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物語が始まった島、救世主と親子と2

 絵島に上陸した白蔵主は、芝右衛門狸が現れるのをじっと待っていた。


 ざあざあと岸壁に打ち寄せる波の音を聞き、絵島の頂上であぐらを掻く。

 なんとなしに空を眺めれば、ぽっかりと満月が浮かんでいた。

 昏い海の上に孤独に揺蕩う月は、眩しいほどに己の存在を主張している。


「千島なく 絵島の浦に すむ月を 波に移して 見るこよひかな……」


 絵島は、大昔から景勝地として有名であったらしい。


 ――かつての貴人も同じ月を見ていたのだろうか。


 平安時代に詠まれたという詩を口ずさみ、ぐびりと酒を呷る。途端、酒が口に染みて顔を顰めた。東雲に殴られた箇所だ。手で触れれば、じゅくじゅくと膿んでいる。


「アイツめ、手加減なしに殴りやがって」


 小さくひとりごちて、痛みを無視して酒を呷る。安酒だ。大して美味くもない。だが、飲まなければやっていられなかった。

 そうでもしなければ、黒い感情に呑み込まれてしまいそうだったからだ。


 ――それは人間に対する憎悪。白蔵主自身ですら直視したくないほどおぞましい感情。


 白蔵主は人間を心から憎んでいる。

 しかし、その感情を表に出すつもりは毛頭なかった。数に勝り、自分たちよりも進んだ文明を持った相手取るなんて、無駄なことだと理解していたからだ。

 友である東雲が、人間の文化にかぶれていたのも知っていた。人間の本に傾倒していることも、人間の娘を拾い育てていることも。しかし、東雲自体はいい奴だった。失いたくないと思うくらいには、東雲は大切な友人だったのだ。


 だから見て見ぬふりをしていた。友人のことに口を出すのは野暮だとも思ったからだ。


 しかし、愛娘が人間と交際していることを知った途端、箍が外れてしまった。

 抑え込んでいた感情が、濁流となって溢れ出てしまったのだ。


「世の中、理不尽なことばかりだな」


 ぽつりと呟いて自嘲する。


 白蔵主自身、己の行動の矛盾には気がついている。人間を憎み、人間の創り出したものを排除するといいながらも、その姿には色濃く人間の気配を纏っているからだ。

 己が身につけているものも、今この時飲んでいるものも、口ずさんだ歌も。

 〝白蔵主〟というあやかしを語る伝承ですらも――すべて人間が創り出したもの。


 なのに、吐き気がするほどに人間が憎いのだ。


 ――だから、白蔵主は深く考えるのをやめた。本能に任せてすべてを壊そうと思った。


 幽世から人間の影響が色濃いものを排除する。その手始めが貸本屋なのだ。

 孤ノ葉にとって住みやすい世界を創る。それが親としての使命だと信じている。


 ――くい、とまた酒を呷った。


 安っぽい酒の味が、不快な感情を洗い流していく。そこでようやく一息ついた。

 そして――対岸にある人物がいるのを目にし、ニィと笑む。


「ようやく来たか。芝右衛門」


 声をかければ、日本三大狸のひとりは、煙管を咥えたまま気怠げに頭を掻いた。




 ゆらゆらと、海沿いの道を数多の狐火が連なって歩いている。


 先頭を行くのは芝右衛門狸。続くのは白蔵主。その後ろには、白蔵主の配下の狐たち。

 まるで狐の嫁入り行列のようだと思いながら、白蔵主は芝右衛門狸の背へ声をかける。


「これからどこへ行くんだ」

「宴席を用意してある。もう遅い。今日はゆっくりしていけ。明日出発すりゃァいい」


 振り返らずに答えた芝右衛門狸は、ぷかぷかと煙管を吹かしている。

 そんな芝右衛門狸へ白蔵主は続けて言った。


「まさか本当に引き受けてくれるとは思わなかった」

「なにをだ?」

「兵を貸してくれるんだろう? お前の娘は孤ノ葉にべったりだからな。そっちの味方をするものだとばかり思っていた」


 本気になった東雲の力は強大だ。兵力は少しでも多い方がいい。

 それに、芝右衛門狸の影響力も侮れなかった。娘の月子が貸本屋を贔屓にしていたことは知っていたから、万が一にでも東雲側に加勢されたら厄介だ。実のところ、この狸がどちらへ味方につくのかを見極めるために声をかけたのだが、杞憂だったらしい。


