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真贋問答3

 東雲から見た馬琴の第一印象。

それは、偏屈で〝変な〟ジジィだった。


 馬琴の日常生活は恐ろしいほど規則正しい。必ず六ツ時から五ツ時(午前六時から八時)に起きると顔を洗う。先祖を祀った家廟に手を合わせると、庭で奇妙な動きをする。


「ウッ……」


 呻きながら天を仰ぐ。顔を撫でさすり、耳を指で引っ張った。腕、胸、腰をさすって、腰に手を当てて体を反らせる。虚空を見つめ、じっと動きを止めた。


 ――また変なことを……。


 東雲は庭に立つ馬琴を部屋の中から眺めていた。

 運動をしているらしい。水戸のお殿様が日課としている体操だそうだ。

ぴゅう、と肌を刺すような風が吹き込んで来た。枯れ葉がかさかさと音を立てる。できれば家に閉じこもっていたいような陽気だ。だのに、枯れ木のような老人は薄着のまま平気で庭に出ている。


 ――腰を痛めたらどうすんだ。


 ハラハラしながら見守っていると、朝餉の準備ができたと声がかかった。縁側から部屋へ入っていく老人を見送る。じっと耳をそばだてると、愛想の欠片もない声が聞こえてきた。


「お百。今年の干大根は足りているか」

「はい。ちゃんといつも通りの数を持って来てくれていますよ」

「フン……」


耳に飛び込んできた話の内容に、東雲は呆れ顔だ。

 数日前、下女がこんな話をしていたのを知っていたからである。

去年のことだ。いつも肥え汲みを頼んでいた農家がたまたま来られなかった時があった。代理の農家がやって来たのだが、肥えを引き取る代わりに置いて行く茄子の数が普段よりも少ない。なぜかと息子の嫁に問わせると、農家は人数通りだと言い張った。


 ことの真相は、いつも贔屓にしている農家は、大人ぶんだけでなく幼子も人数に換算してお礼の野菜を置いていってくれていたのだ。しかし、代理の農家は大人分しか用意していなかったのである。むしろ、代理の農家のやり方が一般的だった。いつもの農家は、サービスしてくれていたということだろう。


怒った馬琴は茄子の受け取りを拒否。普段なら農家に昼食を馳走してから帰していたのに、問答無用で追い返したのだという。揉めに揉めた結果、最終的には元々贔屓にしていた農家が再び肥え汲みに来るようになった。


 ――去年の話だろ? いちいち確認するってなあ。どんだけ腹に据えかねてたんだよ。


 苦笑いを浮かべ、黙々と食事をしているのだろう老文筆家の姿を思い浮かべる。

馬琴は非常にこだわりが強い質だった。普段使いの調味料は、どんなに店が遠くとも一度「ここ!」と決めると絶対に変えない。年を越す前に未払いの精算を終えないと気が済まないし、来客が大嫌いで、できれば誰も家に上げたくなかった。知人の縁故であっても、紹介状がなければ決して対面しない。人と直接話すのが苦手で、件の汲み取り農家の時も表だっては息子の嫁に対応させたくらいである。


――不器用だなあ。身内にすら持てあまされている感がある。


東雲は内心呆れていた。呆れつつも――馬琴を観察することを止められないでいる。

なぜなら、偏屈で変な老人が、いざ仕事を始めると豹変することを知っていたからだ。

質素な朝食が終えた馬琴は、客間の襖際に座って茶を一服した。飲み干した頃にはちょうど掃除が終わっている。書斎へ移って前日分の日記を書き上げた。


「……よし」


 仕事の時間だ。姿勢を正して大きく深呼吸をする。

 すう――。はあ。

 途端、老人の体から力が抜けた。目が糸のように細くなり瞳が凪いでいく。

 視線は原稿に注がれていた。墨をすりながら考えごとをしている。ふと、流れるような動きで筆を手にした。穂先を墨に浸して――最初の一文字を書き付けた。


 執筆中の書斎には誰も近づかない。馬琴の邪魔をしないためだ。

 書斎に満ちているのは、濃厚な墨の匂い。そして、馬琴の着物がこすれる音。妻が用意した火鉢の炭が、ぱちん、と小さく爆ぜる音だけだ。外には子どもの声や井戸端会議に興じる女性たちの賑やかな声が響いているのに、馬琴の部屋だけは世界から切り取られたかのように静まり返っていた。空気の中にピンと張り詰めたものが満ちているのがわかる。馬琴はときおり筆を止めながら、紙の上に物語をひたすら綴っていく。くしゃりと何枚目かの没原稿を放り投げると、筆を止めて長考に入った。


