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養父の背中3

 貸本屋の顧客の中には、東雲さんとだけやり取りする客が少なくない。

 東雲さんが足で稼いで販路を拡大してきた経緯があるからだ。


 幽世に棲んでいないあやかしは、多くが秘境と呼ばれる場所に隠れ住んでいる。

現し世に居場所を求めていない彼らは、たいがいが棲み家に閉じ籠もっていて、外の世界に触れること自体が稀だ。


そんな彼らに東雲さんは物語を届けてきた。

物語は誰にでも必要だという信念のもと、日本中を駆け回ってきたのだ。

今日、私たちが会いに行くのもそういう客のひとりだ。




 地獄を通り、巨大な木の虚から出ると、むせ返るような落ち葉の匂いに包まれた。

爽やかな秋晴れの空が広がっている。人里離れた山奥のようで、木漏れ日が落ちる山の中には、風が木々を揺らす音が満ちていた。


 ひょい、と私のコートの中からにゃあさんが飛び出た。


 太陽の昇らない幽世と違い、現し世は凍えるほどではない。ぐんと背伸びしたにゃあさんのもとへ、水明のコートから抜け出たクロが寄っていった。


「東雲さん、ここはどこ?」

「大分県の国東半島だな」


 言葉少なに答えた東雲さんが歩き出した。慌てて後を追う。


 枝葉が空を覆い隠している。巨木が並ぶ山の景色は雄大のひと言だ。

とはいえ、手つかずの山奥というわけでもないらしい。虚から少し行ったところに石段があった。手すりが整備されているものの、ゴツゴツした自然石を利用した石段は苔むしていて、お世辞にも上りやすそうだとは言いがたい。


「この階段を上がっていけば、熊野磨崖仏がある」


 磨崖仏とは、岸壁などに掘られた仏像のことだ。石段の上にある磨崖仏は平安時代末期の作と言われていて、国指定の重要文化財になっているらしい。


「誰が作ったのかは現し世に詳しく残ってねえ。一説には、深明如来の作だって言われてるみたいだけどな」


 熊野磨崖仏という名に聞き覚えのあった私は、ポンと手を打った。


「あっ! この石段が、鬼が一晩で積んだっていう伝承がある?」

「らしいな。鬼もずいぶんと雑に積んだもんだ。熊野権現に言われて焦ったのかねえ」


 感心しつつ歪に積み上がった石段を見つめる。


かつてこの場所には、悪さばかりをしていた鬼がいたらしい。鬼の過ちを正そうと、熊野権現は一晩で石段を作れと命じた。そうすればすべての罪を赦すと言われた鬼は、あっという間に石段を作り上げてしまったのだそうだ。


巨躯の鬼が豪快に石を積み上げる姿を想像していれば、水明が私の横に並んで感慨深げに頷いた。


「へえ。ここが国東半島か」

「水明、なにか知ってるの?」

「詳しくはないけどな。俺がまだ白井家で祓い屋の見習いをしていた時、国東半島には鬼に関する伝説が多く遺っていると老爺たちが教えてくれた。普通、鬼は忌み嫌われ、畏れられる存在だが、国東半島では独特な価値観が育まれているとも」


 最も特徴的なのが修正《しゅじょう》鬼会(おにえ)だ。鬼祭りと火祭りが一体になったと謂われがある行事で、僧侶が鬼に扮して執り行う。一見して相反するように思える僧侶と鬼という存在も、国東半島では矛盾しない。鬼は祖霊同様に大切に扱われ、御加持を受ければ「五穀豊穣」「無病息災」を約束してくれるのだ。祭りの後に鬼を自宅へ招いて酒を振る舞うことすらする。この地において鬼は悪い存在ではない。


「だから、国東半島の鬼は狩るなと口酸っぱく言われたものだ」

「面白いね! 鬼が嫌われていないのは嬉しいな。ここの人たちは優しいねえ」


 知り合いの鬼の顔を思い浮かべていれば、水明がクスリと笑った。


「お前らしい感想だな。確かにここの住人たちは優しいんだろう。……いや、優しいというよりは寛容なのかもしれない。外部から入ってくる思想や存在を柔軟に取り入れる下地があるのだと思う。神仏習合の発祥の地が国東半島なんだ」