「お前の娘には、昔……月子を助けてもらったからなァ。それに、孤ノ葉の傷のこと。オレは忘れちゃいないぜ」


 芝右衛門狸が言っているのは、孤ノ葉の右の狐耳のことだろう。

 彼女の狐耳は片方が一部欠けている。それは月子との関わりで負った傷だった。


「そうか……すまないな」


 白蔵主が小さく頭を下げれば、芝右衛門狸はどこか渋い顔になった。


「どうした?」


 白蔵主が首を傾げれば、芝右衛門狸はニッと黄ばんだ歯を見せ笑う。


「なァんでもねえよ。今宵は宴だ。余興も用意したんだぜ……おう、余興といやあ、この芝右衛門さんはよおく知られた芝居好きだァね。大昔、人間に紛れて芝居を観に行ったこともあった。ま、木の葉で支払ったモンで、犬に追いかけられて尻を噛まれちまったがね」


 ガハハハハハ! と笑った芝右衛門狸に、白蔵主も小さく笑った。

 しかし――進行方向の先に、ある人物の姿を目に留めて笑いを消す。


「お父さん……」


 そこにいたのは孤ノ葉だった。真っ白なワンピース、そして抜けるように白い肌が、闇夜の中にまるで月のように浮かび上がって見える。


「……どういうことだ」


 ジロリと芝右衛門狸を睨みつければ、芝居好きな狸はいけしゃあしゃあとこう言った。


「怒りに任せて他人を傷つける前によォ、自分の娘と話し合ってみちゃあどうだい。なァに酒はたんと用意してある。淡路の酒は飲んだことあるかい? 阪神淡路大震災を乗り越えた酒だぜ。それはそれは強い味がする」

