偽りの想いを花水木に託す4
赤斑が連れてきてくれたのは、屋敷の中庭だった。
以前は美しく整えられていたように見えた庭も、今は幽世に侵食されて見る影もない。
薄桃色の空の下に広がるのは、ハナミズキの林だ。
計算され尽くして置かれた庭石も、生け垣も、大きな鯉が泳いでいた池すらも、無造作に生えたハナミズキに蹂躙され、滅茶苦茶になっている。
庭は荒れ果てているというのに、総苞片の純白が、そして舞い飛ぶ幻光蝶の姿が夜空に映えていやに美しい。それがある意味、その場所の異様さを際立たせていた。
「やあ。心配したよ、どこに行っていたんだい?」
そこで待ち構えていたのは、深夜だというのにきっちりとスーツを着込んだ清玄さんだ。革手袋で包まれた手で胸を押さえ、にこりと笑みを浮かべて私たちを見つめる佇まいは、場違いに紳士的だ。彼は私と水明を交互に見ると、大きくため息を零した。
「寝室にいないから驚いたよ。駄目だろう? 勝手にソレを連れ出しちゃあ。まだ躾の最中なんだ。もとの場所に戻しておいで、みどり」
「私はみどりさんじゃありません。それに水明をモノ扱いしないで!」
すると清玄さんは、ポケットから小さな袋を取り出して振った。
「なら、またみどりになればいい。香はまだある。君がいないと困るんだ」
彼の口調は、以前と変わらず優しいままだ。
しかし、今の私にはわかる。彼の瞳は私を見ているようで見ていない。彼の目が捉えているのは、私の向こうにある〝みどり〟という幻想なのだろう。
清玄さんは次にちらりと赤斑に視線を投げると、恐ろしく冷え切った声で言った。
「お前が私を裏切るとはねえ」
「僕はご主人様を裏切ったつもりはありません。僕がするべきは、貴方を助け、貴方の望みを叶えること。それ以上も、それ以下もありません。なすべきことをしたまでです」
「口だけは達者だな。やはり人ならざるものは信用ならない。ああ……その姿、目障りでならないな。獣は獣であるべきだ」
そう言って、清玄さんは片手を大きく振り切った。
瞬間、赤斑の顔が苦痛に歪んだ。その場に蹲り、両腕で自分の体を抱きしめている。
「元に戻れ。赤斑」
「ぐうう……っ!」
清玄さんが声をかけると、赤斑の全身が黒い毛で覆われていった。やがて姿を現したのは、狼のように立派な体躯を持った一匹の犬神だ。本来の姿に戻った赤斑は、その場にぺたりと伏せた。強制的な変化はかなりの苦痛を伴うようで、苦しげに喘いでいる。
「ふん、獣は獣らしくそこで這いつくばっていろ。いいと言うまで動くな」
清玄さんの言葉に赤斑は抗えないらしい。深紅の瞳で主を哀しそうに見つめている。
「――水明」
するとその時、水明が駆け出した。傍らには、意識を取り戻したばかりのクロがいる。
「悪いな、クロ。本調子でないと思うが付き合ってくれ」
「あったりまえさ。オイラは水明の相棒だからね!」
そして、ふたりは勢いよく清玄さんに向かって走り出した。水明は素早く印を結ぶとブツブツとなにか呟いた。クロの体が淡く光り、走る速度が上がる。
しかし、それは清玄さんにとっては想定内のものであったらしい。
清玄さんは、長い尻尾を鞭のようにしならせたクロに、おもむろに手を伸ばした。いとも簡単に尾を掴むと、無造作に地面に叩き付ける。
「ギャインッ!」
「くそっ……!」
清玄さんから距離を取りながら走っていた水明は、慌てて方向を変えた。清玄さんの懐に素早く飛び込むと、掌底を叩き込もうとして――その手を捕らえられてしまう。
「犬神遣いの癖に、本人が敵の懐に飛び込んできてどうするんだね。私の息子は些か冷静さが足りないねえ」
そのままギリギリと手を捻り挙げると、あっという間に水明を組み伏せてしまった。
「フム。手も足も出ないとは情けない。修行が不足しているようだ」
伽羅色の瞳を細め、意識を失っているらしいクロをそこらに適当に放る。私は慌ててクロに駆け寄った。口から血が混じった泡が零れている。内臓が傷ついてしまったのかも知れない。すると、清玄さんは苦しげに呻いている水明に冷たく言い放った。
「愚かな息子だ。祓い屋でなくなったからといって鍛錬を怠り、守りたいものを守れないなんて、本末転倒じゃないか」
「くそ……っ!」
「四の五の言わず、私の指示に従っていればいいのだよ、水明。お前は私の操り人形だ。意のままに動く道化。分相応にしていれば、それなりの待遇はするさ」
「待って!」
堪らずその言葉を遮った。清玄さんは、やたら機嫌がよさそうな笑みを浮かべる。
「どうしたんだい? みどり。それは汚いから下ろしなさい。服が汚れてしまう」
「クロは汚くありません。それに今の発言は、あなたが嫌っていた扱いとなにが違うんですか。人として普通に扱ってもらえなかったことを、あんなに嘆いていたのに!」
