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閑話 優しい人、厳しい人、愛おしい人5

 季節は流れ、時は巡りゆく。


 三人の付き合いはそれほど長く続かなかった。

 別に仲違いしたわけではない。単純に人間の寿命の問題である。


 天明八年(一七八八)に佐野豊房――鳥山石燕は生涯の幕を下ろした。

 妻であるお雪は、豊房の最後を見届けた数日後、後を追うように亡くなっている。

 友人らの最期を見届けた白沢は、ぬらりひょんの伝手を使い、幽世へと棲み家を移した。

 薬学を学び、その知識を活かして薬屋を営むことにする。新しい名をつけずにいたら、知らぬ間にあやかしたちに〝ナナシ〟と呼ばれるようになっていた。


 幽世へ来てから、本当にいろいろなことがあった。

 貸本屋の店主である東雲や河童の遠近と出会い、時に挫けそうになったり、大騒動に巻き込まれてみたり。やがて、幽世へ落ちてきた小さな命を腕の中に受け入れたナナシは、東雲と三人で家族としての幸せを享受していくのだが……それは、すでに語られた通りだ。


 そんなナナシの生活の中で、ひとつ衝撃的な事件があった。


 幽世へナナシが移り住んだばかりの頃。早朝に薬屋の門戸を叩く者がいた。

 起きがけのナナシが寝ぼけ眼を擦りながら出てみると――そこにはひとりの男がいた。


 癖のある黒髪、三白眼の右目は白く濁っている。中折れ帽に、右手をド派手な羽織の中に仕舞い込み、下駄を履いた三十代中頃の男が誰なのか、ナナシは一瞬わからなかった。

 けれど、どこか捻くれた印象を与える瞳や曲がった鼻には、どうにも見覚えがある。


「……えっ、待って。どういうこと――!?」


 驚きのあまりに言葉を失っていれば、その男は中折れ帽を取って言った。


「久しぶりだな。白沢――」


 ナナシは冷や汗を流しながら、やっとこのことで答えた。


「どうしてアンタがここに? 豊房……」


 そう、それは死んだはずの佐野豊房。つまりは鳥山石燕だったのだ。

 豊房がどうして幽世へいるのか。

 死んだ当時は八十代であったはずなのに、なぜ若返っているのか。

 ナナシからすれば、聞きたいことは山ほどあったのだが、豊房は詳しくは語らなかった。


「悪いが、豊房という〝名〟は忘れてくれ。それは捨てたんだ。今は玉樹と名乗っている。薬屋を営んでいるお前に聞きたいことがあって来た」

「な、なに? なんでも協力するわ。遠慮なく言って」


 玉樹はじっと己の右手を見つめ、どこか憂いがこもった声で言った。


「――不老不死じゃなくなる方法を知らないだろうか」


 ナナシが知らないと答えれば、玉樹は去って行った。


「どういうことよ……?」


 困惑気味に呟くも、その疑問には誰も答えてはくれない。

 その後も東雲という存在を介して、ふたりの人生は度々交錯する。

 けれども、なかなか以前のように親しくはできなかった。

 玉樹側が壁を作っていたからだ。寂しく思いつつも、玉樹が積極的に接触してこない以上は、ナナシはそれでもいいと思っていたのだ。


 しかし、状況は一変する。


 ――太三郎狸の説得を終え、香川県から帰ってきた夏織から、とあることを聞いたのだ。


「どうも玉樹さんがなにか企んでるみたいなんだけどね。教えてくれなくて」


 お土産を渡しがてら、何気なく夏織がこぼしたその言葉に、ナナシは違和感を覚えた。

 ここ最近、幽世には変な噂が出回っていた。人魚の肉売りの噂だ。

 噂の広まり方が尋常じゃないほどに早く、どうにもきな臭い。最近、騒動続きだったこともあり、ぬらりひょんも警戒している様子だった。


 そんな状況の中で、玉樹がなにかを企んでいるという情報がもたらされたのである。

 人魚の肉と言えば不老不死の妙薬だ。

 不老不死から脱する情報を欲しがっていたあの男と関係がないわけがない。


「――ねえ、夏織? よかったら詳しく聞かせてくれないかしら」


 こうして、再び、元瑞獣と元絵師は急接近することになったのだ。


  ***


 から、から、からり。

 香川県から幽世へ帰ってきた玉樹は、下駄を鳴らしながら幽世の町を歩いていた。

