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薄玻璃の幸福4

 目を開けると、そこは〝絵にも書けない美しさ〟。


 さらさらと風に吹かれて(うすぎぬ)がなびいている。肌触りのいい寝具から体を起こすと、青い小魚が私の鼻先をくすぐった。宙を魚が浮いている。びっくりして目を瞬くと、小魚は慌てて私から距離を取った。首を巡らせれば、どこかの室内に寝かされていたことがわかる。


「ここが竜宮城……?」

「ああ、目を覚まされたのですね。本当によかった」


 声をかけてくれたのは、ひとりの女官だ。

 目もとは涼やかで、頬はまろく、肌には染みひとつない。黒髪を高く結い上げ、金や銀、玉や貝殻で作られた髪飾りで飾っている。櫛を何本も差し、鮮やかな色で染め上げられた長裙をまとう姿は艶やかで目を引いて仕方がない。


「クラゲの中で窒息しかかっていたところを救出されたのです。具合はいかがですか?」

「だ、大丈夫です。他のみんなは……?」


 女官はにこりと笑むと、歩けるようならみんなの下へと案内すると申し出てくれた。

 言葉に甘えて連れていってもらうことにする。

竜宮城は不思議な場所だった。城内はどこまでも明るい。穏やかな日差しが海上からゆらゆら差し込み、海底に光の文様を映し出している。床には、シーグラスや色彩豊かな石が敷き詰められ、歩くたびにプクプクと気泡が上がる。ガラスの嵌まっていない窓からは、魚たちが自由に出入りしている。敷地内のあちこちに植えられた珊瑚の合間には海藻や花が咲き乱れていて、城の中は調度品も一級品ばかり。金銀や宝石を惜しみなく施されたものから、なぜかごく普通の銀のフォークが壁に飾られていたりして、見ているだけで心が躍る。まさに想像していた竜宮城そのものだ。物語の中に迷い込んでしまったようで、私の足取りは自然と軽くなった。


「夏織!」


 案内された部屋へ入ると、水明が出迎えてくれた。私より一足先に目覚めていたらしい。


「大丈夫だった? クロとにゃあさんは?」

「俺は平気だ。あの二匹はとっくに目覚めて城内探検に出かけてしまった」

「あらら。元気そうでよかった」


 ホッと胸を撫で下ろす。室内には水明が利用していたものとは別に、もうひとつ寝具が用意されていた。人魚の肉売りが横たわっている。いまだ目覚めないらしい。


「医師はじきに目を覚ますだろうと言っておりましたわ」


 ため息と共に姿を現したのは唐糸御前だ。


「あの昼行灯! 送迎も満足にできないなんて、なにがあやかしの総大将ですか!」


 手にした衵扇に力をこめる。みしみしと扇が悲鳴を上げていた。

今日の彼女は小袿を着ていた。紅の袴が目に眩しい。機嫌の悪さとは裏腹に、今日も雅やかな彼女に笑みをこぼす。


「お久しぶりです、唐糸御前。無事に到着できたんです。いいじゃないですか」

「よくありませんわ!! 夏織さんになにかあったら、どうするつもりだったのかしら!」


 忙しない様子で私に近づいてきた唐糸御前は、私の体を隅から隅まで調べ始めた。


「怪我は? 具合は大丈夫なのかしら? もう少し休んでいなくてもいいの」

「だ、大丈夫ですから。ご心配ありがとうございます」


 戸惑いを隠せずにいれば、唐糸御前はほうと息を漏らした。


「能天気すぎます。人間はあやかしと違ってとてももろいのですよ。調子が悪くなったらすぐにでも言ってくださいませね」


なぜか目に涙を滲ませた唐糸御前は、プイとそっぽを向いてしまった。ずいぶんと私のことを気にかけてくれているようだ。ありがたい話である。


「まあまあ。無事に到着できたんですもの。まず喜びませんか?」


 その時、ひときわ美しい人が部屋に入ってきた。

 卓の上に持参してきた蓋つきの茶碗や急須を並べる。中国式の茶器だ。木製の茶盤を利用するスタイルはなかなか目にすることがない。繁々と眺めていれば、私に気づいた女性が蕾が綻ぶように笑う。心臓が軽く跳ねた。女性の艶やかさに目を奪われてしまったからだ。


