薄玻璃の幸福5
「盧氏!」
彼女に追いついたのは、竜宮城にある吹き抜けの廊下だった。深紅の円柱の間を碧や赤、黄色などカラフルな魚たちの群れが行き交っている。
「……大丈夫ですか」
私の問いかけに、盧氏は小さく洟を啜った。
「気を遣うくらいなら、放って置いてくれればいいですのに」
「ご、ごめんなさい。どうしても気になってしまって」
慌てて謝る。確かに不躾な行動だった。盧氏とは特に親しいわけでもないのに。
――う、やらかしてしまった……。
こっそり後悔していれば、盧氏が小さく笑ったのがわかった。
「もう。そんな声を出されたら罪悪感を覚えてしまうではありませんか」
ようやく盧氏がこちらを向いてくれた。目は充血して、鼻は赤く染まっていた。確かに泣いていたようだ。私の見間違えではなかったらしい。
「…………。悲しいことがあったんですか?」
どう切り出したものかと考えた挙げ句、ハンカチを差し出して無難な質問を投げた。
ハンカチを受け取った盧氏は、小さくかぶりを振る。
「もう千年以上もの間、悲しくなかったことなんてありません」
「さっき、肉売りと話していた時は楽しそうでしたよ」
「ふふ。そうでしたね。でも……あなたもそうでしょう?」
「私?」
「心から好いている人と話す時は、自然と顔が綻んでしまうものですよね。しばらくぶりに再会できたのなら、なおさら」
――ああ! やっぱり。
盧氏の正体に思い至って、大きく息を吸った。おそらく、唐糸御前へ本の貸し出しを依頼したのもこの人なのだろう。動揺している心を必死に宥める。
仕事を始めよう。
私は――幽世の貸本屋だ。
ゴソゴソと鞄の中を漁る。取り出したのは東雲さんから託された本だ。
「ご利用ありがとうございます。ご所望の本をお持ちしました。ご確認いただけますか?」
本を手渡す。『丹後国風土記』の表紙を撫でた盧氏は、わずかに口もとを緩めた。
「確かに間違いありません。ありがとう、ずっと読みたかったの」
そっと本を抱きしめる。まるで愛する人への抱擁のようだと思う。
なんとなく直視するのが憚られた。視線をさまよわせながらも意を決して訊ねる。
「どうしてこの本を必要とするのですか? あなたが……亀比売なのに」
盧氏の表情が強ばった。じわりと切れ長の瞳に困惑の色が浮かぶ。彼女は本を抱きしめる腕にいっそう力をこめると、苦しげに眉を寄せた。
「私が亀比売? どうしてそう思ったのですか?」
「単純なことです。始めからあなたは異常なほど肉売りのことを気にしていた。肉売りの言葉に一喜一憂して……まるで恋する乙女そのものだと思いました。なにより最も違和感があったのは、お茶を淹れてくれた時です」
彼女が用意してくれたお茶の様式は、決して日本人に馴染みのあるものではなかった。盧氏が飲み方を説明してくれるまで、どうすればいいか想像もできなかったくらいだ。
だのに、肉売りには一切戸惑いは見られなかった。どこかで中国茶に慣れ親しんでいる可能性も捨てきれないが、小さなぽぴんひとつすら購入できない経済状況では考えづらい。
「つまり、彼はあなたが淹れたお茶を飲み慣れていた。頻繁に口にするくらいには、親しい間柄だったんじゃないかと思いました」
私の考えを伝えると、盧氏はパチパチと目を瞬いた。
「ぽぴん……」
小さく呟くと、フッと笑みをこぼす。
「あの人ったら本当にもう」
そして私をまっすぐに見据え、こくりと頷いた。
「はい。私が亀比売です」
亀比売は私に偽名を名乗ったことを謝った。盧氏という名は中国古典に出てくる竜の娘の名を借りたらしい。別に気にしていないと笑えば、亀比売はホッとした様子だった。
表情を和らげた亀比売に安堵しつつも、私は疑問をぶつけた。
「あの、ひとつ訊いてもいいですか?」
「なんでしょう?」
「あなたと肉売りの物語が『丹後国風土記』通りなら、相思相愛だと思うんです。なぜ、せっかく再会できたのに、お互いに知らんふりしているんですか? 肉売りは、『亀比売はここにいない』とまで言ってました。あんまりじゃありませんか?」
亀比売は苦しげに俯いた。
「……なんと言えばいいのでしょう。あまり口に出したくないのですが」
彼女は大きく息を吸うと、意を決したかのように顔を上げ、こう言った。
「あの方は、私のことがわからないのです」
「え? それはどういう――……」
「玉匣の効果なのですよ。最も愛する人を認識できなくなるという……」
「認識できない? さっき話をしていたじゃないですか!」
「ええ。おそらく、私をそこらにいる女官のひとりだと思っていたのでしょう」
あまりのことに目を見開く。目の前に愛する人がいるのに認識できない?
