物語が始まった島、救世主と親子と4
――一方、その頃。
水明と玉樹、烏天狗の双子金目銀目とクロ、そして芝右衛門狸は、屋敷の屋根に上って夏織たちの様子を窺っていた。孤ノ葉と白蔵主がなにやら話しているが、ずいぶんと時間がかかっている。そのせいか、双子は暇を持て余し気味だった。
「なあなあなあなあ。狸のおっさん! ちょっと遊びに行っていいか? 夏織んとこ」
「オイオイ。やんちゃな小僧だなァ。嫌いじゃねえが、今日ばかりは大人しくしておけ」
「ええ、頭固いんだから~。ちょっと事態をややこしくしてくるだけだってば」
「てめェ、金目っつったか? 頭かち割ってやろうか、あぁん!?」
小声でやり合っている三人をよそに、水明は夏織の姿を目で追っていた。
その腕の中には、相棒である犬神のクロの姿がある。
「夏織ったら、また変なことに巻き込まれてるね? 水明」
「まったくだな、クロ。アイツ、貸本屋で大人しくしていればいいのにな」
「アハハ! きっと無理だろうなあ。夏織だもん」
クロの言葉に、水明は思わず渋い顔になった。
手の中の手紙へ視線を落とす。それは、夏織から届いたばかりのもので、今回の計画が詳らかに書かれていた。そこに見逃せない一文があったのだ。
「……人魚の肉売りが現れるかもしれないなんて、俺は聞いてないぞ夏織」
ボソリと文句を呟くも、地上の夏織に届くはずもない。相変わらずの説明不足を痛感していれば、すぐ隣に玉樹がやってきたのがわかった。
「……すまんな。こんな時に」
「なんのことだ」
謝罪の意図を汲めず首を傾げれば、玉樹は白濁した右目を水明に向け、にやりと細める。
「好きな相手とはいつも一緒にいたいものだろう?」
「なっ……!? な、なななななにを」
真っ赤になってしまった水明に、玉樹は楽しげに笑った。
「自分もそうだったからな」
玉樹の様子に水明は疑問を持った。普段の玉樹からすれば考えられない発言だからだ。
「……どうしてそんなことを、俺に?」
訝しみながらも訊ねれば、玉樹は穏やかに笑った。
「最近、最愛の人のことをよく思い出す。……きっと、そのせいだ」
その瞳に滲んだ愛情らしきものに、水明は目を瞬いた。
「ふうん。今回の件が終わったら会いに行くのか?」
玉樹の事情など、水明が知るところではない。けれど、なんとなくそんな気がして訊ねれば、玉樹は少し驚いたような顔をしてから、すぐに表情を緩める。
「ああ。人魚の肉売りの野郎をぶちのめしたら、会いに行く」
「……ソイツをぶちのめさないと会えないのか?」
「まあな。仕事をきちんとこなさないうちは会えない。物語に喩えるとするなら……助けに行った王子が姫にしこたま叱られる展開なんて無様じゃないか」
「……確かにそれは勘弁して欲しいかもな」
水明は玉樹に向かって小さく笑うと、どこか不敵に口端を吊り上げて言った。
「なら、一刻も早く片付けるべきだな。だって、いつも一緒にいたいものなんだろ?」
「フハッ! ハハハ……本当にそうだな」
楽しげに笑う玉樹の様子は、普段よりずいぶんと親しみやすい。
俺はせっかくの機会だしと玉樹としばらく話し込んだ。
――ちりん。
「……!」
瞬間、鈴の音が耳に届いた。途端に険しい顔になった玉樹は、じいと月子を凝視している。
「……ふわ。おやおや、ようやく僕の出番かい?」
そして月子の足もとからかの人物が姿を現した瞬間、勢いよく屋根の上を駆け出した。
――アレが人魚の肉売りか!
