真贋問答2
東雲は掛け軸の付喪神だ。
描かれたのは江戸時代中頃。作者は円山応挙だといわれている。
円山応挙は写生を重視した親しみやすい画風で、裕福な町人たちに愛された画家だ。
応挙が描く動物たちは生きているのではないかと錯覚するほどに美しい。一本一本丁寧に描かれた線は、日本の原風景に息づく動物たちを生き生きと再現している。
実際、東雲の掛け軸に描かれた龍も見惚れるほどに素晴らしい出来だった。
――東雲の掛け軸には秘密がある。
東雲が生まれたのは、江戸の片隅にあるあばら屋だったのだ。
あばら屋の中にはふたりの男がいる。ひとりは町人風の男だ。細く吊り上がった目は狐のようで、袖からは入れ墨が覗いている。人を欺くことで生計を立てている男だ。いわゆる詐欺師。当たり前だが堅気ではない。
詐欺師は床に広げた二幅の掛け軸を見比べていた。ふたつは同じもののように思える。構図も描かれた龍の表情も、墨の濃淡すらそっくりだ。詐欺師は満足げに頷いた。
「――いいじゃねェか。これなら誰もが本物だって思うに違いねェ」
詐欺師がそう言うと、もうひとりの男が平身低頭した。痩せ細った体に、髭はぼうぼう、月代は斑で手入れがまるでされていない、襤褸をまとったみすぼらしい男。
「あ、ありがとうございます……。あの、お代は……」
「ほらよ。また頼むぜ。大先生!」
手早く掛け軸を閉まった詐欺師は、小銭が入った袋を床に放った。金属がぶつかる甲高い音があばら屋の中に響く。踵を返すと、床に散乱した絵筆を蹴散らして出て行った。
あばら屋の中に静けさが戻る。男はほうと一息吐いた。床に落ちた袋を拾い、筵の上に座り込んで酒瓶を勢いよく呷る。
この男こそが、東雲の生みの親である。かつては円山応挙と同じ石田幽汀の門下だった。
男の絵師としての腕は確かだ。一時は将来を有望視されたが、酒に溺れて落ちぶれてしまった。流れ、流れた結果、贋作をこしらえて糊口を凌いでいる。
――そう。東雲は贋作である。円山応挙の作を真似て描いた偽物だ。
付喪神は古い道具や作品に命が宿って生まれるあやかしだ。誰かに長期間に渡って大切にされた品が妖怪変化する。東雲の掛け軸のできは見事だった。下地にした絵が優れていたのもあって、素人目からすると名作にしか思えない。しかし、見る人が見れば贋作とわかる。実際、高額で売り払われたものの、鑑定師に偽物だと見破られたこともあった。普通ならば朽ちてしまう運命だ。誰かに大切にされることもなく、付喪神になるはずもない。
――なにせ東雲はまがい物だったのだから。
転機が訪れたのは、東雲が描かれてから十数年経った後のこと。
「これはただの贋作じゃありません。〝幸運を呼び込む掛け軸〟なんですよ」
とある詐欺師が、東雲に口からでまかせの付加価値をつけた時だった。
在庫をなんとか売り払おうとしたのだろう。まったくもって根拠はない。しかし、事実は小説よりも奇なりとはよく言ったもので、東雲が持ち込まれた家には不思議と幸運が続いた。長年不妊であった妻に子ができたとか、家族が手柄を挙げたとか……誰もが喜ばしく思う優しい出来事だ。正直なところ、偶然が重なっただけの可能性もある。真実は誰にもわからない。しかし、確実に東雲の〝価値〟は上がっていった。
「この掛け軸は贋作などではない。円山応挙の真作じゃないか?」
ある時、過去の鑑定こそが間違っていたと詐欺師たちが言い出した。当時、円山応挙の名声は高くなるばかりで、円山派は狩野派よりも勢いがあった。応挙の作は誰もがほしがるほどの人気で、詐欺師は東雲の掛け軸の価値を釣り上げようと考えたのだ。
東雲の掛け軸はまぎれもない贋作である。
しかし、詐欺師に買収された鑑定人たちは、揃って真作だと口にした。東雲にとって不幸にも、本物がとうに失われてしまっていた現実も後押しをした。なにより、幸運を呼び寄せたという実績が東雲の掛け軸を真作たらしめたのだ。
こうして、贋作であるはずの東雲は真作にされてしまった。
詐欺師のもとには大金が転がりこみ、朽ち果てる運命にあったはずの掛け軸は、そこらの真作よりもよほど大事に扱われるようになった。
それから長い時が流れ、東雲の意識が芽生えたのは、彼が生まれてからざっと百年ほど経ったある日。
「フ、フハハハハ! やっと手に入れたぞ。これで俺にも幸福が……!」
血まみれの浪人が、東雲の掛け軸を手にした瞬間だった。
薄汚れた格好をした男が掛け軸を押し抱いている。その時、東雲はとある大名屋敷の中にあった。将軍のご機嫌伺いに献上されるところを、食いつめ、盗賊に身を落とした男に奪われたのだ。
東雲はふよふよと宙に浮かびながら、目の前に広がる凄惨な光景に眉をひそめた。畳の上に真っ赤な血がこぼれている。使用人らしき男が地に伏せ、縄で縛られた女中が震えていた。
――コイツ。俺なんかを盗むためになんてことを……!