 切れ長の眼、大きな瞳は黒真珠を思わせた。鼻は小さく、唇は花びらのように薄く色づいていて、額には花鈿が施されている。長裙は紗を何枚も重ねてあった。真珠の飾りが動くたびにゆらゆら揺れて、他の女性たちよりも気品に溢れているように感じる。


 同性にドキドキしている事実にこっそり戸惑っていると、女性が声をかけてきた。


「あなたが東雲様の娘さんですか?」

「は、はい……。夏織と申します。あなたは?」

()()…とでも申し上げておきましょうか」

「……?」


 含みのある言葉に首を傾げる。そうこうしている間に、盧氏は茶を入れ終えた。


「なにはともあれ、一服しませんか。お疲れでしょう」


茶碗を差し出された。盧氏は水明たちにも茶を配っている。蓋つきの碗だ。中を覗きこむと、湯の中に茶葉が沈んでいる。どうやって飲むのだろう。


「蓋で茶葉を押さえながら飲むとよいですよ」


 なるほどと、盧氏が言うとおりにしてみる。少々飲みにくいものの、華やかな香り、舌の上に広がるまろやかな甘みは絶品だ! たまらず頬が緩んだ。


「すっごく美味しいです」

「本当ですわね。昼行灯のせいでささくれ立っていた心が落ち着くようですわ」

「……美味い。ありがとう」


 疲れた体に染みるようだ。私たちは互いに頷くと、盧氏へ心からの賛辞を述べた。


「よかった。お茶は人の心を解してくれます。舌に合えばなおさら。――あの人も美味しいと言ってくれたらいいんですが」


 再び首を傾げる。盧氏は一体なにを言っているのだろう?