「行くぞ!」
水明は双子たちに目配せをすると、その後を追った。
***
呆然している私たちに、かの肉売りは上機嫌で話し続けていた。
「人魚はね、とっても美味しいんだ。お刺身に煮付け、焼き魚でもなんでもいける。願い事の規模によっては肝をおすすめするけれどね。ねえ、どうやって食べようか!」
肉売りの言葉に、私は寒気を覚えずにはいられなかった。
人魚のエラに鉄の鉤を引っかけ持ち上げる度、幼い子どもの顔が痛みに歪む。
それを手に、まるで魚屋のようにセールストークをしているのだ。その姿は私の目に恐ろしく異様に映り、忌避感が拭えない。青ざめていれば、ナナシがそっと肩を抱いてくれた。
「ちょっと待って。アンタ一体なんの用なの? ここには、人魚の肉なんて摩訶不思議なものを必要としてるあやかしはいないわ」
「……ん? そうなのかい?」
こてんと肉売りが首を傾げる。すると「勝手なことを言わないで」と月子が声を上げた。
「……孤ノ葉がいる」
「えっ、私……?」
思わず目を瞬いた孤ノ葉に、月子はにっこりと可愛らしく笑んだ。
「だって、孤ノ葉の希望は叶わなかった」
「そ、それはそうだけど……」
瞳を揺らした孤ノ葉に、月子は肉売りを指差しながら言った。
「だったらこの人に願えばいい。好きな人と一緒にいられる方が幸せ、でしょ」
にこりと笑った月子に、孤ノ葉は困惑気味に眉を顰めている。
――一体、どういうことなの……?
月子の発言に、私は首を傾げざるを得なかった。
彼女が肉売りに接触したのは、自分の願いを叶えるためじゃなかったのだろうか。
一度は諦めろと諭したのに、今の段階になって人魚の肉に頼ってでも願いを叶えろという。月子の行動はどこかちぐはぐだ。
私が思案に暮れていると、月子は孤ノ葉へ向かって続けた。
「さっきの話を聞きながら、わたくし考えたの。どうすれば、孤ノ葉が夜人と結ばれるのか。白蔵主は人間が嫌い。人間が憎い。人間を信じられない。なら――答えは簡単」
その瞬間、月子の瞳が妖しく煌めく。
「夜人を人間じゃなくせばいい。あやかしにしてしまうの」
「……!」
さらりとそう言い放った月子に、孤ノ葉は顔を引き攣らせた。
「な、なにを言っているの。そんなこと、私が勝手に決められるわけないじゃない」
「どうして?」
「ど、どうしてって……そんなの当たり前だわ!」
「わたくしは問題ないと思う、けど」
心底不思議そうに呟いた月子に、孤ノ葉はさあと青ざめた。ぴくぴくと狐の耳が不安そうに動いている。ゆらりと紫色のリボンが不安げに揺れた。
「どうしてそんなこと言うの……?」
孤ノ葉が困惑気味に呟けば、月子の眼鏡が月光をちかりと反射した。
「全部、孤ノ葉の幸せのため、だよ?」
ふたりの間に沈黙が落ちる。理由ははっきりしないが、孤ノ葉と月子が決定的にすれ違っているのは明らかだった。
「まったく、狐の娘はほんに残酷じゃのう。……ああ! 可哀想な狸の娘」
するとそこに、どこか妖艶な声が響き渡った。
突然、辺りに強い風が巻き起こる。あまりの勢いに思わず目を瞑れば、芳しい香の匂いが鼻を擽った。この匂いには覚えがある。そう――寝殿造りの屋敷で嗅いだものだ!
