養父の背中2
それから数日後。
しっかり戸締まりをして、店の前に臨時休業の張り紙を貼る。
手には大きな旅行鞄。これから泊まりがけで東雲さんの取材先へ挨拶に行く予定だ。
「勝手口の鍵も閉めてくる」
「うん、お願い」
インバネスコートをひるがえし家の裏手へ回る東雲さんの後ろ姿を眺めながら、すんと小さく洟を啜る。店の前に視線を遣れば、カラカラと風に吹かれて落ち葉が飛んでいくのが見えた。いやに冷え込む日だ。吸い込んだ空気が肺を凍り付かせてしまいそう。往来を行くあやかしたちの足取りも鈍く、誰も彼もが着ぶくれしていて、一足先に冬本番が来たのかと思いたくなるほどだった。
だけど、今の私にとって寒さはさほど問題じゃなかったりする。
それどころじゃないと言った方が正しいかもしれない。
ソワソワと辺りを見回す。目的の人物を視界に見つけられなくて肩を落とす。
意味もなく指先をこする。ショートブーツで地面の石を蹴ったり、毛糸の帽子の位置を微調整していたりしていると、髪型が崩れたような気がして鏡がほしくなった。
「……落ち着いたらどうなの。うざったいわねえ」
耳に届いた不機嫌そうな声に、ウッと小さく呻いて唇を尖らせる。
「だって。だって……」
「だってじゃないわよ。シャキッとしなさいよ。シャキッと」
地面に視線を落とせば、ふてぶてしい顔をした黒猫が私を睨みつけている。
火車という猫のあやかしで、親友のにゃあさんだ。苛立たしげに三本の尻尾で地面を叩いたにゃあさんは、スルスルと私の足を上ってコートの中に潜り込んできた。
襟元からぴょこんと顔を出す。落ちないように慌てて体を支えてやると、満足げにピクピクと耳を動かした。甘えているらしい。しかし、口ぶりは相変わらず辛辣だ。
「浮かれる必要があるかしら? なにも前と変わらないでしょ。番になったからって」
「つっ……番って! 違うよ。水明とは結婚したわけじゃないから!」
真っ赤になって抗議する。にゃあさんはツンとそっぽを向いた。
「理解できないわ。好きならとっとと子作りするのが普通でしょ? 彼氏だろうが、番だろうがやることは一緒じゃない」
「子作りなんてまだしないからね!? 猫と一緒にしないでよ……!」
思わず情けない声を上げれば、にゃあさんは素知らぬ顔で前脚を毛繕いし始めた。
火照った顔の熱を逃がすようにゆっくり息を吐く。どうして私がこんなにも動揺しているのか。その理由は……言わずもがな、水明のせいだ。
白井水明。元祓い屋で、ふたつ年下の男の子。
今回の仕事には、彼も一緒に行くことになっている。
その事実を知らされたのは今朝方だった。東雲さんに、突然「アイツも来るからな」と言われた私は、心の準備ができないまま今に至っているというわけだ。
――だって、彼氏と泊まりがけの旅行とか。それも養父同伴……。
幽世の空を見上げて途方に暮れる。
なにごともなければいいんだけど。心の中は不安でいっぱいだ。
彼氏……水明と私は晴れて交際することになった。
告白は私から。なかなか返事を聞けずにやきもきしたけれど、夏の淡路島で水明からも「好きだ」と返事をもらうことができた。あれから二ヶ月ほど経っている。特に大きな喧嘩をすることもなく、何度か一緒に出かけもした。交際は順調だと言えるだろう。
――まだ、東雲さんに水明と付き合っているって言えてないんだけどね。
はあ、とため息をこぼす。白く染まった息が空気中に溶けていく。
養父に水明との交際を打ち明けられない原因はわかっていた。少なからず東雲さんが衝撃を受けるのを理解しているからだ。
過保護な養父は、私のこととなると見境がなくなりがちだ。せっかく仕事に集中できているのに、邪魔をしたら悪い気がして――……いや。
「……そんなの、言い訳かな」
ぽつりと呟いてかぶりを振る。
今まで、私の中で最も大切な異性はまぎれもなく東雲さんだった。
それが変わろうとしている。親への愛情と異性への恋愛感情は別物だと理解しているが、日々変わりゆく自分自身の内面に心がついていかない。
恋人を作るという事実が親離れを意味しているような気がして。甘ったれな私は、まだ東雲さんのそばにいたい気持ちを捨てきれずにもだもだしているのだ。
――ああああああああ。とんでもないファザコンだわ……。
水明への恋心が、東雲さんへの愛情をあぶり出したような結果となり、くすぐったくて仕方がない。正直、どうすればいいかわからなかった。旅行の間に水明との関係が東雲さんにバレたら大騒動になりそうな予感しかしない……。揉める前に洗いざらい白状するべきだろうか? いや、それもなあ……。
「夏織?」
ひとり悶々していれば、聞こえてきた声にピクン、と体が小さく跳ねた。
じんわり胸が温かくなるような声だ。そろそろと後ろを振り返れば、焦がしたキャラメルのような薄茶色の瞳と視線がかち合う。
秋の乾いた風に、白糸のような髪がふんわりとなびいている。透けるように白い肌、通った鼻筋に、花びらのように薄い唇。物語の王子様のような風貌を持つ彼の周りには、何匹かの幻光蝶が集まってきている。燐光を放つ蝶が寄ってくるのは、彼が人間である証拠だ。
――水明。
高鳴っている胸を必死に宥め、こくりと唾を飲み込んだ。
顔が赤くなっていないかな。苦労しながらようやく口を開く。
「……おはよ」
