表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
154/167

薄玻璃の幸福3

 人魚の肉売りと邂逅を果たした数日後。


「おい、夏織」


 秋の恒例行事「本の虫干し」に向けて、店で山のような蔵書を整理していた時である。振り返ると、東雲さんと水明、クロが並んで立っていた。


「なあに? どうしたの。ふたり揃って」


 タオルで汗を拭きながら訊ねる。店の片隅で昼寝をしていたにゃあさんが、伸びをして窓から出て行く。水明の足もとにいたクロが「待って!」と慌てて後を追った。わんにゃん二匹の姿が見えなくなると、東雲さんは水明と目配せをしてから口を開く。


「悪いんだが、唐糸御前のところまで荷物を引き取りに行ってほしいんだ」

「唐糸御前のところ?」

「ああ。本の配達も頼みたいから、水明も連れていけ」

「……! あ、もしかして本体の修理が終わったの!?」


 パッと顔を輝かせて訊ねれば、東雲さんが大きく頷いた。


「そうだ。ちっとばかし忙しくてな。代わりに受け取ってきてくれねえか」


 唐糸御前は、元々は鎌倉時代に生きていたお姫様だ。なんの因果かあやかしになってしまった彼女は、現在は付喪神専門の修繕師をしている。

 唐糸御前は養父である東雲さんの本体の修理を請け負っていた。東雲さんは掛け軸の付喪神で、とある事件のおりに本体を破壊されてしまった。春先には修繕が終わると聞いていたのに、トラブルもあり延びに延びて今に至っている。


「やっとか~! よかったねえ、東雲さん。これで少しは安心できるでしょ」


 付喪神は基本的に本体から離れない。万が一なにかあれば命に関わるからだ。修理のためとはいえ本体と隔離されている状態は、東雲さんにとって不安だったに違いない。心底安堵して微笑めば、東雲さんはバリバリと首元を掻いた。


「まあ、そうだな」


 曖昧に笑って、ゆっくりと瞼を伏せた。東雲さんの視線が地面を行きつ戻りつしている。


「悪いな。使いっ走りさせちまって。虫干しが終わった後でいいからよ」

「……そう? でもなあ」


 窓越しに空を見上げる。


「唐糸御前も東雲さん担当だったよね……」


 かの御前とは、以前、青森の黒神関係の事件で関わった時、いくつか本を紹介させてもらった。厳選したつもりだ。自信はあったが――再び選書の依頼は来ていない。付喪神の修繕で忙しくしている人だ。単に暇がないのかもしれないけど……。


 ――失敗したな、って心残りだったんだよね。


 これは挽回のチャンスかもしれない。貸本屋を継ぐために頑張ろうと決めたのだ。スキルアップのためにもチャレンジしてみるべきだろう。

 窓の外をふわりと幻光蝶が飛んで行くのが見える。近所のあやかしたちは、数日は晴れ間が続くだろうと言っていた。無理に虫干しを急ぐこともない。


「青森まで行って帰ってくるだけだよね? わかった、すぐに行くよ」


 エプロンを素早く取った。急いで行けば今日中には帰ってこられるはずだ。


「支度するね。水明は準備できてるの?」

「……ああ。大丈夫だ」

「そっか。クロも一緒に行くよね? あの子たちどこ行っちゃったんだろう」


 店頭の引き戸をからりと開けて、外の様子を窺う。「にゃあさん!」と声をかければ、頭上から「なあん」と聞き慣れた声が降ってきた。軒下でクロが屋根を見上げて途方に暮れているのが見える。相変わらずクロはにゃあさんに翻弄されっぱなしだ。

出かけるよと声をかけ、店内に戻って広げていた本をしまい始める。


「夏織、焦らなくていいんだぞ?」


 東雲さんは気まずそうな顔をしている。私は手をヒラヒラ振って笑った。


「いいの。これも引き継ぎの一環でしょ? 東雲さんが私にお遣いを頼むのはいつものことだし。それにね、私ってば東雲さんの本体の掛け軸をじっくり見たことがなくてさ」


 掛け軸には天翔る龍を描いた水墨画が描かれている。私が目にした時は無残にも切り裂かれてしまっていた。しかし、そんな状態であっても素晴らしいとわかる出来だった。墨の濃淡で描かれた作品なのに、自然と色が滲み出てくるような感覚。不思議な体験だった。もう一度見てみたいと心から思う。それが養父の本体であるならなおさらだ。


