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閑話 優しい人、厳しい人、愛おしい人1

 心が挫けそうになった時。

 どうしようもないほどに追い詰められた時。

 未来が暗くて、なにも見えないと感じてしまった時。


 そばに優しく言葉を投げかけてくれる人がいたのなら、どれだけいいだろうと思う。


 長い人生のうち、一度も道に迷わなかった人なんていないに違いない。迷った時、誰かが行き先を示してくれたならと、誰しも一度は考えたことがあるだろう。優しく、そして時に厳しく、手を取り引っ張ってくれる人に出会えたなら、それは紛れもない幸運だ。少なくとも、行き先の見つからない旅人のような寂しさからは解放される。


 薬屋のナナシは、迷えるあやかしや夏織にとって、いつだって道標のような存在だった。

 温かく力強い言葉をくれる彼は、大勢のあやかしたちに慕われている。

 彼がそうするのは、過去に自分も同じようにしてもらったからだ。


 どうしようもなく追い詰められていたナナシは、ある人物に救われた。

 その人がいなければ、きっと今のナナシはいなかったに違いない。


 これは――大いなる使命を持ちながら失意のまま逃げ出し、やがて幽世で薬屋を営むことになる男と。優しく彼を支え、時に厳しく導いた普通の女性。


 ……それと、絵に生涯をかけたとある男の物語だ。


  ** *


 江戸の町に暮れ六つの鐘が鳴る。

 通りに面した大店の前では、奉公人たちがせかせかと店じまいを始めた。家路をいそぐ人々。煮炊きの煙が空に立ち上り、食欲をそそる匂いが鼻を擽る。そろそろ夏の盛りだ。日の入りが遅いのもさながら、太陽はとうに顔を隠しているというのに空は薄明に彩られ、夜の訪れを焦らすように不思議な色合いを醸し出していた。


 しかし、それもすぐに終わるだろう。半刻もしないうちに江戸の町は粘つくような闇に沈んでしまう。灯油(ともしあぶら)の明かりでは、江戸の町をすっぽり覆う夜を払うには心許ない。だから、人々は早々に寝支度を終えて眠りへ落ちた。


 それは明日に備えるため。もちろん油の節約の意味もあった。

 同時に、あやかしと遭遇しないためでもあったのだ。魑魅魍魎に肝を潰されるよりかは、楽しい夢でも見た方がいいに違いない。ひとり、またひとりと夢の世界へ旅立てば、賑やかだった町に静寂が広がっていく。薄明が星空に塗り替えられ、丑の刻に差し掛かかろうとする頃。夜風が吹き付ける縁側で、ひとりまんじりともせず夜空を見つめる男がいた。


 老齢の男である。やや捻れた鼻筋、三白眼は、どこか一筋縄でいかなそうな偏屈な印象を相手に与える。ひょろりとした体はどこまでも薄く、見るからに武人ではない。頭には、白髪混じりの薄くなった髪でかろうじて髷を結っていた。


 夏とはいえ、夜も更けると冷えてくる。

 だのに男は襦袢のまま、寒さをまったく意に介していない様子だった。


「今宵は一際、月が綺麗でございますね」


 すると、男の背後にひとりの女が立った。上掛けをそっと男にかけてやる。


「また、あやかしが来るのを待っているのですか?」


 男よりもいくらか年下に見えるが、なんとも優しげな風貌の老女だ。

 くすりと笑って、男の手から煙管を抜き取る。とうに冷めきった金属製の火皿が、女が持って来た行灯の明かりをちかりと反射した。


「……ああ。こんな夜は、決まって誰かがやってくるからな」


 男はおもむろに視線を上げた。空には煌々と真円の月が照っている。


「丑の刻はまだか? お雪、墨の用意はしてあったか……」

「準備は万端でございますよ。ふふ。豊房(とよふさ)様、まるで子どものよう」

「仕方ないだろう、楽しみで仕方がないのだ」


 豊房は年甲斐もなくソワソワすると、キョロキョロと辺りを見遣った。しかし、目当てのものはいなかったようで、途端に肩を落とす。それがまた老女……お雪の笑いを誘った。


「ふふふ……。あなたったら」


 お雪は口もとを着物の袖で隠し、豊房へ柔らかな眼差しを注ぐ。その瞳が持つ温かさ。行灯の光を取り込んだ栗色の瞳の鮮やかさに、豊房は一瞬だけ目を奪われた。


「……っ!」


 しかし、長年連れ添った妻に見蕩れた事実に、気恥ずかしさが勝って目を逸らす。


「これ。あまり茶化すでない」

「すみません。『画図百鬼夜行』の評判がよかったのが、よほど嬉しかったのですね」


 すると、豊房の頬がほんのりと淡い色に染まった。


「――わ、悪いか」

「いいえ。ようございました。わたくしも自分のことのように嬉しく思います」


 ぱあ、と豊房の顔が輝く。そして、照れくさそうにポリポリと首筋を指で掻いた。

 ――男の名は佐竹豊房。またの名を鳥山石燕。

 狩野派の狩野周信(かのうちかのぶ)を師に持ち、自身も多くの弟子を持つ御用絵師だ。『画図百鬼夜行』とは、先ごろ発表されたばかりの新作だ。これがたちまち評判になった。様々なあやかしを描いた画集なのだが、まるで〝本物を見てきたようだ〟と巷で噂になっているらしい――。