 美しい人は長いまつげを伏せてなにやら考え込んでいる。ちらちらと忙しなくどこかを気にしている風でもあった。そっと盧氏が気にしている方を見遣れば――。


「ふわあ! よく寝た!」


 横になっていた肉売りがいきなり飛び起きた。寝ぼけているのか、ぼうっとして頭を掻いている。ぐるりと辺りを見回し、私を見つけるとにっこり笑んだ。


「夏織くん、なにしてるの? お茶? いいなあ! 僕も飲みたい」

「お、おはようございます……? 体の調子はどうですか」


 元気いっぱいで寝具から這い出てくる。丸椅子にどかりと座った肉売りに、いくぶんギョッとしながら訊ねれば、彼はなにごともなかったかのように首をコキコキ鳴らした。


「んー……。別に。いつも通りだよ! てか、なにかあったっけ」

「ぬらりひょんのクラゲの中で窒息しそうになったんです」

「え。あ~! そうだった、そうだった! アッハッハ。忘れてたや。あれはヤバかったねえ。すうっと意識が沈んでいく感じ。久しぶりだった!」

「笑っている場合ですか! 死ぬところだったんですよ!」

「え~……だってほら、僕ってば不老不死でしょ? 別に死にはしないし」


 無邪気に笑う肉売りにげんなりする。


「本当に無頓着ですね。気絶してるうちに大きな生き物に食べられても知りませんよ」

「ああ! そういうこともあったなあ! 巨大鮫に飲みこまれてさ。気がついたら胃液の中でぷかぷかしてたんだ」

「えっ」


 冗談だったのに。驚きのあまりに言葉を失う。肉売りはのほほんと笑っていた。


「鮫の中に船に乗った爺さんが住んでて。しばらく一緒に暮らしたなあ……。息子を捜して、うっかり飲みこまれたとかなんとか。面白い爺さんだった!」

「それってまさに『ピノッキオの冒険』じゃ……!」


 児童文学の名作に似た状況に「なにそれ詳しく」と前のめりになる。

 途端、ふわりといいお茶の匂いが漂ってきた。


「あらあら。夏織さん、起きたばかりの人を急かしたら駄目ですよ」


 盧氏である。彼女は肉売りのぶんの茶碗を差し出しながら私を窘めた。


 ――うっ。叱られちゃった……。

肉売りは「追々話してあげるよ」とのんびりした様子で茶椀を手にする。蓋で茶葉を押さえると、自然な動きで口をつけた。


「んっ!」


 お茶を口にした肉売りの目が輝く。


「すごくいい味だ。君、お茶を淹れるのすごく上手だねえ」


 にっこり微笑めば、盧氏の頬が淡く染まった。


「そ、そうですか」

「こんなお茶を毎日飲めたら最高だろうね」

「……まあ! 本当ですか。ありがとうございます」


 恥ずかしそうに盧氏は俯いてしまった。黒髪から覗く小さな耳は、桜貝のように色づいている。しきりに瞬きをして、指で頻繁に前髪を直す。落ち着かない様子の盧氏に首を傾げた。

 瞬間、ピンと来るものがあった。


 ――もしかして、盧氏は肉売りに一目惚れしたんじゃ……?


 ここ最近、文車妖妃に勧められて、恋愛小説やら少女漫画やらを大量に読書していた私が言うのだから間違いない。なにやら甘酸っぱい雰囲気を察して落ち着かない気持ちになる。ある事実を知っていたからだ。――そう、肉売りは既婚者である。


「まあ、僕の奥さんには負けるけどね。お茶を淹れる名人なんだよ!」

「……!」


 すう、と盧氏の瞳から色が消え失せる。


「そう……ですか」


 フラフラと立ち上がった彼女は、手早く茶器をまとめた。


「では、私はこれで。失礼いたします」


拱手して去って行く。小さくなっていく盧氏の背中を見つめ、私は思わず顔をしかめた。


「うわあ! 肉売りさんってば、本当に人の心がない!」

「なにを突然言い出すのさ! 人の心を忘れたつもりなんてないんだけど!?」

「そういうことじゃないんですよ。思わせぶりなことを言って! あ~あ……」


 嘆息している私に、肉売りは怪訝そうにしている。キョロキョロと辺りを見回すと、不思議そうに首を傾げた。


「――そういえば、ここどこ? なんかお魚がいっぱいだねえ。海の中?」

「今さら聞くんですか? ……まあ、いいですけど。ここは竜宮城ですよ」

「……えっ」


 肉売りが息を呑んだ。


「竜宮城ってアレ? 浦島太郎が亀に連れられてやって来たっていう」

「はい。合ってますよ」


 すると、肉売りの頬がわずかに染まった。


「ここが竜宮城なんだ。そっか……」


なにやら呟いたかと思うと、ゴソゴソとゴソゴソとポケットを探り出す。

やたら慎重な手付きで取り出したのは――遠近さんの店で買ったぽぴんだ。


「持ち歩いているんですか?」

「うん! 奥さんに見せてあげられるようにね。彼女もきっと好きだから」


 顔の前にぽぴんをかざす。色彩豊かな熱帯魚が踊る竜宮城において、ぽぴんの表面で泳ぐ金魚はいくぶん控えめだ。しかし、肉売りの瞳は金魚こそ最も美しいと語っている。


「ああ! 海の中で見るといっそう綺麗だなあ。持って来てよかった……」


 ――変わった人。


 不老不死であることを除いても、非常に珍しいタイプのように思える。

 ぼうっと物思いに耽っていれば、唐糸御前が私に声をかけてきた。


「それよりも夏織さん、東雲の本体のことなのですけれど」

「はっ、はいっ!?」


 ――そうだ、本来の目的をすっかり忘れてた……!


 慌てて居住まいを正し、唐糸御前に向き合う。狼狽している私に、彼女は少し困ったような顔になった。


「申し訳ないのですが、引き渡しまで少々お時間をいただけませんか。付喪神の本体は繊細で、壊れないように厳重に梱包が必要なのです。本来ならば、到着するまでに準備しておくべきことなのですが、あなた方がひどい状態で到着したと聞いて、中途半端なまま駆けつけてしまいましたの」

「本当に申し訳ない……」

「あなたのせいではありませんから。地上に戻った時に、本人にたっぷり文句を言わせてもらいますので、お気遣いは結構ですわ」


 ツンとそっぽを向く。ぬらりひょんが気の毒に思えて、たまらず苦笑をこぼした。


「そうだ! 私、東雲さんから本を預かってきたんですよ」


 ――ここからは貸本屋の仕事だ。


 鞄の中から本を取り出す。『丹後国風土記』の表紙をじっと見つめた。本に折れがないかを確認して、復習してきた内容を頭の中で反芻する。大丈夫。頑張れ、私……!