「話し合うことなどなにもない。貸本屋は潰す。人間と付き合うなんて言語道断だ」

「そうかい? いやはや、強情だァね。娘さんに嫌われッちまうぜ?」

「あの子は若いから、私の行動を理解できていないだけだ。歳を重ねれば、きっと理解できる時がくる。それまで嫌われ者の役を喜んで買うさ」

「ふうん、大層な決意だ。親の鏡だねェ。……だが」


 芝右衛門狸は腰から下げていた陶製の酒瓶を手に持つと、にんまり笑んだ。


「ちょおッと手前勝手過ぎて、迷惑千万極まりねェな。酒でも飲んで頭冷やせよ」

「ぐっ……!」


 その瞬間、強烈な衝撃が白蔵主の頭部を襲った。陶器の割れた音、頭の上から酒が降り注ぎ、強烈な酒精が鼻を擽った。団三郎狸に酒瓶で殴られたのだ。

 堪らず地面に倒れこめば、頭上から芝右衛門狸の声が聞こえてくる。


「悪いな。オレが恩義を感じてんのは、アンタじゃねェ。娘の方でね。ああ……もったいねェな。野暮な輩に飲ませるには、いささか酒が上等すぎた」

「……だ、騙したな……」


 声を懸命に絞り出せば、ぴくりと狸の丸い耳を動かした芝右衛門狸が振り返る。


「騙す? 化かされたの間違いだろ? 相手が狸ならなおさらだァね」


 ――ぽぽん。芝右衛門狸の腹鼓の音を最後に、白蔵主の意識は沈んでいった。


  ***


 ――ぐつぐつとなにかが煮える嫌な臭いがする。

 死んだ魚を水に入れたまま放置したような、それはそれは酷い臭いだ。


『チッ……。何度も煮こぼさにゃ、臭くて食えたもんじゃねえ』


 草臥れたあばら屋。囲炉裏のかたわらには、みすぼらしい身なりをした男がひとり。節くれ立ち、ゴツゴツとした歪な手で鉄鍋をかき混ぜていた。

 男はこちらに一瞥もくれず、鍋に視線を落としたままポツリとこぼす。


『そんな目で見るなや。わかってる。わかってんだ。もう――狐は狩らねえ』


 そして、欠けた歯をニィと見せて笑えば、ちらりと部屋の一角へ視線を遣った。


『だが、獲っちまったもんは仕方ねえやな』


 男の視線の先にあったのは、山と積まれた狐の遺骸だ。冷たくなった狐たちの豊穣を思わせる小麦色の毛は薄汚れ、遺骸の山からは血が流れ出している。


『長年の癖でなあ。ついつい罠を仕掛けちまった……』


 男はまったく悪びれる様子がない。すると、男はおもむろに木の椀を差し出してきた。


『そんなことよりも、腹ァ減ってねえか』


 椀になみなみと注がれた汁からは、酷い悪臭がする。おおよそ人が口にするものだとは思えずに、椀を受け取らずにいれば――男は、イボだらけの顔を緩めてこう言った。


『たいして美味いもんでもねえが――狐汁だよ』




「――う、うああああああああっ!」


 白蔵主は堪らず悲鳴を上げた。

 勢いよく起き上がり、肩で息をする。

 血走った目でギョロギョロと周囲を見回せば、それが夢であったことを知った。


「……な、なんなんだ。今更、あんな夢……」


 呆然と呟き、額に浮かんだ脂汗を拭う。

 改めて状況を確認すれば、そこはどこかにある和室だった。蚊帳が吊ってあり、真ん中に布団が敷かれている。どうやらそこに寝かされていたようだ。


「おい、芝右衛門!」


 自分を騙した相手の名を叫んでみるも、なにも返事は返ってこない。

 その代わり耳に届いたのは、やけに賑やかな声だ。

 どうやら、部屋の外では宴が行われているようだ。開け放たれた襖の向こうがやけに騒がしい。ぽん、ぽぽんと腹鼓の音と笑い声が聞こえる。


「ようやく目覚めなさったか」

「……ッ! お、お前、は」


 すると、蚊帳の外に誰かがいるのに気がついて身構えた。そこにいたのは白鬚を持った老人である。ちょんと座布団に座った老人は、立派な眉毛の下から白蔵主を覗き見た。


「儂は太三郎。日本三大狸のひとりと言ったらわかるじゃろうかのう?」

「……か、香川の。屋島の守護神か!」

「そうじゃそうじゃ。ホホホ。さすがは儂。狐にまで名が知れておる。〝善行〟を重ねた甲斐があったというものじゃのう」


 上機嫌で髭を扱いている老人を睨みつけた白蔵主は、怒鳴りつけたくなるのをグッとこらえた。なにせ相手は神に祀られるほどの存在。話が通じる相手に違いないからだ。

 なぜならば、白蔵主の行いはすべて正しい。

 間違っているのは、芝右衛門狸や孤ノ葉の方なのだから。


「……あの」


 どうにかして状況を知ろうと、白蔵主が口を開こうとしたその時だ。


「太三郎様、父は目覚めましたか?」

「お酒持って来ましたよ。おつまみも。いりますよね?」

「邪魔するわね。よかったらお酌させてちょうだい」


 そこに夏織と孤ノ葉、ナナシがやってきた。

 しかし、白蔵主の視線はある人物のみに注がれている。