「〝幸運を呼ぶ掛け軸〟を拝ませてもらえるなら、青森くらいへっちゃらだよ」


 少し戯けて言えば、東雲さんはクツクツと喉の奥で笑った。


「そうか」


 ポンポンと肩を優しく叩かれる。


「なら頼む。気をつけていけよ」

「うん!」


 喜色を浮かべて頷く。


「私、お店をきちんと継げるように頑張るからね」


やる気を見せれば、東雲さんはふわりと優しげに笑んだ。

すると、水明がどことなく暗い顔をしているのに気がつく。


「――水明?」


 首を傾げていれば、東雲さんが「ちょっと待ってろ」と自室に戻っていった。配達も頼みたいと言っていたから、必要な本を取りに行ったのだろう。

完全に東雲さんの姿が見えなくなってから、ゆっくり水明に近づく。無言のまま佇む水明の横に立つと――フッと耳に息を吹きかけた。


「どわあああああああああっ! な、なにするんだお前っ!」


 耳を手で押さえ、真っ赤になって慌てだした水明へにんまり笑う。


「ぼんやりしてるから、どうしたのかなって思って」


 水明はすい、と視線を逸らした。遠くを見たままこちらを見ようとしない。


「べ、別にどうもしてない。秋は薬屋も忙しいからな。冬籠もりの準備でごった返すだろ? 最近疲れてるから、た、体力温存をしてたんだ。これから青森に行くらしいし」


 あやかしたちは冬の間、自分の巣に閉じこもることが多い。その間に利用する薬を求めてナナシの店に殺到するのだ。最近、ナナシの姿を見ていないのはそのせいだろう。


「あらら。大変だね。無理しなくても大丈夫だよ? にゃあさんもいるんだし」

「いや行く。絶対に行くからな。お前は目を離すとなにを仕出かすかわからない。俺がそばにいないと」


 ブツブツ呟く様は、恋人というより保護者のようだ。

 たまらず噴き出してクスクス笑う。ムッとした様子の水明に「そっか」と頷いた。


「わかった。じゃあよろしく頼むよ。私が変なことしないように見張ってて」

「……まったく仕方ない奴だ、お前は」


 頬を染めたままそっぽを向いてしまった水明を眺める。私は苦く笑うと、


 ――隠し事が下手くそなんだから。


 内心でため息をこぼした。彼と知り合って約一年と少し経つが、わかったことがある。

 水明は隠し事が本当に下手。嘘を吐いている時は絶対に目を合わせてくれない。


 ――普段は見すぎってくらいに、まっすぐ目を覗いてくる癖に。


ここ最近、水明と東雲さんは頻繁に一緒に出かけていた。隠れ里から戻ってきてから多くなったように思う。ふたり揃って声をかけてきたし……たぶん、なにかあるのだろう。


 ――まあ、話してくれるのを待つしかないか。


 無理矢理聞き出すのも気が引ける。すっきりしないが、彼らが私を傷つけるなんてあり得ない。なら時が来るまで待っていればいい。なにも焦る必要はないのだ。

 心の中のモヤモヤを押し込め、笑顔になる。


「青森に行ったら美味しいご飯でも食べようよ! 食べたいものはある? 林檎の季節にはちょっと早いかなあ。弘前でアップルパイ食べ比べとか? 土手町って場所にね、白あんのおやきが美味しい店があるんだよねえ。あ、黒神に挨拶に行くのもいいなあ」