 神仏習合とは、土着の信仰と仏教が融合し、新しい信仰体系として再構成されることだ。国東半島では、元々信仰されていた山岳信仰と、〝外〟からやってきた八幡信仰、天台系修験が習合することにより、六郷(ろくごう)満山《まんざん》という独特な文化が築かれた。


「そういえば、日本人で初めてローマでキリスト教の司祭になったペトロ・カスイ岐部(きべ)もここの出身だったね」


 なるほどなと納得していれば、水明の話を聞いていた東雲さんが豪快に笑った。


「おうおう。詳しいじゃねえか。勉強したんだなあ」

「……別に。たいしたことじゃない。祓い屋として必要な知識だっただけだ。それよりも! 東雲、目的地は磨崖仏でいいのか? もしかして、これから会いに行く客は鬼か?」


 どうも水明は東雲さんに褒められるのがくすぐったいらしい。

 照れ隠しに放った水明の問いかけに、東雲さんはゆるゆるとかぶりを振った。


「いいや。ここはあくまで出発地点だ。移動する」


 東雲さんは、コキコキ首を鳴らした。屈伸をしたり、入念に足首をグルグル回したりしている。石段を上がるだけにしては入念すぎる準備運動に目を瞬く。


「なんか気合い入ってるね?」

「そりゃそうだ。隠れ里ってだけあって、普通のやり方じゃ入れないからな」

「入れない……?」

「おう。犬猫ども、行くぞ! にゃあは夏織を背中に乗せろ」


 辺りの匂いを嗅ぎ回っていたわんにゃん二匹に声をかけた東雲さんは、懐からあるものを取り出した。金属の輪にいくつもの木片がつながれている。木片の表面には絵柄が半分だけ描かれていた。割り符のようなものなのかもしれない。


 東雲さんはひとつの木片を手に取った。矢印や太陽を思わせる文様が描かれた木片に、ふうと息を吹きかける。

 途端、木片の表面の文様がわずかに光った。


「よっしゃ」と気合いを入れた東雲さんは、ニヤリと不敵に笑う。


「水明が言ってたとおり、ここは昔から外部からやってくるもんに対して寛容だった。拒否反応がまったくないとは言わないが、時間をかけたら受け入れてくれるような土壌があったんだ。こういう場所はな、行き場を失った奴らにとって好都合なんだぜ」


 石段の上をじいと見つめる。高下駄を履いた足を大きく踏み出し――。


「さって。夏織、これから俺がすることを見ておけよ。正しい手順を守れば、おのずと隠れ里への扉は開かれる。失われたものを渡っていくぞ」


 それだけ言うと、養父は勢いよく石段を駆け上り始めた。


「ちょっ……東雲さんっ!? 失われたってなにがっ!?」

「夏織、早く乗るのよ!」


 慌てて巨大化したにゃあさんの背中に飛び乗り、東雲さんを追って駆け出した。いきなりの全速力である。振り落とされそうになり、慌てて親友の首にしがみつく。だのに、東雲さんとの距離はちっとも縮まらない。足もとに青白い稲光をまとわせ、飛ぶように階段を駆け上っていく養父を軽く睨む。


「もう……! あらかじめ説明してよ! そしたらこんなに慌てる必要ないのに!」


 思わず本音を漏らせば、隣を併走していた水明が呆れ顔になった。


「お前がそれを言うのか? いつも俺に事情を説明しないくせに」

「ウッ!」

「まったく、似たもの親子だな!」

「えへへへへ~。そう?」

「褒めてない!」


 歯に衣着せない水明の物言いに苦笑していれば、あっという間に鬼が作った石段を上りきった。全長八メートルにもおよぶ巨大な石仏が視界に入ってくる。


 不動明王の磨崖仏である。

 一般的に不動明王像と言えば、宝剣を手に怖い顔をしているイメージだが、ここの不動明王はとても穏やかな雰囲気をまとっている。怖さとはまるで縁のない柔和な表情に呆気に取られていれば、東雲さんは顔だけ振り向いてニカッと笑い――。


「ここは修験道も盛んでな、十年に一度『峯入り』ってえ修行が行われるらしいぜ。そのスタート地点がここの不動明王だ!」


 まったくスピードを緩めることなく磨崖仏に突っ込んでいった。


「しっ……!」


 驚きのあまりに言葉を失う。あわや磨崖仏に激突しそうになった東雲さんが、なにごともなかったかのように石像の向こうへすり抜けてしまったのだ。


「ど、どういう……ぎゃああああああああっ!」


 気がつけば不動明王がすぐそこに迫ってきていた。恐怖で顔が引きつる。


――当たる、ぶつかる、激突するっ……!