「東雲の――いや、人間の娘!」


 カッと頭に血が上った白蔵主は、布団を跳ね退け、怒りのままに叫んだ。


「芝右衛門を仕向けてきたのはお前だったのか……! 人間め、汚いぞ!」


 白蔵主の言葉に、夏織はどこか哀しそうな顔になると、太三郎狸の隣に座った。


「私が仕向けたわけじゃありませんよ。どちらかといえば巻き込まれた方です」

「お父さん! 夏織ちゃんに変な言いがかりをつけないで!」

「孤ノ葉は黙っていなさい。お前、貸本屋を潰そうとしている私を止めに来たのだな?」

「それは間違ってませんけどね。父は失敗してしまったみたいなので」


 蚊帳の向こうで夏織は肩を竦めたようだった。余裕の感じられる仕草に苛立ちが募る。


「狐ごとき、捕まえておけばどうとでもなると?」

「……捕まえてませんよ。蚊帳の中にはいてもらっていますけど。やや強引に招待してしまった件については、お詫びします」

「詫びなどいらない。さっさとここから出せ。私にはやることがある」

「――ねえ、どうしてそんなに人間を嫌うのですか?」

「お前に教える義理はない」

「孤ノ葉の話を聞くつもりはありませんか?」

「お前ごときが孤ノ葉の名を口にするんじゃない!」

「――本当に人間がお嫌いなんですね」


 物憂げに瞼を伏せた夏織は、そっと太三郎狸へ目配せをした。

 かの老狸は白髭をゆっくり扱いた。ふわり、外の風が吹き込み蚊帳が靡く。


「頭に血が上った獣ほど手に負えぬものはないのう。話し合いの前に、少しばかり頭を冷やす時間が必要じゃ」

「太三郎! 私を一介の獣と一緒にしていただいては困ります!」


 白蔵主の声を無視した太三郎狸は、夏織を見遣る。


「時に夏織。主は、かのあやかしの伝承を調べたのだろう?」

「もちろんです。伝承はあやかしを形作るもの。生き様を映していると言っても過言ではありません。だからそこに、人間嫌いの由来があると考えました。ねえ、孤ノ葉?」

「はい」


 孤ノ葉は、蚊帳の向こうの父親をじっと見つめた。


「――お父さん。私、自分の親のことなのに今までなにも知らなかった。ごめんなさい」

「こ、孤ノ葉。そんなことはいい、いいから……その人間から離れなさい。一緒に帰ろう。余計なものはお父さんが片付けておくからな。すべて忘れて幽世で暮らすんだ」

「そんなことできないわ。夏織ちゃんは私によくしてくれたの。それに、私の希望を叶えるためにも、今……お父さんとはちゃんと向き合わなくちゃって思ってる」


 孤ノ葉は、意を決したように語り始めた。


「――お父さん。お父さんは昔から本当に家族想いだったんだね」


 白蔵主。それは己の家族を守るために、人の皮を被り説得を試みたあやかしだ。

 甲斐にある夢山には老いた白狐がいたそうだ。白狐はある人間に頭を悩ませていた。

 それは弥作という男だ。狐の皮を獲る猟師で、その男に白狐の子を大勢殺されてしまった。

 ある日、白狐は弥作の伯父である僧の白蔵主へ化けた。弥作へ殺生の罪を説き、狩りをやめさせるためだ。説得の甲斐もあり、罠を買い取ることを条件に、弥作は狐狩りをやめると約束してくれた。こうして、白狐の子の命は守られたのだ。


「……でも、それも長くは続かなかった。罠と引き換えに手に入れたお金を使い切った弥作は、再びお金の無心をしようと舞い戻ってきたの……」


 このままでは、弥作を説得したのが白蔵主に化けた狐だとバレてしまう。そうなれば、再び弥作は狐を狩り始めるだろう。騙したことを恨んで、以前よりも多くの狐を狙うかもしれない。危機感を覚えた白狐は、白蔵主を喰い殺して成り代わった。


「白狐は白蔵主になった。そして、再び金の無心に来た弥作を追い返したの。それから五十年以上もの間、お寺の住職を務めたって聞いたわ」


 ちら、と孤ノ葉が夏織を見る。夏織は大きく頷いた。


「――そこで、私たちは当然のごとく疑問を持ちました」

「ええ。父のそれまでを考えたら、とても不自然な行動だったから」


 孤ノ葉はどこか苦しげな顔になって、白蔵主に訊ねた。


「ねえ、お父さん。どうして弥作を殺さなかったの?」

「ははっ……」


 白蔵主は小さく噴き出すと、心底嬉しそうに顔を歪めた。


「お前もそう思うか。弥作は殺されて然るべき人間だと。人間はどこまでも愚かだ。その命は無残に無慈悲に散らされても仕方がないだろう?」

「違う!」


 孤ノ葉は、勢いよく首を振って否定した。


「私は、お父さんの行動の矛盾を指摘しただけ。人間を否定していないわ。わざわざお坊さんに化けて追い返すなんて、そんな面倒なことをする必要はないと思っただけよ。帰ってきた弥作を……殺す、とか。そうするだけでよかったはず。でもそうしなかった……」