 ――ふうん。


 東雲はふわふわと書斎の中を漂っていた。じいと馬琴の背中を見つめている。暇を持てあましていたのもあるが、なぜだか馬琴が気になって仕方がない。


 それは、老人の曲がった腰が文机に向かった瞬間に凜と伸びたからなのか。

 原稿に注がれた馬琴の瞳が、そこはかとなく熱を帯びているからなのか。

 老人が一度も〝幸運を呼び込む掛け軸〟に願いを託そうとしないからか。


 ――人間なんてクソで偽物ばっかりだと思ってたのになあ……。


 時には息をすることすら忘れて紙に向かい合っている馬琴を眺め、東雲はひとり思案に暮れていた。生まれたばかりの付喪神の彼には、なにかに夢中になったという経験がない。

 なにが楽しいのかと馬琴の手もとを覗きこんでみる。途端に顔をしかめた。


 ――ちくしょう。読めない……。


 文字を教わったことがないのだから当たり前だ。ちえっとむくれてそっぽを向いた。

 そうしているうちに、とっぷりと日が暮れた。仕事を終え、夕食を済ませた馬琴はいそいそと寝室へ向かう。秋の夜長は虫の大合奏で賑やかすぎるくらいだ。特になにもすることのない東雲は、書斎の窓から馬琴がいるであろう部屋をぼんやり眺めている。


 障子越しに明かりが漏れていた。今日も馬琴は読書に励んでいるようだ。

読書もまた馬琴の日課だ。馬琴は本に目がないらしい。普段は節約節約と口うるさいくらいなのに、本を買う時だけは途端に財布の紐が緩むのだと、妻のお百が愚痴っていた。

中国から渡来した小説や和漢の史書、時には本草学や診療学にも興味を出して、あらゆる本に手を出しているらしい。若い頃は深夜遅くまで読みふけっていたようだが、一度体調を崩してからは、最近は四ツ時(午後十時)までと決めているようだ。己を律しないといつまでも本を読んでしまう性なのだろう。


 ――なんなんだ。


 今日という日を思い返してみて、東雲は思わずため息をこぼした。


 馬琴の一日は、毎朝の日課を除けば、物語漬けと言ってもいいくらいだ。

 来る日も来る日も延々と物語と接している。飽きないのだろうかと思う。創作は上手くいかないことも多いだろう。嫌気が差したりはしないのだろうか。


 文机の上を覗いた。書きかけの原稿が載っている。相変わらず文字の意味はわからない。

 ううむと唸って原稿を睨みつけた。

 東雲からすれば、文字はヘンテコな文様だ。ミミズがのたくったようであり、時に絵のようである。しかし、東雲の理解できない文字の羅列には多くの意味がこめられていて、それを読むことを人間は楽しんでいる……。