吹き荒れる風と共に姿を現したのは、玉藻前だった。
十二単を翻した彼女は、月子にしなだれ掛かり、ついとその顎を指でなぞった。
「――のう、娘。そんな鈍感のおなごのどこがいいのじゃ。いくらお主が尽くそうとも、そのことに気づきすらしないというのに」
「……! やめて」
パッと頬を染めた月子は玉藻前の手を跳ね退けると、ヨロヨロと後退した。
「わ、わたくしのことはどうでもいいの。気づかれなくっても別に」
「ほう? その割に、こうして主張しているではないか。おかしなことじゃ」
「だ、黙って……! あなたには関係ない!」
大声で叫んだ月子に、私は目を丸くした。こんなに感情を露わにしている彼女は初めて見た。それだけ、玉藻前の言葉に動揺しているということだろうか。
「……玉藻前、お前まで来ていたのか。一体、どういうことか説明してくれないか」
白蔵主が困惑気味に訊ねれば、玉藻前は衵扇で顔を隠して笑った。
「ホホホホ。別にこれは、特段珍しいことでもあるまい? 人間と違い、我々は時にやり過ぎるくらいに恩義を感じた相手に尽くすものじゃ」
玉藻前は懐に手を差し入れると、そこから一冊の本を取り出した。
「あっ」
月子の目が驚愕に見開かれる。それは月子が落とした『新美南吉童話集』だったからだ。
「――さてさて。妾も仕事をしよう。〝孤ノ葉の願いが叶うように説得に協力して欲しい〟のじゃったな。ならば……これを語らずにはいられまい」
玉藻前はスルスルと本の表紙を指でなぞると、付箋が付いたページを開いた。
「月子の動機はすべてこの本にある。お主たち。『ごん狐』という物語を知っておるか」
その問いかけに、私はこくりと頷いた。
「――ごん狐。それは新美南吉により書かれた児童文学ですね」
『ごん狐』の主人公は両親のいない小狐ごんだ。悪戯ばかりして村人たちを困らせていたごんは、ある日、病に倒れた母のためにうなぎを獲っていた兵十を見つける。悪戯心を起こしたごんは、兵十が見ていない隙にうなぎを逃がしてしまった。それから数日後、兵十の母親の葬式を見てしまったごんは、「兵十の母親は、きっとうなぎを食べたい、食べたいと思いながら死んだに違いない」と、自分が仕出かしてしまったことを後悔する。
「自分と同じひとりぼっちになってしまった兵十を哀しく思ったごんは、それからというもの、こっそり兵十へ森や川の恵みを届けました。ちっとも兵十は気づいてくれませんでしたが、それでも贈り物をし続けたんです」
この物語の一番印象的な場面は、まさにそのラストシーンにある。
家に忍び込んだごんを見つけた兵十は、また悪戯をしに来たのだと勘違いをして、火縄銃でごんを撃ってしまうのだ。そして、贈り物をくれたのがごんだと気づくと、
『ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは』
という台詞を残して物語は終わる。
「初出は『赤い鳥』と言う児童雑誌です。きっと当時の子どもたちの目にも、とても哀しく、そして美しい物語だと映ったんじゃないでしょうか……」
牧歌的な郷土の風景、ごんの小狐らしい無邪気な心情が童画的に描かれ、そして訪れる悲劇的な最期が大いに心を揺さぶる傑作だ。小学校の教科書に採用されていることでも有名で、授業中に泣いてしまったなんて話もよく聞くほどだ。――そう、月子が付箋をつけていたのは、まさに『ごん狐』だった。
しかし、それと今回の件がどう拘わってくるのだろうか。
「この物語が、月子の動機とどう関係が?」
訝しみながら訊ねれば、玉藻前は妖しく笑んだ。
「まだわからぬか? その娘はごんの如く――贖罪のために狐の娘に尽くしているのよ」
「…………」
月子は、玉藻前の言葉に反論するでなく黙りこくっている。
