薄玻璃の幸福1
真っ赤な長い尾をたなびかせ、悠々と金魚が泳いでいる。
二匹の金魚が遊んでいるのは、ぽぴんやビードロと呼ばれているガラス製の玩具。薄いガラスの表面に金魚の意匠が施されているのだ。息を吹き込めば、名のとおり〝ぽぴん〟と間の抜けた音を立てる玩具は夏の新商品だったが、秋になっても買い手が見つからず、籠に押し込まれてセールの札が貼られている。
――まるで過ぎ去った季節の残り香みたい。
カウンターにもたれて籠の中を眺める。これは誰が買うのだろうとか、売れ残ったら破棄されてしまうのだろうかとか、どうでもいい考えが脳裏を過る。
「おやおや。今日はずいぶんと暇なようだね」
「――ふわっ!?」
ふいに声をかけられ、変な声が出てしまった。慌てて姿勢を直す。気まずく思いながら振り返れば、気障な雰囲気を漂わせた壮年の男性――遠近さんがいた。
「し、仕事中にぼうっとしてごめんなさい!」
慌てて頭を下げる。ここは東京都台東区合羽橋にある雑貨店だ。河童の遠近さんが経営する店で、私をバイトとして雇ってもらっている。平日の午後。しかも週のど真ん中の水曜日。路地裏の雑貨店に客の姿はなく、暇を持てあました私は、なにをするでもなくぼんやりしてしまった。
「いや、別に構わないよ。お客様が来た時にきちんとしてくれればね。夏織くん、最近は仕事の引き継ぎで忙しいようじゃないか。疲れてるんじゃないかい?」
「……いえ、体はそうでもないんですが」
――疲れてるのは、どっちかというと精神的になんだよね……。
先日の隠れ里の件があって以来、確かに私は忙しくしていた。
貸本屋業から引退して執筆だけに集中したいという東雲さんの言葉は本当だったようで、仕事の引き継ぎを兼ねて連日さまざまな客を紹介してもらっている。
誰もが貸本屋にとって大切なお客様だ。先日買った真新しいメモ帳は、引き継いだ客の情報で半分埋まってしまった。内容を暗記するべきだろうと持ち歩いているが、なかなか手を着けられずにいる。メモ帳に書き込まれた情報の〝重さ〟に、私自身がどう向き合えばいいかわからずに尻込みしてしまうのだ。
――養父の仕事のすごさを目の当たりにしたばかり、というのもあるけど。
東雲さんが引退した後、未熟な私ひとりで店を切り回せるのだろうか。自信なんて欠片もない。とはいえ、東雲さんが守ってきた店を潰すわけにもいかず、しっかりしろと自分を叱咤してはいるのだけれど――。
いつまでも覚悟を決められない心は宙ぶらりんのまま。
まるで出口の見えない迷路に迷い込んだようだ。
「遠近さん。養父は、貸本屋を本気で引退するつもりなんでしょうか」
「夏織くんに自分の客を紹介している以上は、本気だとは思うがね」
「そうですよね……」
淡々と引き継ぎをこなす東雲さんを見ていると、どうにも不安になってくる。
早く一人前になれ。独り立ちをしろ。
東雲さんからそう言われているような気がして……。
自分の未熟さを思い出すたび、いたたまれないような気分になるのだ。
――うう。私って、自分で思う以上に東雲さんに甘えていたんだなあ。
「一体、どういうつもりなんでしょう。この間まで引退の気配すらなかったのに」
東雲さんはなかなか本心を語ってくれない。昔からこうだ。背中で語るじゃないが、自分の意図を直接口にしない。職人気質の頑固親父のようなところがある。
――ナナシみたいに、なんでも態度や言葉に出してくれれば分かりやすいのに……。
思わず顔を曇らせていれば、遠近さんは「ふむ」と顎髭をさすった。
「まあ……。アイツにもいろいろと考えがあるんだろうさ」
「その考えを知りたいんです。遠近さんはなにか知りませんか?」
「……さあ」
フッと遠近さんの顔から感情が薄れた。どこか遠くを見ているような表情になる。
「僕も詳しくは知らないな」
一転して、にこりと女性客が黄色い悲鳴を上げそうなキラースマイルを浮かべた。普通の女性なら、蠱惑的な笑顔に惑わされて話題がうやむやになってしまうのだろう。しかし、小さい頃から遠近さんを知っている私がごまかされるはずもない。
「言いたくないなら、別にいいですけど」
むくれてそっぽを向けば、遠近さんが「あらら」と苦笑したのがわかった。
「悪いね。東雲に口止めされているんだ」
「……わかってましたよ、遠近さんが話してくれるはずがないって」
チャラいように見えて義理堅いのが遠近さんだ。だからこそ、東雲さんは遠近さんに絶大な信頼を寄せている。私ごときがどうこうできるものではない。
「いつもみたいに、変な騒動に巻き込まれた方がよっぽどマシですよ~……」
先日の人魚の肉騒動を思い出す。あれは本当に大変だった。最後の最後まで、きちんと丸く収まるのかとやきもきしたものだ。結果的に、騒動の中心にいた白蔵主と孤ノ葉親子は仲直りできたらしい。話によれば、以前よりも親子仲がよくなったとか……。
「…………。ムムム」
心底うらやましい。私はこんなにも頭を悩ませているというのに!