 墨色の文字の向こうには、一体なにがあるのだろう。心躍る冒険? それとも涙を流さずには読めない人情話だろうか。身も凍るような怪談かもしれない……。


 だからなんだよ、とせせら笑った。けれど、馬琴の背中を思い出して笑みを消す。


 馬琴がまとう空気はいつだって本気だ。文字を追う瞳は真剣そのもの。とある商家に飾られていた時に見かけた、魂をこめて作品を作り上げる職人の姿に似ている。

 ふいに、ある人物の姿が脳裏を掠めた。

 手入れのされていない月代、無精髭だらけで、みすぼらしい格好をした男――。

 男はまばたきひとつせず、夢中になって作品を創り上げていた。


 ――チッ……。


 眉をしかめて、盛大に舌打ちをした。大きくかぶりを振って、脳裏に浮かんだ像を振り払う。なにはともあれ、馬琴から〝特別なもの〟を感じるのは確かだ。

 もしかしたら、あの老人こそが東雲が見てみたいと望んでいた〝本物〟かもしれない。


 ――面白くなってきやがった。


 壁に飾られ、周りで浮いているだけの日々にはもう飽き飽きしていたのだ。

 にんまり笑って、格子窓から夜空を見上げる。秋の月はやはり格別だ。月光浴としゃれ込むことにする。東雲はずいぶんとご機嫌だった。

 その後、東雲は思い知ることになる。〝本物〟が〝本物〟であるべく必要な覚悟と、見る者を戦慄させるほどの壮絶な生き様を。




馬琴が住まう滝沢家に東雲がやってきてから、数年経った時のことだ。


東雲は人の世の移り変わりの速さに唖然としていた。

なぜならこの数年で、滝沢家には次々と不幸が訪れていたからだ。

まず、馬琴の右眼に異常が見られた。左眼にも異変が現れ、徐々に視力が落ちていく。視力の低下は、作家にとって言うまでもなく死活問題だ。なんとか治療できないかと方々手を尽くしているうちに、病弱であった嫡男の宗伯が死亡した。


元々馬琴は武家の生まれだった。いろいろあって商人へと転身したのだが、いずれは家を再興しようと考えていた。だのに、血を継いでいくべき嫡男が死んでしまったのである。眼の治療どころではない。馬琴はひどく落胆し、食事に箸をつける気にもなれない。一時は筆さえ執れなかった。

息子の死に衝撃を受けたのは、なにも馬琴だけではない。馬琴の妻であるお百も荒れに荒れた。元々癇癪を起こしやすい質ではあったが、宗伯の死を境にますます乱れた。家庭内は荒れ果てて安らぐ暇もない。不幸はそれだけに止まらなかった。天保十(一八三九)年のある日、馬琴にとって――いや、作家として最も畏れるべき事態が訪れたのだ。


視力が、ほとんど見えないまでに失われてしまったのである。


「お義父様、もう執筆はやめませんか」


 宗伯の妻、お(みち)が馬琴に声をかけている。

 しかし、それに応える声はない。馬琴は文机に齧り付くようにして執筆している。

その姿は以前とは様変わりしていた。凜と伸びていた背中は丸く曲がり、鼻がくっつきそうなほどに紙面に顔を近づけている。瞳は血走り、頬は痩せこけ土気色をして、髷はほつれてしまっていた。黙々とひたすら原稿に向かう姿は尋常ではない。


「もうほとんど目が見えないのですから、物語を書くなんて無理ですよ!」


 切々とお路が説得を続けている。しかし馬琴は決して耳を貸さない。部屋の中にはむせ返るほどの線香の香りが満ちていた。今日は息子である宗伯の月命日だ。妻のお百が線香を上げているのだろう。ゆらゆらと細い煙が書斎にまで流れてきている。馬琴はすんと鼻を鳴らし、ジロリとお路を睨みつけた。


「――儂が書かねば、誰が『南総里見八犬伝』を完成させるのだ」


 老文筆家の声は掠れていた。加老のためもあるだろうが、普段から滅多に言葉を発しないせいかひどく弱々しい。しかし、ほとんど見えないはずの瞳だけは爛々と輝いている。老人のものとは思えないほどの眼力に、お路は怯えの表情を浮かべた。


「で、ですが。以前よりずいぶんと執筆速度が落ちていると聞きました。版元の方も困っている様子で」

「捨て置け。まったく、大人しく原稿を待っていればいいものを」

「お義母様も心配していらっしゃいます。お金のことならなにも心配されずとも」

「――余計な口出しをするな!!」

「ひっ……」


 お路が小さく悲鳴を上げた。さすがにバツが悪く思ったのか、馬琴が筆を置く。かたわらの嫁に一瞥もくれないまま、ボソボソと小声で呟いた。


「お前は太郎を健やかに育てることだけ考えておればよい」


 お路の頬が赤く染まった。ぎゅう、と拳を握って俯いてしまう。

 太郎は宗伯とお路の間にできた子だ。馬琴にとっては、孫の太郎こそがお家再興へ繋がる最後の希望だった。


「……申し訳ありませんでした」


 お路が頭を下げると、馬琴は再び文机に向かった。黙々と筆を動かし始めた馬琴に、すごすごとお路が書斎を出て行く。

 やがて、書斎の中にひとり残された馬琴は没原稿を丸めて放り投げた。文机を指で叩く。なにか思いついたのか、ハッと顔を上げた。再び原稿に顔を近づける。あまりにも顔を寄せるものだから、老人の鼻の頭は墨で汚れていた。しかし、馬琴は気に留める様子もない。ただひたすら、原稿に己が創り上げた世界を書き付け続けている――。


 ――やべえ。なんだコイツ……!