「実はのう。今の今まで、暇つぶしに芝右衛門狸の配下から話を聞いておったのだ。いや、実に興味深い話が聞けた。狸の娘はのう、今は普通にしておるが、幼い頃はずいぶんと荒れていたようじゃ。誰にも心を開かず、誰とも口を聞こうとせず……狭い穴倉にひとり閉じこもり、外の世界を知らずにおったらしい」
そんな月子を心配した芝右衛門狸は、必死に外に出るように働きかけた。が、どうにも成果がでない。そんな時、連れられて来たのが孤ノ葉だったのだという。
「白蔵主と芝右衛門狸は旧知の仲であったからのう。年の近い娘子であれば、と考えたのじゃろうな。しかし、ことはそう上手くいかなかった……のう? 孤ノ葉」
玉藻前の視線を受け、孤ノ葉は青ざめた顔のまま頷いた。
「あの頃の月子は、本当に獣みたいでした……」
当時の月子は、孤ノ葉すらまったく受け付けなかった。まるで本当の獣のように牙を剥きだして威嚇をし、近づこうとする孤ノ葉を容赦なく攻撃した。
「たくさん傷を負いました。辛かったし、怖かった。でも……芝右衛門様がすごく哀しそうで、辛そうだったから、私も頑張ろうって何度も月子のところに通い詰めました」
そんな中、事件が起こったのだ。
「――ある日、うっかり、いつも以上に月子に近づいてしまったんです。月子は牙を剥き出しにして、私に襲いかかってきました。そして……」
そっと右の狐耳に触れる。紫色のリボンがゆらりと揺れた。
「月子は私の耳を食いちぎりました」
「――やめて!」
その瞬間、月子が悲痛な叫び声を上げた。つかつかと玉藻前へ近づくと、その手から童話集を奪い返す。ギュッとそれを胸に抱いた月子は、涙目になって掠れ声で呟いた。
「……やめて。思い出させないで」
「月子……」
苦しげに眉を顰めた孤ノ葉は、月子にそっと訊ねた。
「まさか、まだそのことを悔やんでいるの?」
「…………」
「もういいって、もう大丈夫って言ったじゃない。私は気にしていないって」
月子は黙りこくっている。すると、まるで月子の代弁者と言わんばかりに玉藻前が続けた。
「お主はそれで済んだつもりだったかも知れぬが、その娘からすれば違ったのだろうよ。ほんに健気な狸じゃ。まるで『ごん狐』が如く、狐の娘に献身的に奉仕してきたのじゃから。なあ、狐の娘。願い事すべてを狸の娘が叶えてくれる生活は楽しかったじゃろう?」
途端、孤ノ葉が驚きに目を見開いた。
「……私の願い事を、すべて叶える? 月子が?」
勢いよく月子を見る。彼女は、特に感情を浮かべずに孤ノ葉を見つめていた。
とんでもない話だ。おおよそ真実とは思えない。けれども、孤ノ葉の発言の端々からは、月子が今までしてきたことが滲んでいたように思う。
『知ってる? 今まで、月子と私が揃っていて、解決できなかった問題はないのよ』
『月子がそばにいてくれると、すべてが上手く行く。問題なんてあっという間に解決する気がするの……』
そう言わせていたのが、月子の献身であったのであれば、なんてすさまじいことだろう。
相手に気づかれることなく、願いをすべて叶える。それがどれだけ大変なことか、想像するまでもない。その瞬間、私はようやく月子のしてきたことが理解できた。
「……ああ、だからか! 孤ノ葉の恋路を応援してみたり、急に諦めろって諭してみたりしたのは、すべて〝孤ノ葉の願いを叶えるため〟なんだ!」
恋路を応援したのは〝孤ノ葉が夜人との恋人関係を継続したいと願った〟から。
諦めろと諭したのは〝己の考えの浅はかさに失望して、恋人と別れた方がいいかもしれないと孤ノ葉が考えた〟から。
もしかしたら、孤ノ葉へ本を貸したのも〝退屈な時間を解消したい〟とでも孤ノ葉が願ったからなのかもしれない。その結果、孤ノ葉は人間に興味を持ち、現し世へ出かけたいと願って――。月子は、孤ノ葉の願いを順繰りに叶えていっただけなのだ。