自分を奮い立たせ、さあ仕事だと気合いを入れた。


「ああ。その本を依頼したのはわたくしではありませんの」

「へっ……?」


 肩透かしを食らって、間抜けな声を出してしまった。

 ポカンとしている私に、唐糸御前は扇で口もとを隠して微笑む。


「あるお方が、どうしても地上の本を読みたいとおっしゃっていたので、わたくしが代わりに手配したのですわ。申し訳ございません、取りに来るように本人へ伝えますので」

「そ、そうですか」


 しゅん、と肩を落とす。出鼻を挫かれたような気分だ。

 しょんぼりしていれば、唐糸御前が盛大に嘆息した。


「なんですの、しみったれた顔をして。ともかく、時間になるまで竜宮城の中を散策でもしてらっしゃい! ほら、あなたもですわ!」

「!? 俺もか?」


 いきなり指された水明がギョッとしている。


「あら。初めての場所に女人を放り出すつもりですの?」

「いや、そんなつもりは――」

「竜宮城には優れた容姿の殿方も多いのですよ。それも外から来る女人に興味津々のね。盗られないようにしっかりと守りなさい」

「……ッ!?」


 水明が目を白黒させている。唐糸御前はにんまり笑むと、衵扇で口もとを隠して言った。


「そんなにお待たせするつもりはありません。どうぞ幻想郷でのひとときを楽しんでくださいませね?」


 有無を言わさぬ唐糸御前に、私たちは竜宮城探索に出かけることに決めたのだった。


***


豪華絢爛な建物を出て、整えられた中庭に出た。中華風の庭園だ。海底であるはずなのに橋がかかった池まである。一面に茂る海藻が肌に触れてくすぐったい。


「はあ~……」


 本来なら、ウキウキで散策したいくらいだった。だけど、どうにもそんな気分になれなくて、しゃがんで海藻に触れる。立派な昆布である。干して出汁にしても、刻んで煮付けにしても美味しそうだ。こんなのが毎日食べられたら……きっと竜宮城の住民は便秘知らずだ。