「――嘘ですよね? だって、彼はあなたを捜し続けているんです」
「知っています」
「あなたに見せてあげようと土産物をたくさん用意してますよ。自慢の旦那さんになるんだって、自分なりの正義を貫こうと頑張ってます」
「頑張っているみたいですね」
「永遠は救いだと。永遠は自分にチャンスをくれたんだって話していました」
「…………」
「なのに……本当に、二度と会えないんですか?」
くしゃりと亀比売の顔が歪む。大きな瞳から真珠のような涙がこぼれた。彼女はそれを拭うこともせずに、震える唇を動かす。
「永遠は〝罰〟なのです」
「救いなんかじゃないと?」
「とんでもありません! 永遠は彼を縛る鎖です。あの人の愛情は海よりも深い。きっと彼は延々と私を捜し続けるでしょう。永遠に時間があるという事実だけをよすがとして」
つまり、肉売りは目に見えない相手を捜し続けているということだ。
――そんなのあんまりだ……!
胸が張り裂けそうだった。
肉売りが純真で真摯であればあるほど、彼に巻き付いた永遠という名の鎖は強固になる。肉売りは自身が雁字搦めにされていることに気がついていない。むしろ、己を取り巻く鎖を愛でてさえいる。
――なにが永遠は〝失敗を取り戻せ〟と言ってくれているだ。飢えた獣の前に餌をぶら下げておきながら、絶対に与えないような残酷な仕打ちじゃないか!
沸々と怒りがこみ上げてくる。肉売りの笑顔が脳裏に浮かぶ。絶対に諦めないと語った彼は、すでに千年以上もの間、亀比売を捜し続けてきたことになる。普通なら新しい恋に生きることもできるだろう。しかし――永遠の命を持っているからこそ諦められない。延々と続く時間の先に可能性の光があるように誤認してしまうからだ。
「亀比売様から自分の正体を明かしてみたりは……?」
「したことがないとお思いですか?」
「な、ならっ! 誰か他の人に手伝ってもらったりは?」
亀比売は静かにかぶりを振っている。
「ひどい……」
ぽつりとこぼすと、亀比売は自嘲気味に呟いた。
「これが、私たちふたりが〝誤った選択〟をした結果なんです」
肉売りの過ち。浦島子の失敗。それは約束を忘れて玉匣を開けてしまったことだ。
ならば――亀比売の〝誤った選択〟とは?
「永久の命を持つ私が、定命の者を己の世界に引き入れるべきではなかったのです」
――なに?
背中に冷たい汗が伝った。
ドクドクと耳の奥で心臓が鳴っている。鼓動は激しくなるばかりなのに、手指からみるみるうちに熱が奪われていった。なんだか寒い。急に気温が下がったのだろうか?