 いつものように寄り道を提案すれば、水明がギュッと眉根を寄せた。


「そんな時間はないだろう。本来の目的を忘れるな」

「うっ! そこをなんとか!」

「いやあね。色気より食い気って感じ」

「夏織は、いつもこうだよねえ」

「……ッ!? にゃあさんにクロ、いつの間に!?」


 犬猫コンビの極寒の如く冷え切った視線におののいていれば、


「わあ! なんか楽しそうな話してるねー!」


 したーん! と勢いよく店の入り口が開いた。ギョッとして見遣ると、現れた人物に思わず目を丸くする。


「なになにっ? 青森に行くってほんと~? なら僕も交ぜてよ!」


 そこにいたのは、つい最近も目にしたばかりの人物。


「――人魚の肉売りっ……!? お前、どうしてここに!」


 すぐさま水明が臨戦態勢に入った。肉売りは水明なんて目に入っていないのか、ニコニコ笑いながら店に入ってくる。


「な、なんの用でしょう……」


 まさかこの間、神保町で話した内容が気に入らなくて復讐に来たとか……?


 嫌な予感がして身構えていれば、肉売りは私の手にぐいと紙袋を押しつけた。少し湿気った紙袋だ。ホカホカ温かい。なにより――甘い匂いがする。


「……こ、これは……!」


 唾を飲みこんで紙袋を覗いた。中にはつい最近見たアレが入っていた。


「た、鯛焼き……?」

「この間、すっごく美味しかったからさ! お礼にと思って」


 ニカッと太陽みたいに笑われて、眩しさにたまらず目を眇めた。


 ――わあ、それで焼きたて買ってきてくれたんだ。嬉し……いやいやいや!


