物語が始まった島、救世主と親子と3
白蔵主が蚊帳の檻から出られたのは、三十六枚目の蚊帳を捲った時のことだ。
疲労のあまりヨロヨロと和室から出れば、そこには和風庭園が広がっていた。
雲ひとつない、月明かりが眩しい夜。宴の跡はあるものの、誰もおらずもぬけの殻だ。灯籠の仄かな光と、静寂がその場を支配している。
「――孤ノ葉!」
娘の名を叫んでみても、なんの反応も返ってこない。罠だろうかと訝しむ。けれども、その場に留まっているわけにもいかず、白蔵主はゆっくりと庭へ降りた。
「おお。ようやく来なさったか。ご苦労様でござる」
「ヒッ……!」
瞬間、顔の横でぽうと明かりが灯った。そこにいたのは修験者風の格好をした男だ。
行灯を手に、ニタリと笑う姿はどうにも妖しげである。
「拙僧の名は……団三郎と言えばわかるでござるか?」
「日本三大狸の。ハハッ。三匹揃い踏みか。困ったものだ……」
弱々しく首を振った白蔵主に、団三郎狸は不思議そうに首を傾げた。
「フム? 話に聞くよりかは落ち着いておるようでござるな。暴言を吐き、顔を真っ赤に怒る様は、まさしく富士山が噴火したようであったと聞いていたのでござるが」
「……怒らせようとしても無駄だぞ。私は蚊帳捲りでクタクタだ」
「おお。なるほど。それは重ね重ねご苦労様でござる」
本気なのか冗談なのかよくわからない団三郎狸の反応に、白蔵主は眉を顰めた。
「――どうせ、お前も私を諭しに来たのだろう。勘弁してくれ」
思わず肩を落とせば、団三郎狸はキョトンと目を丸くした。
「諭す。そう言われましても。つい先ごろ、己の勉強不足を痛感した拙僧は、誰かに語るだけの言葉を持ち合わせてはおりません」
「……勉強不足? 団三郎狸ほどの高名な狸がか?」
「はい。実は拙僧、数年前にわが子を亡くしましてな」
あまりにも唐突な告白に息を呑む。
「それはそれは……」と曖昧な言葉で返すと、団三郎狸はどこか弱々しく笑んだ。
「気を遣わせてしまい失礼した。それはさておき――拙僧は、己の無知のせいで、見当違いな方向で努力をしていたようでしてな。わが子可愛さで目が曇っていたようでござる」
「…………。それで、どうしたんだ?」
「お恥ずかしいことに、人間の少年と双子の烏天狗に上手く嵌められましてなあ! 己がしてきたことが、まったく意味がなかったのだと思い知らされました」
ワハハ! と照れ笑いを浮かべた団三郎狸は、次の瞬間には至極真面目な表情になった。
「正直なところ、拙僧は白蔵主の気持ちが痛いほどわかるのです。子はなにより可愛いもの。弱くて、小さくて、守ってあげなければという気持ちにさせられる。――守れなかった時の気持ちは他人にはわからんでしょう。あれは……本当に辛いものです」
「わかって、くれますか」
途端に泣きそうな顔になった白蔵主へ、団三郎狸はニッカリと朗らかに笑った。
「わかりますとも。頑張りましたなあ。本当に。よおく頑張りましたぞ」
「……っ!」
思わず息を詰まらせた白蔵主へ、団三郎狸は優しく背中へ手を回してやった。
「父親には父親の苦しみがある。同時に、娘さんには娘さんの苦しみがあるのでしょうなあ。拙僧とは違い、あなたの娘さんは生きているでしょう。親子で歩み寄る努力をせねば。無知は罪でござるよ。互いをもっと知るべきでしょうなあ」
とん、と団三郎狸に背中を押され、数歩たたらを踏む。
すると、眼前に大きな川が流れているのに気がついた。川には三本の石橋が架かっている。
困惑気味に振り返れば、すでにそこに団三郎狸の姿はない。しかし声だけは聞こえた。