 あやかしたちが行き交う大通り、ガス灯に入れられた幻光蝶がちらちらと淡い光を放っている。そろそろ夕飯時だ。煮炊きの煙が立ち上り、いい匂いがそこかしこからする。


 太三郎狸の説得を終えた一行は、玉藻前がいる栃木県へ向かう前に休むことにした。

 さすがに連日の遠征は辛い。とはいえ明日の朝には出発する予定だ。


 そんな中、玉樹はどこかで一杯やろうと考え、ふらふら町をさまよっていた。

 すると、大通りの道端で人だかりができている場所を見つけた。

 露天商のようだ。行灯の明かりを、なにかがチカチカと反射している。

 玉樹は色つきの眼鏡越しにそこをじいと見つめた。おもむろに近づいて行く。


 そこは、近ごろ話題になっている人魚の肉売り寄せの鈴を売っている店だった。

 なんでも願い事を叶えてくれる人魚の肉売りは鈴の音と共に現れる。

 だから、自身も鈴を持っていれば、互いに引き合うのだ……というのが謳い文句だ。


 ずいぶんと盛況なようだ。あやかしといえど願いごとを叶えたい欲はあるらしい。

 人相の悪い鬼の店主は、玉樹に気がつくなりニッと犬歯を剥き出し笑った。


「おう、物語屋の兄ちゃんじゃねえか。おかげさまで儲かってるぜ」

「…………。それはそれは」


 怪しく笑む。玉樹は店主の耳もとに口を寄せ小声で訊ねた。


「――鈴を何度も何度も購入していくようなあやかしはいるか?」

「最近はあまりいねえな。数ヶ月前に商品を全部さらっていったあの子くらいだ」


 玉樹は無言で頷いて、懐から封筒を出して店主の手に握らせた。


「あら! 楽しそうじゃな~い。アタシも混ぜてくれない?」


 その瞬間、玉樹は盛大に顔を引き攣らせた。

 ぎこちない動きで振り返れば、いやに目立つあやかしを見つけて顔を顰める。


「……ナナシ。なんのようだ」


 地を這うような低音で訊ねれば、その人はバチン! と片目を瞑って笑った。


「ウッフフ。昔なじみが悪だくみしてるって聞いたから、ちょっと事情聴取に!」


 そのあざとすぎる仕草に、玉樹は盛大にため息を漏らしたのだった。




 幽世の町の外れに人気の蕎麦屋がある。いわゆる風鈴蕎麦……移動式の屋台だ。

 つるべ落としが営む屋台で、市松模様の屋根、軒先には風鈴がふたつ。〝二八そば〟と書かれた看板は古めかしく、つゆのいい匂いを辺り構わず漂わせていた。


「なんでお前なんかと……」


 文句ばかりの玉樹をよそに、ナナシは蕎麦に七味をたっぷり振りかけている。


「別にいいじゃないの。昔は顔をつきあわせて毎食食べてたでしょ」


 そして、ずる、ずるるるると啜れば、椀に残った汁を覗き込んで笑い出した。


「やだもう! おっかしい!」

「……なんだ。藪から棒に」


 胡乱げな瞳を玉樹が向ければ、ナナシは椀の中を見せてくる。

 夜空のような黒々とした汁の中に、まるで満月のように卵の黄身が浮かんでいた。


「アタシたちって、本当に月に縁があるわねって思っただけよ。思えば、初めて会った時もおっきな月が出ていたもの」


 昔を懐かしむかのような発言に、思わず視線を逸らす。

 あの頃の記憶は、今の玉樹にとってあまり思い出したくないことのひとつだ。

 ふと横に目を遣れば、そこにお雪の姿が見つけられないことに胸が痛む。


「……昔のことを語るのはやめろ。今は関係のないことだろう」


 堪らず拒絶の言葉を吐けば、ナナシはゆっくりと首を横に振った。


「関係、ねえ……。それよりも話を聞かせてよ。アンタの〝企み〟のこと。さっきの露店で見たわよ。――アンタが人魚の肉売りの噂を広めていたのね?」


 玉樹の箸が止まる。

 じろりと濁った右目で睨みつければ、ナナシは苦笑を漏らした。


「あら、わかりやすいこと。昔から隠し事は苦手だったものねえ」

「……うるさい。お前には関係ないだろう」


 そっぽを向いて蕎麦を啜れば、ナナシは小さくため息を漏らした。


「人魚の肉売りだなんて……。なにをするつもり?」

「別にどうだっていいだろう。放って置いてくれ。どこぞの祓い屋のように迷惑をかけるつもりはない。自分はただ、物語の終章に向けて伏線を仕込んでいるだけだ」