「ど、どういう魂胆ですか。まさか毒を仕込んであるとか……?」

「なにも企んでなんかないよ。ひどいなあ、人の好意を」

「お金がないのに?」

「大丈夫、なにせ僕は永遠の命を持ってるからね。食べなくても、すごくひもじくて惨めに思うだけで死んだりはしないんだ!」

「それって別に大丈夫じゃないですよね……!?」


 思わず突っ込めば、肉売りはケラケラ愉快そうに笑っている。

 なけなしのお金で買った鯛焼き……受け取っていいものなのだろうか。悶々としていれば、ポン、と誰かに肩を叩かれた。


「…………。夏織?」


 ぎこちない動きで振り返ると、やたら綺麗な笑みを浮かべた水明がいた。


「――やけにコイツと親しいようじゃないか。どういうことだ。説明しろ」

「ヒッ! いや、別に彼とはなにも……」

「そうだよ! 一度だけ神保町デートしただけさ」

「誤解を招くような発言はやめてくれません!?」


 勢いよく睨みつける。肉売りはニヤニヤ笑っていた。

 明らかに遊ばれている。彼の中で私たちはすっかり気安い関係のようだ。なんなんだ、この人。つい先日、死闘を演じたばかりのような気がするのに。


「なんだ、なんだ。やかましいな、お前ら」


 騒ぎを聞きつけた東雲さんがひょっこり顔を覗かせた。

 ジロリと私たちを睨みつけ――視界の中に肉売りを見つけてしかめっ面になる。


「おめえ……。また来たのか、しつけえなあ」

「お邪魔してま~す! ねえねえ、東雲。僕もこの子と一緒に青森へ行ってもいい?」


 ピクリと東雲さんの片眉が吊り上がった。


「どういうつもりだ?」


 地を這うような声。鋭い眼光。ともすれば恐怖を覚えそうなほどに剣呑な問いかけにも、肉売りは飄々と答えている。


「この間ね……えっと、夏織くん? にいろいろと教えてもらってね。永遠の命について考えたんだ。まあ、終わりのない生は最高だって結論は揺らがないんだけど」


 すう、と目を細める。緑色の瞳が鮮やかさを増した気がした。


「ちょっと思うところがあって。別にいいでしょ? 仕事の邪魔をしたりしないからさ」

「…………」


 肉売りの言葉に、東雲さんは渋い顔をしている。

はあ、とため息をこぼすと「好きにしろ」と呟いた。


「やった!」

「ちょ、ちょっと待って! 東雲さん、一体どういうことなの? それに、肉売りと知り合いだなんて初耳なんだけど!?」


 たまらず訊ねれば、東雲さんは面倒くさそうに息を吐いて、突っかけを履いて店に下りてきた。手にしていた本を私に押しつけ、チッと舌打ちをする。


「ちょっと顔見知りってだけだ。コイツがいるとうるさくて敵わん。仕事の邪魔だ。行きたいってんなら別にいいだろ。青森へ連れていってやれ」

「え、ええ……!?」


 養父の意外過ぎる言葉に目を白黒させる。


「待て、東雲。さすがにそれは容認できない!」


 すかさず水明が止めに入るも「俺がいいって言ってんだから、別にいいだろ」とピシャリと遮られてしまった。水明と顔を見合わせる。思わず肉売りを見れば、彼は満足げに鼻の下を指でさすっていた。


「ほ、本当に一緒に行くの……?」


 そろそろと訊ねると、肉売りは満面の笑みで「うん!」と大きく頷いた。東雲さんは「任せたぞ」と自室に戻っていく。どうやら連れていくしかないようだ。


 ――ちゃんと貸本屋を継ごうって決めてから、初めて任された仕事なのに……。


 肉売りと一緒だなんて。とんだ珍道中になりそうである。


 はあ、とため息をこぼす。なんとなしに東雲さんからもらった本を見遣った。

丹後国風土記(たんごのくにふどき)』。古めかしい和綴じの本だ。


「……? これを唐糸御前が?」


 首を傾げる。ハッとして自室に戻ろうしている養父へ慌てて声をかけた。


「し、東雲さん! どうしてこの本を選んだの!?」


 予想だにしていなかった本に、私は混乱していた。どういう意図で貸し出す本なのだろう。仕事をやり遂げるためにも理解しておくべきだ。

 ゆるりと振り返った東雲さんは、口を何度か開閉してからボソリと言った。


「どうしてって――……そういう風にしてくれと言われたからな」


 口下手な養父らしい返答である。全然、答えになっていない。

 じっと続く言葉を待つ。東雲さんは面倒そうに視線を宙に遊ばせると、指折り数えながら本のタイトルを挙げていった。


「ソイツの前に貸したのは、『古事談(こじだん)』に『水鏡』『万葉集』『日本書紀』だ。江戸時代に出た『御伽文庫』も貸したぞ。夏織、お前なら――どういう理由かわかるだろ?」


 小さく息を呑んだ。必死に頭を巡らせて一応の答えを出す。


「……わかる、と思う」


 途切れ途切れに答えた私に、東雲さんはニカッと嬉しそうに笑った。


「そうか。頑張れよ、お前はうちの跡継ぎなんだからな」


 養父の姿が見えなくなった。そんなに長くないやり取りだったのに、手のひらにじんわりと汗をかいている。緊張していたようだ。


「――よしっ!」


 腕まくりをして店の本棚に向かった。素早く視線を巡らせ、棚から何冊か本を取り出す。


「……なにしてるんだ? 出かけるんだろ?」


 首を傾げている水明に、私はページから目を離さないまま言った。


「ごめん、ちょっと待って。情報を補足しておきたいから」


 そのまま黙りこむ。ペラペラと高速でページを繰る。


――ここじゃない、どの辺りだったっけ……。


「ん~? 行かないの? 僕は待ってればいいわけ? ねえ。ねえってば!」


 なにやら肉売りが騒いでいる。しかし、文字の世界に入り込んだ私の耳には届かない。目当ての情報を探して、更に数冊の本を棚から取り出した。


 ――私がこの店を継ぐんだ。どんな仕事だって絶対に失敗できない。


 数十分後。心当たりがあった本に一通り目を通し終わった。必要だと思われる書籍を鞄に何冊か詰め込む。暇を持てあまし、わんにゃんコンビと遊んでいる肉売りに声をかける。


「お待たせ。行こう!」


 こうして私たちは、青森へと向かうことになったのだった。


***


 私たちが下り立ったのは、青森県の中でも西に位置する鰺ヶ沢町だ。海岸線沿いに白い物体がずらりと干されている。風に揺られ、ハタハタとなびいているのは開いたイカだ。ここは焼きイカ通り。名のとおり焼きたてのイカを売る商店が並ぶ場所で、ドライブがてら焼きイカを買い求める客で賑わっている。