 東雲はゾワゾワと全身が粟立っているのを感じていた。

 老人の目は確かに見えないはずだった。普段通りに生活できずに苦労している姿を東雲は目撃している。だのに、馬琴が机に向かう時間は日に日に長くなってきていた。外が暗くなっても筆が止まることはない。なにかに取り憑かれたかのように執筆を進める姿は、鬼気迫るものがある。


 いや――実際に〝なにか〟に取り憑かれているのだろう。

でなければ、己に苦行を強いる理由が理解できない。


『なあ』


 たまらず、東雲は馬琴へ声をかけた。

 絶対に声が届かないとわかっている。今の東雲は幽霊のようなもので、空気を震わせるための発声器官は備わっていない。けれども声をかけずにはいられなかった。馬琴の姿を見るたびに、東雲の心のうちにモヤモヤした消化しきれないものがたまっていく。原因を突き止めなければ、得体の知れない感情に心が呑まれてしまいそうで恐ろしかったからだ。


『もうたくさんだろ? お前も歳だ。穏やかな余生に興味はねえのかよ』


 この時、馬琴はすでに七十三歳。隠居してもおかしくない歳だった。だのに、老文筆家は魂を削るかのように物語を綴り続けている。


『せめて俺に幸運を願えよ。もしかしたら、もしかするかもしれねえだろ!?』


 大声で叫ぶも、当たり前だが東雲の声は届かない。馬琴は背を向けたままだ。

 すると、馬琴がブツブツ呟いているのに気がついた。執筆しながら独り言を呟くのは馬琴の常だ。普段は聞き取れないほどの小声だが、今日に限ってやけにはっきりと聞こえる。


『…………』


 予感がした東雲は、そっと馬琴へ近づいて行った。息を潜め、老人の声に耳を傾ける。

 途端、恐怖に駆られて勢いよく後退る。矮躯の老人が得体の知れない化け物のように思えた。馬琴の言葉があまりにも異常で、東雲には絶対に理解できないものだったからだ。


「待っていろ。これを書き終えたら次はお前の番だからな」


 ――一心不乱に原稿へ向かいながら、老人の乾いた唇が動いている。


「順番だ。大人しくしていろ……絶対に日の目を見せてやる。大丈夫だ、目が見えないなんて些細なことだ。なにも問題ない。とにかく書き続けるから。だから待っていろ――」


 普段は愛想の欠片もない癖に、虚空に向かって話しかける表情はひどく優しげだ。声は火傷しそうなほどの熱を孕んでいて、恋人に愛を囁く時のように情熱的だった。


「お前を書き上げるまで、儂は絶対に死なない」


 ――まさか、コイツは……物語に生かされている?


あまりのすさまじさに恐怖よりも先に興奮が立った。

 おそらく、馬琴の中には創作に関わる何者かが棲み着いている。それは馬琴の体の隅々まで支配して、飯を食わせ、睡眠を摂らせて、机へ向かわせていた。すべては物語を世に送り出すためだ。何者かに支配された老人はなにがあろうと筆を執るのを止められない。

 厄介なことに、何者かは一匹ではないようだ。物語ごとに存在して、新しい話を書け、書くんだと耳もとで囁き続けている――。


 これは東雲の妄想だ。およそ現実だとは思えない。だが――。

常人とは違う〝本物〟であるならば、こういうこともあるのではないか?