ひとりもどかしく思っていれば、遠近さんはカウンターに寄りかかって笑った。
「わかる、わかるよ! ライフイベントの時ってさ、本当に苦しいよね」
「ライフ……? なんですかそれ」
「ライフイベントはね、人生において特別な出来事のことさ。後の生活に深く影響を与えるものが主だね。進学だったり、結婚だったり……就職、死別、大病なんかもそう。人によって大小の違いはあれど、必ずぶち当たる不可避イベントだ」
「今の私ですね」
「だね。夏織くんも、まさか東雲とずっと店をやっていくとは思ってなかっただろう?」
「…………。いつかは店を引き継ぐんだとは思ってました、けど」
養父が貸本業よりも執筆に重きを置いているのには気がついていた。私に店を任せられるようになれば、もっと執筆に時間を取れるようになる。その方がいいのだろうとはわかっている。そう――頭の中では。心が追いついていないだけだ。
「あんまりにも唐突で」
「ハッハッハ! ライフイベントの大半はあらかじめ予測できないものさ。だけどね、これだけは言っておくよ。――逃げるとろくなことがない」
思わず息を呑む。遠近さんは小さくかぶりを振った。
「後の生活に深く影響を与えるものだからね。逃げても構わないが、それまで築いた信頼や関係性を失いかねない。逆に試練を上手く乗り越えられれば、その後も安泰だ。つまりは今が正念場だ、ということさ」
遠近さんの言葉は至極もっともだ。
「だけど、遠近さん。不安でいっぱいなんです」
しっかりと地面に立っていたはずなのに、知らぬ間にひどく不安定な場所に置き去りにされたような気分だった。一刻も早く元の場所に戻りたいのに、怖くて一歩も動けない。
――思い切って一歩踏み出してみれば、簡単に脱出できたりするのかもしれないけど。
でも、そんな勇気は全然沸いてこなくて。
私がマゴマゴしている間にも、周りの状況はドンドン変わって行ってしまう。
取り残された私は、ひとり途方に暮れるばかりだ。
ちらりと籠の中に視線を落とす。
割引シールを貼られて売れ残ったぽぴん。ときおり、触れるのが怖いと思う時がある。
力加減を間違えたが最後、くしゃりと握りつぶしてしまいそうだからだ。そうなれば、あっという間にすべてが終わる。綺麗な金魚の意匠も玩具としての機能も価値も失われ、ただのガラスくずへと変貌してしまう。
もしかしたら、私が得ていた安寧はとても不安定なものだったのかもしれない。
薄い玻璃の中で眠るような。誰かがいたずらに力をこめたら壊れてしまう程度の……。
「おやおや、ずいぶんと弱気だねえ」
「ひゃっ!」
ぷに、と頬を指で突かれた。目を白黒させていれば、遠近さんはにんまり笑う。
「君らしくもない」
遠近さんは、脱いだハットを胸に当てて気障っぽい笑みを浮かべた。
「大丈夫さ。迷った時は人生の先輩を頼ればいい。たとえば、僕のようなね? なんでもひとりでやろうとするのは君の悪い癖だよ。東雲の店を潰したくないという想いは、僕も一緒だということを忘れないでいてくれ」
「頼っていいんですか」
「僕が親友の娘を見捨てるような男だと思うのかい?」
「い、いいえ。思いません。絶対に」
気遣いに溢れた言葉。胸が熱くなる。泣きそうになって声が震えた。
遠近さんの言うとおりだ。本当に私らしくない。
「君には僕だけじゃない。ナナシやにゃあ、烏天狗の双子だっている。水明という頼りになる男の子だってね。それを絶対に忘れたらいけないよ」
「はい……」
滲んだ涙を拭って笑みを形作る。でも、笑顔を保てなくて変な顔になった。遠近さんは苦笑いを浮かべて、ポンポンと私の肩を優しく叩く。
「大丈夫。少しずつ。少しずつだよ。誰もが通る道だ。数年後には『どうしてあんなに不安だったんだろう』って不思議に思うはずさ」
――そうだったらいいなあ……。
胸に手を当てた。心が少しだけ軽くなったような気がする。私はひとりじゃない。それを知れただけで報われたような気がした。