いや――。
「しょせん棲む世界が違ったのですよ。私たちは結ばれるべきではなかった。一緒にいるべきではなかった。心を通わすべきではなかった。愛すべきではなかった。彼と出会った結果、私が得たのは苦しみだけです。……物語は、始まりからすべて間違っていたんですよ」
寒いのは、亀比売の言葉が私の心の温度を奪っているからだ。
ふいに東雲さんの顔が脳裏に浮かんだ。
幼い私を拾ってくれた養父の笑顔。
ふるふるとかぶりを振った。馬鹿だなあ。東雲さんと亀比売は違う。
「今は後悔しかありません」
悲しげに瞼を伏せる亀比売を可哀想に思う。
悲しいことだ。人との出会いを後悔するだなんて。
それだけ亀比売の心が摩耗している証拠なのだろう。
「実はね、私が私としてあの人と会う方法がたったひとつだけあるんですよ」
意外な言葉に、思わず前のめりになった。
「……! ほ、本当ですか」
「ええ、嘘は言いません」
にこりと綺麗な笑みを浮かべた亀比売は、どこか遠くを見て言った。
「あの人が見えないのは〝最も〟愛する人なんです。……つまり、彼が私以外の誰かを愛すればいいのです」
絶句する。それは、いまだに肉売りを愛し続けている亀比売にとって、生き地獄と同じではないだろうか。
「ふたりが幸せになる方法はないんですか?」
思わず訊ねた私に、亀比売は自嘲気味に笑った。
「私が知りたいくらいですよ」
諦めたような表情を浮かべた亀比売に、胸が苦しくて仕方がない。
「――どうしてこんな仕打ちを? 浦島子がしたことといえば、約束を破って箱を開けただけですよね?」
たまらずこぼした私に、亀比売は小さくかぶりを振った。
「端から見るとそうですね。ですがあれは、決して間違えてはいけない選択だった。人生では、時に決定的な選択を迫られる時があります。あの人は間違った方を選んでしまった。だからこんな仕打ちを受けている。……たったそれだけのことです」
再び本の表紙を撫でる。美しい顔は疲れ切っているように見えた。
『丹後国風土記』を抱え直した亀比売は、衣をひるがえして私に背を向けた。
「貸本屋さん。また本をお願いすると思います。近代の作品で、なにかよいものがあればお願いしますね」
「は、はい……」
「どうか、あなたは選択を間違わないで。後悔ばかりの人生ほど空虚なものはありません」
しずしずと歩き出した亀比売の背へ声をかける。
「あの! ど、どういう想いで浦島太郎の物語を読んでいるんですか……?」
ぴたりと足を止めた亀比売は、こちらへ振り返りもせずに言った。
「本の中には、彼と過ごした幸せな日々が詰まっているんです。〝永遠に〟ね」
途端、数え切れないほどの魚の群れが私と亀比売の間を通り抜けていった。碧、赤、黄色、紫……暴力的なまでの色の洪水が通り過ぎると、すでに亀比売の姿は消え失せている。
地面に視線を落とす。私は『丹後国風土記』の中の一節を思い出していた。
「神女、遥かに芳しき声を飛ばして、哥ひしく……」
大和辺に 風吹き上げて
雲離れ 退き居りともよ
我を忘らすな
「大和の方に向かって風が吹き上げ、雲が離ればなれになるように、離れていても私を忘れないで」という意味の歌だ。作者ではない別人が後世に加えたのだろうと言われている。誰が書き加えたのかは――不明である。
私は眉根を寄せ、寒さを和らげるように腕を何度か摩った。何度も何度も摩り続ける。けれど、芯から冷えた体に温もりはなかなか戻ってこなかった。
***
フラつきながら客間へ続く廊下を歩く。途中で私を探していたらしい水明と行き会った。彼は私のただならぬ様子に、ギョッと目を剥いている。
