閑話 あやかしの夏2:留守番と甘夏
その日は、朝食が終わったあたりから、しとしとと雨が振り始めた。
先日、漸く梅雨が終わったと思ったのに、まるで季節が後戻りしたかのように、じとりと湿気が肌に纏わりつき、不快指数がみるみるうちに上がっていく。
舗装されていない道には、あっという間に水たまりが出来て、雨と土が混じった匂いがする。あやかしたちも雨を嫌うのか、店内から見える往来の人通りもそれほど多くない。
そんな中、俺は貸本屋で店番をしていた。
本当ならば、あいつを探しに行くべきだと思う。……が、夏織に止められてしまった。彼女曰く、ひとりで隠世の街をぶらつくのは、慣れるまでは危ないのだそうだ。だから、出かけるのであれば誰か知り合いを連れて行くように、と。
「じゃっ! 行ってきまーす!」
夏織はそれだけを言うと、黒猫を伴って颯爽とアルバイトに行ってしまった。
今日は午前中であがりだから、一緒に昼食を食べようね、と言い残して。
「……はあ」
客が誰もいない店内を眺めながら、ひとりため息を吐く。古びた紙の匂い。色褪せた背表紙がずらりと並ぶ視界、止まない雨――なんとなく憂鬱な気分になって、椅子に座ったままだらりと脚を前に投げ出した。
ちらりと居間を振り返ると、東雲が紫煙をくゆらせながら原稿と格闘している。東雲は、あやかしたちから蒐集した話をまとめているのだと言う。どうも、それを買い取る好事家がいるらしい。家計の足しにするのだと、客が来ないときは執筆に時間を割いているようだ。
「――あああ! ちくしょう!! 書けねえ!」
東雲は、原稿用紙を丸めて放ると、また猛烈な勢いで万年筆を走らせ始めた。
隠世に迷い込んだ夏織を拾い、育てあげたというこの男の正体は定かではない。一見すると普通の人間に見えるが、時折得体の知れない圧を感じることがある。
この男は、どうやら周囲のあやかしからも一目置かれているらしい。一度、正体を尋ねてみたところ「祓い屋なんだから、わかるだろ?」と誤魔化されてしまった。どうやら、素直に教えるつもりはないようだ。
「……っだあ!! もう駄目だ。寝る!」
――まあ、白髪交じりの頭をグシャグシャにかき混ぜて、不貞腐れ気味に畳の上に寝転ぶ姿は、ただの親父にしか見えないのだが。
何はともあれ、こんな状態の東雲に着いて来てもらうわけにもいかない。
それに、異形揃いの隠世で、蝶を侍らせ人間だと宣伝しながら闊歩できるほど、俺は命知らずではないし、扉を開けると地獄と繋がっているような世界を、気楽に散歩出来るほど無謀でもなかった。
それに――。
「まだ、あいつに掛けられる言葉を見つけていないしな……」
俺は心にどこか鬱屈したものを溜め込みながら、机に肘を着くと目を瞑った。
――ぴしゃん、ぽちょん。
聞こえてくるのは、雨だれの音。水滴が地面に落ちると、小気味いい音がする。それが鼓膜を震わせると、じんと体の奥底に沁みていって、心に溜まった澱を払ってくれるような気がした。
*
雨が徐々に小降りになってきて、うっすらと外が明るくなってきた頃。隠世唯一の貸本屋を、ひょいと見知った顔がふたつ、覗き込んだ。
「おっ、いた」
「おはよう〜」
それは、ふたごの烏天狗だ。髪色と同じ黒で全身揃えたふたりは、真っ赤な唐傘を閉じると、俺の顔を見るなりニッといたずらっぽく笑った。
ふたりは店内に足を踏み入れると、慣れた様子で何処からか椅子を持ち出し、通路に陣取った。どうやら、彼らは店主ではなくて俺に用事があるようだ。
「……何をしに来た。本を借りにきたのか」
そう言うと、金目銀目は互いに顔を見合わせて、徐に懐を探った。
刃物でも出てくるのかと警戒していると、ふたごの兄の金目が何かを放ってきた。それは甘夏だ。夏の太陽の光を煮詰めたような、色鮮やかなオレンジ色。冬に食べる蜜柑に比べると、二回りほど大きなそれを反射的に受け取ると、ぷん、と清涼感のある香りが匂った。
意味がわからず、じっと手の中のそれを見つめていると、ふたごが甘夏の皮を剥きながら言った。
「実は、水明が困っているだろうからって、夏織が俺たちを呼んだんだ」
「失せ物探しには、烏天狗はうってつけだからね。何しろ、空を飛べるし目もいい! ……まあ、晴れていればの話だけどねえ」
ちらりと店外に目を遣る。
勢いは衰えたものの、雨は今もなお降り続いている。これでは、烏天狗お得意の能力は使えないだろう。金目は一瞬、居心地悪そうに黙り込むと、ぼりぼりと乱暴に頭を掻いた。
