閑話 あやかしの夏3:雨上がりの客人、夏の香り
――くす、くす、くす。
子どもの笑い声が、雨上がりの隠世に響いている。
赤、青、紫。色とりどりの朝顔が描かれた浴衣。白地に配された朝顔が、ぼんやりと暗闇の中で浮かび上がっている。浴衣の袖からすらりと伸びた小さな手は、これまた小さな手と繋がっている。その先にあるのは、紺色の浴衣に色鮮やかな青色の帯。濃い色の布地が、雪のように白いその子の肌を際立たせている。
「ここだ。ここだ。前のが言っていたところ」
「本を読みたいの。本を貸しておくれ」
小学校低学年ほどに見える少年少女は、楽しそうに笑い合いながら、夏織に声に掛けた。
ふたりは不思議な瞳をしていた。普通の人間に比べると、極端なほどに白目が少ない。黒目は濃淡がなく、瞳からは表情が読み取りづらい。お下げ髪の少女は、隣に立つおかっぱ頭の少年にちらと親しげな眼差しを向けると、こちらに向かって一歩踏み出した。
……ころん、からん。
途端に、紅い鼻緒の下駄が軽やかな音を立てる。
その足がぱしゃりと水溜りを踏めば、均等に波紋が広がって、水面に写し取られた隠世の空も揺れた。
夏織は、そのふたりがこちらに来るのを目にすると、びくりと身を竦めた。
どんな見かけのあやかしであっても、笑顔で接する彼女にしては珍しい。あの小さなあやかしの、何処が彼女をそうさせたのかわからずに、思わず声を掛ける。
「……夏織? どうかしたのか」
すると、夏織ははっとして、途端に笑顔を取り繕った。
「なんでもないよ。お客さんの応対しなくっちゃ……」
夏織はくるりと振り返ると、少年少女の傍に寄って行った。
「……?」
夏織の様子にひとり首を傾げていると、居間で寝転がっていた東雲が起き出して、ぼそりと呟いた。
「――もう、こんな季節かァ」
東雲はそう言うと、またバタリと畳に倒れ込んだ。どういう意味かと訪ねようとした瞬間、夏織が俺に湯を用意するようにと声を掛けてきて、とうとうその疑問を口にすることは叶わなかった。
*
「みたらし団子、良かったら食べてね」
「おねえちゃん、ありがとう」
おやつに買ってきたのだと言う、飴色に艶めくたれが、たっぷりと掛かったお団子。夏仕様で、冷たくなっても固くならない白玉粉入りの団子は、キンキンに冷やされたたれに浸って、食べられるのを今か今かと待っている。
雨が上がってから気温はぐんぐんと上昇していき、湿度も一緒に上がってきたのか、既に全身にじっとりと汗を掻いている。こんな日は、冷えたみたらしはぴったりだろう。やけにその飴色が魅力的に見える。
はつと佐助と名乗ったふたりの子どもは、嬉しそうに爪楊枝でひとつ団子を掬い取ると、甘い蜜に濡れた団子に思い切り齧りつき、ぱっと頬を赤らめた。
「「美味しー!!」」
勢いよく団子を食べ始めたふたりを、夏織は優しい眼差しで見つめていた。
――さっきの表情はなんだったのだろう。
夏織の様子が引っ掛かって、俺はじっと彼女を観察する。
夏織は、前髪が顔に掛かるのが気になるのか、少し茶色がかった髪を耳に掛けている。ずっと隠世に住んでいるからだろう、普通の女性に比べると、肌が透けるように白い。その大きく黒い瞳は、誰かと話をする度に様々な感情を写し取って、表情と共にくるくると忙しなく動く。
そのせいか、初めて会った時は高校生くらいだと思っていた。
けれど、実は彼女は成人していたらしい。正直なところ、本人から年齢を聞いても尚、俺は半信半疑だった。化粧が薄いせいもあるだろうが、それくらい彼女は幼く見えたのだ。
「……美味しい? 良かったねえ」
けれど、口の周りをたれでベタベタにしているふたりに、甲斐甲斐しく世話を焼いている姿は、なるほど年齢通りに大人びて見えなくもない。そう言えば、初めて会った時も、小鬼の世話をしてやっていた。小さな子どもが好きなのだろうか。