「はくっ! はくはくはくっ! ふわ~! イカ美味しいねえ! 身が厚くって、ほんのりしょっぱくて……いくらでも食べられちゃうよ!」


 潮の匂いを多分に含んだ風を浴びながら、大はしゃぎしているのはクロだ。

 茶色い紙袋に直接鼻を突っ込み、しっぽをブンブン振りながら焼きイカを堪能している。


「犬くん! イカのクチバシも美味しいよ。珍味だって。犬くんはイカが好き? 僕はねえ、ウニの方が好きだよ! ねえ、獲れたてのウニ食べたことある?」


 クロの横でニコニコしながらイカを食べているのは肉売りだ。

「食べたことない!」としっぽを振るクロに、新鮮なウニの味を子細に教えてあげている姿はまさに気のいいお兄さんである。


「獲れたてウニの味は絶品なんだよ! 犬くんは知ってるかい? 青森の八戸ではね、ウニとあわびの水煮缶が名物なんだって。青森は海鮮物がとても美味しいんだねえ」

「えっ……! 豪華な缶詰。すっごく美味しそう! 味はどうだったの?」

「……ご、ごめん、僕自身が食べたことはないんだよね! 手を出せるお値段じゃなくて。ア、アハハハハハ!」


 ――訂正。気はいいけど貧乏なお兄さんだ。


 定職を持たない肉売りは、どうやってお金を工面しているんだろう……。

 不思議に思いつつも、手にした本のページをめくる。にゃあさんは防波堤の上で大あくびしていた。迎えが来るはずなのだがどこにも姿は見えない。


読んでいるのは『丹後国風土記』の関連本だ。一通り読み終え、ため息をこぼした。この部分さえ押さえておけば内容を案内する程度なら充分はなずだ。そう思うのに、まだまだ足りない気がして不安で胸がいっぱいになる。


……大丈夫かな。ちゃんと仕事できるだろうか。


今までも散々してきた仕事だ。別に特別なことじゃない。私にならできるはずだった。

心を決めたはずだ。東雲さんの後を継ぐんだって。

でも――。

 深呼吸を繰り返す。なんでこんなに心細いのかな……。


「夏織?」


 水明に声をかけられ、ハッとした。薄茶色の瞳が気遣わしげに私を見つめている。


「大丈夫か」


空いていた手をそっと握られた。何度か目を瞬いて、ゆっくりと息を吐く。知らぬ間に力んでいたようだ。「へへ……」と苦笑をもらせば、水明の目もとが和らいだ。


「――なあに、緊張してるの?」


 ビクリと身を竦めた。知らぬ間に肉売りが隣に立っている。


「大丈夫? ウニ獲ってきてあげようか」


 一見すると善意とも取れる言葉だが、素直に受け取れずに顔が引きつった。肉売りが私へ親切にしてくれる理由がわからないからだ。青森についてくると言い出した件も併せて、なにか裏があるとは思うのだけど……。


 ――それに、美味しい食べもので釣ればいいと思われてない……?


とんだ誤解である。さっきもらった鯛焼きは、道中で美味しくいただいちゃったけど!