ムッと立ち込めた血の臭いに吐き気がこみ上げてくる。
付喪神として生まれたばかりの東雲には、いまだ実体を得るほどの力はなかった。意識だけが宙を漂う様は浮遊霊さながらだ。思念体のようではあるが、誰かと意思疎通を取ることはできない。基本的に、己の〝本体〟である掛け軸の周りを飛び回ることしかできず、あまり離れられなかった。
だから否が応でも男の所業を見せつけられる羽目になったのだ。
「よく案内してくれた。褒美に自由をやろう」
生きようと必死にもがく女中を、浪人が刀で容赦なく斬り捨てる様も。
逃げた末に捕らえられ、幼い子どもたちを残してひったてられる姿も。
空腹を抱えて虚ろな瞳をした子どもたちが、盗人の父親の背中を呆然と見送る姿も。
東雲はまざまざと目撃させられたのだ。
――馬鹿らしい。なにが〝幸運を呼び込む掛け軸〟だ。
自分のために人生を狂わされた人間を目の当たりにして、東雲は暗澹たる気持ちだった。東雲は贋作だ。だのに、人々が勝手に御利益のある真作に仕立て上げてしまった。
――俺は偽物だ。過剰な願いを託してくれるな……。
浪人の後にも、高名な掛け軸を手に入れ、あわよくば幸運を享受しようと大勢の人が東雲を求めてきた。場合によっては血が流れることすらあった。政に利用されたこともある。それだけ――〝幸運を呼び込む掛け軸〟は価値があったのだ。
『人間の目は揃って節穴だ。誰が真作だって? 誰が円山応挙の作だって? 俺を描いたのは、あばら屋で酒を飲んだくれてた贋作師だよ!!』
いくら叫んでみても、付喪神の言葉が人間に届くわけもない。
相変わらず人々は東雲を真作として扱い続ける。
「掛け軸様、どうか。どうか……わが家に富と栄光を」
彼らが滲ませる途方もない欲望。そして、ありもしない希望にすがる浅ましさに、東雲の心は曇っていった。
――人間なんてクソ食らえ。みんな目が曇った偽物ばかりだ。どうして俺がお前らに幸運をもたらさなくちゃいけない。絶対に嫌だね! ふざけんなよ!