清玄さんは僅かに片眉を上げて、次の瞬間には小さく噴き出した。懐からスキレットを取り出して、ぐいと中身を飲み下す。
「……なにを言うんだ、みどり。私はもっと先のことを見据えているんだよ」
清玄さんはスキレットを仕舞うと、ほんのりと頬を染めて語り始めた。
「かつて、この国は魑魅魍魎が跳梁跋扈する素晴らしい国だった。幽世から溢れたあやかしたちは、現し世で好き勝手に人を喰らい、恐怖をまき散らした。人々は救いを求めて祓い屋に縋り、我々の先祖は絶えず研鑽した妙技であやかしどもに挑んだんだ。政にすら祓い屋は影響を及ぼしていたという。最高だね。まさしく理想郷だ」
彼はうっとりと目を潤ませると、次の瞬間には表情を曇らせた。
「しかし、今はどうだろう。あやかしどもは幽世に引き籠もり、祓い屋は細々と暮らしている。我々には偉大なる力があるというのに、非科学的だのと批判され……詐欺師扱いだ! 私はそんな世界にうんざりしていた。己の非力さ、無力さも併せてね」
拳を硬く握った清玄さんは、目もとを和らげて続けた。
「だが、私は力を手に入れた。人魚の肉を食べたんだ! 今の私にできないことはそう多くない。だから、私は変えることにした。この世界を! かつて人間たちが暗闇に怯え、祓い屋が自由に力をふるった時代と同じようにね! そのために準備の手間は惜しまなかった。幽世に冬を留め置けはしなかったが、それ以外はなかなか順調だったよ」
あやかしの子を攫い、殺す。それが現し世の人間の仕業であると暗に報せ、負の感情を引き出す。積もり積もった負の感情は、強力な呪いとなって現し世に向かう。清玄さんはそれを利用して、現し世と幽世の境を取り払おうとしているらしい。
人間への恨みを募らせたあやかしたちは、喜び勇んで現し世に攻め入るだろう。
あの日、私を問答無用で襲ってきた飛頭蛮の母親のように。
「もうすぐ、我々祓い屋にとっての理想郷が再来する! だから、水明。安心して私に任せなさい。なにも心配はいらないよ」
清玄さんの優しい声かけに、押さえつけられたままの水明は鼻で笑った。
「ハッ……。なにが〝安心して〟だ。馬鹿らしい。俺を俺として扱う気なんて、始めからないだろう。なあ、お父さん。ひとつ訊かせてくれよ。どうして――」
水明は苦々しい顔になると、一息置いてから言った。
「お前自身の記憶が宿った香を俺に嗅がせた?」
「…………」
その瞬間、清玄さんの表情が消えた。
無感情のまま組み伏せた水明を見下ろし、掴んでいた手を離す。その機を逃すまいと、すかさず水明は逃げようとするが、清玄さんは肩と腕を無造作に握ると、勢いよく捻った。ゴキン、と鈍い音がして、水明が大きく悲鳴を上げる。
「ぐあああああああああっ!」
「痛いかい? 本当は、あまり傷をつけたくないんだがね」
清玄さんの声からは、今までのような温もりは消え去っていた。
息子を傷つけたというのに、どこまでも冷え切った声に背筋が凍る。
「みどりの心証が悪くなるのを避けたいと、嘘を織り交ぜて話してはみたが……こればかりはどうしようもないね。正直に言おう。水明、お前は私の〝入れ物〟なのだよ」
「清玄さん、どうしてそんなこと……っ!」
「みどり、隠していてすまないね。実は、私にはあまり時間がないんだ」
清玄さんはおもむろに上着のボタンを外した。シャツを捲りあげて腹部を露わにする。
その瞬間、息を呑んだ。何故ならば、そこがどす黒く変色していたからだ。
「どうも人魚の肉に不相応な願いをしてしまったようでね。あの忌々しくも強烈な効果を持つ肉は、私を人ならざるものへ変え、思い通りの力を与えてくれたが、体が貧弱過ぎたらしい。臓腑が腐り始めていてね。痛み止めを飲まないと動けないくらいなんだ」
そう言って、再びスキレットを取り出した。喉を鳴らして中身を飲み干し、放り投げる。庭石に当たったそれは、鈍い音だけ残して下草の中に消えた。
「だから、新しい体が必要だった。わが子というものは都合がよくてね。魂の移し替えが容易なんだ。これも古い家に伝わる外法さ。先人に感謝しなくては」
にこりと薄っぺらい笑みを浮かべた清玄さんは、痛みに呻く水明の髪を掴んだ。そして、その耳もとに顔を寄せると、低く唸るような声で続ける。
「私からあらゆるものを奪い続けたお前だ。これくらいはしてくれるだろう?」
「……うば……う? 俺が? ……な、なんのことだ」
「とぼけるな。わかっている癖に。ああ、まったく腹立たしい!」
清玄さんは瞳を怒りに染めると、吐き捨てるように続ける。
「忘れたとは言わせない。お前があの家を捨てたから、白井家は没落したんだ!」