「――阿波に綿打橋という橋がありましてな。そこには人を化かす狸が多く棲んでいたそうでござる。たびたび、橋を増やして川の中に人を落とすものだから、人間たちは大いに困らされたそうでござるよ」
「私を水中へ落として懲らしめるとでも? まるで昔話の悪役のようだ」
「いやいや! 正解の橋を選べば落ちることもありますまい」
「正解……?」
じっと橋を見つめる。橋そのものの作りは、どこにでもあるような石造りの橋だ。
違いがあるとすれば――橋の向こう。そこへ立っている人物くらいだった。
「孤ノ葉が三人……」
橋の向こう側には、白いワンピースを着た人物が三人立っていた。顔は三つ子かと思うほどに瓜二つだ。しかし、微妙に細部が違う。すると、団三郎狸が言った。
「娘さんは、父親に自分を見分けて欲しいそうでござるよ」
「……どうしてそんなことを?」
「恐らく、あまりにもあなたが自分の話を聞いてくれないからでしょうなあ」
団三郎狸の言葉に、白蔵主は思わず噴き出しそうになった。
――つまりあれは、孤ノ葉なりの愛情確認ということだろうか。
小さくため息をこぼす。気がつけば、己の内で轟々と燃えさかっていた恨みの炎がすっかり大人しくなっている。話しているうちに、冷静さを取り戻したらしい。
白蔵主は大きく息を吸うと、姿が見えない団三郎狸へ言った。
「話を聞かせてくれて、ありがとうございます。今度、お子さんの墓前に参らせて下さい」
「もちろんでござる。同じ父親として応援しておりますぞ」
「……はい」
団三郎狸の気配が遠ざかっていく。白蔵主大きく息を吸うと、苦笑をこぼした。
――なにが語る言葉を持たないだ。ずいぶんと重い語りだった。
まっすぐに顔を上げる。気持ちを切り替えた白蔵主は、三人の孤ノ葉のうちのひとりに向かって、迷うことなく歩き始めたのだった。
***
――ああ。孤ノ葉が今にも泣きそうだ。
私は、孤ノ葉の前までたどり着いた白蔵主を見届けると、ホッと胸を撫で下ろした。
三本の橋のうち、本物はたったひとつだけ。普通ならば少しくらいは迷いそうなものだけれど、白蔵主はそんな素振りを欠片も見せることなく、本物の孤ノ葉がいる橋を選んだ。
白蔵主が、本当に自分を想ってくれているのかを知りたいと、今回の方法をとった孤ノ葉は、驚きと安堵感で瞳を潤ませている。
因みに、孤ノ葉の偽物を演じたのは私と月子だ。
変化の術が解けた私は、白蔵主親子から少しだけ離れて様子を見守っていた。
「はてさて、どうなることやら」
「上手く話が纏まればいいでござるが……」
太三郎狸と団三郎狸もやってきた。彼らに「お疲れ様でした」と頭を下げれば、ふたりは満足そうに頷いてくれた。
「主こそ、いろいろとご苦労であった。後は親子の問題じゃからのう。我々は見守ろう」
「――そうね。まったくお騒がせな親子だこと」
そう言って姿を現したのはナナシだ。
じっと白蔵主親子を見つめる瞳には、優しさが溢れている。
「……上手くいくかな?」
そっと訊ねれば、ナナシはにこりと笑んだ。
「どうかしらね。難しい問題だわ。でも……悪い方向には行かないはず」
すると、どこかくたびれた様子の白蔵主が静かに語り始めた。
「まったく。日本三大狸を全員引っ張り出すなんて。ずいぶんと大騒動になったものだ」
「……お父さんが貸本屋を潰すなんて言い出すからだわ」
「そうだな。それは間違いない」
どうやら、ここに来るまでに白蔵主の頭は冷えたらしい。ついさっき、私に向かって唾を飛ばしながら暴言を吐いていた人とは別人のようだ。