 動揺のあまり上体を反らせば、堪らずにゃあさんから手を離してしまった。


「ひゃっ……」

「離すな、馬鹿!」


 瞬間、誰かに後ろから抱きかかえられて身を硬くした。水明だ。私を心配してにゃあさんの後ろに飛び乗ってきたらしい。


「す、水明。ありが……ひっ!」


 ホッとしたのも束の間、眼前に不動明王の大きな顔が近づいているのに気がついて、固く目を瞑った。


「……?」


 いつまで経っても衝撃はやってこない。暖かな空気の層をいくつか抜けたような不思議な感覚がして、そろそろと目を開けた。先ほどまでとは違う光景が視界いっぱいに広がって度肝を抜かれる。


 ――別の場所にワープしたの……!?


 わけがわからない。混乱しながらも必至に状況把握に努める。


 はじめに目に飛び込んできたのは古びた石の鳥居だ。続いて見えたのは、苔むした参道の途中にぽつねんと待ち受ける二体の仁王像。金色の落ち葉に埋もれるように佇む仁王像の近くには寺社らしい建物は見当たらず、ただただ石像だけが物言わぬまま鎮座している。


「し、東雲さんっ! ここはどこ!?」


 いつの間にか隣を併走していた東雲さんへ訊ねる。


「国見町ってとこだよ。旧(せん)燈寺(とうじ)があった場所だ」

「お寺の跡地ってこと?」

「ああ! 六郷満山の中で最初に創られた寺だ。戦国時代に、キリシタン大名の大友宗麟に焼き討ちされて廃寺になっちまったらしい。かつては〝西の高野山〟って呼ばれるくらい繁栄したそうだぜ。明治時代に別の場所で寺を新設したみてえだが……。仁王像も立派なもんだ。広い敷地だよなあ。当時はどれだけ賑わってたんだろうな」


 仁王像の間を抜けて更に奥の院へ向かって走る。


「わあ! なにこれ。すごーい!」


 東雲さんの後ろを駆けていたクロが歓声を上げた。

 杉の木が建ち並ぶ参道の中に、おびただしい数の石塔が姿を現した。

 五輪塔だ。供養塔や墓として平安時代末期から使用されたもので、見渡す限り建ち並ぶ石塔の数はゆうに千を超えるだろう。地面を埋め尽くさんばかりの石塔は手入れされておらず、落ち葉が積もり、苔むしてしまっている。


――本当に役目を終えた場所なんだなあ……。


「いったい誰のお墓なのかな……。誰かの大切な人だったんだろうな」


 石塔に祈りを捧げる者はもう誰もいない。弔われた魂たちはちゃんと成仏できたのだろうか。遺された家族は思う存分供養できたんだろうか……。


今の私に知る術はない。


建ち並ぶ石塔の姿に切なさを覚え、寂寥感が胸に満ちてくる。


「……あれ?」


 ふと、石塔の間に光るものを見つけた。

 一見すると蛍のようにも思えるが、季節はすでに秋である。蛍がいるはずもない。なにごとかと訝しんでいれば、はじめはひとつふたつしかなかった光の数が徐々に増えていく。しまいには、目を開けているのも苦痛なほどになった。


