻っている。
「……汗拭こうね。お水は? 大丈夫? じゃあ、本を読もうか」
今日も、夏織の声が庵の中に穏やかにこだまする。
読み上げているのは、子ども向けの優しい物語。ふたりは、床の上であっても楽しそうに、嬉しそうに――ときには、声を上げて笑う。それを見て、夏織もまた笑みを浮かべた。
俺は、その姿を見て眉を顰めた。
嘗ての友人と同じ姿で、更には同じ末路を辿ることがわかっている相手に笑顔で接するというのは、どのくらい心が強ければ出来るのだろう。いや、強いわけではないのだ。実際に、ついこの間までは、夏織自身も苦しそうだった。
けれど、庭で流しそうめんをしたあの日から、夏織は変わった。
時折、切なそうな表情を浮かべるものの、ふたりの目をまっすぐに見て、誠実に対応している。彼女を変えたものは、一体なんなのだろう。
――ふと脳裏に浮かぶのは、幼い我が子を抱きしめて、「強く生きろ」と言った母の姿。
俺は胸の奥がじくじくと痛むのを感じながら、いつものように感情を殺して、淡々と夏織の手伝いをしていた。
――しとしとと、まるで霧のような雨が降り続いている。
今日ばかりは、蝉も声を顰め、じっとしているようだ。
青葉は濡れて、緑色を一層濃くする。雨を受け止めた大地は、強い土の香りを放っている。
水音が響く庵の中、俺と黒猫、そして夏織はその時を迎えようとしていた。
「……おねえちゃん」
ぼそり、と乾いた声を佐助が上げる。
本を読んでいた夏織は、その声に気がつくと動きを止めた。そして、徐に本を床に置くと、佐助の手を握った。
「はつを、そばに」
俺は夏織の視線を受けて、もう一組の布団で寝ていたはつを、佐助の隣に横たえる。はつが隣に来たことを確認した佐助は、安心したように息を吐いた。
「僕とはつは、番だから。ありがとう……」
「さす、け」
「はつも嬉しいって。よかったね」
ふたりは、額に脂汗を浮かべながらも、互いに微笑みあった。
そんなふたりに、夏織は優しく声を掛ける。
何を読もうか――。
それは、いつもと変わらない声。
佐助は暫く視線を彷徨わせると、ひとつの童話の名を上げた。
それは、「アリとキリギリス」だ。
すると、夏織は一瞬驚いたように目を瞠ると、本の山から一冊の本を取り出した。
「……知っている? このお話は、昔、アリと蝉のお話だったのよ。蝉に馴染みのない地域に伝わる過程で、キリギリスに置き換えられたと言われているの」
「そうなんだ。……それは、僕たちにぴったりだね」
佐助は長く息を吐くと、ゆっくりと目を瞑った。
その様子に、どきりとする。けれど、よくよく見るとまだ息がある。ほっとして、止めていた息を吐き出すと、黒猫が夏織の傍に寄って行ったのが見えた。
「にゃあ」
夏織は、黒猫が体をすり寄せて来たのに気がつくと、強張っていた表情を緩めた。そして、徐にページを捲ると、童話を読み上げ始めた。
――「アリとキリギリス」の物語は、イソップ寓話のひとつだ。
厳しい冬を乗り越えるために、夏の間、食料を溜め込んで働き続けるアリと、バイオリンを弾きながら歌を歌って遊び回るキリギリスが、対照的に描かれている作品だ。
やがて冬が来ると、なにも蓄えがないキリギリスは当たり前のように飢えてしまい、アリに助けを求める。けれど、「夏は歌っていたんだから、冬は踊ればいいじゃないか」と、すげなく追い返されて、死んでしまう。しかし、アリが食料を分けてやり、お礼にバイオリンを弾くという結末に物語を改変されることも多い物語でもある。
今回、夏織が手にしている本も、最後はアリとキリギリスが暖かな部屋で一緒に食事を取って笑い合っていた。然程、長い話ではない。あっという間に一冊読み終わり、夏織が本を閉じると、佐助はぽつりと呟いた。