「どこへ行ってたんだ! なにがあった。まっ青だぞ」
コートを脱いで私にかけてくれた。布越しに水明の体温を感じてホッと息を漏らす。
「平気だよ。貸本屋としての仕事を済ませてきただけ」
「依頼人に会えたのか?」
「うん……。ちゃんと貸し出せたよ」
無理矢理笑みを形作る。水明は眉根を寄せると「そうか」と頷いてくれた。
頭の中では亀比売の言葉が繰り返し蘇ってくる。別に自分のことではないのに、やたら胸が苦しくて仕方がない。なんだか肉売りに会うのが憂鬱だった。彼の事情を知ってしまった今、どういう顔をして会えばいいかわからない。
ふと寂しく思って水明の手を握った。黙りこんだままの私に、水明がわずかに目を見開く。少しだけ視線をさまよわせると、ぽつりと呟くように言った。
「俺はお前の隣にいるからな」
「……水明?」
「お前のそばにはいつだって俺がいる。忘れるな。なにがあろうとも」
水明が重ねた言葉に違和感を覚える。意気消沈して戻ってはきたものの、そこまで言われるほどだったろうか。
「どうしたの? 水明こそなにかあった?」
水明が目を逸らした。彼の薄茶色の瞳はどこか遠くを見ている。
「別になにもない」
再び水明の薄い色の瞳が私を捉えた。
「お前が……心配なだけだ」
――嘘を吐いた?
目を逸らすのは、水明が嘘を吐く時の癖だ。
水明の手を強く握る。堰を切ったように不安がこみ上げてきた。
――私、どうしてこんなに心配されているんだろう……?
思えば、ここ最近いろんな人にやけに気をかけてもらっている。バイト先では遠近さんに励まされたし、ぬらりひょんには普段よりも優しくしてもらった。唐糸御前は、まるで過保護な母親みたいだった。なんだか異常な気がする。私はもう小さな子どもじゃないのに、どうしてみんな、頑張れ、負けるな、大丈夫だからって、必死に背中を支えるみたいに気にかけてくれているんだろう。
『ライフイベントとは、人生において特別な出来事のことさ。後の生活に深く影響を与えるものが主だね。進学だったり、結婚だったり……就職、死別、大病なんかもそう。人によって大小の違いはあれど、必ずぶち当たる不可避イベントだ』
ふと遠近さんの言葉を思い出した。ライフイベント。生きていく上で必ず立ちはだかる人生の壁とも呼べる出来事。
みんな、貸本屋を引き継ぐ私を心配してくれているのだと思っていた。
もし、そうじゃなかったとしたら……?
「もう! いい加減にしてくださいませ! わたくしの仕事の邪魔をしないで」
「ええ~! つれないこと言わないでよ」
「後は引き渡すだけなのです。あなたなんかに構っている場合ではありません!」
先刻、水明たちが寝かされていた部屋から声がする。
唐糸御前と肉売りのようだ。すでに準備は終わっているらしい。水明と視線を交わす。連れ立って部屋へ入ろうとすると、
「ねえ、教えてよ。東雲に残された時間ってあとどれくらいなの?」
予想だにしない言葉が耳に飛び込んできて、思わず足を止めた。
「…………」
水明の手に力がこもる。私が来たことに気がついていないのか、唐糸御前はまるで虫を追い払うかのように肉売りを適当にあしらっている。
「しつこいですわね! わたくしにだって正確な日数はわかりません。壊れた付喪神は、風船が萎んでいくように徐々に弱っていくのが普通です。人間の医者じゃあるまいし、余命宣言なんて――」
「……余命?」
ぐらりと世界が揺れたような気がした。
水明の手を離して、フラフラ覚束ない足取りで歩き出す。
唐糸御前は私に気がつくと、手にした細長い桐箱を強く抱きしめた。呆然と近寄ってくる私に、意を決したように口を開く。