「――人間の男がそんなに好きか?」
白蔵主がぽつりと訊ねる。すると孤ノ葉は、大きな瞳に涙をいっぱい溜めて言った。
「好き。初めて好きになった人なの」
「……そうか」
娘の真摯な言葉に、白蔵主は表情を曇らせた。
ちらりと私たちの方を見遣り、意を決したように口を開く。
「先に謝らせてくれ。冷静さを欠いて、聞く耳を持てなかった」
「……うん。いつものお父さんらしくなかったね」
「そうだな。やっと目が覚めたよ。あのまま頭に血が上ったままだったら、薬屋が言ったとおり、孤ノ葉に愛想を尽かされていたかもしれない……」
優しげな語り口に、白蔵主の普段の様子が垣間見える。いつもは、親子ふたりで穏やかに時を過ごすような関係だったのだろう。もしかしたら、このまま孤ノ葉の交際を認めてくれるかもしれない――私にはそう思えた。
「でもな、孤ノ葉。人間との交際を、私が認めることはこれからもないよ」
「……!」
しかし、予想と反して白蔵主はきっぱりとそう言い切った。
孤ノ葉の表情が歪む。小さく息を呑んだ彼女は、どこか苦しげな様子で訊ねた。
「ど、どうして……? 相手が人間だからって、どうしてそこまで」
白蔵主はゆるゆると首を横に振り、どこか哀しそうな様子で語り始めた。
「人間の娘と孤ノ葉が考えた通りだ。その答えは私の伝承にある。私は――白蔵主という僧に呪われてしまった。だから弥作を殺せなかったし、五十年以上も住職を務めたんだ」
当時、ただの白狐であった白蔵主に呪いをかけた相手。
それは白狐に成り代わられた人間の白蔵主だった。
「……始め、私は白蔵主も弥作も喰ってしまおうと思っていたんだ。一度チャンスをやったのに、それを不意にした弥作を生かしておく必要はない。まずは白蔵主を殺し、金の無心に来るであろう弥作を待ち構えようと思った。だから白蔵主の寝室へ忍び込んだんだ」
それは月のない夜だったそうだ。
気配を消して寝室に忍び込んだ白狐は、白蔵主が起きているのに気がついた。
白蔵主はさして動揺した様子もなく、寝室に侵入した白狐に茶を出しすらしたという。
「……かの人は、私が己の名を騙って弥作を諭したことを知っていた。そして、甥が仕出かした罪を深々と詫びて、お詫びに自分の命を差し出すとまで言ったんだ」
しかし、話はそれで終わらなかった。白蔵主は己の命を差し出す代わりに、甥の命だけは絶対に取らないでくれと懇願した。しかも、万が一にでも弥作が行方不明になったり、狐に喰い殺された場合、麓の里の猟師たちが夢山を山狩りしてやると脅してきたのだ。
――なぜだ、と白狐は白蔵主に訊ねたのだという。
その答えはとても単純なものだった。
「白蔵主は……家族である弥作を守りたかった、らしい」
家族という言葉に、孤ノ葉がなんとも言えない顔になった。最初に弥作に家族を殺されたのは白狐であったのに、己の家族は守りたいなんて納得できるわけがない。
「酷いわ……。でも、お父さんはその申し出を受け入れたのね?」
「そうだ。この時点で、すでに家族を人質に取られていたようなものだからね。それに白蔵主はこうも言った。自分に化け、人間と共に過ごしてみろ。いつかは人間のことを好ましく思い、家族を殺された罪を赦す気持ちにもなるだろうから、と」
その言葉を受け入れた白狐は、白蔵主を喰い殺して成り代わった。しかし――それから何年経とうとも、白蔵主の気持ちは晴れなかったのだ。むしろ悪化したと言ってもいい。