「……へへ、私って本当に周りの人に恵まれてますね」
「おやおや、今さら自覚するだなんて」
「ごめんなさい」
「謝ることじゃないさ。人は誰しも、当たり前のものに意識が向かないからね」
大きく頷いた遠近さんは、ハットを被り直すと不敵に笑った。
「さあ! 大事なことに気がつけたんだ。クヨクヨはこれで終わり! 看板娘がしょぼくれていたら商売あがったりだ。いつも通りの夏織くんに戻ってくれたまえ。元気いっぱい、美味しいご飯と物語には目がない、時に水明くんの胃を容赦なく責め立てる君にね!」
「な、なんですかそれ!? 私、そんなに好き勝手やってません!」
「アハハハハ。そうだったかなあ」
「笑ってないで冗談だって言ってくださいよ!」
遠近さんを強く揺さぶる。養父の親友は笑うばかりで目を合わせてくれなかった。
――まったくもう。
一瞬だけむくれて、すぐに笑みをこぼす。遠近さんの言う通りだ。いつまでもクヨクヨしてたって始まらない。私は私らしく自分の道を行くだけだ。
初めて足を踏み入れる道は不安ばかりだけど、誰かと一緒ならきっと怖くない。
前へ進もう。迷った経験だって、後から思い出せば笑い話にできるはずだ。
「ありがとうございます。なんだかやる気が出てきました」
「おお。やっと本当の笑顔を見せてくれたね。物憂げな夏織くんもいいが、キュートな君には笑顔が一番似合う」
「遠近さんは相変わらずですねえ」
ふたりでクスクス笑い合う。
――ちりん。
ふいに鈴の音が聞こえてきた。
「…………」
遠近さんの表情が険しくなる。不思議に思って鈴の音が聞こえてきた方へ視線を遣ると、客がひとり入店してくるのが見えた。青年だ。季節外れの麦わら帽子をかぶり、長い黒髪をゆるく結っている。白シャツにチノパン、素足にサンダルというラフな格好だ。日焼けした肌の色は先日会ったキヌイといい勝負かもしれない。
彼は私と目が合うと、角度によっては緑がかって見える瞳を細めた。
「……?」
どこかで見たような気がするが、すぐに思い出せない。
「やあ! こんにちは!」
「いらっしゃいませ」
必死に記憶を探っていると青年が声をかけてきた。
ニコニコ屈託のない笑みを浮かべ、私の顔を覗きこんでくる。
その時、ふわりとある匂いが鼻孔をくすぐった。濃厚な潮の匂いだ。生臭いような、それでいてどこか懐かしさを覚える海の匂い――。
――ちりん。
再び鈴の音が聞こえた。瞬間、先日の出来事をまざまざと思い出した。
狸の少女へ人魚を手に不老不死を持ちかける男の姿だ。
「人魚の肉売り……!」
恐怖に駆られて後退れば、レジスターにぶつかってしまった。
ガッシャン! と、とんでもない音がして顔をしかめる。動揺する私とは裏腹に、肉売りは籠からぽぴんをひとつ取ってニコニコ笑っていた。
「久しぶり! 元気してた?」
まるで親しい友人に再会したかのような反応に戸惑いを隠せない。
「ええと、元気……ですけど?」
「そりゃあよかった! 元気なのが一番だよねえ」
フッと肉売りがぽぴんに息を吹き込んだ。「ぽぴん、ぽよよん」と間抜けな音がして、張り詰めていた空気を否が応でも緩めようとしてくる。しかし、気を抜くわけにはいかない。この青年が幼気な少女を惑わせ、大騒動に発展させた事実を私は知っている。
「……なにをしにきたんですか」
「ん?」
警戒心を解かないまま訊ねれば、肉売りは「ぽよん」とぽぴんを鳴らして首を傾げた。
「ちょっと君と話をしたくてさあ。付き合ってくれない?」
「……は、はあ? どうして私と話なんか」
意味が分からない。またなにか仕出かそうとしているのだろうか。
「遠近さん……! なんとかしてください!」
黙って話を聞いていた遠近さんに助けを求める。ごくごく普通の人間である私と違い、合羽橋でも随一の古参である遠近さんであれば、人魚の肉売りなんて蹴散せるはず……!
