エピローグ:君だけの居場所
遠くから戦闘の音が聞こえる。といっても、ほぼ終わりかけと言ってもいい。
幽世の貸本屋の面々は実力者揃いだ。相手が少々気の毒になるくらいには勝負になっていない。ちょっとくらい手加減してあげてもいいのに、と思ったのは内緒である。
私と水明は、戦闘に巻き込まれないようにと、庭の一角にあるハナミズキの木の下へ避難してきていた。ナナシは清玄さんの治療にかかりっきりで、私たちがその場にいても邪魔になりそうだったというのもある。
ふたりで木の幹に背中を預けて座る。もうクタクタだ。あちこち血で汚れているし、一刻も早く家に帰ってお風呂に入りたい。おもむろに空を見上げると、春の夜空が広がっていた。薄桃色の中に、碧色の割合が増えてきている。もう少しすれば、クリームソーダのような綺麗な色に変わるだろう。そうなれば、いよいよ夏が近い証拠だ。
集まって来た蝶と指先で戯れつつ、水明の様子を窺う。
彼はどこか疲れた様子で、ぐったりと目を閉じていた。
「まだ痛む?」
声をかけると、片目だけを開けてこちらを見る。
ふう、と静かに息を吐いて、再び目を瞑ってしまった。
「動かさなければそれほどでもない」
「そっか」
また沈黙が落ちる。私は黙ってしまった水明をじっと見つめると、ハナミズキよりも曇りのない彼の白髪に手を伸ばした。
水明の髪は、かつては母親と同じ黒髪だったらしい。しかし、あの光がまったく届かない地下室に閉じ込められた結果、白く変わってしまった。この白さは水明の悲鳴だ。理不尽に感情を抑えつけられ、暗闇の中に幽閉された少年の悲痛な叫び。
柔らかなそれに触れると、水明は少し擽ったそうに顔を緩めた。
「なんだよ……」
再び姿を現した薄茶色の瞳に私の姿が映り込む。見慣れた自分の顔。私は、感情が顔に出やすいらしい。そこに映った私は、なんだか泣きそうな顔をしていた。
「頑張ったね」
その言葉に、水明はどこか苦虫を噛み潰したような顔になった。眉を寄せると、口を真一文字に結んで前をじっと見る。
「よくとどめを刺さなかったなと、自分でも思っている」
そして膝を抱えると、ポツポツと語り始めた。
「幽世に住むようになってから、何度同じ夢を見ただろう。父を殺す夢だ。自分が受けた理不尽な扱いのぶんだけ拳を振り下ろした。時には刃物を握ったことすらある。夢の中の父は、苦痛に喘ぎながら死んでいったよ。夢の中の俺は、欠片も後悔せずに父の死体を見下ろしていた。罪悪感なんてまるでない。ざまあみろ、それだけだ」
水明は硬く目を瞑った。歯を食いしばり、なにかを必死に堪えている。
「赦せない。絶対に。結局は自分のことだけじゃないか。俺はアイツの我が儘に振り回されただけだ。俺のことなんてなにも考えちゃいない。父親失格じゃないか! なのに」
くしゃりと前髪を手で握りつぶして、絞り出すように言った。
「あの忌々しい香のせいで、知ってしまった。奴の記憶を、葛藤を、苦しみを、孤独を、絶望を。そんなもの、知りたくもなかった。事情なんて知らないまま恨んでいられたら、どれだけ幸せだったろう。知らんふりしてこのまま恨み続けられたら――」
そう言って、水明は両膝の間に顔を埋めた。彼の瞳から涙は零れていない。けれど、私には泣いているようにしか見えなかった。
誰かの記憶を上塗りする香。水明が嗅がされたそれには、清玄さんの記憶が籠められていた。〝みどり〟であった私にはわかる。あの記憶は本物よりも生々しく、その記憶は自分のものだとしか思えないほどに強烈だ。
「……俺さえいなければ。少なくともアイツの最後の〝居場所〟は奪われずにすんだのだろうか。アイツは俺がいたせいで不幸になったんだ」
その瞬間、私は堪らず水明の腕を掴んで揺さぶった。
「そんなこと、誰にもわからないよ!」
水明は小さく震えていた。それが少しでも早く収まるようにと祈りながら続ける。
「みどりさんは元々体が弱かった。寝付いていることの方が多かったんだもの。水明を産まなければ長生きしたはず、なんて……そんなの想像でしかない。水明が自分を責める必要なんてどこにもない」
「でも、それでも……」
「駄目!」
なおも続けようとする水明の言葉を遮る。
……ああ、涙が滲んできた。私が泣いてどうするの。でも、哀しい気持ちが後から後から湧いてきて、どうにも抑え切れそうにない。
だって、私は水明がとても好きで。どうしても好きで。誰よりも好きで。
自分がいらなかったんじゃないか、なんて言葉を赦せそうになかったから。
「私は水明がいてくれてよかったよ。水明がいなかったら、なんて考えられない。君は何度も私を助けてくれたじゃない。私が辛い時に傍にいてくれたじゃない……」
水明はノロノロと顔を上げた。耳まで真っ赤になって、まるで泣く直前の子どもみたいな顔をして私を見つめている。
その潤んだ薄茶色の瞳には、再び私の顔が映り込んでいた。
涙でグチャグチャ、髪だってあちこち跳ねていて、みっともないったらありゃしない。
それに、自分でも見たことのない表情をしている。
そりゃそうだ。だって――彼は、水明は、私が初めて好きになった人。
恋とか愛情とか。そういう甘い感情を乗せた顔なんて、今までしたことなかったから。