 白蔵主という僧を喰い殺しておきながら、金の無心のために舞い戻ってきた弥作を殺せなかった理由とは一体なんなのだろう。

 孤ノ葉は泣きそうな顔になると、小さな拳を握りしめて言った。


「――どうして!? もしかして、なにかあったんじゃないの? そこに、お父さんがこんなにも人間を嫌う理由があるんじゃないの……!?」

「…………」


 必死に問いかける孤ノ葉に、白蔵主はわずかな間、考え込んだ。

 愛おしい娘をまじまじと眺め――にこりと薄い笑みを顔に貼りつける。


「お前が知る必要はない。孤ノ葉は綺麗なものだけを見ていればいいんだ」


 その瞬間、孤ノ葉は泣きそうな顔になった。


 ――ああ。きっと娘を傷つけた。


 胸の奥がちくりと痛む。でも、これは仕方がないことなのだと自分に言い聞かせる。

 そして、ジロリと夏織を睨みつけ、毅然とした態度で言った。


「これは私たち家族のことだ。赤の他人……それも人間のお前が口を挟むんじゃない」

「――家族、ねえ? やだわ、この人。なにを言ってんのかしら」


 すると、ナナシが嘲るように笑う。


「……なにがおかしい?」

「だって変だわ。アンタ、家族とか言いながら自分のことしか考えてないじゃないの」

「なにを言う。私はこんなにも娘のことを考えているのに」

「あらら。これはもう駄目ね。嫌になっちゃう」


 肩を竦めたナナシは、孤ノ葉へ向かって、さらりとこう言い放った。


「親だからって、なにも絶対に付き合っていかなくちゃいけないわけじゃないわ。尊敬できない相手だと感じたら縁を切るのも手よ。子どもにだって親を選ぶ権利がある」

「…………。ナナシさん、私……」


 孤ノ葉が戸惑いの表情を浮かべている。

 白蔵主は顔を真っ赤にすると、蚊帳越しに唾を飛ばしながら叫んだ。


「貴様ッ!! 孤ノ葉に変なことを吹き込むな!! この子が私と縁を切るわけがない!」


 その瞬間、ナナシから恐ろしく冷え切った視線を向けられた。

 どこか殺意にも似たそれに白蔵主は堪らず息を呑む。


「――なあに、それ。余裕じゃない。これだから嫌だわ。〝家族〟を簡単に手に入れた輩って口ばっかりなんだもの。大切だとか言いながら〝家族〟を軽視するのよね」


 ナナシは拳が白くなるほど握りしめると、孤ノ葉の肩を抱き寄せた。


「ちゃんとこの子を見て。孤ノ葉ちゃんは立派な大人だわ。自分のことは自分で判断できるし、責任も取れる。どこへだって行けるし、選べるのよ! 親っていう立場にあぐらを掻いてないで、いつかは見捨てられるかもくらいの危機感を持ちなさいよ!」


 そしてどこか苦しげな表情になると、己の胸に手を当てて続けた。


「――親にだって資格はある。無条件に子どもが受け入れてくれるだなんて甘えは捨てなさい。『綺麗なものだけを見ていればいい』? 馬鹿にしないで。それって相手を自分と同格に見なしてないってことよ。それじゃ、お人形を可愛がるのと一緒だわ!!」


 ナナシからほとばしる怒気に、白蔵主は思わず腰が引けた。


 ――コイツ……!