そんなことをつらつらと思いながら、なんとなしに夏織の横顔を見ていると、ふと彼女がこちらを振り向いて、優しげな笑みを浮かべた。その顔が、思い出にある顔とダブって、一瞬どきりとする。
「水明も食べた? 角の和菓子屋さんのね、夏限定のみたらしなんだよ。今の時期は、冷たい方が美味しいよねえ」
けれど、菓子のことを口にした瞬間、あっという間に幼い表情になってしまった。
――幼さと女性らしい大人びた表情が同居する彼女は、あやかしと同じくらいに不思議な存在だ。
俺はさっと視線を逸して曖昧に返事をすると、慌ててみたらし団子を口に運ぶ。醤油の香ばしさと、蜜の甘さ。そのたれがもちもちの団子に絡みつき、和菓子らしい優しい甘さが口の中に広がる。一緒に、熱いほうじ茶を啜れば、冷えた口内が一気に暖められ、ほうじたてなのだと言うその香ばしさに、思わず目を細めた。
するとその時、誰かに袖を引かれた。振り返ると、そこにはお下げ髪の少女――はつがいた。
「……ねえ、もういらない? いらない?」
はつは、もじもじしながら、じっと俺の手元にあるみたらし団子を見つめている。
彼女が先ほどまで座っていた席を見ると、皿はすっかり空になっていた。どうも食べ足りなかったらしい。だから、近くにいた俺の分に目をつけたようだ。
「ね、ね……」
流石に恥ずかしいのか、はつの目元がほんのりと染まっている。その時、ちらりと背中が見えた。そこには、透明な虫の翅のようなものが生えていた。
――はあ。
俺は、小さくため息を吐くと、期待の篭った眼差しでこちらを見ているはつに、自分の皿を渡した。
「食えばいい」
すると、その子はぱあっと表情を明るくした。
「おにいちゃん、ありがとう! 好き!」
そして、通り魔の如く唐突に俺をぎゅっと抱きしめると、ご機嫌で佐助の隣の席に戻った。
「……お、おにいちゃん」
俺は、今朝方感じていた頭痛がぶり返して来たような気がして、そっとこめかみを解した。
……このあやかし共には、警戒心と言うものはないのだろうか。
ちらりと二人の様子を見る。その姿は、一般的な子どもの姿と変わりない。あやかしだと言われなければ、わからないくらいだ。すると、隣に座っていた夏織が俺をニヤニヤと見ているのに気が付いた。
「優しいね、おにいちゃん」
「うるさい」
俺はそっぽを向くと、熱いほうじ茶を啜った。
「――ごちそうさま」
すると、みたらし団子を食べきった少年が、徐に懐から笹の葉で作った包みを取り出した。竜の髭で縛ってあるそれをするりと解き、ちゃぶ台の上に中身を出す。
……ころり。包みから飛び出してきたのは、黄金色の小さな石だ。
「お金の代わり。コレで本を借りられる?」
少年は、その石を夏織に渡すと、にこりと微笑んだ。
それは長い年月を掛けて、樹液が化石化した琥珀だ。上質なシャンパンのような、透明感のある黄味掛かった色は、幻光蝶の光を内に取り込み、ぼんやりと卓の上で存在を主張していた。
夏織はそれを受け取ると、東雲に渡す。東雲は目を眇めてまじまじと眺めると、ゆっくりと頷いた。夏織は、東雲の様子を確認するなり、ふたりに向き合って微笑んだ。
「……はい、確かに。隠世の貸本屋に、おまかせ下さい」
俺は夏織の様子に、また首を傾げた。
うっすらと細められた目に、上がった口角。どうみても、それは笑顔だ。けれど、目の奥が笑っていない。その表情は、嘗て俺の母が他人と相対するときのものとそっくりだった。
*
その日から、貸本屋は慌ただしくなった。
夏織は店番を東雲に任せて、アルバイトの合間を縫っては、隠世のとある場所に足繁く通った。
俺も黒猫と一緒に、それを手伝う。巨大化した黒猫の背に、風呂敷で包んだ本を括り付ける。見るに、図鑑や子ども向けの物語が多いようだ。