「……相変わらず、アンタの言い方ってば、わかりづらいわ……」

「文句を言うなら聞かなくていいんだぞ?」

「あら。文句じゃないわよ。事実を言っただけ」

「ああ言えばこう言う……」


 堪らず顔を顰めた玉樹に、ナナシは楽しげにクスクス笑う。

 内心、玉樹は安堵していた。ナナシは真面目に玉樹を追求するつもりはないらしい。


「まあ、それはいいわ」


 しかし、その予想は見事に裏切られた。ナナシは蕎麦の椀を置いた途端、いきなり玉樹の胸ぐらを掴んだのだ。


「放って置け? ――ふざけんじゃないわよ」


 唐突、キレ出したナナシに、動揺のあまり目を瞬く。


「ど、どうしたんだ急に」


 こぼさないように慌てて蕎麦の椀を置けば、ナナシは額に血管を浮き上がらせて言った。


「アンタが若返って幽世に来た時はねえ、事情を話したくないように見えたから放って置いたわよ! 恩人だからって、気を遣ってやったわ。でもねえ!」


 容赦なく胸ぐらを持ち上げ、ギリギリ締め上げながら続ける。


「ここ数年のアンタは変よ! 不老不死じゃなくなる方法を探していたのは知っていたけれど、だんだん手段が過激になってるじゃない。八百比丘尼の時もそうだった。夏織たちを容赦なく巻き込んで!」


 ナナシは脂汗を流している玉樹に顔を寄せると、唸るような声で言った。


「今回も夏織を巻き込もうとしているのかしら。……それだったら絶対に赦さない」


 玉樹はナナシから目を逸らし、胸ぐらを掴んでいる手を軽く叩く。


「……相変わらず、お前はあの人間の娘に肩入れしているのだな」


 ぼそりとこぼせば、ナナシの表情が少しだけ緩んだ。


「当たり前じゃない。あの子はアタシの〝家族〟なんだから」

「そうだったな。あの娘は、お前の望んでいたものだ。大陸から逃げ、〝名〟を捨て、瑞獣であることをやめた甲斐があったじゃないか……本当、逃げたもん勝ちだな!」


 ――パンッ!

 瞬間、頬に鋭い痛みが走った。


 キッと睨みつければ、ナナシは真っ青になって細かく震えている。


「逃げないですめばどれだけよかったか! でも、逃げずにはいられなかった。そうしてもいいって言ってくれたのは、アンタたち夫婦だったじゃない……!」


 瞬間、ナナシの瞳から涙がこぼれた。

 まるで子どものように顔を真っ赤にして泣いているナナシに、キョトンとする。


 ここ幽世で、薬屋の店主ナナシといえば、誰よりも強く、誰にも頼られる存在だ。

 そんなナナシの泣き顔なんて、滅多に拝めるものじゃない。

 もう――あの頃とは違い、強くなったものだとばかり思っていたのに。


「相変わらず、お前はすぐに泣くんだな」

「うううううっ……。最近はめっきりだったわよ、この馬鹿!」


 じろりと恨みがましい視線を寄越したナナシは、ポツリとこぼした。


「アタシはここで〝母親〟になったの。だから前みたいに泣くわけにはいかなかったわ」


 ある日突然、幽世に落ちてきた女の子。あやかしが跋扈する幽世で、三歳の少女を育てるのには当然のことながら多くの苦難があった。

 しかし、ナナシはそれをやり遂げた。幼かった夏織は、今や立派な大人の女性だ。

 途端に罪悪感がこみ上げてきて、視線を逸らした。


「……悪かった。お前も頑張ったんだな」


 そう口にすれば、ナナシはやや呆れたように眉尻を下げた。


「それもこれも、アンタたちがアタシの背中を押してくれたからだわ。それを忘れないで」

「……そう、だな」


 言葉を詰まらせた玉樹に、ナナシは続けた。


「感謝しているのよ。瑞獣じゃなく、ただの〝母親〟として育児に臨んで、たくさんのことに気づいたわ。頭の中はしっちゃかめっちゃかよ! 料理、洗濯、寝かしつけ、教育……」


 クスクス笑うナナシの瞳には、明らかな慈愛の色が滲んでいる。


「考えることだらけで、一日があっという間だった。昨日よりもちょっぴり成長している今日の夏織に夢中になって、小さい頃を懐かしみながら、でも今が一番可愛いわ! って毎日思うの。自分の時間なんて欠片もない。本当に大変だけど、楽しい日々。気が抜けないけれど充実してた。そしたらね?」