「あの、夏織さ――」
「余命ってなんですか?」
やたら平坦な声が出た。世界がゆらゆら揺れている。地震でもあったんだろうか。周りのみんなは平気な顔をしているのに、一体どういうことだろう。
唐糸御前は視線をあちこちさまよわせると、卓に桐箱を置いて蓋を開けた。中には一幅の掛け軸が収まっている。
「ご覧になって」
ぱらりと掛け軸の巻緒を解いて広げた。
空駆ける龍の姿が描かれた水墨画だ。とある事件で半分に引き裂かれ、燃やされてしまったのだが……綺麗に修復されている。しかし柱や中廻しなどの装飾部分だけだ。書画の下半分は焼け焦げたまま、なにが描かれていたのか判別ができない。
「……修復は終わったんじゃ?」
ぎこちない動きで首を巡らせる。
瞬きもせずにじっと見つめれば、唐糸御前は苦しげに瞼を伏せた。
「……わたくしがやれることはやりました。東雲の下へ返してあげてください」
「でも、これ」
震える手を唐糸御前へ伸ばした。細い手首を掴んで揺さぶる。どう見たって直りきっていない。東雲さんの本体なのだ。もっともっと美しかったはずだ。
「もう一度、修復してください」
喉の奥がひりついている。頭の中がグチャグチャでわけがわからない。
「東雲さんを直して」
ふと、唐糸御前の手が目に入った。小さな手だ。私よりも一回りも小さい。だのに、あちこちに傷跡が残っていた。爪は墨で黒ずみ、肌は荒れ放題で節くれだっている。職人の手だ。長い時間をかけて作品と向き合った人の手だった。
「あ……」
絶望がじわじわと広がっていく。体から力が抜けた。その場に座り込む。頭が真っ白だ。どうすればいいかまるでわからない。
「あ~あ、可哀想に。こんなにショックを受けてる。だから僕が代わりに言ってあげようかって提案したでしょ!」
肉売りが私の肩を抱いた。私の顔を覗きこみ、にっこりと微笑む。
「ねえ、僕が君と一緒に青森くんだりまで来た理由がわかった? 夏織くんに、説得を手伝ってほしかったからなんだ!」
「……せっ、とく?」
「そうさ! 口下手な僕じゃ東雲を説得しきれない。だから娘である君に助力してもらおうと思って! もうすぐ寿命を終える付喪神の東雲にさ、人魚の肉を食べるように言い聞かせてほしいんだ……」
肉売りの瞳が妖しく光る。淀んだ沼の色だ。ひとたび足を踏み入れれば、二度と這い出られなくなりそうな――毒々しい緑。
「可愛い、可愛い、最愛の娘を遺して先に死ぬだなんて悲劇だよね! だけど、不老不死になればすべて解決できるんだ。東雲は決して君を置いていなくならない。大好きな養父とずっと一緒にいられるんだ。みんな幸せじゃないか……!」
「――やめろ!」
「わあっ!」
肉売りを水明が突き飛ばした。私を腕の中に庇って睨みつけている。
「すべては東雲と夏織が決めることだ。お前が口出しするんじゃない」
「なんだよ! 別にいいだろ。東雲ったら絶対に嫌だって話も聞いてくれないんだよ!」
途端、なにかに気がついたのか肉売りが顔をしかめた。そろそろとポケットへ手を差し入れる。取り出したのは――ひび割れ、ガラスくずへと変わり果てたぽぴんだ。
「あ~あ。割れちゃった……。もろいもんだねえ」
肉売りの声がやけに耳に残った。
なぜか寒くて仕方がない。私は水明の腕の中でカタカタ震えていた。
必死になって状況を理解しようとする。東雲さんと肉売りが知り合いだったのは、永遠を授けようと肉売りが近づいたから。人魚の肉売りは絶望を抱えたあやかしの下へ現れる。永遠を手に入れないと問題が解決できないくらいに追い詰められた者のところへ。
