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屋島寺の善行狸5

 太三郎狸にすっぱり協力を断られた翌日。


 暑くはあるが、日陰であれば風が心地いいような空模様。

 屋島寺の境内へ戻ってきた私は、簔山大明神の社の前で待ち構えていた太三郎狸を木陰へ誘い、用意しておいた敷物の上で真っ正面から向き合った。


「おい、本当にお前に任せて大丈夫なのか……」


 玉樹さんはどこか不安げだ。昨日、私が暴走したことを思い出しているに違いない。


「心配してくれてありがとう。でも、大丈夫。三人でいろいろ考えたんだよ」


 すると孤ノ葉と月子が笑った。


「物語屋さんって、意外と心配性ね? 知ってる? 今まで、月子と私が揃っていて、解決できなかった問題はないのよ。だから、今回のこともきっと!」

「……頑張る」

「それは安心材料と呼べるのか……?」


 いまだに不安そうな玉樹さんをよそに、孤ノ葉と月子はにんまり笑い合った。

 そそくさと太三郎狸の両脇へ座り、甲斐甲斐しく世話を始める。


「さあさ、太三郎様」

「なっ……これこれ、なにをする」


 太三郎狸を抱き上げた孤ノ葉は、彼を柔らかそうな膝の上に乗せた。

 困惑している太三郎狸へ、すかさず月子が杯を差し出す。

 朱塗りの漆器の杯の中には、なみなみと日本酒が注がれていた。

 それは「川鶴」。香川県を代表する銘柄のひとつだ。


「初めて知ったんですが、香川県は清酒の発祥の地だと謂われているらしいですね?」

「ああ。ヤマトタケルの弟の神櫛王(かみぐしおう)が、十二人の王子と共に、この地で酒造りをしていたと伝わっておる。米作りは昔から盛んであったしな。うどんが取り上げられがちだが、清酒の美味さは格別じゃ。……が、それが今の儂らになんの関係がある?」

「あら、お酒はお嫌いですか?」

「……そうは言っておらぬ」


 くい、と杯を飲み干した太三郎狸は満足気だ。


「――食べて」


 そこへすかさず月子が料理を差し出した。

 民宿の女将さんにお願いして作ってもらったそれは、香川県の郷土料理。まんばのけんちゃんと言って、高菜の一種であるまんばを、豆腐と一緒に出汁で煮込んだ料理だ。


「ぬっ……これはいいのう」


 それを口にした途端、太三郎狸は嬉しそうに笑んだ。

 ほんのりと舌を刺激する高菜の苦み、豆腐のまろやかさ。出汁を引き立てるように控えめな醤油の風味。まんばのけんちゃんは、なんとも優しい味がする。そこに川鶴を流し込めば、なんとも至福のひととき。川鶴はあっさりとした飲み口が特徴で、出汁の風味を損なわないどころか引き立ててくれるのだそうだ。


 ぷはっとお酒を飲み干した太三郎狸はまんざらでもない様子だった。

 孤ノ葉はコロコロ笑って、太三郎狸の頭を撫でている。


「ふふ、これで夏織ちゃんのお話を素直に聞く準備ができましたね」

「ぬ……。主ら、それが目的か。したたかじゃのう」


「まあ! 私は狐ですよ。人を誑かすのはなにも狸の専売じゃありません」


 孤ノ葉の発言が面白かったのか「なるほど」と太三郎狸はクツクツと笑っている。

 そこには、昨日の頑なな態度は見られない。これなら、素直に話を聞いてくれそうだ。


『私は、太三郎様が気持ちよく話を聞けるようにおもてなしをします』


 自分からそう申し出てくれただけあって、孤ノ葉の手腕は見事なものだった。


 ――よっし。私もそれに応えられるように頑張ろう……!