 こくりと唾を飲みこんだ。


『なあ。馬琴の爺さん。お前は……〝本物〟なのか?』


 東雲の問いかけに馬琴が答えることはない。


ひとり戦々恐々としていれば、


「…………」


 文机に向かっていた馬琴が、首を巡らせて東雲を見ているのに気がついた。

ビクリと身を竦めた。慌ててかぶりを振る。偶然だ。馬琴に東雲の姿が見えているはずがない。だが、どうにも居心地が悪い。白濁した瞳から逃れるように顔を逸らそうとすれば、


「――まがい物が」


 馬琴の言葉に思わず顔を歪めた。


『お、お前――……』


 まさか、俺が見えているのかと訊ねようとして止める。馬琴の視線が、東雲を通り越して掛け軸に注がれいてるのがわかったからだ。おそらく〝幸運を呼び込む〟のではなかったのかと、掛け軸のいわれに文句をつけているのだろう。


『…………。ちくしょう』


 とはいえ、東雲にかけられた言葉であることは間違いない。

 拳を強く握って歯を食いしばる。東雲は贋作だ。馬琴が言うとおりにまがい物だった。

 だが、それを許容できるほどに東雲は達観していない。


『俺だって、好きで〝幸運を呼び込む〟だなんて言われてねえ! 人間どもが勝手に言い出したんだ! 俺自身はそんなこと欠片も思っていねえし、できねえよ!』


 ジロリと血走った目で馬琴を睨みつける。


『だから、俺をまがい物呼ばわりするな。偽物扱いするな。俺は! 俺だって――』


 叫んでいるうちに、じわりと目頭が熱くなった。


『な、なんだよ……なんだこれ』


東雲にとって未知の感覚だ。わけもわからず戸惑っていると、書斎の襖が開いたのがわかった。顔を覗かせたのは、先ほど退室したばかりのお路である。たすき掛けをして、自前であろう筆と硯を抱えていた。


「……お路?」


 戸惑っている馬琴の前に正座したお路は、真剣な面持ちで老文筆家へ言った。


「私は、滝沢家の嫁です」


 凜としたお路の声には、欠片の迷いも感じられなかった。


「お義父様が苦しんでいるのに、放って置くなんてできません。私に執筆のお手伝いをさせてください。眼が見えなくとも口は動くでしょう? お義父様がお話しになった物語を、私が書き留めます。そうすれば『南総里見八犬伝』も最後まで書き上げられるはず」


 お願いします、と頭を下げたお路に馬琴は何度か目を瞬いた。

 そして――じわりと喜色を滲ませた。瞳がギラギラと輝きだし、やつれ、頬がこけた顔にみるみる生気が戻ってくる。


「そうか」


 ぽつりと呟いた馬琴の声色を聞いた途端、東雲は愕然として震えた。


『まだ、執筆を続けるつもりなのか。お前は』


 ――ああ! コイツはまぎれもなく〝本物〟だ……!


 たとえ眼が見えなくなろうとも、〝本物〟は絶対に己の生き様を曲げないのだ。

 体の底から熱い感情がわき上がってくる。頬が紅潮した。ソワソワと体が落ち着かない。情熱的に馬琴を見つめた東雲は、無意識に言葉をもらした。


『かっけえ……』


目を爛々と輝かせ、お路と話し合っている馬琴を見つめる。どんな困難があろうとも、構わず執筆をしようとする馬琴の姿は東雲からすると眩しいほどだった。


ああいう〝本物〟になりたい。

だが――東雲はどうあがいても〝贋作〟だ。


『くそ……』


 苦渋の表情を浮かべながらも、東雲はひたすら馬琴の姿を観察し続けたのだった。




 それからほどなくして、東雲は滝沢家から出ることになった。生活費に充てるために売り払われたのだ。幸運をもたらさない〝幸運を呼び込む掛け軸〟など無用の長物だ。仕方がないことだと東雲も理解していた。


 それから何人もの人の手を渡った。誰もがそれなりに生きている。そういう人生は、東雲の目にはとても薄っぺらく映った。魂をすり減らしてなにかに夢中になること……それが〝本物〟に必要な素養であると思えてならない。


そのうち、風の噂で『南総里見八犬伝』が完結したと聞いた。馬琴はお路に口述筆記してもらい、最後まで物語を書き上げたのだ。一巻の刊行より、完結まで二十八年かかったのだという。すげえ! と感心すると同時に、東雲は猛烈に悩み始めた。


――どうすればいい? どうすれば〝本物〟になれる?