「住職として過ごした五十年という月日は、決して短いものじゃなかったよ。なにせ……定期的に反吐が出るほどの怒りに苛まれることになったからね」
その五十年は、弥作が生きた年月と同意だった。
彼はまったく懲りることを知らなかった。何度も何度も金の無心にやって来ては、断られると狐狩りを再開しようとする。慌てて金を支払えば去るものの、また少しすれば無一文になって姿を現すのだ。それが延々と繰り返される日々はまさに地獄だった。
「弥作の顔を見る度、殺意が湧いて仕方がなかった。なにが赦すだ。人間の愚かさをまざまざと見せつけられ、どうしてそんな気持ちになれる!?」
堪らず声を荒げた白蔵主は、ハッとした様子で長く息を吐いた。
「もちろん、弥作以外の人間にも会ったさ。いい奴も悪い奴もいた。だが、私の気持ちを変えるほどの出会いはなかったんだ。だから、私は今でも恨んでいる。家族をむごたらしく殺した挙げ句、なんの反省もしなかった弥作という人間を」
最後に、自分の胸に手を当てると、白蔵主はポツリとこぼした。
「そして――家族を守り切れなかった愚かな自分を、今も恨み続けているんだ。だから、人間そのものが好きになれない。信用もできない。娘を預けたくない」
瞬間、ぽろりと孤ノ葉の瞳から涙がこぼれた。
大粒の涙が、頬を伝って地面に落ちていく。しかし、孤ノ葉は俯かない。
「それでも私は彼のことが好き」
父の苦しい過去、そして胸中を知った孤ノ葉は、涙をこぼしながらもまっすぐに白蔵主を見つめ、凜とした様子で言った。
「私は、自分の好きな人がそんな人間じゃないって信じたいの」
「……孤ノ葉」
孤ノ葉はこぼれた涙を拭うと、どこか困ったような顔になって笑った。
「でも……お父さんの気持ちもわかる。わかっちゃうから、すごく辛いなあ。私、夜人さんのことも好きだけど、お父さんのことも大好きだもの」
瞬間、白蔵主の顔がくしゃりと歪んだ。唇を震わせ、まるで絞り出すように声を出す。
「……ごめん。ごめんな。どうしても応援してはやれない」
「そっか」
孤ノ葉の表情が曇る。その様子を見守っていた私は、そっと視線を逸らした。
――きっと今、ふたりは今までにないくらいに歩み寄ったのだ。それでも、どうしても譲れない一線がある。それはお互いを思い遣るからこそ。本当に仲がいい親子だからこそ、相手の幸せを願えばこそ、立ちはだかる壁だった。
「ナナシ……」
どうにもやるせなくて、ナナシの手をギュッと握った。ナナシも手を握り返してくれる。
「どうしようもないわ。きっと正しい答えなんて存在しない。親子だからって、家族だからって……同じ考えだとは限らないもの」
「でも、このままじゃ」
「――そうね。このままだったらマズいことになるんでしょうね。すれ違って、場合によっては家族がバラバラになるかもしれない」
ナナシの言葉に、孤ノ葉が怯えたような表情になった。視線を宙に泳がせ、落ち着かない様子で指を動かしている。きっと、その胸中では家族と恋心を天秤にかけているのだろう。
でも、どちらも大切なものだ。簡単に諦められるものではない。
「は、白蔵主……」
意を決して声をかければ、白蔵主はゆるりと私を見た。
――今、私にできること……。
その瞬間、ふっと脳裏に東雲さんの顔が思い浮かんだ。
見る影もなく消沈している彼に、こくりと唾を飲み込んで語りかける。
「……私だったら。父親に汚いものを見ないように目隠しされるより、苦しい気持ちのはけ口になって欲しいです」
「…………」
