閑話 あやかしの夏1:彼の事情と日常
水明視点です。
――いつも青白い顔をしていた母。
俺の記憶の中にある母は、大抵、がらんとした十二畳ほどの和室のど真ん中に敷かれた布団の上で、長い黒髪を櫛っている。
ぬばたまの髪は、櫛を通す度に艶やかさを増し、母の美しいかんばせを彩る。
普段は表情が読めない母は、この時ばかりは穏やかな表情を浮かべている。
幼かった俺は、手元の積み木で遊ぶのも忘れ、その様子をじっと見つめていた。
母は、そんな俺に気がつくと、優しげに目を細める。珍しい母の表情に、嬉しくなってへらりと笑みを返すと、途端に母は表情を険しくした。
そして、酷く細い腕で俺に手招きをする。そして近寄ってきた俺を、優しく抱きしめた。
「……外では、笑っては駄目よ」
「どうして?」
「あなたが不幸になってしまうからよ」
「……?」
――あらゆる感情を殺しなさい。どの感情も、あなたが生きるのに必要はない。
母は、俺に常日頃からそう言い聞かせていた。
犬神憑きの家系に、感情はご法度なのだと。喜怒哀楽――どの感情が「嫉妬」に結びつくかわからないのだから。
犬神――それは、「巫蠱術」に非常に酷似した方法で作り出される。悍ましく残酷な方法で作り出される犬神……それが取り憑いた家系は「憑きもの筋」と呼ばれる。犬神は、己を作り出した家系に恩恵をもたらす。同時に、犬神憑きが他人を羨んだりすると、対象のものを台無しにしたり、対象の人物に取り憑いて病気にしたり、激痛を与えたりするのだ。
……感情を殺せ。それは「憑きもの筋」であり、祓い屋を家業とする家に生まれた人間が、社会に馴染み、仕事をこなすために必要なことだ。
「仕方がない。仕方がない」
それが母の口癖だ。母は、足下に侍っている異様な生き物を撫でると、ほうと息を吐いた。
「強く生きなさい。爺たちの言うことをよく聞いて……どうしても寂しくなったり、感情を爆発させたくなったら、犬神を抱いて眠るのよ」
母はそう言うと、人を呼んで俺を自室から追い出した。
それが母と会った最後だった。感情を刺激しないようにと、光の差し込まない部屋で生活をするのを強いられていた俺が、母の死を知ったのはそれから半年後のことだった。
「よう、相棒。今日からお前がオイラのご主人様だよ」
――黒くて赤い斑がある。
――犬にしてはひょろ長い。
――イタチにしては頭が大きく耳が尖っている。
暗闇の中、突然現れたそいつは、犬歯を見せつけるようににたりと笑うと、ふわふわの体を甘えるように擦り付けて来たのだった。
*
「……水明! 起きてー! ご飯!」
夏織が呼ぶ声がして、ぱちりと目を開ける。
相変わらず隠世は暗く、ちっとも朝が来たように思えない。ふわり、一匹の幻光蝶が俺の顔を掠めるように飛んでいる。ズキズキと痛む頭を摩り、大きく息を吐く。そして、無意識に隣を手で探って、一瞬固まった。ただでさえ頭痛で不愉快なのに、ずっと一緒だった存在がいないことを再確認するはめになって、堪らず顔を顰める。
――隠世にやってきて、数日経つ。
俺はこの世界に、いなくなってしまった相棒を探しに来た。
小さい頃から俺の傍に居て、支えてくれた存在。祓い屋として、共に幾つも危機を乗り越えて来た存在。俺にとって、あいつはかけがえのないものだった。
初めは、現世を探し回った。けれど、どこにも姿は見当たらず、追い詰められた俺はあやかしが跋扈すると言う、隠世に来ることを決めた。
神隠しの噂が絶えない廃寺に、逢魔ヶ時に入ったまでは良かった。勢いよく踏みしめた床板は、既に腐っていたらしく、俺が乗った瞬間に崩れ落ちてしまった。
運良く隠世に来られたものの、意識を失ってしまうという失態を犯してしまった。夏織たちに拾われなければ、恐らく俺はあやかし共に喰われてしまっていただろう。
「水明!」
夏織の急かす声に背中を押されて、もそもそと着替える。そして、軋む音がする階段を降りて行くと、居間には既に見知った面子が勢揃いしていた。
「うっふふ! 水明ちゃん、おはよう〜! 今日はあたしが朝ごはん作ったのよん。ほらほら、早く顔を洗ってらっしゃい!」
一見すると絶世の美女に見える、年齢不詳のおっさん。薬屋のナナシの、純白のフリフリエプロンに出迎えられて頭痛がぶり返してくる。無言でこめかみを解すと、そんな俺を見かねたのか東雲が声を掛けてきた。
「すまんな、水明。朝から見苦しいもの見せちまって」