「ふふふ。まさか、実際に本物を見て描いているとは誰も思うまい」

「本当に」

「お雪、誰にも話すではないぞ?」

「ええ、もちろん。そもそも、誰も信じてくれませんよ」


 ……そう、『画図百鬼夜行』は、伝承や噂をもとに想像して描いたものではない。

 豊房が実際にあやかしを見て描いた画集だったのだ。


 きっかけは、豊房の家にたまたま、あやかしの総大将であるぬらりひょんが上がりこんだことである。ふたりは人間とあやかしでありながら意気投合した。酔った勢いで、豊房が絵に描かせてくれと頼んでみたところ、かの総大将は快く受けてくれたのだ。


 ぬらりひょんは豊房の画力にいたく感激したらしい。それからというもの、度々あやかしが訪ねてくるようになる。豊房は、訪れてくる彼らの姿を一枚一枚丁寧に写し取った。それを発表したのが『画図百鬼夜行』なのである。


 ちなみに、完成までに最も苦労したのがぬらりひょんの一枚だ。最初に描いたにも拘わらず、なかなか本人に納得してもらえずに、何枚も書き直す羽目になった。上中下三巻構成の〝下〟に収録されているのはそのためだ。


「この歳で、後世に〝名〟を残せるような傑作ができた。ぬらりひょんには感謝してもしきれない。なあお雪、自分は『画図百鬼夜行』だけで終わるつもりはないぞ。もっともっと、多くのあやかしの姿を描くのだ……!」


 そう語った豊房の表情は生き生きとしていた。お雪は柔らかな笑みを湛えて頷く。


「お雪はいつでも応援しておりますよ」


 そのどこまでも温かな微笑みに、顔が火照ってくる。じわじわじんじん、冷え切った耳に勢いよく血が流れ込んだものだから、どうにもくすぐったくなってポリポリ掻いた。


 ――豊房が絵の道を志そうと思ったきっかけは、ある一枚の屏風絵だった。


 江戸城の雑用をこなす御坊主の家に生まれた豊房は、ひょんなことで一枚の屏風絵を目にした。その細やかな筆遣い。大胆な構図。息づかいが聞こえてきそうなほどに生き生きと描かれた人々。豪勢に金箔で彩られた屏風が眩しくて仕方がなく、豊房は堪らず父へ訊ねた。


『もし、父上。あれは誰の作でしょうか』


 父はいかにも当たり前のことのように、こう答えた。


『あれはかの有名な狩野永徳の作よ。天下人に重用された傑物だ。いい機会だ。目に焼きつけておくがいい。〝名〟を残す人物の仕事とはああいうことを言う』

『〝名〟を――?』


 とうの昔に死んだ人間の〝名〟が今もなお残っている。

 そのことは豊房の胸を大いに揺さぶった。

 豊房の家は武家ではない。徳川の世になってからは、そもそも戦すらない。普通ならば、豊房の〝名〟を残す機会など巡ってはこないだろう。


 しかし〝名〟が残るほどの〝傑作〟を生み出せれば話は別である。

 連綿と続く歴史に深い爪痕を残すような。古くとも燦々と輝く〝傑作〟。

 絵師ならば、たとえこの身が失われようとも生きた証を残せるのではないか――。


『父上、自分は永く後世に〝名〟を残す絵師になりたいと思っています』


 結果、豊房は絵の道を志すに至った。父の伝手を使って狩野派に弟子入りをし、御用絵師となることもできた。しかし――どうにも満足のいく結果を出すことができない。


 とはいえ、なにもできが悪かったわけではない。豊房の作品は高く評価されていた。

 おかげで弟子も多く取れたし、生活に困ることなどない。きっと、はたから見れば成功者の部類に入ったに違いない。だが――それでは駄目だった。豊房の目的は、鳥山石燕という〝名〟を後世に残すことであって〝それなり〟の成功ではない。