 私は、空になった太三郎狸の杯へお酒を注ぎながら言った。


「このお酒、〝川の流れの如く、素直な気持ちで呑み手に感動を〟っていう初代の言葉を守って作られているそうです。私の素直な気持ちが、まっすぐに太三郎様に届くことを願っています。じゃあ、そろそろお話を始めましょうか!」


 私は他の三人の分のお酒と料理を用意して、彼らの前に並べた。


「では、みんなも食べながら聞いてくださいね。まずは〝狸〟という存在の成り立ちから始めましょう。〝狸〟が如何にして〝狸〟となったか。そして〝悪戯好きの悪役〟という役目を背負わされた理由を――」


 ちらりと月子に目配せすれば、彼女は少し恥ずかしそうに頷いた。

 恐る恐ると言った様子で酒を舐め、じっくり味わっている。

 ――さあ、準備万端。私は瞼をわずかに伏せ、静かに語り始めた。


「私たちが思う〝タヌキ〟が〝狸〟へ成ったのは、実は中世の終わり頃になってからのことなんです」


  ** *


「日本という国は、他国の文化を巧みに取り入れ〝独自〟に進化させてきました」


 漢字もそのひとつ。日本人は元々文字を持たない民族だった。朝鮮半島や中国大陸から伝わってきた漢字を学び、文化として受け入れ、その上でひらがなやカタカナといった新しい文字を作り上げてきたのだ。

 そして〝狸〟という〝動物の名〟も中国から伝来したものだ。


「ご存知ですか。中国で〝狸〟というと、ジャコウネコやヤマネコなんかの、中型の猫型野生動物のことを指すんです」

「猫……? いや、〝狸〟とは、儂らのような存在を指すのではないのか?」

「確かに日本ではそうです。どうしてそんなことになったのか、もちろん理由があります」


 太三郎狸の杯にお酒を注ぎながら続ける。


「これは想像ですが……〝狸〟という言葉が伝来した時、それがどういう動物を指すのか、わからなかったのではないでしょうか。例えば……そう、中国の六朝時代に書かれた『捜神記』という民間の説話を集めた本。そこにも〝狸〟が登場します。その中の一篇『狸老爺(たぬきおやじ)』の話を読んだことがありますが、〝狸〟に対する具体的な描写はありませんでした」

「説話……庶民が口伝えで語っていた物語をもとにしているのならそうであろうな」

「なら、前後の文章から推測するしかありませんよね。その本を読んだ人たちは、おそらく彼らがよく知る既存の動物を当てはめたのではないでしょうか」


 こんな悪事を働く奴はどんな姿をしているのだろう。

 わが国にもいるのだろうか? いるのだとしたら、一体どんな動物だろう……。

 彼らが〝狸〟へ当てはめた動物は多岐に渡った。


「その過程で、中型の悪さをする野生動物……例えば、タヌキやイタチ、テン、アナグマやらムササビ、果ては小さめの猪までが〝狸〟とされたんです。鎌倉時代の『古今著聞集(ここんちょもんしゅう)』では、狸なのに木から木へ飛び移るようなものもいました。多分、ムササビじゃないかなあと思うんですが」


 すると、太三郎狸の頭をゆっくり撫でていた孤ノ葉がクスクス笑った。


「混沌とした時代だったのね。今の常識で考えると混乱しそう」

「ですね。知らないぶん、自由に想像できて楽しそうだなとも思いますが。そうやって日本人は独自の〝狸〟像を作り上げてきました。とはいえ、室町時代に描かれた『十二類絵巻』には、分類的に正しい〝タヌキ〟らしい姿が描かれています。紆余曲折ありつつも〝狸〟がどの動物かという認識がその時代にようやく定まったのですね」


 つまり、それが確立されるまでの〝狸〟は、狸であって狸ではなかったのだ。

 山中に棲まい、人へ危害を加える中型の獣類の総称が〝狸〟なのである。


「場合によっては、われらは狸でなかったのかもしれぬのか! 興味深い!」


 太三郎狸は愉快そうに笑った。じゅっと日本酒を美味しそうに吸い、つまみに手をつけては、また日本酒を勢いよく呷った。気が付けば、持ち込んだ一升瓶も半分空いている。

 太三郎狸の機嫌は悪そうには見えない。このまま順調にいってくれればと願う。

 なぜなら、ここから先の話を聞けば、太三郎狸は怒るだろうと考えているからだ。


 ――でも、きっと大丈夫。自分を信じて。


 水明からもらった手紙のことを思い出し、私は意を決して話を再開した。


「こうして〝タヌキ〟が〝狸〟となりました。テンでも、イタチでも小さい猪でもなく〝タヌキ〟が〝狸〟へ選ばれたのはきっと、それだけ人間に近い場所にいて、同時に――人に嫌われていたからでしょう。だから狸は、人間へ害を及ぼし、時に人に駆逐され、時に犬に噛み殺されて死んでしまう〝悪役〟に抜擢されたんです」


