薄玻璃の幸福2
バイトが終わると、私は都内のある場所を目指した。
神保町だ。目的は古書店街。今日は本の仕入れをする予定だ。
秋晴れの空が広がる神保町は多くの人々で賑わっている。町のいたるところに本屋が並び、靖国通りの南側に回れば、味のある店構えの書店がずらり。店頭には品揃えを誇るように本が積まれている。店の中に一歩足を踏み入れれば濃厚な古書の香り。落ち着く匂いだ。色褪せた背表紙を眺めているだけで時間が経つのを忘れる。
――今日に限っては、まったく集中できていないけれど。
「……ねえねえ! ねえってば~。僕の話を聞いてよ」
私の後を子ガモよろしくついて歩くのは人魚の肉売りだ。
どうしても私と話をしたいらしい。いくら無視しても、挫けずについてくる。
ちらりと肉売りを見遣る。飼い主と目があった仔犬のように顔が輝いた。プイとそっぽを向けば、「ああ……」と落胆の声がした。このあやかし、一体なにがしたいんだろう……。
肉売りの手には、ぽぴん入りの袋が握られていた。支払いは遠近さんが立て替えてくれた。理由はわからないが、遠近さんはやたら肉売りに対して面倒見がいい。さっきも肉売りをよく知っている口ぶりだった。遠近さんは事情通だから、どこかで知り合う機会があったのかもしれないけど……。
――いや、遠近さんも玉樹さんが肉売りを捜していたのを知ってたはず。困っている友だちを放って置く人じゃないもの。じゃあ、孤ノ葉たちの騒動の後に知り合った……?
なんにせよ、遠近という人の中で肉売りは〝無害〟認定を受けているらしい。
――あれだけ大騒動を起こしたのに。わけがわからないや。
「ねえってば!」
「――ちょっとお客さん」
肉売りが大きな声を出したせいで、店主に睨まれてしまった。
「す、すみません!」
慌てて店を出る。ああもう! これじゃゆっくりと本を眺めることすらできない!
道端に寄って振り返る。ついて来ていた肉売りが途端にニコニコし始めた。
……ああ、頭が痛い。勘弁してほしい。
「ちょっと来てください」
「……? うん」
しかめっ面のまま歩き出す。到着したのは、神保町でも有名な鯛焼き屋さん。
イライラしたので、無性に甘い物が食べたくなってしまったのだ。
ここの鯛焼きは大きな四角い羽根がついていることで人気だ。お値段も手頃。お財布事情を鑑みなくても楽しめるから、書店巡りの帰りにはいつも購入している。
ひとつ注文すれば、焼きたてを出してくれた。袋越しにじんわりと熱が伝わってくる。今日も今日とて東京には乾き切った冷たい風が吹いていた。冷え切った指先に、じん、と鯛焼きの熱が染みる。バイト終わりで疲れた体が早く鯛焼きをよこせと騒いでいた。
「…………」
大口を開けて齧り付こうとした瞬間、痛いほどの視線を感じて動きを止めた。ちらりと横を見れば、肉売りが物欲しげな顔で凝視している。ウッと小さく呻いて鯛焼きを隠した。
「まさか、鯛焼きを買うお金もないんです……?」
恐る恐る訊ねれば、肉売りは「えっへへへ」と笑った。はあ、とため息をこぼして、一個百五十円の鯛焼きを追加で買う。ぐいと押しつければ肉売りの顔が輝いた。
「ありがと~!」
心底嬉しそうにしている肉売りへ、よかったですねと適当に声をかける。小さくため息をこぼして、道端の防護柵に寄りかかった。行き交う人を眺めながら鯛焼きをほおばる。羽根はサクサク、生地はもっちり。中にぎっしりあんこが詰まった鯛焼きは結構な食べ応えがある。甘いスイーツが疲れた心に沁みるようだ。思わず気を抜いていれば、
「街角でごちそうが食べられるなんて幸せだねえ。ね、君もそう思うでしょ?」