 ムッとして唇を尖らせる。じとりと睨みつければ、肉売りはこてんと首を傾げた。


「元気づけるのにウニを獲ってくるって、どんだけ野生児なんですか」

「えっ……変だった?」

「磯臭い生き物で慰められるのは初めてですね……。それに密漁は駄目ですよ。漁業組合が管理している場所だった場合、ウニを勝手に獲ったら窃盗になりますから」


 さあ、と肉売りの顔から血の気が引いていった。


「む、昔はどこでなにを獲っても怒られなかったのに。なんてことだ。もしかして僕は、知らず知らずのうちに誰かのウニを盗っていた……?」

「時代はいつだって移り変わりゆくものなんですよ。反省してください」


 ガーン! と漫画的擬音が飛び出てきそうなほどに肉売りはショックを受けている。


「僕はみんなを救うヒーローなのに。そんな……」

「ヒーロー?」

「そ、そうだよ。困っている人に人魚の肉を届けるヒーロー。それが僕だ」


 だから犯罪はマズいんだ! と慌てている肉売りに内心で膝を打った。


――そういうことか! 腑に落ちた気がする。


正義のヒーローは、自分の行いを正しいと信じて疑わない。正義のためならどんな無茶もする。正義を執行する行為そのものが、ヒーローであるために必要だからだ。


『僕に君たちを救わせておくれ!』


以前、肉売りは友人たちにこう言っていた。彼にとっては、不老不死をもたらして困っている人を救うことがヒーローであるための条件なのだろう。


 ――実際、救われた人もいるんだろうけど……。


永遠の命という性質上、彼の正義を必要としている場所であれば諸手を挙げて歓迎されるだろうが、必要とされていない場面じゃ押しつけがましいだけだ。

 遠近さんが無害だと判断した理由もわかった気がした。彼が自分を正義のヒーローだと思っているのであれば、誰かを貶めたりはしないだろう。


「まあ……。次から気をつければ……わっ!」


 肉売りを慰めようとすると、いきなり手を引っ張られた。転びそうになってたたらを踏む。ドキドキしながら振り返れば、不満げに頬を膨らませた水明がいた。


「……俺なら、密漁なんかしなくてもウニくらいごちそうできるんだからな」

「張り合うところそこ!?」

「うるさい。あんまりソイツに近づくな。馴れ馴れしくするんじゃない」


 そばに引き寄せられ、剣呑な雰囲気をかもしている水明を唖然と見つめる。


「ぷっ……!」


 思わず噴き出せば、水明は眉根を寄せた。


「笑うな、こっちは本気なんだぞ」

「ごめんごめん。どっちにしろ磯臭いなあと思ったの」

「ウニと言い出したのはソイツだろ」

「うんそうだね。ところで水明」


 にんまりと笑む。


「……言質はとったよ?」


 水明が大きく目を見開いた。


「お前……! 本気でウニを食うつもりか!?」

「ふ、ふふふ……。自分で言ったんじゃない。楽しみだなあ! どんぶり一面に敷き詰められた黄金のウニ……!」


 ワナワナ震え始めた水明をツンツン突いていると、私たちの様子を眺めていた肉売りが肩を竦めた。


「仲がとってもいいんだね。もしかして君らって夫婦?」

「「ふ、夫婦じゃありませんっ(ないっ)!」」


 同時に反論して肩で息をする。ちらりと視線を遣れば、バッチリ目が合ってしまった。途端に恥ずかしさがこみ上げてきて顔を逸らす。ふたりで茹で蛸みたいになった。肉売りはカラカラ笑っている。


「初々しいねえ。そっか、そっか。最近は恋愛とかいう段階を挟むんだっけ? 懐かしいなあ。僕も奥さんと出会った頃はこんな感じだった」

「結婚してるんですか!?」

「うん。そうだよ。ずいぶん会えていないけどね」


 意外な発言に目を瞬く。永遠の命を持った彼の妻とはどういう人だろう……?