「私だったら、父親に傷つかないように守られるよりも、傷ついてしまった時にそばにいて欲しい。泣きたい時に受け入れてくれる場所になって欲しい。辛い時に『大丈夫だ』って『俺がいる』って慰めて欲しい……いざという時、頼りになる存在でいて欲しいんです」
「……君は」
白蔵主は一瞬だけ口を噤むと、まっすぐに私を見て言った。
「君は東雲に、そういう風に守られてきたのか」
「はい」
深く頷けば、白蔵主はどこか泣きそうな顔になった。
「――そうだな。そういう奴だ。アイツは」
そしてポツリとそうこぼせば、苦しげにそっと瞼を伏せた。
「父親は家族を守るものなのだと、肩肘張って生きてきたが……難しいな。ハハ。私には親の資格なんてないのかもしれない……」
自信なさげな言葉を呟き、口を閉じる。しかし、すぐにハッと顔を上げた。
その手を孤ノ葉が握ったのだ。
「違うわ。お父さんは少しやり方を間違っただけ。私にだって悪いところはあった」
「孤ノ葉、お前は恋をしただけだ。なんの非もない」
「ううん。私も考えが甘かったの。玉藻前に指摘されて気づいた。気持ちだけ先走って、人間の彼との未来をなんにも考えていなかった。人間が嫌いだってだけじゃなく、そんな私を心配もしてくれていたんだよね? 今ならわかるよ。本当にありがとう」
そしてそっと白蔵主に抱きつくと、震える声で言った。
「――親子だもの。もっと話そう。いっぱい喧嘩しよう。そうやって、たくさんある選択肢の中から一緒に一番いい物を選び取っていこうよ。今回のことも、それ以外のことも」
「……いいのか。こんな私とで」
「本当に大切なことって、すぐにわかるものじゃないよ。正直ね、今はどうすればいいかわからない。でも、なんとかお互いの希望に近い道を選べたらいいと思う」
にっこり笑んだ孤ノ葉の瞳から、ぽろりと透明な雫がこぼれる。
口ではそう言いつつも、それでも辛い気持ちが拭えないのだろう。その涙には、孤ノ葉のやるせない気持ちがこもっているように思えた。
恐らく、今のふたりに必要なのは、時間と対話なのだ。
家族というものは、一見、何者にも壊せないような強固な繋がりがあるように見える。しかし案外脆いものなのかもしれない。対話の機会を逃すだけで、簡単に壊れてしまう。
――ふたりが、お互いに納得出来る結論が出せたらいいな……。
そんなことを思っていれば、孤ノ葉がクスクス笑った。
「だからね、もう貸本屋を潰すとか言わないでよ?」
「わかってる。後で謝罪に行くさ……奴の好みの酒をたんまり携えてな」
白蔵主もそれに答える。ゆらり、ゆらゆらと四本の狐の尾っぽがゆっくり揺れていた。
――とりあえずは一件落着でいいのかな。この後のことは、親子で決めることだ。
ほうと安堵の息を漏らせば、ほろりと涙がこぼれた。慌てて顔を拭っていれば、どこからか嗚咽が聞こえてくる。
「うっうっうっ……! 親子ね……! ふたりとも幸せになってえええええええ……」
それはナナシだった。顔をクシャクシャにして、ハンカチで顔を拭っている。
そのせいか、マスカラが滲んで目の周りが大惨事になってしまっていた。
「ナ、ナナシ。顔っ! 大変なことになってる! はい、鏡!」
「……え、ぎゃあああああっ! 嫌だわ! こんな顔じゃ外出歩けないじゃない!」
「おお。感動的な場面に突如現れた泣きお化け。風流じゃ。のう? 団三郎」
「太三郎殿、後々、薬屋に噛みつかれても拙僧は知りませんぞ……」
一気に場が朗らかな雰囲気に包まれる。真っ青になって鏡と睨めっこしているナナシにその場にいる誰もが笑うのを必死に堪えていた――その時だ。