「つまりは、今日の僕たちはとんだ役立たずだ。ここに来る意味はないね。でも、雨の日って暇だろ? だから、暇つぶしに来た」
金目はそう言うと、甘夏を半分に割った。ぷしゅ、と分厚い甘夏の皮に爪が食い込んで、今度は若干苦さが入り混じった香りが周囲に放たれる。俺はその様子をなんとなしに見ながら、ぽつりと呟いた。
「……お前たちは馬鹿か。俺は祓い屋だぞ。あやかしを狩る者だ。なんで、そんな俺に関わろうとする」
祓い屋とあやかし。それは狩人と獲物のようなものだ。このふたつの間には、血と泥で汚れきった、絶対に渡ることは出来ない大きな溝が横たわっている。
……そのはずなのに。
銀目は大きな口で甘夏をひと房食べると、へらりと笑った。
「まあなあ。最初、祓い屋だって聞いたときは、怖いやつかなって思ったけどさ、そうでもないみたいだし。それに、あやかしを狩るのは、なにも人間だけじゃないしなあ。別に遊んだって構わないだろ? 祓い屋なんて、どーでもいいや。それよりも甘夏美味いぞ、水明も食えよ〜」
そう言った銀目の手は、果汁でベタベタだ。金目は、すかさず手ぬぐいを取り出すと、汚れた手を拭ってやった。そして、のほほんとした口調で物騒なことを口走った。
「そう言えばこの間、腹を空かせた土蜘蛛が山から降りてきて、里にいた鵺の子どもを食べちゃったって、大騒ぎになっていたよね。鵺たち、一族郎党集まって敵を討つって息巻いていたっけ。ここじゃあ、祓い屋に関わらず、血なまぐさい揉め事はよくあることだよね」
「……よくあるのか」
「あるねえ」
金目は、汚れた手ぬぐいを丁寧に畳みながら話を続けた。
「大切なものを害されたら、そりゃあ誰だって怒るだろう。それは人間もあやかしも一緒だ。君に狩られたようなあやかしは、人間の超えちゃあいけない領域に踏み込んだ。だから、狩り獲られた。それだけだろ? 勿論、人間に恨みを持つあやかしもいるだろうけどね。少なくとも、僕らは人間に対して仄暗い感情は持ち合わせていないよ」
すると、金目はタレ目がちな瞳をすうと細めて、その金の双眸に冷たい光を浮かべた。
「――まあ、君が夏織や銀目を害するつもりなら、その綺麗な目を突き、肉を切り刻み、骨片ひとつ残らず喰らってやるけれど」
その瞬間、金目の存在感が増した。ぐっと金の瞳のなかの瞳孔が縮まり、顔はにこやかな笑みを浮かべているのに、やたら恐ろしく感じる。全方位に向かって冷たい妖気が発せられて、先ほどまで感じていた蒸し暑さは何処へやら、途端にうすら寒く感じて全身が粟立った。
……殺される。
嘗て、あやかしと命を賭けて戦った日々に感じていたような、喉の奥がひりつくような感覚。それは絶妙な緊張感を伴って、俺の精神力をガリガリと削っていく。
目の前の一見無害そうなコレは、やはり人間とは違う、別の次元の生き物なのだと実感する。そして、自分の置かれた状況の危うさを再確認した。
――戦う手段を持たない俺は、肉食獣の檻に放り込まれた、か弱い草食動物にも等しいのではないか。
俺は心臓を鷲掴みにされたような息苦しさを感じながら、じっと金目を見つめる。目を逸したら、次の瞬間には俺の喉元に噛みつかれるような気がしたからだ。
なのに、内心とは裏腹に、銀目は馴れ馴れしく俺の肩に手を乗せると、ニコリと笑った。
「そんなに、怖がらなくても大丈夫だって。痛くしないから!」
「そういう問題か!?」
銀目の場違いな――それでいて、意味のわからないフォローに思わずつっこむと、自分の口から出た声が思いの外大きいことに驚く。そして、はっとして自分の愚かさを呪う。けれど、そいつらは俺に後悔する間も与えずに、途端に満面の笑みを浮かべて、俺の肩をがっしりと抱いた。
「やっぱり、水明のツッコミは最高だな……!!」
「タイミングがねえ、丁度良いんだよねえ」
ふたりは、顔を見合わせると、手のひらで俺の体を容赦なく叩いた。
……痛い。治りきっていない怪我の部分を叩かれると、ものすごく痛い!!
あまりの痛みに顔を顰めると、ふたりは声を揃えて俺に向かって満足気に言った。
「「その調子で、ツッコミとして大成してくれたまえ!」」
「わけがわからん!!」
思わずまた叫ぶと、金目銀目は大声で笑い始めた。
先ほど恐怖を感じたばかりの相手の、愉快そうな笑い声。そいつとそっくりな、図体のデカイ野郎が、自分の肩に寄りかかっているこの状況。
――一体、なんなんだ……!!