 そっとナナシが自分の胸に手を当てる。そこに閉じ込めた大切な思い出を愛おしむかのような姿は、温かななにかで満ちあふれている。


「そしたら――いつの間にか、アタシ自身が救われていたの。迷いなんて全部吹っ切れて、すごくさっぱりしてた。ああ! これがお雪さんが言っていたことなんだって」


『手の届く範囲の相手に心を砕いて、一生懸命それだけに集中してごらんなさい。そうしたら――いつの間にか救われています』


 お雪の言葉を思い出し、玉樹は固く目を瞑った。


 ――本当に、〝瑞獣〟から〝母親〟になったんだな。

 心から楽しそうに夏織のことを語るナナシ。それはまさしく〝母親〟そのものだ。

 ……きっと、この場にお雪がいたら、手放しで褒めていたに違いない。


 胸が苦しくて堪らない。お雪はナナシのことを本当に心配していたから、この姿を見せてやりたいとも思う。――でも、お雪は……。


 すると、玉樹の両肩をナナシが掴んだ。ハッとして顔を上げれば、そこには蝶の明かりを反射して、きらりきらりと輝く琥珀色の瞳がある。


「何度でも言うわ。アタシ、アンタたち夫婦には感謝してる。それと同じくらい、今度はアタシが助けてあげたいとも思っているの」


 そしてどこか切羽詰まった様子で言った。


「ねえ、アンタがこんなに追い詰められる理由。アタシ、ひとつしか思い浮かばないわ」


 ぎくりと身を竦めれば、ナナシは神妙な顔つきで言った。


「……お雪さんとなにか関係があるの」


 口を噤んで視線を逸らす。

 しかし、顔を手で固定され、無理矢理視線を合わされてしまった。


「お願いよ。教えてちょうだい。どうか恩返しをさせて。アタシが今、こうして生きているのも、家族を得られたのも全部アンタたち夫婦のおかげなの。もらった優しさのぶんだけ、お返しがしたいの……。アタシ、アンタの力になりたいのよ!」


 話しているうちに、みるみるうちにナナシの瞳が滲んでいく。

 迷いながらも、じっとその瞳を覗き込む。

 淡い、黄褐色の瞳から絶え間なく透き通ったしずくが落ちていく。


 ――きっと、満月が涙をこぼしたらこんな風なのだろうか、なんて思う。


『今宵は一際、月が綺麗でございますね』

「お雪……」


 ぽつりと最愛の妻の名をこぼした玉樹は、大きくため息をついた。

 優しくナナシの手を顔から外し、決心したように顔上げる。


「……わかった。すべて聞かせてやる」

「本当!?」


 パッとナナシの顔が輝く。

 対照的に、玉樹は顰めっ面になってどこか捻くれた笑みを浮かべた。


「そのかわり、話を聞いたからにはもう逃がさんぞ。地獄へ道連れにしてやる」


 その瞬間、ナナシはパチパチと目を瞬いた。そして、破顔一笑すると言った。


「受けて立つわ……!」


 ――しかし、その笑顔もそう長くは保たなかった。

 玉樹が抱えている事情は。そして、その胸に秘めた悲痛な想いは――。

 かの薬屋から笑顔を奪うだけの威力があったのだ。


「……予想はついているだろうが、自分は不老不死になっている」

「でしょうね。じゃなきゃ、それから脱する方法なんて探さないもの」

「――死後、数週間ほど経った頃、自分は墓の中から這い出た。確かに死んだはずなのに、なぜか息を吹き返したからだ。それも、三十代ほどに若返っていた」


 どうして玉樹が生き返ったのか。

 それは死の直前、何者かに人魚の肉を食べさせられていたのだ。


 犯人はすぐにわかった。鳥山石燕の作品の信奉者だ。墓から這い出してきた玉樹を見つけたその人物は、この世から鳥山石燕という才能が失われるのが如何に愚かしいことかを熱く語った。しかし、玉樹としてはそれどころではなかったのだ。


「……若返った副作用のせいか、右目が機能を失い、右半身が不随になっていた」

「それって、絵師としては……」

「ああ。佐野豊房は生き返ったが、鳥山石燕は死んだままだった」


 激昂した玉樹は、その人物を近くの墓石で殴り殺した。

 何度も何度も何度も何度も、飽きることなく殴り続け、相手が動かなくなった頃、ようやく涙をこぼした。そして……自分の墓石に、愛する妻の名前を見つけてまた泣いた。


「お雪のいない世界。絵師としての能力を奪われた自分。……正直、途方に暮れた。自暴自棄になってあちこちさまよったさ。生きる理由を見つけられず、やがて不老不死じゃなくなる方法を探し始めた」