ぽそりと挨拶を口にすれば、彼の表情が柔らかく解けた。
「おはよう」
――なんて顔するの……。
サッと視線を逸らす。心臓がうるさくて堪らない。
初めて会った時、水明は滅多に感情を表に出すことはなかった。祓い屋家業を営んでいた彼にとって必要だったからだ。無表情が水明の標準装備。そう思っていた。
だのに、今の水明はどうだろう。会うたびに表情が豊かになっていくような気がする。眼差しの優しさに心がかき乱され、彼の仕草から目が離せなくなる。
ひとつひとつはとても小さな変化だ。
それが積み重なると、とんでもない威力を持つのだと初めて知った。
「あ、あのさ。今日、一緒に来るって今朝知ったんだけど――」
恥ずかしさを紛らわそうと、慌てて話題を振る。
勇気を出して水明の方に視線を戻せば――。
「……ッ!」
目に入ってきた光景に噴き出しそうになってしまった。
水明のダッフルコートの襟元から、なにかがひょっこり顔を出していたからだ。
「夏織、黒猫おはよ~! わあ、オイラとお揃いじゃん!」
顔を出していたのは、黒い毛に紅い斑を持った犬神……クロだった。
大好きな相棒に抱っこしてもらって非常にご機嫌だ。水明のダッフルコートの裾がバサバサ揺れている。コートの下で、クロが高速でしっぽを振っているのだろう。
「寒いねえ! すっごく寒いねえ! 鼻が凍るかと思ったよ。地面も冷たくってさあ、肉球がしもやけになっちゃうよ~って水明に言ったら、中に入れてくれたんだ!」
「……そ、そっかあ」
「ふふふ。水明って優しいよねえ。さすがオイラの相棒。黒猫もいいねえ、暖かいでしょ。夏織は優しいよねえ。水明には負けるけど!」
フフンと得意げなクロに、すかさずにゃあさんが反応する。
「朝っぱらからキャンキャンうるさいわね。静かにしなさいよ。えぐるわよ」
「……なにをっ!?」
ギャワンッ! と悲鳴を上げたクロに、にゃあさんは白けた視線を向けている。
「夏織を他と比べるんじゃないわよ。うちの子が一番に決まってるわ。馬鹿なの?」
「ば、馬鹿じゃないやい! 水明の方が……」
「黙りなさいって言ってるの。えぐるわよ」
「だからどこをっ!?」
顔色をなくしたクロに、にゃあさんはツンとそっぽを向いてしまった。
亡くなった母から私を託されたらしいにゃあさんは、養父に負けず劣らず過保護なところがある。どうも絶対に譲れない部分を刺激されたらしい。珍しく意固地になっている。
「あんまりからかわないの。にゃあさん」
「あたしはなにも悪くないわ。文句があるなら駄犬に言って」
やれやれと頭を撫でてやれば、震えが止まらないらしいクロを、水明が必死に宥めているのに気がついた。クロと一緒に育ったからか、水明は相棒に対してかなり甘い。
「クロ、いい加減アレに挑むのはやめるんだ。いたずらに傷つくだけだからな」
「で、でもおおおおおおお……」
「泣くなよ。また駄犬って言われるぞ」
「うおおおおん……! だって悔しくて!」
大粒の涙をこぼしているクロに、水明はひたすら優しい言葉をかけてやっている。
――相棒って言うより、仲がいい兄弟みたいだよねえ。
しみじみ思っていれば、ふと水明と視線が交わった。
犬神と黒猫をコートの中に入れている水明と私。
客観的に見ると、すごくおかしな状況のような……。
パチパチと瞬きをして、同時にプッと噴き出す。さっきは我慢できたのに、耐えきれなくなって笑い出してしまった。
「アハハハハ……! 俺たちなにしてんだろうな」
「まったくもう。本当に!」
ふたりでケタケタ笑っていれば、東雲さんが戻ってきた。
「なにやってんだ、お前ら」
呆れた様子の養父に、「ほら」とわんにゃん二匹を抱っこしている姿を見せる。
「ブフッ! な、なんだそれ」
よほど私たちの恰好が滑稽だったらしい。堪らず噴き出した東雲さんに満足する。水明は東雲さんに笑われて恥ずかしく感じたようで、ほんのり頬を染めていた。
「仕方ないだろう。クロが寒がるんだから」
「あんまし甘やかしすぎるんじゃねえ。外に出たがらなくなるぞ」
「……う。善処する」
ふたりは穏やかな表情で語り合っている。
彼氏になった水明と、養父が語らう姿。
以前と変わりないはずなのに、少しだけ新鮮な感覚がするのは私だけだろうか。
くすりと笑みをこぼす。ひとりで悶々していたのが馬鹿らしい。
――ま、今回の旅行の件は気にしないことにしよう。バレなかったらいい話だし、報告するならちゃんとしたいし。
東雲さんに水明とのことを告白する勇気はまだないけれど、きっと――いつかは。
安堵の息を漏らし、気持ちを切り替える。
「ところで挨拶ってどこに行くの? 取材先って遠いの?」
幽世から現し世……人間たちが住む世界へ行くのに、そう時間はかからない。幽世の各地に存在する地獄の中には、日本全国各地へ繋がる近道があるからだ。
だから普段はたいがいが日帰りなのに、あらかじめ泊まりがけの準備をするなんてよほどである。どこかの離島にでも行くつもりなのだろうか……?
私の問いかけに、東雲さんはしょりしょりと無精髭が残った顎を撫でる。
悪戯っぽい笑みを浮かべると、
「たしかに遠いっちゃ、遠いな。俺らが今から行くのは――隠れ里だからな」
意味ありげにそう言った。
「「隠れ里……?」」
私と水明は顔を見合わせ、思わず首を捻ってしまったのだった。