「なんか変なこと考えてるだろ」

「ハッ……!」


 頭上から呆れた声が振ってきて顔を上げた。

 水明が少し困ったような顔をしている。手を差し出されたので掴んで立ち上がった。


「ごめん。ひとりでいじけて」

「念入りに準備していたからな。拍子抜けするのは仕方がないさ」


 相変わらず水明は私より私のことをわかっている。


「東雲さんの名代だからって意気込んでたからね。それに、本の内容とこの場所が滅茶苦茶リンクしてるから、どうプレゼンしようかってワクワクしてたのもあるんだ」


 だのに、「依頼したのはわたくしではありません」である。

 エンジンがほどよく温まり、後は走り出すだけだったというのに冷や水を浴びせられたようなものだ。がっくり来てしまったのは致し方がない。


「リンク? なんだ、あの本に竜宮城が出てくるのか?」

「う~ん、『丹後国風土記』に出てくるのは竜宮城ではないんだけどね。だけどまったく違うとも言えないんだよね」

「えっ! なになに? どういうこと?」


 突然、肉売りが話に割り込んできた。姿が見えないと思っていたら、ひとりで竜宮城の中を探検していたらしい。貝殻やらヒトデやらを腕いっぱいに抱えている。


「……う。それ、どうするつもりです? 持って帰るんですか?」

「うん! 奥さんへのお土産!」

「生物はよしましょうよ……。ヒトデが可哀想ですよ」

「ええ……」


 ぷうと頬を膨らませた肉売りは、しぶしぶヒトデを逃がしてやった。ゆらゆら揺れる昆布に赤いヒトデが彩りを添えたところで、肉売りは再び私たちに向かい合う。


「まあいいや。それよりさ! さっきの話、興味あるなあ。君、『丹後国風土記』を読んだことがあるの? 僕にも聞かせてよ!」

「は、はあ……」

「聞かせてくれたら貝殻あげる。ほら、あわび! 裏っ側が玉虫色なんだよ知ってた?」

「いや、いりませんって」


 あまりにも無邪気な肉売りに、不安に駆られて隣の水明を見る。険しい顔でこめかみを解しているが、特に止めるつもりはないらしい。


――まあいいか。


ふたりに話すことに決めた。どうせ唐糸御前の準備が終わるまで時間があるのだ。


「……んじゃあ。話させてもらいますね。コホン! 諸説ありますが、『丹後国風土記』は『浦島太郎』の原型になった話が載っている本です」

「――原型?」

「そうです。『浦島太郎』は時代によって形を変えて語り継がれてきた物語なんですよ。私たちがよく知る、助けた亀に連れられて竜宮城へ行くというストーリーラインが成立したのは最近です。『丹後国風土記』は『日本書紀』『万葉集』と並んで、『浦島太郎』の原話が載っているとされている文献なんです。原書は失われてしまって、他の書籍に引用された文章だけが残っているんですけどね」


 鞄から『丹後国風土記』を取り出した。小魚の群れが集まって来て、興味深そうに表紙の上を泳いでいる。これは、後世に逸文を一冊にまとめた写本だ。


「青年が異郷に招かれ、現世に戻ってくると何百年も経っていた……という流れは一緒ですが、主人公や招かれた場所が違うんですよ。浦島太郎という名前が登場したのは中世に入ってからです。それ以前は浦島子という人物が主人公として扱われています。『丹後国風土記』には、筒川村の水江浦島子とあります。日下部首(くさかべのおびと)の先祖だそうですよ」

「……先祖? まるで実在した人物のようだな」


 首を傾げた水明に、私は大きく頷いた。


「そう! 『丹後国風土記』では浦島子は実在の人物として扱われているの。『日本書紀』や『万葉集』でもだよ。そもそも風土記は地方の歴史なんかを記した地誌なんだ。創作の物語を載せる場所じゃないし、『日本書紀』は歴史書だよね」

「……? 事実として扱うには、さすがに無理があるんじゃないか? 何百年も前に生きていた人間が戻ってくるなんて、荒唐無稽過ぎるだろう」

「確かに私もそう思うけど。中国でも、『志怪』と呼ばれる奇奇怪怪な出来事を記した文章が、歴史書に分類されていた時期があったんだ。私たちからすればどう考えても作り話だけど、当時の人々にとってはそうじゃない。だから歴史書に書き残す。現実の捉え方が違って面白いよねえ」


 きっと、現代で三百年ぶりに戻ってきたんだと誰かが主張しても、一笑に付されて終わってしまうのだろう。今はまさに科学全盛の時代だ。すべてが科学的に解き明かされたと信じている人間たちは、想像の余地を奪われてしまったのかもしれない。

 ふと、地面を影が横切っていくのに気がついて顔を上げた。上空をなにかが飛んでいる。ウミガメだ。目を凝らして見るも、そこに浦島太郎らしい姿は見えない。でも――竜宮城はあったのだ。かの人物が実在したっておかしくはないはずだ。


 閑話休題。


「話を戻しましょう。元々、浦島太郎は浦島子だった。亀は助けるのではなく、釣り上げましたし、『丹後国風土記』に出てくるのは竜宮城ではなく蓬莱山。ヒロインの名前は乙姫じゃなくて亀比売(かめひめ)で――渡されたのは玉手箱ではなく、玉匣(たまくしげ)。箱を開けても、浦島子はお爺さんにも鶴にもなりません。これが原話。でも、後の書籍でさまざまなバリエーションを見せてくれるのが『浦島太郎』なんですよ」


 これが『浦島太郎』の面白いところだ。道教思想に影響されたり、時流に合わせたり、掲載媒体によって自由自在に形を変えていく。その始まりが、諸説あれど風土記という創作が許されない媒体であったというのも興味深い。