肉売りに満面の笑みで話しかけられ、ひくりと顔がひきつった。
「そ、そうですね」
曖昧に笑みを返せば、口の周りにあんこをつけた肉売りがニカッと笑う。
「やっぱり永遠は最高だな! 長く生きてなきゃこんな美味しいもの食べられなかった」
すでに食べ終わったらしい。包み紙をポケットに突っ込んだ肉売りは、紙袋からぽぴんを取り出した。
「素敵な玩具まで僕のものになった。永遠はいいよねえ。いろんな出会いをもたらしてくれる。ほら、ガラスがすっごく薄いよ。すごいねえ。現代技術って奴?」
緑がかった瞳を細め、ぽぴんを空にかざして眺めている。秋の薄日が、ガラス越しに肉売りの頬へ鮮やかに色を散らした。
――この人、本当に永遠の命をいいものだと思ってるんだ……。
無垢な子どものようだ。延々と続く日々が、幸せそのものなのだと信じて疑わない。
――モヤモヤする。この人の思い込みが大勢を不幸にしているように思えてならない。
私の脳裏に浮かんでいたのは、永遠の命に苦しみ続ける玉樹さんの姿だ。
大切な人を苦しめた肉売りをやっぱり許せない。ムッとして言い返した。
「ぽぴんはずいぶん昔からありましたよ。現代技術は関係ないです。知らないんですか、江戸時代に活躍した喜多川歌麿の『ポッピンを吹く女』っていう絵。あなたが世間知らずなだけじゃないですか」
私の言葉に、肉売りはパチパチ目を瞬かせている。
……うっ。大人げなかったか。言い過ぎた気がする。無意識に口から出てきた意地悪な言葉に胸がじくじく痛む。慣れないことをするもんじゃない。
肉売りはまじまじとぽぴんを眺めると、「そうなんだあ」と間の抜けた声を上げた。
「僕さ、世間の流行に疎くてね~。そっか、そんな前からあったんだ」
しみじみと呟き、ふうとぽぴんに息を吹き込む。ぺこぽんと調子よく鳴ったぽぴんを眺め、じわりと哀愁を漂わせた。
「永く生きるのもいいことばかりじゃないね。限られた時間を生きている人の方が、瞬間、瞬間に輝いているものを見落とさないのかもしれない」
肉売りが突然もらした弱音に驚きを隠せない。先日会った時は、あれほど永遠に対して自信満々だったのに。どういうことだろう? なにか心境の変化でもあったのだろうか。
「あの……ところで。どうしてそんなに私に話を聞いてほしいんです?」
そっとティッシュを差し出した。いい大人が顔を汚したままなのは気の毒だ。
「んー? あ、そうそう!」
肉売りはティッシュでゴシゴシと顔を拭って、ずいと私に顔を近づけた。
「実は最近さ、人魚の肉を連続で断られちゃって困ってるんだ。今の時代、永遠なんて流行らないのかな~とか悶々と考えたりしてさあ」
「それが私とどう関係あるんですか」
「あるある。大ありさ!」
ビシッと指差される。ギョッとしていれば、肉売りは目を爛々と輝かせて言った。
「君ってば、永遠に対して否定的だったろ? どうしてそう思うのかなって不思議だったんだ。だから話を聞かせてほしくて」
「聞いてどうするんですか……?」
「それをもとに傾向と対策を練る? みたいな」
「受験勉強じゃあるまいし」
「仕方がないじゃないか。永遠は素晴らしいって心から断言できるけど、断られるんだから手段を変えるしかない。僕にはね、永遠を届けてみんなを幸せにする義務がある」
「……はあ」
情熱的に語る肉売りを複雑な気分で眺める。
彼の言葉には下心や卑屈な部分はまったく見受けられなかった。彼が人魚の肉を勧める動機は単純明快だ。自分が素晴らしいと思うから。それだけだ。私利私欲ではない。
――永遠にこだわってなかったら、いいあやかし……なのかも?