「さあ、次へ飛ぶぞ。古い祈りの力を借りるんだ」


 東雲さんの声が聞こえる。光の粒が祈りの力なのだろうか? 疑問が湧き上がってくるが、私は刻々と変化する状況について行くのでいっぱいいっぱいだ。


 ふわ、と再び暖かな空気の層を超える。


 気がつけば、私たちはまた別の山中にいた。ギョッと目を瞬く。周囲に二、三メートルほどの柱状の巨石が何本も林立していたからだ。


「なにこれ。ストーンサークル……?」

「ストーンヘンジよりは規模が小さいが、似た雰囲気だな」


 思わず水明と顔を見合わせる。

 剥き出しの石がずらりと並ぶ様はミステリアスだ。

 東雲さんによると、ここは宇佐市にある米神山の西南に位置しているという。


「これは『佐田(さだ)(きょう)(いし)』だ。古代の祭祀場の跡らしいぜ。人間たちは、鳥居の原型だの、仏教の経石だのといろいろ言ってるみてえだが、本当のところはわかってねえ。……まあここも、本来の目的を忘れ去られた祈りの場だな」


 そう語る東雲さんは、なんだか寂しげだった。


 どうしたのだろう。なにか思うところがあるのだろうか。


声をかけようと口を開きかける。しかし、石柱の影から先ほどと同じ光の粒が現れ出し、私たちを取り巻き始めたので、そっと口を閉じた。


視界が白く染まっていく。東雲さんの物憂げな表情ごと世界を塗りつぶしていく――。

光の粒が消え去ると、私たちは三度(みたび)、別の場所に移動していた。


薄暗い森の中である。鬱蒼と木々が生い茂り、紅葉した葉がはらりはらはらと地面に降り積もっていた。気がつけば空が茜色に滲み始めている。朝一番に出発したというのに、到着にかなりの時間を要してしまった。でもきっと――ここが最終目的地なのだろう。

なぜならば、ふたりの人物が私たちを待ち受けていたからだ。


「お待ちしておりました」


 両手を合わせて同時にぺこりと頭を下げる。

 ふたりはとても奇妙な格好をしていた。一本角が生えた、猿にも化け物の顔にも見えるお面を着けている。黒地に赤と白の塗料で文様を書き込まれたお面からは、不思議と恐ろしさは感じないのは、お面が笑顔を思わせる表情を浮かべているからかもしれない。


「……あれ、修正鬼会で使われている面だな」


 ぽつりと水明が呟く。では、彼らが鬼なのだろうかと繁々と様子を観察する。


 ひとりは古めかしい水干姿をしていた。腰に矢筒を佩き、大きな弓を背負っている。

 もうひとりは見るからに山男といった風情だった。獣の皮をなめしたベストに麻で作られたズボン。素足に草鞋を履いていて、もうひとりの男に比べて薄汚れている。


 しかし、お面はまったく同じだ。


 そんなふたりが、森の中に佇む巨石のそばにじっと立っている。

 東雲さんはふたりに挨拶をすると、状況を呑み込めないでいる私たちに向かい合った。

 ニカッと白い歯を見せて笑い、先ほど手にしていた木片をひらりと振る。


「やっと到着だ。ここが隠れ里の入り口だぜ」


 東雲さんの言葉と同時に、どこからか淡い光が漏れ出した。

 またあの光かと構えていれば、光の発信源が巨石であることに気がつく。にゃあさんから下りて巨石へ近づけば、表面に奇妙な文様が彫られているのがわかった。


「東雲さん、これは……?」


 おそらく文字ではないかと思う。蛇がのたくっているような文字だ。太陽をかたどったような文字もある。虫のような人のような文字も。なにが書いてあるのかさっぱりわからないが、誰かが意図して石に刻みつけた文様であることは理解できた。なにかを伝えようという意思を感じる。水明も文字の存在に気がついたらしい。怪訝そうに眉をしかめた。


「なんの文字だ? 甲骨文字……違うな、エジプトの文字に似ている気もする」


 ふたりで不思議がっていると、東雲さんは小さくかぶりを振った。


「ちげえよ。中国の文字でもエジプトの文字でもねえ。豊国文字ってんだ。もともと漂泊民が使ってた文字だとも言われてる」


 東雲さんいわく、豊国文字は仮名文字が発明される以前に使用されていた「神代文字」なのだという。


「とはいえ、研究者たちの間ではニセモンだって言われてるがな。この石が本当に神代から残る遺物なのか真偽はわかってねえ。誰も石の由来を語ってこなかったからだ」

「……あ」


 ふと、今まで東雲さんと巡ってきた場所の共通点に気がついた。


 作者が不明な熊野磨崖仏。祈りの場としては終焉を迎えている旧千燈寺跡。祭祀場であったであろうとは予測できるが、多くの謎に包まれている佐田京石。真偽が定かではない、奇妙な神代文字が刻まれた巨石……。