白髪交じりの壮年の男が、大きな体を縮こませて頭を下げている。この店の店主であると言う東雲は、女性が如何にも好みそうな渋い顔を、無精髭だらけにして台無しにしている。きっとこの後、夏織とひげを剃る剃らないで一悶着あるのだろう。それも、毎朝恒例の光景だ。
「なにそれ。失礼だわね、このぼんくら!」
「うるせえ。そのエプロンはやめろと、いつも言っているだろう」
「似合っているから、いいじゃない〜。ねっ、夏織!!」
急に話を振られた夏織は、口いっぱいに詰め込んだ卵焼きをごくりと飲み込むと、満面の笑みを浮かべて親指を突き立てた。
「ナナシの卵焼き、最高よね! この出汁たっぷりのとろとろ卵に、青ネギが入っていて、絶妙な塩加減……ああ、ご飯が進む……!!」
「夏織に褒められたわ! 会話が成立してないけど、嬉しいわ! おかわり、いる?」
「うっ……太っちゃうから、ちょっとだけ……」
夏織は、空の茶碗を恥ずかしそうに突き出すと、俺を見て「おはよう」とへらりと笑った。
この女性こそが、俺の命の恩人だ。村本 夏織――少し茶色掛かった髪をショートボブにした彼女は、人間だ。幼い頃に、隠世に迷い込んだ稀人なのだと言う。東雲に拾われて育てられた彼女は、隠世の常識に従って行動するのでいつも驚かされる。
俺は、ボソボソと夏織に挨拶を返して、ゆっくりと中庭にある井戸に向かう。からからとつるべの先に括り付けられた桶を引き上げ、やたら冷たい井戸水で顔を洗う。最近は、夏本番が近づいて来たからか、朝起きると汗でじっとりと濡れている時がある。今日は嫌な夢を見たからか、全身がベタついていてかなり不快だ。水で濡らしたタオルで、顔だけでなく体も拭うと、漸く人心地着いた。
隠世の空は、今日も不思議な色合いを醸し出している。
幼い頃から、絶対に足を踏み入れてはいけないと、老爺たちから教わった世界。おどろおどろしいあやかしたちが犇めき、迷い込んだ人間は、骨の一片も残らずに食い尽くされる……そう、脅し混じりで言われた場所――そこで、普通に朝を迎えていることが不思議でならない。
ふと居間の方を見ると、賑やかな笑い声が聞こえる。ぼんやりと幻光蝶の灯りに照らされた食卓と、湯気が立ち昇る食事、笑顔が耐えない家族。この家では、食事の際は家族揃って食卓を囲むのだという。
――普通とは、こういうことなのだろう。
それに違和感を覚える自分が、異質なのだ。
「水明、早く来ないと食べちゃうよ!」
「おう」
ゆっくりと居間に戻る。そして、自分の席に置かれた食事を見て、少しだけ困惑する。
真っ白で、湯気が上がっている炊きたてのご飯。
ふわふわの卵焼き。
焼いたメザシに、たくあん。
わかめの味噌汁に、ほうじ茶。
実家で暮らしていた時は、一流の料理人が厨房を仕切っていたので、これよりも余程豪華な料理が食卓に上っていた。なのに――どうして。
「水明ちゃん。ウインナー焼いたのよ。男の子なんだから、朝からいっぱい食べなさい」
ナナシが、ごろりとメザシの隣にウインナーを放り込む。すると、すかさず東雲が眉を吊り上げた。
「おい、ずるいぞ、そいつだけ! メザシなんぞいらねえ、俺にもよこせ!」
「あんた、いい年なんだからウインナーひとつでブチブチ言わないの!!」
「東雲さんは、お肉至上主義だもんねえ」
わあわあ、ぎゃあぎゃあ騒がしい食卓で、俺は箸を手に取ると、両手を合わせて小さく呟いた。
「……いただきます」
そして、味噌汁をひと口啜る。煮干しで取られた出汁に、合わせ味噌。具材はシンプルにわかめだけ。目を見張るようなものはなにもない。けれど、汁の温かさが、優しい旨味が、覚醒しきっていない体を芯から温めて、目覚めさせてくれるような気がする。
「どうお。水明ちゃん、美味しい?」
そんな俺を見て、ナナシが声を掛けてきた。ふと視線を上げると、東雲や夏織までこちらの様子を伺っている。俺は、もう一度食卓を眺めて、ぽつりと呟いた。
「……悪くない」
途端に、俺を見つめていた皆の表情が和らいだ。少し気恥ずかしくなった俺は、また食卓に視線を戻すと、ゆっくりと噛みしめるようにして朝食を味わった。
――なんなんだ。ムズムズする。
そんなことを思いながらも、自分の隣をちらと見る。
そこに黒毛のあいつがいないことに、胸がちくりと傷んだ。
……とある夏の朝。
俺は、不思議な感覚に包まれて、その短いひとときを過ごしていた。
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