「人間ってやっぱり面白い」
すると佐助は、ぎこちなく体を動かして、はつの方を向いた。そして、とてもとても嬉しそうにくすくすと笑った。
「僕らは、長い地下生活を終えると、地上に出てくる。そして、全身全霊を以って自分の次代を作ってくれる相手を探すんだ。ねえ、はつ」
すると、はつも佐助の方を向いて、これまた幸せそうな笑みを浮かべた。
「……そう、ね。佐助。私は、あなたに出会うために、地上に出てきたのだもの」
ふたりは小さな手を絡めると、また、くすくすと笑った。
俺は、夏織は顔を見合わせた。……一体、この子たちは何を言いたいのだろう。
佐助はゆっくりと目を瞑ると、優しい声で話を続けた。
「きっと、その物語は、キリギリスや僕たちを怠け者だって言っているんだ。そういう考えもあるんだね。でも、僕たちは次代を残すのに必死で、自分のことなんて構っていられない」
「人間は私たちに比べると、長い時間を生きるものね。冬を越えるのが重要なことなのよ。でも、私たちは冬を知らなくてもいいの。この夏を精一杯生きられれば……そう、思っていたのよね? 佐助」
はつは、またクスクスと笑う。すると、佐助もまた笑った。
そうしている間にも、ふたりの額には、玉の汗がいくつも浮かんでくる。夏織はタオルを手にすると、それを拭ってやる。すると、ふたりは黒目がちな瞳で、じっと夏織を見つめた。
「昔はね、夏以外はいらないし、知らなくていいと思っていたよ。でも、とても退屈だった。土の中で夏だけを待ち続けるのに飽き飽きしていた。――そして、僕たちはおねえちゃんと出会った。おねえちゃんが、ご本を読んで他の季節を教えてくれた。物語を語って、違う世界を見せてくれた。この夏が終わって、次に新しい生を受けて、また真っ暗な土の中に舞い戻ったとしても――僕たちはきっと退屈しない」
――はあ。
佐助はそう言うと、長く息を吐いて、まぶたを閉じた。
そして、はつは、目を瞑ってしまった佐助を愛おしそうに眺めると、徐に震える手を夏織に伸ばした。夏織は、その小さな手をぎゅっと握りしめると、一言も聞き漏らすまいとするように、その声に耳を傾けた。
「おねえちゃん」
「……なあに」
「本当にありがとう。私たちの世界を広げてくれてありがとう。辛いのに、付き合ってくれて、ありがとう。……それに、前のも言っていたよ。おねえちゃんが優しくて嬉しかったって」
……前の?
それは一体何のことだろうと思っていると、夏織が目を見開いたのがわかった。
みるみるうちに、大きな瞳に涙が溜まっていく。
透明な雫は、周囲の景色を映し出しながらゆらりと玉になり、ぽつん、とはつの上に落ちた。
「忘れちゃったんじゃ、なかったの?」
夏織が震える声で言うと、はつはふわりと笑った。
「そんなわけ、ないよ。おねえちゃん」
途端、夏織の瞳から、次から次へと涙が溢れ出した。涙の粒は、ぽつんぽつんとはつの浴衣に染みを作っていく。
「あやかしはね、想いを繋ぐの。前のの、おねえちゃんを好きだって気持ちも記憶も、ちゃんと私と佐助の胸に残ってる。あそぼって誘ったら、おねえちゃん可愛い顔して笑ったね。かけっこや鬼ごっこ。川遊びもした! それに、いっぱい本を読んだね……」
すると、はつはゴホゴホと大きく咳き込んだ。
慌てて、夏織ははつの背中を擦ってやる。涙が滲むほど咳が続き、止まったときには、顔色が真っ青になっていた。
「お、ねえ、ちゃん」
「もういいよ。わかったから、もうしゃべっちゃ駄目……」
夏織はボロボロと涙を零しながら、何度も首を振った。
けれど、はつはひゅう、と喉から空気が抜けるような音をさせながらも、懸命に言葉を紡いだ。
「また、泣かせちゃった……ごめんね」
「……はつ」