 それらが内包する〝謎〟の真相が明らかになったり、再び最盛期の姿を取り戻したりすることはまずないだろう。したくてもできないと言った方が正しい。


 すべて、すでに失われてしまったからだ。情報も建物も信仰もなにもかも。


 ――誰かが信憑性の高い記録を残してあれば話は違っていたのだろうけど。


 瞬間、ハッとした。

 養父が本を作る理由に通じるんじゃないかと思ったのだ。


 ――東雲さんは私になにかを見せようとしている?


 じっと養父の姿を見つめる。口下手な東雲さんは言葉より行動で示すことが多い。

 私が見ていることに気がつくと、東雲さんはポリポリと頬を掻いた。


「よし、あともう少しだ。客が待ってる。隠れ里の中に入ろう」


 ポンと私の頭を軽く叩く。瞬間、巨石が一際強く輝いた。


「……!」


 目が眩むような光が収まると、私たちは広大な平原のまん中にいた。

しっとりとした森の中から一転、唐突に開けた視界に目を瞬く。笛や太鼓の音と共に、どこからか楽しげな声が聞こえてくる。海原のように草がそよぐ向こうに、こんもりとした森と集落が見えた。夕餉の支度をしているのだろう。煮炊きの煙の匂いがここまで漂ってくる。集落のそばでは、子どもたちが遊んでいるのが見えた。楽器を手にしてなにやら楽しげに踊っている。先ほど聞こえてきた声の主は彼らのようだ。


「さあ、われらの村へご案内いたします」


 仮面を着けた男たちが先導し始めた。


「夏織、行くぞ」

「ま、待って」


 東雲さんの後をついて行きながら、私は目の前に広がる光景に目を奪われていた。

 空の高さ、澄み渡った空気。天高く鳥たちが舞い飛び、草のかげには兎などの小動物が戯れ遊んでいる。集落のそばには広大な田園が広がっていた。今まさに収穫の時期なのだろう。大勢の人が鎌を手に作業に勤しんでいる。


村を包むように佇む森の木々は、どれもこれもがたわわに実をならせていた。今は柑橘類が旬を迎えているようだ。胸がすくような爽やかな香りがあちこちからした。


 そこに暮らす人々の装いは非常にバラエティに富んでいる。

 布で頭を巻き、生成りの麻の貫頭衣を着た古代人風の男性がいたかと思えば、大勢の侍女を侍らせ優雅に詩作に耽っている女性は、雅な十二単をまとっている。平安貴族風の女性の隣で楽しげに笑うのは、江戸時代のお姫様のような豪奢な打ち掛けを着た女性だ。旧帝国軍の軍服を着た人もいれば、私とそう変わらない恰好をした人までいる。


――ああ。命の息吹を強く感じる。


行き交う人々の表情に陰りはなく、誰もが満たされた表情をしていた。

まるでお伽噺に出てくる〝理想郷〟のようだ。


「ここは一体……?」


 平屋の藁葺き屋根の建物の向こうに、立派な寝殿造りを見つけて目を瞬いていれば、「あっ!」とクロが頓狂な声を上げたのがわかった。


「見て見て! これ、あそこの磨崖仏と似てない~?」

「ほんとだ」


 クロが示した先にあったのは、木々の中にそびえ立つ磨崖仏だった。

 仁王像を模した巨大な石仏がずらりと並んでいる。

まったく同じではないが、先ほど石段の上で見た熊野磨崖仏と雰囲気がそっくりだ。それこそ、同じ作者の作品であると言われても違和感がないくらいに――。


ふと視線を動かせば、村のいたるところに石柱が立っているのに気がついた。

色とりどりの花々や供物が供えられ、熱心に拝んでいる人もいる。


――なんだろう。「佐田京石」によく似ているような……?