「なんじゃ、ようやく気がついたのか。貸本屋の娘も察しが悪いのう。すべては狐の娘のため。そうじゃろう? 月子……」
すると玉藻前は、どこか残酷な表情を浮かべ――とんでもないことを言い出した。
「〝物語のような素敵な恋をしてみたい〟。その願いを叶えるために、人間の男を用意したくらいだものな?」
「――え」
玉藻前の言葉の意味がすぐに理解できず、ぽかんと口を開けた。
そろそろと月子を見遣る。彼女は玉藻前の言葉をなにひとつ否定していない。
「……嘘よ。嘘って言って? 月子……」
今までにないくらい青ざめた孤ノ葉は、ノロノロと月子へ手を伸ばした。
「夜人さんと私は、運命の出会いをしたのよね? そうよね?」
まるで希うように呟く。けれども、その言葉を月子は苦しげに否定した。
「ごめん、孤ノ葉」
「……!」
孤ノ葉はその場にぺたんと座り込んでしまった。溢れる涙をそのままに、呆然と月子を見上げている。月子は孤ノ葉を無表情で見下ろすと、そっと胸に手を当てた。
「死ぬまで話さないって、誓っていたのに」
そしてどこか諦めの表情を浮かべると、眼鏡を外して静かに語り始めた。
「――美しい孤ノ葉。それを傷つけてしまったわたくしは、すべてをかけてでも、その願いを叶えるべき。そう思って今までやってきた」
月子が引き籠もっていた理由。それは、彼女の感覚が鋭敏すぎたことにあった。
眩しすぎて目を開けられない。日が差し込むだけで、目の奥がギリギリと痛んで、涙が止まらない。明るい世界が辛くて、太陽が憎くて、月子は徐々に病んでいった。
そんな症状は人間にもある。月子は生まれつき視覚過敏だったのだ。
「世界はまるでわたくしを拒むように光で満ちあふれていた。なのに、眩しいだけだろう、それくらいなんだって……誰も彼もが、無理矢理外へ引っ張り出そうとした。痛いのに、辛いのに、嫌だって叫んだのに。わたくしに優しくしてくれたのは暗闇だけ」
人間と違い、治療という概念はあやかしたちに馴染みがあるものではない。
幽世の町に薬屋はあるけれども、基本的に病も怪我も自力で治そうとする。それが当たり前の世界で、月子のような症状はてんで理解が得られなかったのだろう。
「わたくしは穴倉の奥深くに閉じ籠もった。世界を拒絶して、すべてを跳ね退けて。そのまま死んでもいいと思ってさえいた」
そんな時、孤ノ葉がやって来たのだ。
「孤ノ葉は、優しくわたくしに声をかけてくれた。でも……わたくしを外に出そうとしているのはわかっていたから、必死に抵抗した。外は痛くて辛いことしかなかったから」
そして、事件は起こった。しびれを切らした孤ノ葉が、いつも以上に月子に近寄ったのだ。拒絶反応を起こした月子は、堪らず孤ノ葉の右耳に噛みついた。
『きゃあああああああああああっ!』
けたたましい悲鳴に、月子は正気に戻ったのだという。
――大変なことをしてしまった……!
一瞬だけ躊躇して、血をこぼしながら穴倉の外へ出て行った孤ノ葉を追う。
その時間、すでに日は暮れていた。
大きな月が雲間から顔を覗かせて、世界を青白い光で照らしていたのだという。
ぺたりと地面に座り込んでいる孤ノ葉へ駆け寄り、こんなつもりはなかったのだと必死に謝る。すると、出血で青ざめながらも孤ノ葉は――。
『……やった! 外に出られたじゃない! 頑張ったわね!』
痛いだろうに、穴倉から出てきた月子へ健気に笑いかけてくれたのだ。
「なんて綺麗なのって、その笑顔に見蕩れたわ」
ぽつりと呟いた月子は、じんわりと涙を浮かべている。
「それまでは、目に見える風景、すべてが苦痛だった。なのに、孤ノ葉の笑顔がすごく綺麗で、素敵で。初めてなにかを美しいと思った。孤ノ葉のおかげで、白茶けていたわたくしの世界に、色が戻ってきたの……」
更に、孤ノ葉は月子の世界に変革をもたらした。孤ノ葉は、月子の症状に理解を示し、あらゆる伝手を使って治療法や対処法を捜し出したのだ。それが、月子がいつも身につけている色ガラスの眼鏡や帽子だった。