目的の場所は、街から離れた場所にある小さな森だ。
森の中腹にある、はつと佐助の棲み家に本を運び込む。
初夏の色鮮やかな緑に囲まれたそこは、常夜の世界にあって、不思議と明るい場所だった。ふと空を見上げると、小さな太陽のような丸い物体が空に浮かんでいた。
そこからは、夏らしい強い日差しが放たれ、森を煌々と照らしている。
「……常夜の世界に、こんなに明るい場所があるんだな」
森を進みながらぽつりと呟くと、隣を歩いていた黒猫が答えた。
「ここが明るいのは、夏の間だけよ。秋は夕焼けに染められ、冬は闇に沈み、春は朝日に照らされる。この場所は、森に生きる者のためのゆりかごなの」
「ゆりかご……」
「森の住民は頻繁に入れ替わるからね。それに合わせて、森も様変わりするの。停滞や、緩やかな変化を好む隠世にあって、ここは一風変わっているのよ」
人間の常識では推し量れない、不可思議な説明を聞きながら、一瞬だけ瞼を閉じる。
視界を塞ぐと、より一層周囲の状況が強く感じられる。むせ返るような森の匂い。枯れ葉に土に、草に木、水に風――そして、太陽の匂いが混じり合ったそれは、正しく夏の匂いだ。
――ミィン。ミンミンミン……。
夏らしい蝉の声を聞きながら、目を開ける。すると、視界に飛び込んでくる色鮮やかな緑がなんとも眩しく、思わず目を細めた。
「――着いたわよ」
森に入って十分ほどで、はつと佐助の棲み家に到着する。
それは木々の合間に埋もれるようにして建つ、古びた庵だった。草ぶき屋根の粗末な庵は、扉やら襖はとうの昔に失われ、吹き抜けのようになってしまっている。板張りの床は辛うじて腐り落ちずに残っているものの、人間ならば住めるような場所ではない。
そこに、夏織の姿があった。
「ねえねえ、もっとご本を読んで!」
「この漢字が読めないの。教えてくれる?」
「はいはい。順番よ」
「「うん!」」
夏織は、その庵で本に囲まれて過ごしていた。
子どもたちの面倒を甲斐甲斐しく見る夏織は、まるで実の姉のようだ。
あのふたりがした依頼には、貸し出し以外にも、本を一緒に読んで欲しいということも含まれていた。読めない文字も多いので、色々と教えて欲しいのだと。夏織はふたつ返事で了承した。それくらいお安い御用だと、またあの笑顔を浮かべて。
その光景を目にして、俺の胸の奥がちくりと痛んだ。
無邪気に笑う子どもたちに囲まれた夏織は――相変わらず、笑っているようで笑っていない。
俺は、庵に向かおうと動き出した黒猫を呼び止めた。
――この黒猫は、確か夏織の親友だったはずだ。
「……なあ、黒猫。どうして、夏織は笑っていないんだ」
「え?」
すると、黒猫は金と空色のオッドアイの瞳で俺を凝視した。そして、はあ、と深く嘆息すると、夏織の方へと視線を戻した。
「あの子、笑っていないのね。あたしには、人間の細かい表情までわからない。生来が猫だもの、人間の感情の機微には疎いわ。でも、予感はしていた。もしかしたらって思っていた。でも、昔みたいに泣いてはいなかったから――気付かなかった。迂闊だわ」
どうやら、俺の知らない事情があるらしい。
黒猫は苛立ったように地面を前脚で蹴ると、ほんの少しの間だけ逡巡して――俺をじっと見つめて言った。金と空色のオッドアイが、不安で揺れているように見えた。
「あの子たちと出会って、今日が三日目。水明、夏織を見守っていてあげて。あたしたちじゃあ気付けないことに、あなたなら気がつくだろうから」
「……どういうことだ」
意味がわからず困惑していると、黒猫はその三本の尾をゆらめかせて、ぼそりと呟いた。
「――夏の盛りは、短いのよ」
――ミィン。
その時、一際大きく蝉が鳴いた。