一瞬、そんな考えが浮かんだがすぐに振り払った。肉売りのせいで私の知り合いたちはえらい目に遭ったのだ。絶対にそれを忘れてはいけない。
私は他人に甘すぎる。こういう時くらいビシッと断る気概を見せてもいいはずだ。
「嫌です。どうして私があなたなんかに」
「ええ……。釣れないなあ」
「ともかく! もうついてこないでくださいね。仕入れの邪魔です!」
肉売りを置き去りにして歩き出す。再び古書店街を目指した。凍えそうなほど冷たい風が吹き抜けて行く。しかし、本屋が視界に入ってくると寒さなんて気にならなくなった。徐々にエンジンがかかってくる。心と体がポカポカしてきた! さあ、本を選ぶぞ……と気合いを入れた瞬間。
「……ああもう」
がっくり肩を落として振り返った。少し離れた場所に見慣れた青年が立っている。しかめっ面で睨みつけると、慌てて看板の影に隠れた。肉売りだ。どうやら諦めきれずについてきたらしい……。ツカツカと近寄って「子どもじゃあるまいし!」と抗議の声を上げれば、肉売りは大きな体を丸めて、しゅんと肩を落とした。
「だって。僕もどうすればいいかわからないんだ」
行き詰まって思い悩んだ挙げ句に私のところへ来たようだ。別に私は永遠の専門家でもなんでもないんだけど。おかしなことになった。
「……仕方ないですね」
はあとため息をこぼす。ぴん、と肉売りの背筋が伸びたのがわかった。
「本当に!?」
「別にたいしたことは言えませんけど」とかぶりを振る。だのに、よほど嬉しいのか肉売りはニコニコしっぱなしだ。なんだか腑に落ちない。気持ちがクサクサする。
「さっさと終わらせましょう。そもそも、詳しい説明なんていらないと思うんですよね。だってここにはほら! こんなにも〝永遠〟が溢れてるじゃないですか!」
私が指差したのは、書店の軒先に積まれた古書たちだ。
肉売りはわけもわからずキョトンとしている。
「別に人間だって永遠が嫌いなわけじゃないんですよ。だけど、あえて人間は永遠を求めません。自分たちだけの力でも永遠を手に入れられるからです」
「えっ!? えっ!? どういうこと? 人魚の肉をみんな持ってるってこと?」
「……そういうわけではないんですが」
手近な店に入ってみる。本棚には本がぎっしり詰まっていた。色褪せ、赤茶けた本の背表紙が私たちを物言わぬまま見つめている。
「答えはこのお店に詰まってます」
「ただの古本屋じゃないか」
肉売りが頬を膨らませた。私は「こんなにわかりやすいのに」と笑って、一冊の本を手に取った。古典文学の本だ。古めかしいフォント。少し厚めの紙。発行年月日を見れば、五〇年以上も前だった。紙は黄ばんでいるものの読むぶんにはまったく問題ない。誰かが大事にしていた本なのだろう。小さな書き込みを見つけて、フッと笑みをこぼした。
「私は、印刷こそが人間が永遠を追求してきた証だと思います」
「……印刷が?」
「日本の印刷の歴史は、奈良時代から始まったと言われているんですよ。印刷された時期がはっきりしているもので、現存する最古の印刷物が日本にあることはご存知ですか」
「……? 知らない。いつのもの?」
「百万塔陀羅尼と言って、仏教の呪文を印刷した紙片です。今から千二百年くらい前、西暦七六四年から七七〇年にかけて作られました。称徳天皇が、藤原仲麻呂が起こした乱で死んだ人々を弔うために、百万基の小塔の中に収めさせたんですよ」
そっと本の背表紙に触れる。
「政治的な意図もあったのでしょうが――誰かの死を弔うために刷られた陀羅尼は、長い時を超えて、今もなお法隆寺に四万基ほど残っているそうですよ。すごいですよね」
「千二百年……?」
肉売りはこくりと唾を飲んだ。
「そんな昔から、人間は印刷を始めてたんだね。四万基も残ってるなんてすごいや。それにしても百万個なんて思い切った数だね! とうてい人の手で作れる数だとは思えないよ! なんでそんなにたくさん作ったのかな?」
「確かにそうですね――。肉売りさんは〝百万遍〟という言葉を知ってますか?」
「百万回ってことじゃないの?」
「もちろんそういう意味もあります。同時に、数限りなく繰り返すという意味もあるんですよ。仏教では百万遍念仏というのもあります。大きな数珠を回しながら、十人の僧侶が合わせて百万回の念仏を唱えるんです。そうすれば極楽浄土に行けると信じられていました。百万という数字はそれだけ特別だったんですよ。そして、称徳天皇にとっては永遠と同じ意味があったんじゃないでしょうか」
「永遠と同じ……?」
「数が多ければ多いほど、後世に残る確率が上がるのは普通ですよね。日本最古の印刷事業は、弔いを永遠に残すために百万個も用意されたんじゃないかと思います」
「……実際、千二百年も経ってるのに現代に残ってるもんね?」