「おおい! 夏織。いつまで話しているつもりじゃ? こっちへこんか!」


ひとり物思いに耽っていれば、背後から声が聞こえてきた。


「あっ!」


慌てて振り返ると、防波堤の前に黒衣に袈裟を着た男性が立っている。


「儂、放置プレイは好かぬのに。夏織はいけずじゃのう。そうは思わんか、にゃあ?」

「アンタも面白がって眺めてたでしょ。若いモンはええのうとか言って」


 あやかしの総大将であるぬらりひょんだ。にゃあさんを抱っこして、地面につきそうなほど長い銀髪を潮風に遊ばせている。


「お久しぶりです。あの、唐糸御前は……?」


 キョロキョロと辺りを見回す。どこにもたおやかな笑みを湛えた美女を見つけられずに困惑していれば、ぬらりひょんは「しいっ!」と口もとに人差し指を添えた。


「今回はのう、儂が案内役を買って出たのじゃ。なあに気にするな。ここ数年、界隈を騒がしておる奴も来ると聞いて、迎えに来るなら儂が一番適当だと判断したまでじゃよ」


 ボソボソ小声で話しながら、人魚の肉売りに鋭い視線を送っている。どうやらお目付役らしい。なるほどなと思っていれば、ふいに日が陰ったのがわかった。


「……?」


 天を見上げれば、空を覆い尽くすほどの巨大なクラゲがぷかぷか浮いているのに気がついた。ぬらりひょんの眷属だ。長い触手がふよふよ寄ってきて、ビクリと身を竦める。


「あ、あの。お迎えは助かるのですが、肝心の唐糸御前はどこに――?」


 恐る恐る訊ねれば、ぬらりひょんはニィと不敵に笑った。


「お主も知っての通り、あれは非常に神経質な性でな。地上にいたんじゃ修繕に集中できないと、ある場所に引きこもっておる」

「ある場所……?」


 嫌な予感がした。悪戯好きなぬらりひょんはたまに予想もつかないことをする。

 そもそもどうして巨大なクラゲを待機させているのだ。なにをするつもりなのか。


「あの。詳しい場所を教えてください。海辺に呼ばれたってことは船で向かうんですか?」

「船? あやかしともあろうものが、そんなまどろっこしいモンに乗るはずがなかろう! んん? 場所がわからんと不安か? なあに心配するでない。儂が連れてってやる。安心して身を任せるんじゃ。別に痛くはしないから」


 するりとクラゲの触手が私の頬を撫でた。まとわりついてくる触手を手でいなしながら、苦い笑みを浮かべる。


「怪しげな発言はよしてください。私、嫌ですよ。変なところに連れていかれるの」

「フム。別に変な場所ではないと思うがのう。おお、そうじゃ。夏織も子どもの頃に行ってみたいと言っていたではないか」

「……? ええ? どこですか、それ」


 思い当たる場所がなくて首を傾げた。

「忘れてしまったのか?」とぬらりひょんは楽しげに笑っている。


「絵本を読みながら目をキラキラさせておったじゃろう。竜宮城へ行きたいと」

「竜宮城?」


 キョトンと目を瞬いた。確かに言ったかもしれない。


「でも、竜宮城なんて実在するわけがないでしょう?」

「なにを言う! 現し世でも話題になったんじゃぞ? 青森沖には竜宮城が存在した! 鰺ヶ沢沖には超古代に滅んだ文明があったのだと……!」


 ギョッとして目を瞬く。青森に古代文明? 初耳だ。


東日流外(つがるそと)三郡誌(さんぐんし)という、古文書というか……まあ、いわくつきの書があってな。古代の津軽の歴史を書き記しておって、『アラハバキ』という文明の存在を示唆しておる。かつてはえらく栄えたそうじゃが、津波で一夜にして滅んだらしい。鰺ヶ沢沖の海底に人工物っぽい瓦礫が多数残されておる! ほれ、竜宮城がありそうじゃろ?」


 いわくつきの古文書に、人工物〝っぽい〟瓦礫……。


 ――怪しい。怪しすぎる。


 思わず変な顔になれば、ぬらりひょんはぷくりと頬を膨らませた。


「おお、疑わしいという顔じゃな? ひどいのう。青森はミステリアスな場所なんじゃぞ!? キリストの墓もあれば、ピラミッドもある。日本最大の縄文集落であった三内丸山遺跡もあるし、恐山ではイタコに会えるんじゃぞ。古代文明のひとつやふたつ、あってもおかしくないじゃろうが!」

「いや、躍起になられても」


 それにしても、竜宮城かあ……。


 鞄に意識を向ける。『丹後国風土記』を届ける日にその名前が出てくるなんて、偶然にしてはできすぎている。もしかしたら本当にあったりして……? いやいや、そんなまさか。