「んー?」
遠近さんは思案げに首を傾げ、ポンと手を打った。
「話をするだけなんでしょ。ならいいんじゃない」
「……なっ? なにを言うんですか、遠近さんっ!?」
先ほどまでの頼りになるおじさまムーブはどこへやら。とんでもないことを言い出した遠近さんに慌てて詰め寄る。しかし、長年の付き合いであるはずの養父の親友は、「別に大丈夫でしょ」と能天気な反応を返した。
「大丈夫、大丈夫。コイツはね、人魚の肉をやたら押しつけようとしてくるだけで、別に害はないあやかしだよ。人魚の肉だって使いどころを間違えなかったら問題ない」
「いや、たとえそうだとしても、ふたりで話をするなんてごめんなんですけど!?」
友人である孤ノ葉と月子、そして玉樹さんを惑わせた青年を私は許していない。
拒絶反応を示している私に、遠近さんは苦笑いしている。
「いやはや嫌われたもんだね。君、夏織くんになにかしたの?」
「ええ? この子にはなにもしてないよ。永遠が必要そうにも見えないし」
「なにを……! 玉樹さんにしたこと、忘れたなんて言わせませんよ!」
肩を怒らせて断言する。途端、肉売りが気まずそうな顔になった。
鼻息荒く肉売りを睨みつけていれば、遠近さんは「落ち着いて」と私を宥めた。
「もちろん僕だって忘れてはいないよ。玉樹は僕にとっても親友だった」
「なら――……」
「でも、それとこれとは話が別だ」
パチリと茶目っけたっぷりに片目を瞑る。
「現在進行形でライフイベントに見舞われている夏織くんには、広い視野が必要だ。今まで話したことのない相手との会話はきっと役に立つ。嫌な思いをさせられたら、すぐに帰ってくればいいよ。誰彼構わず襲うほど、非紳士的な奴ではないからね」
一息で語り終え、ちら、と肉売りに視線を送る。
「だろう? 人魚の肉売りくん?」
不敵な笑みを湛えて言えば、肉売りは曖昧に笑って頷いた。
「もちろん。傷つけるために来たわけじゃないからね」
「だそうだ! なら、安心して話してくるといい。大丈夫、万が一のことがあったら、この男を地の果てまで追い詰めて葬り去ると誓うよ!」
「待って、待って。誓いが物騒なんだけど!? 僕ってば、なにをされちゃうわけ!?」
青ざめた肉売りが遠近さんに詰め寄っている。
どうやら遠近さんは、私と肉売りの会話を必要だと考えているようだ。
――どうしてだろう。永遠を押し売りする奴なんて迷惑以外の何者でもないのに。
私にはわからない〝なにか〟があるのだろうか。
だったら、広い視野とやらを得るために話してみるのも手かもしれない……けど。
ジロリと肉売りを睨みつける。
やっぱり駄目だ。友人や玉樹さんを戯れに惑わせた人を信用できるはずもない。
「ごめんなさい。私、あなたの話に付き合っている時間はないの」
ツンとそっぽを向く。
「ええ……。そんなあ!」と肉売りは落胆の色を見せている。
「おやおや、フラれちゃったねえ。残念」
「どうしよう……。困ったなあ」
しゅんと肩を落とした肉売りにちょっぴり胸を痛めながらも「それよりもお客様」と、おもむろに手を差し出した。
キョトンとしている青年へ、接客用の笑みを顔に貼りつける。
「――ぽぴん、ひとつ八百円です」
「……へ?」
「売り物に口をつけたんですから、当然買い取ってくれますよね?」
肉売りの眉根が寄る。ぽぴんを咥えたまま、肉売りがポケットを探った。中から出てきたのは、無料配布のポケットティッシュとゴミくずだけだ。
「ツ、ツケで」
「当店にはそういうシステムはございません」
「ううっ!」
肉売りが苦しげに呻く。「ぽよよよん」と、ひときわ大きくぽぴんが鳴った。