あまりのことにげんなりしていると、銀目は目端に浮かんだ涙を拭いながら言った。
「うそうそうそ。喰わねえよ、流石に。ちょっと味見はするかもしれないけどなー」
「……ちょっと!?」
「少し齧るくらいならいいだろ? 減るもんじゃなし」
「減る、確実に身が減る……はあ」
銀目は確かに! とへらへらと笑うと、俺の頭をくしゃりと撫でた。
やけに親しげなその態度を不満に思いながら、ぽつりと愚痴を零す。
「ナナシといい、お前らといい、夏織といい――隠世の住人は、距離が近すぎる」
すると、それを耳聡く聞きつけたふたごは、互いに顔を見合わせて首を傾げた。
「そうか? わかんねえな」
「どうだろうね。皆、こういうもんじゃない?」
ふたごはそう言うと、楽しそうにけらけらと笑った。
「だってお前、面白そうだからな。普通、遊ぶだろ」
「それに僕たちには、早急にツッコミが必要だと常日頃から思っていたからね! 夏織と僕たちじゃあ、どうにも収まりがつかないし」
「だから……俺はツッコミじゃ」
「「ツッコミだろ?」」
人の話を聞かないふたごのあやかしに、俺は深く嘆息した。
……ああ、疲れた。
この数分間で、肝が冷えたり、呆れたり、うんざりしたり……感情が忙しすぎる。いつものように自分を抑え込もうとしても、このふたりに上手く乗せられて、感情を鎮めることが出来ない。正直言って、酷く落ち着かないし、沸き上がってくる罪悪感が半端ない。
――感情を露わにするなと、俺を叱る人はここにはいないと言うのに。
――その必要もないと、頭では理解しているのに。
誰にも知られない場所に、隠れてしまいたい衝動に襲われる。
その時、ここにはいないあいつの言葉が急に蘇ってきた。
『あらまあ、また怒られたのかい。感受性豊かなのは、ご主人様のいいところなのに』
相棒はいつもそう言って、失敗して懲罰房に閉じ込められた俺にふわふわの体を寄せて来るのだ。
『あいつらは、ご主人様のことを、なあんにもわかっちゃいない』
そう言って、感情を殺さなくちゃいけない元凶が、俺を甘やかすものだから、白井家の老爺たちはいつも頭を悩ませていたようだった。
当時のことを思い出して、思わず頬を緩める。母を除けば、俺を褒めたり、慰めたりしてくれたのは、あいつだけだった。
ひとり物思いに耽っていると、ふと視線を感じて顔を上げた。
するとそこには、俺の顔をじろじろと眺め、見るからに楽しそうな笑みを浮かべたふたごの姿があった。
「……なんだよ」
「「べっつにい」」
金目銀目は同時にそう言うと、バタバタと慌ただしく椅子を片付けて、唐傘を手に店外に出た。
「やっぱ、水明は笑ったほうがいいな!」
「水明、またね〜」
そして、さっと雨の中を駆け出して行ってしまった。
「……なんなんだ」
嵐が去った後のように静まり返った店内の中で、俺は意味がわからず首を傾げた。そして、甘夏を握りっぱなしだったことに気が付いて、なんとなく皮を剥く。果実を包む白い薄皮を剥ぎ取って、規則的にみっしり詰まっている粒粒を、前歯で皮から齧り取った。
ぷつん、と弾力のある皮に包まれていた果汁が、口の中にとろりと広がる。甘さと酸味が絶妙なバランスで同居する、夏らしいその柑橘は、じんわりと舌を刺激して疲労を溶かして消していく。
けれども、蜜柑のように甘いだけではない夏の太陽の雫は、ほんのりと苦味を舌に残して、喉の奥に消えていった。
*
「水明、ただいま!」
ぼうっとして考え事をしていると、気がつくと夏織が帰ってきていた。黒猫が俺の傍をすり抜けて、居間に入っていく。貸本屋の入り口に設置してある、「幻光蝶」避けの香の効果で、夏織の周囲にいた蝶が飛び去っていく。
「すぐ、お昼ご飯にするから……。あっ」
夏織は明るい声でそう言うと、ふと店外に目を留めて、動きを止めた。
俺も店の外に視線を向けた。降り続いていた雨は止み、空を覆っていた雲は何処かへと消え去って、隠世の不思議な空が顔を覗かせている。水溜りが常夜の空を映し出し、地面に様々な色を描き出している。
――その中に、ぽつん。小さな影がふたつ、立っていた。
「……本を貸しておくれ」
――それは夏のとある日のこと。
久しぶりの客人は、雨上がりと共にやって来た。
評価、ブクマ、本当にありがとうございます!
感想も嬉しいです〜