「わたくしは、孤ノ葉のおかげで外に出られるようになった。これがないと、相変わらず世界はわたくしを拒むけれど、眼鏡さえあれば外の世界を眺めるのも怖くない」
そっと眼鏡の弦を撫でる。月子は切なげに眉を顰め、呟いた。
「――たくさんのものを見た。でも、孤ノ葉ほど綺麗なものはなかった。それなのに、わたくしなんかをそばに置いてくれる孤ノ葉は、心まで綺麗だったの」
「月子……?」
しつこいくらいに自分を褒める月子に、孤ノ葉は怪訝そうだった。
月子は孤ノ葉を苦しげに見つめると、ぽつりと呟く。
「なのに――それをわたくしが壊してしまった」
美しい、美しい孤ノ葉。けれど、その右耳は無残にも欠けてしまっている。
「……なんて大きな罪を犯してしまったのかと恐ろしくなった。だから、贖罪のために孤ノ葉の願いをすべて叶えることに決めた」
万が一にでも、あの笑顔が曇ることがあってはならない。
孤ノ葉の笑顔を守る。ただそれだけのため、月子の奔走する日々が始まった。
「今まで、孤ノ葉の願いは些細なものだった。あのお菓子が食べたい。あそこで遊びたい。誰かと喧嘩したから仲直りしたい。孤ノ葉の世界はほどよく狭くて、彼女の願いはわたくしが叶えられるものばかりだった。でも――本を読み始めてから変わってしまった」
孤ノ葉の世界は、本を通じて急速に広がっていった。
それに比例するように、その願いも複雑で難しいものに変わって行く。
「いつか……願いが叶わないと孤ノ葉が泣く日が来るかもしれないと焦った。夜も眠れないくらいに思い悩んで、でもどうすればいいかわからなくて……」
罪を償えないかもしれないこと。それは月子の心を絶望の淵へと追い込んでいったのだ。
――そんな時だ。人魚の肉売りの噂が耳に入ってきたのは。
藁にも縋る想いだった月子は、幽世へ赴き、屋台で大量の鈴を買った。
そしてそれを手に、人魚の肉売りが現れるように必死に願い続けた。しかし、なかなか現れてくれない。眠れない夜を幾日も過ごし、再び己の死を意識し始めた時。
ようやく、人魚の肉売りが彼女のもとへ現れたのだ。
「ホッとした。ああ、これで孤ノ葉の願いはすべて叶えられるって」
今まで切々と語っていた月子の瞳に、じわりと濁った感情が滲んだような気がした。
それは彼女の涙に溶け込み、ポロポロとこぼれ始める。座り込んだまま、自分を恐ろしげに見上げている孤ノ葉の表情になんてまるで気づかないまま――月子は言った。
「ねえ、孤ノ葉。願いを叶えよう。大丈夫、なにもかも丸く収まる。人魚の肉は万能。どんな願いだって叶えてくれる。他に願いはない? 大丈夫、これからもずっとずっと――」
月子は、しゃがんで孤ノ葉の手を握り、頬を薔薇色に染めた。
「孤ノ葉の願いは、わたくしが叶えてあげるから。だから、笑っていて」
「――ああああ……」
瞬間、孤ノ葉が小さく震え始めた。
「私のせいだ。私が月子を歪めてしまった」
月子の献身に、そして異変に欠片も気づかず、のうのうと過ごしてきた自分に気がついてしまったのだろう。月子の手を勢いよく振り払い、じりじりと後退る。
すると、それまで静観していた玉藻前が満面の笑みを湛えて月子の耳もとで囁いた。
「――おやおや。どうして泣くのじゃろうな。己の願いを叶えたいなら、お主に任せておけばよいという事実を伝えただけだというのに。狐の娘はお主を拒否しているようじゃ」
「別に構わない」
月子がそう言えば、玉藻前は意外そうに目を丸くした。
新美南吉の童話集をそっと抱きしめた月子は、物憂げに目を伏せた。
「自分が、どれだけ強引なことをしているか、わかってる。まるで、ごんみたいねって思う。ごんの贖罪はすごく一方的で、時に相手を傷つけたりしたから。だから、いつかごんのように撃たれたっていいの。わたくし、その覚悟はできている」