となれば、東雲さん自身が己の寿命について知っていたということになる。
――東雲さんはどんな想いで〝引退する〟と口にしたんだろう。
「……水明」
そっと見上げれば、薄茶色の瞳と視線が交わった。彼はここ最近、東雲さんと頻繁に出かけていた。おそらく水明も事情を打ち明けられていたのだろう。遠近さんは東雲さんの親友だ。仕事上の都合を考えれば、東雲さんが自身の状況を明かしていたとしてもおかしくない。だからこそ、遠近さんは肉売りのことを知っていた。あやかしの総大将であるぬらりひょんだって。みんな――みんな東雲さんの寿命が残りわずかであることを知っていた。
「水明」
私だけが知らなかった。娘なのに。私だけが。
「すい、めい……」
みんなの優しさが痛い。
息ができない。世界が滲んでいる。
涙腺が燃えるように熱い。まるでマグマが溢れてくるかのようだ。
息苦しさをまぎらわそうと、かぶりを振る。ふと視界に肉売りの姿が入った。彼が手にしたぽぴんの無残な姿が胸に突き刺さる。ガラスの表面で泳いでいた二匹の金魚は、片方が粉々に割れていた。
壊れたぽぴんが、元の姿に戻ることは二度とない。
薄玻璃の玩具にこめられた想いもなにもかも、すべて壊れてしまったのだ。
「……夏織」
水明は私を力強く抱きしめ、何度も何度も同じ言葉を繰り返した。
「大丈夫だ。俺がそばにいる。なにあっても俺がいるからな。俺のことを忘れるな。頼む、頼むから……これだけは覚えていてくれ」
***
朦朧としながら、やっとのことで貸本屋へ戻った。
すでに深夜帯に入っている。幽世の町はしんと静まり返り、ときおり不気味な鳥の鳴き声が響くくらいだ。しかし、貸本屋には明かりが灯っていた。黄みがかった柔らかな光が窓からこぼれている。
「……東雲さん」
養父は自室で執筆していた。私が帰ってきたことに気がついていないようだ。
膝を突いて、東雲さんの大きな背中に額をくっつけると、ぴたりと筆が止まった。
「帰ったのか」
珍しくすぐに私に気がついたようだ。東雲さんは筆を置いた。
「どうした?」
振り返ろうとする東雲さんを、背中に抱きついて阻止する。今の私の顔はボロボロで、たとえ養父といえど見せられるものではない。
「死んじゃうってほんと?」
掠れきった声で訊ねれば、東雲さんが「あ~……」と唸ったのが聞こえた。ボリボリと頭を掻いている。少しだけ逡巡した東雲さんは、いつもと変わらぬ調子で言った。
「――まあ、そういうことだ」
ぎゅう、と抱きしめている腕に力をこめた。
否定してほしかった。みんなを巻き込んだドッキリだって戯けてほしかったのに。
落胆がじわじわと心の中に広がっていく。
「……人魚の肉、食べないの?」
どうしようもなく声が震えた。
人魚の肉はまさに禁断の果実だ。絶対に食べるべきではないと頭では理解しているのに、大好きな養父のためなら仕方がないと、別の私が訴えかけてくる。
「食わねえよ」
私の葛藤とは裏腹に、東雲さんはあっさりしたものだった。
「寿命なんだ。抗う必要なんてないだろ? 器物はいつか壊れるもんだ」
間違いなく正論だった。でも――今の私には正論を受け入れるだけの余裕がない。
「嫌だ……」
東雲さんは肩を揺らして笑った。「しゃあねえ奴だ」と笑う養父の背中には、すでに覚悟ができてしまっている気がする。
固く目を瞑った。再び涙腺が熱を持ち始める。世界が揺れている。
東雲さんが死んでしまう。自分を拾ってくれ、育ててくれた大切な人が……。
私の世界にヒビが入っていく音がする。
養父のいない世界なんて、私には欠片も想像できなかった。