「酷いわ! 白蔵主のおじさま。孤ノ葉の願いを聞き届けないなんて……!」
突然、癇癪を起こしたような金切り声が響き渡る。
慌てて声がした方に顔を向ければ、そこにいたのは月子だった。
「……月子?」
孤ノ葉は困惑気味に眉を顰めた。明らかに月子の様子がおかしい。目を血走らせ、鋭い犬歯を剥き出しにしている様は、おっとりとしている普段の彼女とはまるで様子が違う。
「おじさまは本当に駄目ね。親子のことだもの。口出しするの駄目かなって……黙っていたけれど。孤ノ葉のことを泣かすなんて。父親の癖に信じられない」
「つ、月子? 君は一体、なにを言い出すんだ……」
「なにを? 馬鹿ね」
一瞬、嘲るように白蔵主を睨みつけた月子は、ぶわりと尻尾を膨らませて叫んだ。
「こんな結末、孤ノ葉には相応しくないって言ってるの……!」
その瞬間、彼女の足もとにあった影が、まるで沸騰するように泡立った。
――ちりん。
その瞬間、涼やかな鈴の音が耳に届く。
「やっぱり孤ノ葉の希望を叶えられるのは、わたくしだけ」
月子の瞳が恍惚に滲む。泡立った影から誰かが姿を現そうとしている。
「――夏織、下がって!」
咄嗟に、ナナシが私の腕を掴んで引っ張った。けれど、私はその場から動けない。月子の影から現れた人物の異様さから、目が離せなかったからだ。
「……ふわ。おやおや、ようやく僕の出番かい?」
ぬらりと、影の中から浮かび上がるように姿を現したのは男だ。
太陽で焦がしたような褐色の肌、月のない夜の影のように深い黒を持った髪は、腰まで伸びていた。瞳はどこか毒々しさを醸す緑色で、男が動くたびに暗闇の中で怪しく光る。
その格好は、まさに昔話に出てくる漁師そのものだ。小袖に腰蓑をはいて、魚籠を腰から下げている。今にも亀を助けて竜宮城に出かけそうな出で立ちだった。
「待ちくたびれて寝ちゃうかと思ったよ! 外の空気はやっぱり気持ちがいいね」
男は大きくあくびをすると、心底嬉しそうに笑んだ。
瞬間、ちりん、と腰蓑につけた鈴が軽やかな音を立てた。
「だっ……誰だ、お前は!」
孤ノ葉を背後にかばった白蔵主が訊ねれば、男は「あれ、知らない?」と首を傾げる。
帯に挟んでいた鉄の鉤を手にする。そして、おもむろに地面に落ちた影を見遣ると――突然、影へ腕ごと鉤を突っ込んだ。
「なっ……なに!?」
動揺している一同をよそに、男は鼻歌交じりに地面からなにかを引っ張り上げる。
それを見た瞬間、私は悲鳴を上げそうになってしまった。
なぜならば――。
地面から鉄の鉤に引っかけられて現れたそれは。
人間の幼子の顔を持つ、全長一メートルほどの大きな魚だったのだ――。
「……人魚?」
険しい表情をしたナナシがポツリと呟けば、男は「その通り!」と声を上げた。
そして、まるで道化のようにくるりと回ると、ニィと口端を歪めて言った。
「お初にお目にかかります。僕は人魚の肉売り。あやかしたちに、夢と希望と永遠を届ける救世主だよ! どうぞお見知りおきを!」
まるで舞台挨拶のように深々と礼をした男は、人魚を肩に担いで妖しく笑んだ。
「――さあさあ、人魚の肉で願いを叶えるのは、一体誰だい? なんでも叶えてあげるよ。おまけに不老不死も付いてくる。ああ、君たちはなんて幸運なんだ。人魚の肉さえあれば、君たちの悩みは綺麗さっぱり消えてなくなるんだからね……!」
最後に、うっとりと人魚を眺めた肉売りは、どこか陶酔したような口ぶりで言った。
「永遠は幸福の始まりだ。さあ、すべてを打ち明けなよ。君たちを救ってあげる」