「わかりました。ともかくその竜宮城とやらに唐糸御前がいるんですね?」

「絶対に信じておらんじゃろ。儂、いじけちゃうからな」


 まるで子どものように頬を膨らませている。「信じてますよ」とクスクス笑う。


「ぬらりひょん、私をそこへ連れていってください。東雲さんの本体を受け取って、貸本屋としての仕事をしなくちゃ」

「……ああ」


 私の言葉に、あやかしの総大将はわずかに眼を細めた。ポン、と肩に手を置いて、


「頑張っておいで」


 と笑みを浮かべる。頭まで撫でられた。髪がクシャクシャになって、「もう!」と思わず抗議をすれば「スマンスマン」とおざなりに謝られる。


 なんだか、ぬらりひょんがいつにも増して優しい気がした。私が貸本屋を継ぐと知って、気を遣っているのだろうか? 不思議に思っていれば――突然、巨大なクラゲの傘がぶわっと質量を増し、そのまま全員を包み込んだ。


「ぶっ……!?」


 慌てて息を止める。柔らかいゼラチン質に全身が包まれ、ぷかりと体が浮かんだ。

 目を白黒させながら周囲を見回せば、全員がクラゲの体内に取り込まれていた。誰も彼もが溺れそうだ。まっ青な顔をしてクラゲの体内でもがいている。


 ふわりとクラゲが宙に浮かぶ。ふよふよと移動を始めた。


「じゃあ、気をつけて行ってくるんじゃぞ~」


 地上でぬらりひょんが手を振っている。


 ――待って待って待って!


 慌ててぬらりひょんに向かって手を伸ばした。なぜならば――。


 ――息。息ができない。どこまで行くのかわからないけど窒息しちゃう……!


 命の危険を感じていたからだ。

 神出鬼没なぬらりひょんは、普段は海の中で生活していると聞く。エラ呼吸の魚たちに囲まれて過ごしていたら、水中での呼吸の必要性に意識が向かないのだろう。いや、もしかしたら人間が肺呼吸する生き物だと忘れているのかもしれない。


 ――いやいやいや! さすがにうっかりが過ぎる……!


 なんとかクラゲから抜け出そうとジタバタと体を動かす。しかし、無情にもクラゲは移動を始めてしまった。このまま目的地へ向かうつもりらしい。思いのほかスピードが出ている。あっという間に地上が徐々に遠ざかり、気がつけば海上に出ていた。波は穏やかで凪いでいて、キラキラ光る海面の上をクラゲの薄い影が通過していく。


ゾッとして身を縮めた。人間が呼吸をしないでいられるのは何分だったっけ……。


ある地点まで到達すると、私たちを内包した巨大なクラゲが落下を始めた。大きな水しぶきを上げて水中へ飛び込む。ボコボコとくぐもった水音がする。明るい水面があっという間に遠ざかった。視界が藍色に染まる。見渡す限りの海だ。果てなく続く水の世界。死角からとんでもなく巨大な化け物が出てきそうで空恐ろしく思う。


こぽ、と口から気泡が漏れた。そろそろ息が限界だ。


――駄目だ。このままでは死んでしまう!


苦しくてうっすらと目を開けた――その瞬間、ある光景が目に飛び込んできた。

 海中に不自然なほどに直線的な石が並んでいる。石像の一部を思わせる丸い石もあった。なにより、石と石の間に巨大な泡がひとつ停滞しているのが見える。中がほんのりと明るい。泡の中にあるのは朱塗りの豪華な城だ。珊瑚で飾られ、魚たちが踊っている。


強烈な既視感を覚えて胸が高鳴った。


――ああ! まさか、まさか、まさか! あそこは――!


 知らぬ間に、亀ならぬクラゲに乗って海底の楽園へ招かれたらしい。


――実在したんだ、竜宮城……。


 目を何度か瞬いて鞄の中身に意識を向ける。

じわじわと興奮が広がっていったが、さすがに視界が暗くなってきた。


 ――竜宮城に空気があればいいな……。


 そんなことを思いながら、私は意識を手放したのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