 ――つまりは、この時点で太三郎狸が嫌っていた〝狸〟への扱いが完成したと言える。

 私の言葉に、上機嫌に肴をつまんでいた太三郎狸の動きが止まった。


「……儂らの〝悪役〟としての歴史は、ずいぶんと長いようであるな?」


 あまりにも冷え切った声に、こくりと唾を飲み込んだ。


「いっ……今と違って、人間と狸の生活圏が近かったのでしょう。けれど、犬や猫とは違い、狸はあくまで野生動物で、田畑を荒らされたり、噛みつかれて病気をうつされたりしたのだと思います。闇夜に浮かぶ狸の光る目に、人々は怯えたに違いありません」

「やはり、狸はいつだって損な役回りばかり」


 太三郎狸がため息をこぼした。


「……お、おじさま。どうぞ」


 不穏な空気を察したらしい月子が、慌てて杯を差し出した。しかし、太三郎狸はそれを拒否して私を睨みつけた。その瞳には複雑な感情が滲んでいる。


「主はなにをしたい? 今の話を聞いても、逆に人間への不信感が募るばかり。ちっとも主らの手伝いをしたいと思えぬ。〝理由〟と言ったか。つまりはこう言いたいわけか。人間にとって狸は害悪そのもの。だから悪役にされ、虐げられても仕方がない――」


 ――まずい! 


「違います」


 ここで失敗するわけにはいかない。結論まであと少し。まだ挽回できるはずだ。

 大きく息を吸って深呼吸。私は、改めて太三郎狸へ語りかけた。


「確かに当時はそうだったのかもしれません。今と違い、誰もが生きるために懸命でした。狸に作物を荒らされれば死活問題、病気になったら命を落とす危険性は今に比べて格段に高かった。だからこそ、外からやって来る存在を……狸を畏れたんです。そしてその恐ろしさを伝えるために物語を創りました。それは人の営みの中で必要なことだったからです」


 背筋をピンと伸ばした。絶対に目を逸らさない覚悟を持って、太三郎狸を見つめる。


「ですが、ずっとそうだったという訳ではありません。時代が変われば価値観もガラリと変わります。太三郎様の思う〝狸〟は――」


 こくりと唾を飲む。そして意を決して言った。


「すでに過ぎ去った価値観と言えます」

「……儂の考えが古くさいと?」


 みるみるうちに太三郎狸の機嫌が悪くなっていく。私は見て見ぬ振りをして続けた。


「今の人間が思う〝狸〟とあなたが考えている〝狸〟とは決定的にズレがあることは確かです。それこそ中国と日本で〝狸〟の言葉の意味が違うように」


 そう。日本人の〝狸観〟は時代と共に変わっていくのだ。

 ただの〝悪役〟で因果応報が当たり前であった〝狸〟から。

 どこかとぼけた雰囲気のある〝滑稽でどこか憎めない狸〟へ!


「近世も後半になると、狸の役割が変わってきます。江戸時代の怪談ブームを経た後、人々の語る狸は〝滑稽さ〟を身につけました。変化の術を使い、人間のように観劇し、うっかり馬脚を現しては成敗される。お腹はぽっこり前へ突き出していて、笠を被って大きな睾丸を持っている。……ほら、社のそばにある信楽焼の狸。あんな感じでしょうか」


 パッと全員が一斉に社へ目をやった。どこかとぼけた顔をした狸がじいとこちらを見つめている。太三郎狸は気まずそうに尻尾を振った。


「同時に、物語の中で狸は僧侶の姿を得ました。『分福茶釜』の説話や、その他にも狸が寺へ繁栄をもたらした話は暇に尽きません。悪役ではない〝人間のために尽力する狸〟の姿がそこにあります」