すると、目を瞑っていた佐助が、徐にはつを抱きしめた。そして、消えてしまいそうなほど小さな声で言った。
「――夢を見るよ」
「え?」
夏織が首を傾げると、佐助はぽつぽつと話し始めた。
「土の中で、おねえちゃんが読んでくれたご本の夢を見るよ。寒くなったら、冬。暖かくなったら、春。落ち葉で重くなったら、秋。おねえちゃんと、はつと、色んな季節の森の中を遊ぶ夢を見るよ。そうして、目覚めの夏を待つんだ」
佐助はそう言うと、じっと夏織を見つめた。
「――また、夏が来たら……あそぼ? 駄目かな」
夏織はきゅっと口を引き結ぶと、何度も何度も頷いた。大粒の涙を零しながら、洟を啜って、顔を真っ赤にして。そして、掠れた声で言った。
「あ、当たり前でしょう。友だちだもの……」
すると、佐助はゆっくりと瞼を閉じて、満足気に笑った。
「友だちかぁ。嬉しいなあ。……また、会おうね」
――ミィン。
その時、ひときわ大きく蝉の声が響いた。ふと視線を外にやると、雨が上がっている。夏の日差しに照らされた外は、やけに明るくて眩しい。すると、夏織の嗚咽が聞こえて、俺は恐る恐る視線を戻した。佐助とはつは、互いに手を握り合って、微笑みながら眠っていた。
――再会の約束。それが、佐助の最期の言葉だった。
*
黒猫と協力して掘った穴に、ふたりを並べて寝かせる。そして、その上に白い菊の花を沢山敷き詰めて、ふたりを飾り立てる。ナナシがくれたお香を焚いて、安らかな顔をしているふたりに手を合わせた。
祈りを終えて顔を上げると、夏織は手が白くなるほどぎゅっと握りしめて佇んでいるのが見えた。夏織の瞳には、もう涙は浮かんではいない。けれど、酷く落ち込んでいるのは理解出来た。
すると、黒猫が夏織の足下に座って言った。
「また、戻ってくるわ。8年なんて、瞬く間じゃない」
「……」
「これは魂の抜け殻。もう、これに価値はない。悲しむことじゃないわ」
黒猫の言葉。それは、あやかしの言葉だ。
その言葉に、夏織は返事をせずに、黙って俯いている。
俺はなんだか頭に来て、ずかずかと乱暴な足取りで夏織に近づいた。すると、足が当たりそうになった黒猫は、不快そうにその場を避けると、「何なのよ!」と文句を言った。
そして俺は、黙って夏織の頭を自分の胸に抱き寄せた。夏織は体を固くして、驚いた表情を浮かべている。そんな夏織に、俺はぼそりと呟くようにして言った。
「……人間にとっての8年は、とんでもなく長いんだよ。あやかしの感覚じゃあ、あっという間かもしれないけどな」
すると、黒猫はぱちぱちと俺を見つめると、苦虫を噛み潰したような顔になった。俺は胸が重くなるのを感じながらも、畳み掛けるようにして言った。
「それに……本当に魂の抜け殻だったとしても、この体は確かに夏織の友だちだった。大切な友だちだったんだ。――悲しんで何が悪い。寂しくて何が悪い。別れを惜しんで何が悪い」
黒猫は、オッドアイの瞳をすっと細めると、そっぽを向いてしまった。
そして、俺は今度は夏織に向かって語りかけた。
「それに、人間……我慢するのは良くない。泣け、馬鹿」
――感情を殺すことを強いられてきた俺が、言うことじゃないけどな。
ぼそりと、言い訳めいたことを言って、俺は口を閉じる。
すると、夏織は小さく震え出した。その瞳は、あっという間に涙に濡れて、顔をくしゃくしゃに歪めると――。
「あああああああああ……ッ!!」
大きな声を上げて、泣き始めた。
蝉の声が響く森の中。ふと顔を上げると、夏の強い日差しを浴びて、葉に残った雨の名残りが、キラキラと眩しいくらいに輝いていた。
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