「覚えてますか。東雲さんが出発前に教えてくれた本のタイトルのこと」


 肉売りは「ああ!」と手を打った。


「『万葉集』や『日本書紀』も貸したって言ってたね! あと何冊かあったけど……もしかして、全部『浦島太郎』関係なのかな?」

「そうです! 『水鏡』も『古事談』も『御伽文庫』も、時代は違いますが等しく『浦島太郎』を扱っている書です。だから、依頼主はとっても浦島太郎が好きなんだろうなって思って勉強してきたんですが」


 関連本を一通り読むような熱心な読者だ。付け焼き刃な知識じゃ太刀打ちできないと思い、自然と気合いが入った。同時に、ひとつの物語について議論を交わせたら面白いだろうとワクワクしていたのだ。やり甲斐のある仕事になりそうだ、と張り切っていたのに――。


「このザマです。本を貸し出すことすらできてない」


 しょんぼり肩を落とす。いまだに依頼人に会えていないなんて前代未聞だ。


「もう! 乙姫様に会ってみたいなんて余計なこと考えたからかなあ。自業自得だわ」


 ぽつりとこぼした愚痴に、肉売りが首を傾げた。


「――ふうん、乙姫様ねえ。城内をくまなく捜したけどいなかったよ?」


 意外な言葉にパチパチと目を瞬く。


「……捜した? なんでそんなことを?」

「だって、会いたかったから。乙姫って『丹後国風土記』でいう亀比売のことでしょ?」

「あれ。『丹後国風土記』読んだことあるんですか?」


 不思議に思いながら訊ねれば、肉売りはこともなげに頷いた。


「うん! 当たり前だろ。浦島子って僕のことだもん」

「…………え」


 一瞬、言葉を失う。何度か口を開け閉めして、

「えええええええ~~~~~!」

 すっ頓狂な声を上げて叫んだ。肉売りは迷惑そうに眉をひそめている。


「なんだよ、実在の人物だって自分で言ってたじゃないか」

「そ、そそそそうですけどっ! ご本人が目の前にいると思わないし……! やだ、本当に? 筒川村の水江浦島子さん……?」


 サッと水明の後ろに隠れた。どうにも肉売りの顔をまともに見られない。


「夏織、どうして俺の後ろに隠れるんだ……」

「だって! 物語の主人公がそこにいるんだもの! なんか緊張するじゃない!」


 水明は私の反応に呆れている。物語が大好きな私にとって、作中の人物と相まみえるなんて、町中でアイドルと遭遇するような出来事だ。仕方がないと思う。


「……まあ、故郷に知り合いがいなくなった時点で、浦島子の名前は捨てたんだけどね。現し世のあちこちをさまよっている時、すごくびっくりしたよ! 僕の話が形を変えて伝わっているんだもの。面白いなってずっと思ってたんだ」


 そこまで言うと、肉売りはひどく複雑そうに笑った。


「ね、夏織くんは『丹後国風土記』を読んだんだろ。僕が亀比売と一緒に行った場所が、竜宮城じゃないことは知ってるよね?」

「は、はい。確か蓬莱山だったかと」


 蓬莱山はいわゆる神仙境のひとつだ。不老不死の仙人が住み、霊亀という巨大な亀が背負っているとも、渤海湾中にあるとも言われている。


「ここは僕が招かれた異郷じゃないよ。でもさ、同じ海の中だし、浦島太郎の伝説に関係している場所だ。もしかしたら彼女がいるかもしれないと思ったんだ」

「奥さんって……亀比売のことだったんですね」

「うん、そうだよ。この世で一番優しくて綺麗な人。僕の自慢の奥さん。僕はね、亀比売をずっと捜し続けているんだ」


 肉売りが、腕の中の土産物を見つめる瞳はどこまでも優しげだ。


「蓬莱山から戻る時、彼女に二度と会えないかもしれないと言われたよ。でも、当時の僕はどうしても郷に帰りたくて仕方がなかった。愚かだったと思うよ。遠く離れた両親や生まれ故郷よりも、すぐそばにいる愛する人を優先するべきだったのに。玉匣を開けてしまったせいで、僕と彼女の仲は引き裂かれた。でも……僕には永遠の時間がある。きっと再会できるって信じてるんだ。彼女も僕を待ってくれているはず!」