馬琴のように偉業を成し遂げられるような〝本物〟に。己は〝贋作〟だと理解している。なのに、真作への憧れがやむことはない。むしろ時が経つほどに増していった。


東雲はひたすら考え続けた。曲亭馬琴はなぜ〝本物〟たりえているのか。かの老人を構成しているものは? 偏屈さだろうか。それとも飽くなきこだわり? 習慣。執筆――。

目が見えなくなってまで情熱を注ぎ続ける〝創作〟だろうか。


ふいに、ミミズがのたくったような文様を思い出した。人間が文字と呼ぶものだ。文字の集合体を小説と呼び、金を出してまで読もうとする。続きを熱望し、時には内容を語らい合って続きを予想する。

どうしてそこまでして、人間は物語を、小説を読もうとする?

もしかしたら、物語は馬琴のような〝本物〟な奴らが創り出したものなのだろうか?

東雲が小説を書き、世間に認められたなら――〝本物〟に至れるのではないか。


 ――ああ! 本を読んでみたい。読んだらなにかがわかる気がする。


 そこには〝本物〟に近づくための鍵があるはずだ!

 しかし、しょせんは付喪神である。本を読むこと以前に文字を学ぶことすらできない。


『ちくしょう! なんとかならねえもんかなあ……』


 まんじりともせず、眠れない夜をいくつも超えた。

やがて江戸という時代が終わりを告げ、文明開化に日本中が沸いていた頃のことだ。当時、東雲はある豪商の屋敷で飾られていたのだが、みたび大きな転機が訪れる。付喪神としての格が上がり、実体化できるようになったのだ。


「おお……」


 誰もいない部屋の中で、己の体を検分する。にぎにぎと手を握った。畳を踏みしめる感覚すら新鮮だ。浮かれたまま姿見を覗きこんで――絶句する。己の顔に生みの親の面影を見つけてしまったからだ。


「チッ」


 舌打ちをしてため息をこぼす。小さくかぶりを振ると、本体である掛け軸を手早くまとめて抱えた。これで文字を学べる。本を読める。〝本物〟に近づけるんだ……!

東雲の心は喜色で溢れていた。深く考えることもせずに勢いよく部屋を飛び出す。広い屋敷の中を駆け抜け、壁を乗り越えて外へ出た。


――うおお。俺は自由だ……!


東雲は上機嫌で歩き始めた。


「……大変だあ」


 その様子を、ひとりの下男が目撃していた。今しがた出て行った男がなにか持っていたような気がする。慌てて確認すると、当主が最も気に入っていた掛け軸が一幅消えている。当然、屋敷の中は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。男衆が東雲の後を追う。

当の本人は気楽なものだ。東雲の行方を探して大勢の追っ手が放たれていることなどつゆ知らず、初めての現し世を楽しんでいた。


 ――本かあ。本……本ってどこで手に入るんだ?


 文明開化で沸く東京の町を当てもなくぶらぶら歩く。

 見慣れた和装の人々の中に、洋装の紳士淑女が交じっている。洒落た建物があちこちに見られ、昨今では鉄道なるものも走っているらしい。キョロキョロ辺りを見回しながら歩く東雲は完全なる〝お上りさん〟だった。周囲の人々から笑われているが、東雲はちっとも気がつかない。見慣れない世界を眺めるのに夢中だったからだ。


江戸の匂いを残しながらも、確実に世間が変わってきているのを肌で感じる。古びた伝統に縛られた時代から、革新の時代へ。誰もが胸に希望を抱いている。その気風は東雲の心も軽くした。今ならすぐにでも〝本物〟への道が開けそうだ――。


 そう思った時だった。


「あそこだ! あの男だ。取り押さえろ!」


 鋭い叫び声が聞こえた。ギョッとして振り返れば、血相を変えた男たちが走ってくるのがわかる。驚いた東雲は、本体である掛け軸を抱えたまま脱兎の如く駆け出した。


「待て、泥棒! 掛け軸を返せ!」

「泥棒って……これは俺だぞ!?」


 濡れ衣だあ! と叫ぶも、追っ手の男たちの追跡の手は緩まない。

 通りを行き交う人々の間をすり抜けるようにして駆ける。歩き慣れていない足の裏は、あっという間に皮がすりむけてしまった。痛みに顔をしかめながら、バクバクと心臓が脈打っている感覚を新鮮に思いつつ町中を走り抜ける。東雲は人の姿になりたてのわりに健脚で、追跡している男たちも苦労しているようだ。