じっと人魚の肉売りを見つめた月子は、にこりと儚げに微笑んだ。
「お願い。孤ノ葉を救ってあげて。孤ノ葉の願いは、すでにわたくしが叶えられる範疇を超え始めているから……」
「――やめて!」
すると、孤ノ葉が月子の言葉を遮った。ボロボロ泣きながら懸命に訴えかける。
「今まで、気がつかなかったことは悪かったと思ってる。でも、私は月子にそんなことは望んでない……! 人魚の肉なんてものに頼らなくても、自分でなんとかするわ。願いが叶うように、お父さんとたくさん会話して、前へ進んでいける!」
「でもそれじゃあ、孤ノ葉が傷つく。痛かったら、笑顔が消えちゃう……」
「それでもいいの! 前へ進むってことは、いいことも悪いことも、苦しいことも辛いことも、痛いことだって……全部、覚悟の上で一歩踏み出すってことだわ!」
「……っ!」
孤ノ葉の叫びに、月子はびくりと体を竦めた。
ぺたりとその場に座り込み、怯えたように四肢を縮めて、ぽろりぽろりと涙を落とす。
「どうしてそんなことを言うの。わたくしは、孤ノ葉のために」
孤ノ葉はゆっくりと首を横に振る。四つん這いのまま月子へ近寄り、その手を握った。
「私ね、月子に言いたいことが、たくさんあるの」
「うん……」
「耳のことは、本当に気にしなくていいの。全然気にしてないんだから。だってこれは、月子と友だちになるためにできた傷。嫌に思ったり、後悔したりするわけないでしょ?」
すると、雲間に隠れていた月がそっと顔を覗かせた。昏い夜に柔らかな月光が満ちる。
月子が呆然と見つめる中、孤ノ葉は柔らかく笑んだ。
「今まで、いろいろとありがとう。これからは大丈夫。確かに、自分の願いが叶わなかったら、苦しい想いをするんだろうと思う。でも、私はその上で笑ってみせる」
そして優しく月子を抱きしめれば、囁くように言った。
「――月子がそばにいてくれたら、きっと笑える。だから、私の願いを無理に叶えようとしなくてもいい。いてくれるだけでいいの。だって……私たち、親友でしょ?」
ふるり、その瞬間に月子の尻尾が大きく揺れた。
「こ、孤ノ葉」
「たくさん頑張ったね。大変だったでしょう」
「孤ノ葉あ……!!」
孤ノ葉が、泣きじゃくる月子の頭を優しく撫でてやっている。
月子のやり方は間違っていた。一方的な贖罪は、誰も報われないということなのだろう。それは『ごん狐』にも描かれていたことだ。
「ごめん。ごめんね。本当にごめん……」
「私も気づかなくてごめん。月子、ごめんね……」
――けれど、きっとふたりはごんと兵十のようにすれ違ったりはしない。
『ごん狐』はごんが死を迎えた途端、ぱったりと物語が終わってしまう。起承転結の〝結〟の部分がないと言われている物語だ。だからこそ、国語の教材として取り上げられるのだろうとも思う。兵十とごんのその後を想像する余地があるからだ。
孤ノ葉と月子、ふたりが紡ぐ結末はどんなものだろう。
色々と想像は捗るけれど、これだけは確信できる。
それはきっと――どんな物語よりも優しいものに違いない。
再び安堵の息を漏らす。ナナシや白蔵主たちに視線を遣れば、誰も彼もが私と同じようにホッとした様子だった。
「――あれれ。困ったなぁ。君たち、変な方向へ話を持っていかないでよ」
すると、場に似つかわしくない声が響いた。
ハッとして顔を上げれば、所在なげに立ち尽くしている肉売りがいた。
――そうだった。この人のこと……すっかり忘れてた!
さあと青ざめていれば、人魚の肉売りはポリポリと頭を掻いて――。
「うんうん、君たちの話はよくわかったよ。哀しくて、切なくて、絶望的で。どこまでも行き場がない感じがとても素晴らしいね! 僕が救ってあげるよ……人魚の肉でね!」
あっけらかんとそう言い放ったのだ。