「はい! 当時の職人さんもびっくりですよ。自分の仕事がこんな未来にまで残ってるだなんて想像もしなかったに違いありません」
「ふうん?」
肉売りはなにやら考え込んでいる。私は大きく息を吸って話を続けた。
「だけど、今日まで百万塔陀羅尼が残っているのは天皇という特別な人が成した仕事だからです。それだけで後世に残すだけの〝価値〟がある。誰かに守られてきたからこそ、今日まで生き残ったと言えるでしょう。他の人間が同じことをしても同じ結果が得られるか疑問ですね。だから、人間は印刷技術の進歩に心血を注いできました」
試作を重ね、失敗作を積み上げ――ルネサンスの三大発明のひとつ、グーテンベルクの活版印刷を経て更に精度を高めていく。なんの精度かと問われれば、印刷物に〝価値〟を付与するための美しさ。そして、大量に印刷するための技術の精度である。
「人魚の肉売り。あなたは、永遠を手に入れてからなにかを書き残したりしましたか? たとえば本にしたり、記録が長く残るような工夫をしたことは?」
肉売りはぱちくりと目を瞬くと、ふるふると首を横に振った。
「……考えたこともないよ。だって、僕はここにいるじゃないか!」
「なにも残す必要はないと?」
「知りたいことがあれば僕に聞けばいいだけだよ。僕は死なない。ずっと生きているんだから。そんな必要は――……あっ!」
なにかに気づいたのか、突然、言葉を途切れさせた肉売りへ大きく頷く。
「あなたと違って、普通の人間に永遠の命はありません。だから、生きた証を遺そうとします。そうしないと、大勢の中に埋もれて消えてしまうからです」
もちろん、それだけが文字や絵、出来事を印刷する意義だとは思わない。印刷物は、宣伝やその場限りの情報を伝えるためにも利用されてきた。しかし本は少し話が違ってくる。個人出版でも商業作品でも構わないが、誰かに読んでほしいと送り出された本たちは、どれもができるだけ長く生き延びたい、後世に渡って長く読まれたいという作者の願望を託されているのではないだろうか。
「人は本にさまざまな〝想い〟をこめてきました。……仮にそれを〝意思〟とでも呼びましょうか。印刷は〝意思〟を永遠に近づける手伝いをしてくれる技術だと私は考えています」
本にこめられた〝意思〟はなんでもいい。教義を理解してほしいという想いでも、正しい歴史を後世に伝えたいという決意でも、商品を買ってほしいという宣伝でも、正しい知識を広めたいだとか、自分が創造した物語を楽しんでほしいという願望でも。誰かの記憶に、そして記録に残り続けるものなら特別な〝意思〟である必要はない。
印刷によって大量の複製が作られた〝意思〟は、結果的に大勢の人のもとへと届く。そして〝意思〟に〝価値〟があると認められれば――百万塔陀羅尼のように、人々の手で保護され続ける。永遠を勝ち取れるというわけだ。
「〝意思〟を記し、印刷することで人間は擬似的に永遠を手に入れられる。もちろん、価値を認めてもらえずに歴史の渦の中に消えてしまった出版物は山ほどありますが……生き残った本はそれこそ何世紀にも渡って読み継がれるんですよ」
ぐるりと店内を見回した。本棚にぎっしり詰め込まれた本。それぞれが永遠への挑戦者であると思うと感慨深い。いわば、飽くなき永遠への挑戦。価値のある本、価値を得られなかった本。本屋の中には勝者と敗者が確実に存在している。本屋は永遠に挑む戦いの最前線であり――時には墓場にもなった。本の運命は読者が握っている。面白いなとつくづく思う。
困惑の表情を浮かべている肉売りに向かい合う。
ようやく私は、ひとつの結論を述べた。
「人魚の肉がなくとも、人はすでに永遠へ至る方法を見つけているんです」
「なにさ」
肉売りが子どもみたいに頬を膨らませた。
「結局、本人は死んじゃうんじゃないか! 永遠がほしいんだろ。技術を磨く熱意があるならさ、素直に永遠の命を受け入れたらよくない? 〝意思〟だけ残ったって、自分の目で確認できなかったら意味がないじゃないか!」
プンスカ怒っている肉売りに眉尻を下げる。
「永遠が魅力的に映ること自体は否定しませんよ。でも、私は同時に怖くも思います。終わりのない生なんて途方もなさ過ぎるんです。だから人は、永遠の命を妄想するだけに止めた。現実的に永遠に残るための方法を模索してきたんじゃないでしょうか」
過去には本当に永遠の命を求めた人々もいたようだ。私の知らない場所でいまだに不老不死を追い求めている人はいるかもしれないが、圧倒的に少数派だろう。誰もが人魚の肉を手に入れられるわけではないのだ。
「限られた時間しか生きられない人間は、現実主義にならざるを得ないんです。だから、永遠の命に憧れながらも冷めた目で見ている。実際、永遠の命に対する人間のイメージはネガティブなものが多いように思います。創作において、不老不死を得た人物が抱える孤独は王道のテーマですし」