「こっちだ! 追い込め!」


 しかし、しょせんは世間知らずの付喪神。

町中を知り尽くした男衆に勝てるはずもなく、徐々に追い詰められていった。


「くそっ……!」


 這々の体で裏路地に滑り込む。足が限界だった。これ以上走れそうにない。

つう、と冷たい汗が全身を流れていく。人の姿を得た事実に浮かれていたが、以前のようにふわふわ飛べないのがこれほど不便だとは!

 かくり、と膝を突いて肩で息をした。

 遠くから殺気だった男たちの声が聞こえる。見つかるのも時間の問題だ。


「どうしたもんかな……」


 ボソリと呟いて途方に暮れた。本体の掛け軸をギュッと抱きしめる。これを奪われたら、付喪神である自分はどうなるのだろうと不安になった。思わず俯くと、視界の中に誰かの足があるのに気がついた。黒い革靴だ。東雲の顔が映り込みそうなほどにピカピカに磨き上げられている。すわ追っ手かと顔を上げ、ギョッとして目を瞬いた。


「やあやあ! ご機嫌はいかがかな」


 気取った挨拶をしたのは、ひとりの紳士だった。

 山高帽にフロックコート、ベストを着込み、見るからに上等な生地のズボンには皺ひとつない。手にはステッキを持って優しげな微笑みを湛えている。

 紳士は綺麗に整えられた口ひげを指で撫でると、東雲に手を差し出した。


「どうやらお困りのようじゃないか。助けてあげようか?」


 なんとも胡散臭い男である。東雲はたまらず顔をしかめた。


「……誰だ、おめえ」


 掛け軸を抱く力を強める。警戒心を露わに訊ねると、紳士はクツクツと楽しげに笑った。


「おやおや、自己紹介をしていなかったね。君が悪いんだよ。そのうち迎えに行こうと思っていたのに、勝手に抜け出したりするから」

「……迎え? 俺を?」


 怪訝に思って眉を寄せれば、紳士が山高帽を取った。思わず目を見開く。紳士の頭部のてっぺんに、真っ白な皿があったからだ。


「僕は遠近。河童のあやかしだ。商いをしながら、現し世で暮らす同胞の世話をしている。君は〝幸運を呼び込む掛け軸〟くん、だろう? もう少しで人の姿を取れそうな気配がしていたから、騒動になる前に手を回そうと思っていたんだけど……遅かったみたいだねえ」


 ――河童……!?


 遠近は、東雲にとって初めて会う人外の生き物だった。

たまらず絶句していれば、遠近は遠くを見遣って苦笑する。


「どうも君は騒ぎを大きくしすぎたようだ」


 大勢が駆けてくる音がする。東雲が忙しなく辺りの様子を窺っていれば、


「よかったら、しばらく身を隠す場所を紹介するよ」


 予想外の申し出に、東雲はパチパチと目を瞬いた。


「お、俺は付喪神だぞ。頼る相手もいねえ。どこへ逃げるってんだ」


 恐る恐る訊ねた東雲に、遠近はパチリと茶目っけたっぷりに片目を瞑る。


「君に最もふさわしい場所を紹介しよう。その名も幽世。あやかしの心の故郷。異形どもが棲まう素晴らしい世界さ!」


 ポカンと口を開けたままの東雲に、遠近は上機嫌でニコニコしている。

 なにはともあれ、胡散臭い河童に頼るしか東雲には道がなさそうだ。


「……た、頼んだ?」

「僕にお任せあれ!」


 遠近は東雲の手をギュッと握ると、そこらの子女ならばイチコロにできそうなキラースマイルを浮かべたのだった。

 これが東雲と遠近の出会い。

 掛け軸の付喪神と河童の紳士の付き合いは、数百年経った今もなお続いている。


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