「東雲様。ようようお越し下さいました」


 声をかけられ振り返れば、白髪の老人がにこやかな笑みを浮かべて立っていた。

 老人が東雲さんの客らしい。染色した麻糸を幾何学模様に編み込んだ羽織を着ている。皺が寄った枯れ木のような手には木製の杖。首からは骨を繋げた首飾りを下げている。ふと〝シャーマン〟という言葉が脳裏に過り、老人を繁々と観察してしまった。


「出迎えてくれてありがとうな。腰はどうだ。薬は足りているか?」


 東雲さんは、老人の手を取って声をかけてやっている。「大丈夫ですよ」と老人が答えれば、東雲さんは嬉しそうに笑った。ずいぶんと親しげだ。


 客と話し続けている東雲さんへ近づく。老人は私に気がつくと嬉しげに目を細めた。ぺこりと頭を下げて挨拶をする。


「初めまして。夏織です。父がいつもお世話になっています。東雲さん、この人を私たちにも紹介してよ。どんなあやかしなの?」


 東雲さんは一瞬だけ口を噤むと、「あ~」と視線を宙に泳がせた。


「説明してなかったか?」


 バツが悪そうにガリガリ頭を掻き、老人の肩に手を置いた。


「こいつはあやかしじゃねえ。人間だよ」

「え」


 あやかしだとばかり思っていたのに!

 驚きのあまりに声も出ない私に、東雲さんは苦笑交じりに言った。


「ここは隠れ里。なんらかの事情があって現し世に住めなくなった人間たちが、あちこち流れた末にたどり着く場所だ。落ちのびたってのが正しいのかもしれねえな。外の世界じゃ生きられなくなったこいつらは、ここで種を繋いで、ここで一生を終える。俺や遠近は、里に必要な物資や本なんかの娯楽を届けてるんだ」


 パタパタと私たちの横をふたりの少女が通り過ぎて行く。貫頭衣を着た少女と白いワンピースを着た少女だ。まるで装いが違う。浮かべた笑顔は同じように可愛らしいけれど。


不思議な光景だ。それぞれの時代を生きている住民たちを混ぜこぜにしたような――。

ふと、既視感を覚えて苦笑を漏らした。


――なんだか幽世に似ている。


 ぼんやりと駆けて行く少女たちを眺めている私に、東雲さんは続けた。


「こういう場所にはな、昔のことがわりかし正しく伝え残ってることが多い」


 権力者のいいように変えられていない、〝素〟のままの歴史を知ることができるんだ、としみじみと語る。そしてそれは、絶対に失われてはいけないものだ、とも。


「俺はな、あやかしだけじゃなくって……世間から追われた奴らが抱える歴史も遺したいと思ってる。だから本を貸すついでに、いろいろと取材させてもらってたんだ」


 養父の言葉に、はたと気づく。もしかしたらこの里には、熊野磨崖仏の作者も、その他の遺物の真実も伝わっているのかもしれない。


 再び里の光景を見遣る。森の中に居並ぶ磨崖仏と目が合った気がした。花々で飾られ、供物を捧げられている石柱は、里の人々からすれば謎の石でもなんでもない。生活に寄り添った、ごくごくありきたりな信仰の対象だ。


「そうなんだ。……初めて知ったよ」


 養父の強い想いが、あやかしだけでなく人間にまで及んでいた事実に驚きを隠せない。

同時に誇らしい気持ちでいっぱいになった。


「すごいじゃん」


 笑顔で小突けば、東雲さんが照れくさそうに笑う。


「だろう。お前の父ちゃんはすごいんだぞ」


 ニヤニヤ笑っている東雲さんに「調子乗りすぎ」とわざと顔をしかめてやった。

東雲さんは「悪い、悪い」とばつが悪そうに笑って、私をじっと見つめる。


「今回、お前を連れて来たのはな、俺がこういう仕事もしてるんだって見せたかったんだ」


 キョトンと目を瞬く。今までそんなことなかったのに。どういう風向きだろう。

 私が疑問を口にする前に、東雲さんはまるで子どもを労るように私の頭を撫でた。


「あっちこっち行ったからなあ。疲れただろう。今晩、宴を開いてくれるらしい。それまでのんびりしてろよ」

「……わかった」


 ニッカリ、いつものように笑った東雲さんに頷く。

老人に再び向かい合った東雲さんの背中を見つめて、


――東雲さんの仕事、かあ……。


私は、ひとり考えごとをしていた。

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