 そこには、明らかに話した相手を楽しませるための〝味付け〟がされている。

 狸へ任される役割は〝悪役〟だけではなくなった。物語上の扱いが変わったのだ。

 しかし、それでも太三郎狸は納得しなかった。首を横に振り、ため息をこぼす。


「結局は成敗されることには変わらぬ。〝滑稽さ〟が増した分、惨めでもある。そういう扱いをされ続けている限り、儂は認めることはできぬ」


 じっと私を見つめる。そこには真摯な光が宿っているように思えた。


「同胞を傷つけたくはない。それは儂のなによりの願いじゃ」


 守護神。神として祀られているからこその決心。その想いには頭が下がる。

 けれど――ここで諦めるわけにはいかない。さあ、本題に入ろう!

 ごくりと唾を飲み込んだ。緊張している。なにせ、この後の話に関しては、私自身はあまり詳しいとは言えない。だから、その道に詳しい人にお願いしたのだけれど――。


「だから〝時代遅れ〟なの。太三郎おじさま……!」


 ――その時、いやにふわふわした声が割って入った。


  ** *


 しん、と一瞬、辺りが静まり返った。

 その場にいた全員の注目が、ある人物に集まる。それは――月子だ。


「ひいっく」


 月子がしゃくり上げた。顔は真っ赤で、浴衣からすらりと伸びた細い首まで鮮やかに色づいている。明らかに酩酊している様子で、急いで「川鶴」の一升瓶を確認すれば、いつの間にやら空になって地面へ転がっていた。


「ウッフフフフ。お酒、美味しい」


 潤んだ栗色の瞳を細め、月子はどこか妖艶に笑んだ。


「つっ……月子? 酔っておるのか? いつの間にそんなに飲んだ!」

「おじさまが夏織さんとのお話に夢中になっている間。いいでしょ。わたくしも飲みたい時くらいはあるもの」


 ひっく。再びしゃっくりした月子は、指先で太三郎狸の頬を突いてケラケラ笑い出した。


「おい、夏織……」


 玉樹さんの顔がとんでもなく青ざめている。トラブルかと気が気でないらしい。

 私はニッと笑むと、親指を立てて笑った。


「大丈夫。予定通りだよ!」

「おっ、お前! なにを企んでる……!」

「玉樹さんの企みを教えてくれたら、答えてあげようかなあ」

「今はそんなこと言ってる場合か!」

「痛いっ!」


 脳天にチョップが落ちてきて涙目になる。

 痛みを堪えて見上げれば、玉樹さんが弱りきったような顔で私を見下ろしていた。


「フォローする側の気にもなれ。土壇場のどんでん返しなんて、物語の中だけで充分だ」


 ――やりたいようにさせてくれつつ、いざとなったら助けてくれる気だったのか……。

 じんわり胸が温かくなる。

 そんなこと言われたら、もっと、もっと玉樹さんを親しげに思ってしまうじゃないか。


「大丈夫。ちゃんと三人で考えた結果なんだから」


 すると、今まで状況を見守っていた孤ノ葉がにこりと穏やかに笑って続けた。


「餅は餅屋と言うでしょう? ここから先は、月子の得意分野よ」

「だ、だがあれだけ酔っ払って正体をなくしているんだぞ!? 正気か……!?」


 玉樹さんの焦ったような声が響く。

 その時、酔いでフラフラ揺れていた月子が、持参した鞄をゴソゴソ漁り始めた。

 ニッと子どもみたいに笑って、やや呂律が回らない様子で話し出す。


「おじさまったら心配性。他の狸のために貸本屋が潰れてもいい……だなんて。神様っぽいね。でも……視野が狭すぎる」


 パッと手を広げ、鞄の中に入っていたものをぶちまける。

 それは大量の紙類だった。ひらひらと、まるで木の葉のように宙を舞っている。

 やがてそれが地面に落ちると――そこに描かれたものを見て、太三郎狸は目を剥いた。


「こっこれは……!?」


 ――なんと、そこに描かれていたのは、狸耳に尻尾が生えた、恐ろしいほど薄着でポーズを決める少女や、キラキラしたイケメン狸のイラストだったのだ……!


「世は〝萌え〟の時代……! 狸は人々から愛される存在へと昇華したの」

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