「それが、あなたが永遠をよいものだと考えている理由ですか?」

「そうだよ! 永遠の命はね、僕に〝失敗を取り戻せ〟って言ってくれているんだ」


 浦島子が仕出かした最大の失敗。

それは玉匣……玉手箱を開けてしまったことだ。『丹後国風土記』では、老人にも鶴にもなりはしないが、どこかへ飛ばされてしまい、ふたりは二度と会えないまま終わる。


 肉売りはポケットを探った。取り出したのは……例のぽぴんだ。


「〝人生は一度きり〟で〝やり直しが利かない〟ってよく言われているよね。確かに普通の人間はそうだね。でも、僕にはやり直す時間が充分にある! 永遠の先に僕の〝幸福〟が待っていると言っても過言ではないんだ! 絶対に諦めないよ。永遠が僕の味方である限り、彼女を絶対に見つけ出してみせる」


 フッとぽぴんに息を吹き込む。「ぺこぽん!」と間の抜けた音がした。


「へへ……。楽しみだなあ。彼女、この音を聞いたらきっと大笑いするよ」


肉売りはクスクス笑っている。


 ――ああ。肉売りがあんなにも永遠にこだわる理由がわかった気がする。


 彼が求める幸福も、愛する人もすべて永遠の命に紐付くのだ。だから、肉売りの中で永遠は絶対だ。他の人に分け与えたいと願うほどには傾倒してしまう。


 ――やっぱりそうか。行き過ぎることもあるけれど、肉売りの基本は善性なのだ。


「亀比売と再会できたらいいですね」

「うん! ありがとう」


 私の言葉に肉売りが無邪気に笑った。

複雑な胸中をごまかすように話を『丹後国風土記』へ戻す。


「私、『丹後国風土記』の最後にある歌が好きなんです。初めて読んだ時は、言葉選びの美しさと妙に鳥肌が立ったくらい! 切なくて……でも愛情溢れていて。物語を締めくくるのに最もふさわしいと思いました」

「……? 君、なに言ってるの?」


 肉売りが首を傾げている。変なことを言ってしまったかと、『丹後国風土記』のページを繰った。開いたのは物語の終わり、五首の歌謡が載っている部分だ。

 まじまじと本を眺めた肉売りはわずかに眉をひそめた。


「僕が蓬莱山から戻ってきた後、確かにいろいろと聞かれたから答えたよ。実際、『丹後国風土記』の記述は僕が語ったことを基に書かれたみたいだ。でも、歌なんて知らないよ。全然記憶にない。亀比売と過ごしていた時、歌を交わしたことはあったけどね」


 キョトンと目を瞬く。肉売りは「彼女は歌を作るのも上手かったんだ」と惚気ている。


「で、でも……この本には確かに」


 手にした本に視線を落とすと、あることを思い出した。


 ――そういえば、末尾の五首の歌謡は後世に付け足されたものだと聞いたことがある。

 ならば「知らない」という肉売りの言葉は本当なのだろう。

 しかし、どうにも違和感があった。歌にこめられた想いは真に迫っていて、実に生々しい感情がこめられているように思えたからだ。


 ――誰が歌を書き加えたんだろう……。


 ぽぴんで遊んでいる肉売りを眺めながら、ほうとため息をこぼす。

 ふと顔を巡らせれば――池にかかった橋のたもとにひとりの女性が立っているのに気がついた。盧氏のようだ。私と目が合うとくるりと踵を返す。


「……あっ! 待って!」


 得も言われぬ想いに駆られ、慌てて後を追った。


「夏織っ!?」

「あれ? どこ行くのさ~」


 水明と肉売りが動揺している。事情を説明した方がいいとも思ったが、私は足を止めることができなかった。


 ――泣いていたような気がする。


 トクトクと胸が高鳴っている。私はある予感を胸にひたすら走り続けた。


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