 ――自分は〝名〟を残すに値しない、凡才なのではないか。


 その疑念を拭うことができずに、豊房は日々苦しみ抜いた。


『……死のう。死んで、生まれ変わるのだ。それしか手段はない』


 自分が凡人ではないかという疑念に耐えきれなくなる度、豊房は己の命を絶とうとした。

 現世で絵の才が足りぬのであれば、来世に願いを託すしかない。そう考えたのだ。しかし、そんな豊房を止めたのは、いつだって妻であるお雪だった。


『諦めるのが早うございます。今は耐え忍ぶのです。絵の道たるもの、そうそう簡単に極められるものではありません。それはご自身が一番よくご存知でしょう!』


 きっぱりと断言し、心をすり減らしている豊房にそっと寄り添う。


『わたくしは、豊房様の才能を心から信じております。諦めなければ、いつかきっと。ずっとそばで見守ってきたわたくしが言うのですから、間違いありません』

『お雪……しかし』


 そして泣き言ばかりを漏らす豊房に、お雪はいつもこう言うのだ。


『どうか。どうか今世をまっとう下さいませ。それでも駄目でしたら、来世を考えましょう。ですから、それまで耐えて下さい。わたくしにも準備というものがございます』

『準備……?』

『ええ! わたくしは豊房様の妻ですから、来世でもこうやって発破をかけなくてはなりません。そのための準備でございます!』

『…………。フハッ! あははははははは!』

『もう。笑いごとではございません。わたくしは本気ですよ』

『そうだな。ああ! 心の中に溜まっていたモヤがどこかへ行ってしまった!』


 お雪のまっすぐな言葉は、いつだって豊房を慰め、勇気づけてくれた。

 そうして豊房の生涯における晩年、ようやく『画図百鬼夜行』の刊行に至ったのである。


「ここまで続けられたのは、お前がいてくれたおかげだ。お雪、感謝している」


 目を細め笑う豊房に、お雪はコロコロと笑った。


「まあ! これで終わりのようなことを。後世に残る傑作はいくらあっても困りません。もっと、もっとたくさんの作品を創ってくださいませ」


 にこりと目尻に皺を作って笑う。途端、豊房が泣きそうな顔になった。


「……もちろんだ。お前は相変わらず厳しいな。厳しくて……誰よりも優しい」


 若い頃とは違い、皺が寄って固くなった手がお雪の指先に触れた。


「約束する。自分はもっともっと絵を描くぞ。それで……もしお前さえよければ」


 じっとお雪を見つめる。すると、お雪の顔がほんのりと色づいたのがわかった。


「次の生でもそばにいてくれないか。来世でも〝名〟を残したいのだ」

「まあ……!」


 お雪は目を何度か瞬くと、心から嬉しそうに笑った。


「もちろんでございます。わたくしなどでよろしければ」


 お雪の瞳が潤む。温かい涙で濡れた栗色の瞳に、豊房は再び見蕩れた。


「本当に、わたくしは幸せ者ですね」

「……そう言ってくれると、助かる」


 ふたりとも、いつ死んでもおかしくない年頃だ。残り幾ばくかの日々をお雪と過ごせること、来世を約束できたこと――豊房は幸福な日々をしみじみ噛みしめていた。


「……いい雰囲気のところ、悪いんだけど」


 その時だ。庭木の向こうから声をかけてきた者がいた。

 ふたりはハッとして居住まいを正す。


「んっ! んんんんっ! 失礼つかまつった。どちら様だろうか」


 わざとらしく咳払いをした豊房は、慌てて行灯を掲げる。

 そして――炎の黄みがかった明かりに浮かび上がった人物の姿に目を見張った。

 鮮やかな深緑の長髪。拗くれた牛の角。長いまつげに縁取られたのは、透き通った黄褐色の瞳。目を見張るほどの美貌を持った青年だ。しかも瞳は額にもあった。三つの瞳が暗闇の中から豊房をじいと見つめている。明らかな異形である。来たか、と豊房が心躍らせた時、ふと――そのあやかしの顔に深い隈が刻まれているのに気がついた。


 まじまじと見つめれば、肌は黄ばみ、頬はこけ、どことなく疲れ切っている様子だ。その人物はふらりと体勢を崩すと、糸が切れたかのようにかくりと地面に膝を突いた。


「見事な姿絵を描く絵師がいると聞いてきたのだけれど……悪いわね。その前に、少し休ませてもらえないかしら」

「……あ、ああ。お雪」

「はい、豊房様。すぐに寝床を用意してまいります」

 素早く動き出した妻の後ろ姿を見送って、豊房は困惑気味にそのあやかしを見遣った。

「――そなた、名は?」

「…………」


 その問いかけに、あやかしはなかなか答えようとしない。

 長いまつげを伏せ、じっとなにごとかを考え込んでいる。


 ――どうも、いつもやってくるあやかしとは様子が違うようだ。


 心配そうに見つめる豊房に気がつくと、それは苦み走った笑みを浮かべた。


「……ああ、ごめんなさいね。〝名〟を訊ねられたのだったわね。〝名〟……そうよね、名乗らなければアタシが何者かすら証明できない」


 そして美しい顔をくしゃりと歪めて、今にも泣き出しそうな顔になってこう名乗った。


「アタシの〝名〟は――〝白沢(はくたく)〟。かつて瑞獣と呼ばれた、役立たずの獣」


 ぽろり、と白沢の瞳から透明な雫がこぼれる。

 豊房は涙の行方を目で追って――とんでもない大物が来たものだと目を瞬いた。


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