そんなことばかりを考えていたからか、ぱったりと東雲の周りで幸運な出来事は起こらなくなった。人々の興味があっという間に東雲から離れて行く。自分が重宝されたのは、一時のブームのようなものだったと悟ると、東雲は反吐が出るような思いだった。
同時に、こんなことも考えるようになった。
――本物って奴がどこかにいるとしたら、どんな顔をしてやがるんだろう。
きっと、ひと目見ただけでわかるくらいに輝いているに違いない。
少なくとも〝本物〟は、〝贋作〟な自分に願いを託そうとはしないはずだ。
――一度でいいから見てみてえなあ。
繰り返される日々の中で、東雲が抱く真作への憧れは強くなっていった。
***
地下室から出て居間へ戻る。ちゃぶ台の上には『南総里見八犬伝』が何冊か載っていた。どれも東雲の好きな巻だ。手に取りながら、己が付喪神として目覚めるまでを語り終えた。すると、水明がなんとも言えない顔になっているのに気がつく。
「……贋作?」
「お? 意外だったか」
「いや――。付喪神の力の強さは、魂が宿った〝モノ〟の価値やできによると聞いたことがあったから」
贋作は真作に比べると格段に価値が落ちる。
モゴモゴと口ごもる水明に、東雲は苦く笑った。
「なんで、俺の力はそこらのあやかしどもよりもよっぽど強いんだろうってか? まあ……本物か偽物かを決めるのは、ある意味、人の心持ち次第だからだろうよ」
「権威のある誰かが本物だと認めれば、その他大勢は疑いもしない……ってことか」
「まさにその通りだ。それに、俺には〝幸運を呼び込む掛け軸〟ってえ付加価値があった。ある意味、俺は付喪神として規格外だったんだ」
小さくこぼして薬湯を一気に飲み干した。
苦すぎる薬に顔をしかめていれば、水明が話の続きを促した。
「……それで、贋作の掛け軸がどうすれば貸本屋になれるんだ?」
「だよなあ。俺も不思議になってきた」
物語に興味を持つどころか、そもそも自分を評価する人間を憎んでいた節すらある。ナナシは「別になにも不思議なことはないわ」と笑った。
「あやかしだって誰かの影響を受ければ変わるの。アタシにとっての玉樹とお雪さんみたいにね。アンタは〝あの人〟に変えられた。ほんと、人生ってどう転ぶかわからないわね」
「なになにっ!? 東雲は誰と会ったの? すごい人?」
クロがこてんと首を傾げた。東雲は「ああ」と頷いて、話の続きを語り始める。
「俺の人生の転換点は何度かあった。ひとつは〝幸運を呼び込む掛け軸〟と呼ばれ、付喪神になったこと。二度目はそう……人手に渡って、ある偏屈なジジィと出会ったことだ」
ぱちん、と長火鉢の炭が爆ぜた。
確か……あの時も、町は凍えそうなほどに寒かったはずだ。
***
ひゅうひゅうと木枯らしが木々を揺らす秋晴れの日だった。
この頃には、東雲の掛け軸は商人の手を転々としていた。かつては〝幸運を呼び込む掛け軸〟として名高かったが、効果を失ってしまった今は〝そういういわれがあった〟とされるだけだ。円山応挙の真作には違いない(事実とは異なるが)ので、好事家の間で売り買いされていた。そうこうしているうちに、やがてある人物の手に渡ったのだ。
江戸後期に活躍した文筆家、曲亭馬琴。
日本で初めて原稿料で生計を立てた人物で、『南総里見八犬伝』の著者だ。
東雲を馬琴の下へと持ち込んだのは、友人であり商人でもあった小津桂窓である。伝手で手に入れた掛け軸を馬琴へ〝幸福のお裾分け〟だと持って来た。
このところ馬琴は連続で不幸に見舞われていたらしい。養子に迎え入れた男に四、五年のうちに連続で逃げられ、貸本屋を開業するための資本金やお披露目料五十幾両を無駄にしてしまったそうだ。
――うわあ。本当についてねえなあ。
小津の話を聞きながら、東雲は思わず顔をしかめた。繁々と馬琴を見つめる。馬琴自体は別に裕福そうには見えなかった。小津や今まで東雲を手にしてきた人々の方が、よほどいい身なりをしている。質素倹約を絵に描いたような老人だ。
「見事な龍の絵だよ。かつてはね、幸運を呼び込んでくれるといわれていたんだ……」
玄関先で小津が東雲の掛け軸を開く。瞬間、東雲はいつも通りに身構えた。誰もが、円山応挙の真作だと手放しで褒めるのが常だったからだ。それは東雲にとって最も苦痛な時間だった。
しかし、どうだろう。
馬琴は掛け軸を睥睨すると、フンと鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまったのだ。
――なんだコイツ。
東雲は虚を突かれた。意にも介さないなんて初めての反応だ。
「いやはや。どうも今日は虫の居所が悪いようだ」
馬琴の偏屈さを身に染みて理解している小津は、別に気分を害した様子もなく、東雲を置いて去って行った。残された東雲を馬琴の妻であるお百が引き取る。
「せっかくですから、書斎に飾りましょうか」
妻の言葉に老文筆家は無言で応えた。
その日から東雲は馬琴の家に飾られることになる。
こうして、老文筆家と贋作の掛け軸(付喪神つき)の奇妙な同居生活が始まった。