王道という言葉のせいで、ある人物の顔が脳裏を掠めた。
――ああ、あの人もよくこの言葉を口にしていた。
「玉樹さんも……一介の御用絵師であった頃、自分の〝名〟を後世に残したいと努力したそうですよ。ある意味、それも永遠に繋がる模索ですよね」
「……ッ!」
今は亡き人の名前を出せば、肉売りの表情が強ばったのがわかった。
玉樹さんは彼の作品を妄信する人によって、自分の意思とは関係なく不老不死にされてしまった。永遠を手に入れた玉樹さんは決して幸福なんかじゃなかった。むしろ永遠を捨てるために何年もあちこちを旅して回ったくらいだ。
「永遠に創作を続けられるという事実に、玉樹さんは喜ぶどころか絶望したのだそうです。意味がないとすら言っていましたよ。限りある命だからできることがある。長すぎる時間を与えられても、人間は途方に暮れてしまうんです。たぶん、永遠への誘いを断った人たちも同じ感覚を持っていたんじゃないかな、と思います」
最後まで自分の意見を言い切って、ちらりと肉売りの様子を覗き見る。
「……!」
思わず息を呑んだ。肉売りが瞳いっぱいに涙を溜め、震えていたからだ。
「そ、そうかもしれないけど。ぼ、僕はやっぱり、永遠はいいものだと思うんだ」
ゴシゴシと目を擦るが、大粒の涙が止まることはない。ズズッと鼻水を啜る。拭っても拭っても止まらない涙に、肉売りはがっくりと肩を落として呟く。
「玉樹っていう人には悪いことをしたと思ってる。肉を食べる人が永遠を望んでいたかどうか確認しなかった僕の手落ちだ。最近は相手にちゃんと確認してるんだ。僕だって誰彼構わず不老不死にしたいと思っているわけじゃない……」
肉売りの瞳から落ちた涙はどこまでも透明だった。こぼれたしずくは、ポツポツと床に染みを作る。ポツン、ポツンと肉売りの悲しみが深まるごとに数を増やしていく。
「ますますわからなくなっちゃったな。永遠は幸せなことなのに。間違いのないのに、どうしてわかってもらえないんだろう」
ぽつりと口から出た言葉には明らかな落胆の色。
体の大きな青年が子どものように泣きじゃくっている。肉売りの悲しみは時が経つほどに強くなっていき、漂う哀愁を深くしていった。
――うっ……。
「これはあくまで私の考えですから! ど、どこかに永遠の命を受け入れてくれる人はいると思いますよ……?」
「……! ほんと!?」
ハンカチを差し出して言えば、肉売りが目をキラキラ輝かせ始めた。たまらず小さく呻く。一体、私はなにを言い出すのか。頭を抱えたい衝動に駆られ、心の中でジタバタと悶える。だって、ひとりで思い悩んでいる姿はどうにも可哀想で――。
好きな本を読んでもらえずに落ち込んでいる自分にちょっぴり似ている。
小さくしゃくり上げている肉売りを複雑な想いで眺めた。
――どうしてこんなに永遠の命にこだわるのだろう……。
それさえなかったら、少しは歩み寄れる気がするのに。
「永遠が必要な人やあやかしに巡り逢うのを待つしかないのかな?」
泣きはらした顔で弱音をこぼした肉売りに、私は神妙な顔つきで頷いた。
「……人の価値観はそれぞれです。本当に永遠の命がよいものだと思っているのなら、腰を据えて説得するくらいしなくちゃ駄目ですよ」
「そっか。そうだよねえ。永遠の命を簡単に受け入れられるわけない。……ああ、僕は口下手で駄目だなあ。君みたいに考えを上手く伝えられたらよかったのに! そしたら、もっと多くの人を永遠の命で救ってあげられたかもしれない」
瞬間、肉売りの顔がぱあっと輝いた。
「……そうか! そうすればいいんだ!」
なにかを思いついたのか、ニィ、と不敵に笑う。
肉売りは軽い足取りで私から離れると、白い歯を見せて笑った。
「なんかわかった気がする! 夏織くん……だっけ、ありがとー!」
ブンブンと勢いよく手を振り、颯爽と店を後にする。肉売りの背中を見送って、私はたまらずため息をこぼした。
「……なんなの」
――とてつもなく嫌な予感がする。
思わず顔をしかめていれば、
「ゴホンッ!」
店主から注がれる冷たい視線に気がついて飛び上がりそうになってしまった。ずいぶんと長話をしてしまった。店主の視線が私の手もとに痛いほど注がれている。手にした本を買わないならさっさと去れと言わんばかりだ。
アハハ、と愛想笑いを浮かべた私は、本を棚に返し、慌てて店を出た。
ぴゅうと頬を冷たい秋風が掠めていった。慣れない相手と長話したせいか、疲労感が半端ない。何軒もの本屋を回る気力は残っていなさそうだ。
「……厄日だわ」
肩を落とした私は、仕入れを諦めてすごすご幽世へと帰ったのだった。