 反論しようとして、けれども言葉がすぐに出てこずに唖然とする。まるで勝負に負けたかのような敗北感。耳鳴りがして、自分は正しいはずなのに背中に冷たいものが伝った。


 ――弱気になるな。すべては孤ノ葉のためじゃないか。


「な、なにを馬鹿なことを。一丁前に親面して……お前なんて、本当の家族ですらないじゃないか。そこの娘は人間だ。同族ですらない、赤の他人だ! ハッ……ハハ、人間に毒されたんじゃないのか。薬屋ともあろうものが……愚かな。お前と私を同列に並べるな!!」


 一息で言い切って、論破できたと一瞬だけ満足感に浸った。

 けれども、すぐに後悔する羽目になった。

 ――なぜなら、孤ノ葉が見たこともない表情を浮かべていたからだ。


「……お父さん。なんでそんなことを言うの?」


 それは明らかに父親に向けるものではなかった。

 失望と、軽蔑が混じったような――そんな顔。


「ちっ、違うんだ!!」


 そう叫んだ時はもう遅かった。


「行きましょう。今のこの人と話したって時間の無駄だわ」


 ナナシは夏織と孤ノ葉を立たせると、その場を去ろうとしている。


「違うんだ、孤ノ葉。わ、私が言いたいことは――」


 しかし、いくら叫んでみても、娘はこちらを振り返りもしない。

 ――このままではまずい。後を追うべきだ。

 焦った白蔵主は、急いで蚊帳を捲って、その下を潜った。


「なっ……!?」


 しかし、蚊帳の向こうにあったのは――新たな蚊帳だったのだ。


「どういうことだ……」


 一瞬、困惑の表情を浮かべた白蔵主だったが、再び蚊帳を捲る――が、その向こうには更なる蚊帳があった。腹立たしく思って更に蚊帳を捲れば、またまた蚊帳が姿を現す。


「なんだこれは……!?」


 別の場所から出ようと必死に蚊帳を捲って潜るも、どうにも終わりが見えない。


「閉じ込められた……!?」

「ホッホッホッホ!」


 瞬間、朗らかな笑い声が上がった。怒りで顔を染めて睨みつければ、声の主――太三郎狸は嬉しそうに白い髭を扱いている。


「まんまと引っかかりおった。こういう怪異を〝蚊帳吊り狸〟という。蚊帳が使われなくなったから、ほぼ忘れ去られかけておるがの。愉快じゃのう!」

「ゆっ……愉快なのはお前だけだっ! 私をここから出せ。それが〝善行〟で知られている太三郎狸のすることか!」

「……ほう? それは痛いところを突かれた。こりゃあいかんな」


 一瞬、太三郎狸の表情が曇る。けれども、すぐに白髭の老狸は朗らかに笑った。


「まあ、これくらいはお茶目な悪戯の範疇じゃ。今風に言えばノーカンじゃ、ノーカン」

「は、はああああああああ……!?」

「蚊帳から出たければ、ひたすら捲るんじゃな。さて、何枚目で外へ出られるか……」

「いい加減にしてくれ! これは遊びじゃないんだぞ!!」

「儂も遊びのつもりは毛頭ないがのう。ホッホッホ」


 すると、楽しげに白蔵主を眺めていた太三郎狸は、フッと真顔になって言った。


「――綺麗なものだけを見せたい。そう思っていた時期が儂にもあったよ」


 ハッとして顔を上げる。蚊帳の向こうの太三郎狸の表情はどこか憂いを帯びていた。


「しかし、それは儂の思い上がりであった。なにを見て、なにを受け取るのか。それを選ぶ権利が誰しもあるのにのう。よかれと思っていたことが、余計なお世話であったと気がついた時には、天地がひっくり返ったかと思ったわ」

「……なにを言いたい」

「さあの。儂の言葉をどう捉えるかも主の自由。儂が言えることと言えば……優しく囲うことだけが、善い行いだとは言えないということかのう」


 それだけ言い残し、太三郎狸は去って行った。


「…………」


 なにはともあれ、この蚊帳の檻から出なければ。そう思うものの――。

 白蔵主の頭の中では、ナナシや太三郎狸に今しがたもらった言葉がグルグル回っていた。

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