「たとえ、誰かが君の存在を否定しても。私は絶対に認めないよ。だって私は本心から思ってるもん。生まれてきてくれて、私と出会ってくれてありがとうって」
決意を込めて言葉を紡ぎ、不器用な笑顔を作る。口にした言葉が正しく彼に届くかなんてわからないけれど、これが私の精一杯の気持ちだ。
「……っ!」
その瞬間、水明が抱きついてきた。首もとに顔を埋めて、嗚咽を漏らす。
私は彼の背中を優しく撫でると、囁くように言った。
「大丈夫。大丈夫だよ。いつだって私がいる。なあんにも心配することないよ」
――私が、君の〝居場所〟になるから。
私の言葉に水明は何度も何度も頷くと、声を殺して泣き続けた。
ぽつり、ぽつり、背中が濡れる感触がする。
私はゆっくり目を閉じると、まるで子どもをあやすみたいにゆらゆら小さく揺れた。
「落ち着いた?」
数分後、涙が止まったようだったので、優しく声をかける。
「……なんかお前の前でいつも泣いてる気がする……」
「別にいいんじゃない?」
「嫌だ。格好悪いだろう」
水明は不満げに声を漏らして、ゆっくりと私から体を離した。
笑いながらハンカチを差し出すと、不満たっぷりの顔でそれを受け取る。真っ赤になってしまった顔をハンカチで押さえると、ちらりと私を横目で見た。
「そう言えば、ひとつ気になることがある」
「なに?」
自分の髪を撫でつけながら聞き返すと、水明の目がすうと細まった。
「お前、さっき……俺のことを好きだって言わなかったか」
「はっ……」
思わず素っ頓狂な声が出て、慌てて口を塞ぐ。
――ええ そんなこと言ったっけ? いやいや、そんなこと私が言うわけないじゃない。てか、さっきっていつのこと? 無意識でやっちまった ええと、ええと!?
慌てて記憶を探る。すると、つい先ほどの光景が脳裏に蘇ってきた。
『ごめんなさい。私が一緒にいたいのは水明なの。この人が好きなの。だから、彼をもうこれ以上傷つけないで』
――言ったわあ……!!
さあ、と血の気が引いていく。錆び付いたブリキのおもちゃみたいに、ギギギ、とゆっくりと水明に顔を向けると、彼はやけに真面目な顔で私を見つめていた。
――ひん。無理……!
勢いよく顔を逸らして、襲い来るむず痒い感情に必死に耐える。
しかし、自他共に認める恋愛経験値ゼロの私である。ぽろりと零してしまった本音を、どう言い繕えばいいか、ちっとも思い浮かばない。
なので、そのまま四つん這いで逃走を試みた。
「逃げるな、馬鹿」
「ひっ……!」
しかし、浴衣の裾を掴まれてしまって、逃走計画はあえなく失敗する。
涙目になって水明を見ると、武士に命乞いをする庶民のような気持ちで言った。
「どうか……どうかお赦しください……! あれは、勢いというかなんというか」
「ほほう? あの状況で嘘をついたと?」
「嘘はついておりません!」
あまりの恥ずかしさにその場で蹲る。
――ああ、こりゃフラれたわ! 絶対に死んだ。さよなら、私の初恋!
儚過ぎる己の恋に想いを馳せ、ひたすら沙汰が下るのを待つ。
しかし、待てども待てどもなにも聞こえてこない。
――どうしたんだろう?
恐る恐る顔を上げる。すると――私の思考はそこで停止してしまった。
「……あ……う……」
そこにいたのは、茹で蛸みたいに顔を真っ赤にした水明だ。
大量の汗を流し、口もとを手で隠して、視線を宙に彷徨わせている。
「…………」
その姿からは、どう見たって否定的な感情は読み取れなかった。
いや、むしろこれは――。
「おおい! 水明、夏織! 片付け終わったぞ~!」
するとそこに、満面の笑顔で銀目がやってきた。全身返り血まみれ、泥まみれ。上機嫌な烏天狗は、水明と私の肩を抱くと、にっかり笑う。
「腹減ったあ! さっさと帰ろうぜ。ナナシが飯作ってくれるってよ!」
「あ、うん……そうしよっか」
「そ、そうだな。今行く」
銀目の勢いに押されて立ち上がる。その瞬間、水明とバッチリ目が合ってしまった。
「「~~~~~~っ」」
同時に顔を逸らして、なんとも言えない感情を堪える。そんな私たちを、銀目は「お? お? どうした?」なんて言いながら、不思議そうに眺めている。
ちょっぴり泣きそうになりながら、そっと空を見上げる。
夏の気配がする幽世の夜空だ。もうすぐ、水明が来て一年が経とうとしている。
――ああ。ああ。どうしよう……。水明に気持ちを知られてしまった……!
落ち着かない気持ちを胸に抱え、きゅうと軽く唇を噛みしめる。
村本夏織、人生最大のピンチ。
神様、仏様、天国のお父さん、お母さん。私は一体どうすればいいのでしょう……。
けれど、私の声に誰かが応えてくれるはずもなく。
途方に暮れながら、遠くで手を振っている養父のもとに、痛む体に鞭打って歩き出したのだった。
というわけで四章終わりとなります!
一太郎からコピペしてたんですが「!!」や「!?」が何故か消えている……
うううう。あとで直さなくちゃですね……しんど……いっぱいある……
とうとうお互いの気持ちを知ってしまったふたり。
いやあ……ニヤニヤしますね~ この続きはもうしばらくお待ちください。
十一月には書籍版4巻も発売ありますので、どうぞよろしくお願いします!
コミカライズも同月発売。そちらに結構な文量の書き下ろしをする予定なので、ぜひぜひ。