 日本中、果ては海外まで。あらゆる場所を旅しながら探し続けた。

 路銀を得るために、道中に出会った物語を蒐集し、好事家に販売する仕事を始めたりもした。それが〝物語屋〟の始まり。その関係で、東雲や遠近と出会ったのだ。

 それから二百年余り、玉樹は不老不死から脱する方法を探し続けていたが、結局見つからずじまい。そんな方法はないのかもしれないと思い始めていたところのことだ。


「八百比丘尼と出会った。彼女も、自分のように人魚の肉で不老不死になった人だ。なにか情報を持ってはいないのかと思っていたのだが……」


 結局、目的の情報は八百比丘尼も持っていなかった。

 ――が、それよりももっと重要なものを、八百比丘尼のところで見つけたのだ。


「八百比丘尼が管理している場所。そこが魂の休息所と呼ばれているのは知っているか」

「もちろんよ。転生を拒む人間の魂を休ませるための場所だわ。結局、転生することも叶わず、幻光蝶になってしまう人も多いみたいだけれど……」


 その瞬間、ナナシはなにかに気がついたようにハッと顔を上げた。


「……まさか」


 みるみるうちに不安そうな表情になる。玉樹はじっとナナシを見つめると言った。


「そうだ。そこに……お雪がいた」

「どうしてっ!? なんで……?」

「どうも、生前に自分と約束したからのようだ」


 来世も豊房を支える。その約束を守るため、お雪は死後の世界に豊房が来ないうちは、転生するつもりはないと留まっているらしい。


「なんて頑固なの!? お雪さんらしいっちゃ、らしいんだけど……」

「まったくだ」


 ――転生を拒む理由は人さまざまだ。しかしその後、辿る道はふたつにひとつ。

 転生を受け入れ、輪廻へ戻っていくか。

 弱り果て、その身を幻光蝶へ変えてしまうか。

 八百比丘尼いわく、蝶へ変わってしまうまでにかかる時間は、魂の強度によるらしい。

 負の感情に寄らない理由で転生を拒んでいるお雪は、他の魂に比べると長持ちだ。

 とはいえ、いつどうなるかわかったものではない。だからこそ、玉樹は焦っている。


「もうなりふり構っていられないんだ。自分は――一刻も早く死なねばならない」

「……っ!」


 〝死ぬ〟という言葉に、ナナシは一瞬怯えたような表情になった。


「……そんな目で見るな。もう終わったはずの人生だ。悔いはない。だが、不老不死を脱する方法はまだ見つからない。ならば、元凶である人魚の肉売りから聞き出すしかないだろう? 今していることは、奴をおびき寄せるための準備だ」


 今までも人魚の肉売りへの接触を図ってみたことはあった。

 白井家へ犬神の契約解除方法を教えたのも、その一環だったと言える。

 水明による白井家からの出奔。

 それをきっかけに、どん底まで落ちぶれた清玄のところへ肉売りは姿を現した。

 人魚の肉売りは絶対的に追い詰められたあやかしのもとに現れる。

 そのことを実証できたものの、会うことは叶わず空振りに終わってしまったのだ。

 そこまで玉樹が話すと、ナナシは頭を抱えてしまった。


「……待って。すっかり忘れてた。清玄騒動のそもそもの元凶って……」

「自分だ。きっかけを与えただけだがな」

「……っ! アンタ! ああもう、今はそれどころじゃないわ!」


 ナナシは「絶対に後で詳しく聞くから」とジロリと玉樹を睨みつけ、言った。


「事情はわかった。そんなことになっているだなんて……本当に驚いた」


 そして打って変わって笑顔になる。

 ぽんと二の腕を叩き、どこか自信たっぷりに言った。


「アンタの企みを手伝うわ。お雪さんのためだもの。絶対に目的を達成してみせる。この薬屋のナナシお姉さんに任せておきなさい!」

「……頼む」


 すると玉樹は、まるで豊房であった頃のように、柔らかな笑みを浮かべる。

 じんわり喜色を浮かべたナナシは、すっかり普段の調子を取り戻して言った。


「それで? 計画はどうなってんのよ。ちゃんと諸々の段取りはしてあるんでしょうね」


 玉樹は片眉を吊り上げて肩を竦めた。


「もちろんだ。なんのために人魚の肉売りの噂を流したと思う? 溺れる者は藁をも掴むと言う。大量に鈴を買った奴のもとに、奴が現れるだろうと思ってな。――奴が接触している相手の目星はついている。後は奴が姿を現すのを待つだけだ」

「……本当に大丈夫なの? 人違いとか嫌よ?」


 玉樹は皮肉めいた笑みを浮かべると、己の鼻を指差して言った。


「不老不死になって右半身が使えなくなった分、鼻が利くようになったのさ。絶対に間違えない。人魚の肉の……あの甘ったるい胸自棄がしそうな臭いはな。奴が接触した人間からは、揃って同じ臭いがしやがる――」


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