「俺をあの家から解き放ちたいとクロに思わせたのは、そもそもお前だろう。あのまま理不尽に感情を制限されていたら、どうなっていたか……。自業自得じゃないか!」
「黙れ 感情如き、まともにコントロールできないお前が悪いんだろう! それに、お前が犯した罪はこれだけじゃない。お前を身ごもったせいで、みどりは死んだんだ」
さあ、と水明の顔から血の気が引いていく。しかし、憎しみの炎を瞳に宿した清玄さんは止まらない。水明の髪を更に引っ張ると、耳もとで怒鳴った。
「お前が生まれさえしなければ。お前が……みどりを私から奪ったんだ!!」
その瞬間、私は堪らず駆け出した。
「……やめて!」
清玄さんを思い切り突き飛ばして、水明を抱きしめた。私の行動なんて簡単に避けられそうなものなのに、尻餅をついて呆然としている清玄さんを睨みつける。
「水明はあなたの人形でも持ち物でも、ましてや〝入れ物〟なんかじゃありません」
彼は何度か目を瞬かせると、途端にくしゃりと顔を歪めた。まるで玩具を取られた子どものような表情だ。不満を隠そうともせずに、私に食ってかかる。
「みどり、なにを言ってるんだい? なんでソレを庇う 君は、いつだって私の味方じゃないか。お飾りの能なし当主と馬鹿にされ続けていた私の〝居場所〟でいてくれると約束してくれただろう……? こっちにおいで。ソレは放って置けばいい」
そう言うと、清玄さんは手を伸ばしてきた。
彼と妻の〝みどり〟の夫婦仲は悪くなかったようだ。みどりさんはひとりぼっちの夫を支え、清玄さんはそんなみどりさんに支えられていた。直接の死因が水明になかったにしろ、妊娠がきっかけで元々虚弱だった彼女が衰えていったのならば「水明のせいだ」と考えるのはわからなくはない。だが――それは、八つ当たりも同然だ。
ここでようやく理解した。彼は決して、水明の〝父親〟ではなかったのだ。血の繋がりはあれど、清玄という人の中には、父親としての意識がまったく育っていない。
私の中の〝みどり〟が苦しんでいるのがわかる。でも、ここで甘やかしても意味がないのだ。私は彼の妻ではないのだし、彼の想いには応えられない。
小さく息を吐く。私は、彼が伸ばしてきた手を優しく払いのけた。
「何度も言います。私はみどりさんじゃありません。夏織です」
つきん、と胸が痛む。それを無視して、清玄さんの瞳をまっすぐに見つめて言った。
「いくら香を嗅がされても、私がみどりさんの代わりになることはありません。あなたじゃないの。私が〝居場所〟になってあげたい相手はあなたじゃない」
ぎゅう、と水明を強く抱きしめる。胸の中は不安でいっぱいだ。もしかしたら殺されるかも知れない。でも……言わなければ。私に〝みどり〟という偽りの姿を見て縋る彼を、きちんと突き放してあげる。それが、今するべきことだろうと思ったから。
「ごめんなさい。私が一緒にいたいのは水明なの。この人が好きなの。だから、彼をもうこれ以上傷つけないで」
ぽとん、と涙がひとつ零れた。
それを皮切りに、ポタポタと涙が流れ出す。自分の感情と〝みどり〟としての記憶がない交ぜになって、どう処理したらいいかわからない。清玄さんに優しくしたい。傷ついた彼を慰めたい。〝みどり〟はそう主張するけれど、私はどう足掻いても私で、この心が向かっているのは水明だ。
「夏織……」
すると、水明が私の肩をそっと抱いてくれた。
私たちは視線を交わすと、よろめきながらも立ち上がった。なにはともあれ、ここから離れるべきだろう。清玄さんの実力を鑑みたら、どこまで逃げられるかはわからないが、ここにいても彼を刺激するばかりで、状況が悪くなるだけだろう。
「う……ぐっ……」
「水明」
その瞬間、水明がその場にくずおれた。
先ほどやられた腕が痛んだのかとも思ったが、彼は胸を手で押さえ、大量の脂汗をかいている。わけもわからず混乱していると、周囲に異変が現れ始めた。ハナミズキの枝が風もないのに大きく揺れ、ざわざわと騒いでいる。地面に転がっていた石が、重力に逆らうように浮かび上がる。地鳴りが響き、地面には大きくヒビが入った。
「ご主人様! どうか……どうかお心をお鎮めください!」
すると、今まで静観していた赤斑が声を上げた。
酷く焦った様子で、声を嗄らして清玄さんへ叫ぶ。
「嫉妬してはいけません! このままでは、水明様が死んでしまいます!」
ハッとして清玄さんの様子を窺う。犬神憑きが誰かを羨むと、その相手を傷つけることがあるという。それを理由にして、心を殺せと水明は感情を制限され続けてきたのだ。
「……ハハ、ハハハハハッ!」
すると、地べたに座り込んでいた清玄さんがゆっくりと立ち上がる。
まるで柳の木の枝のようにゆうらりと揺れると、どこか切羽詰まった様子で言った。
「……嫉妬? 私の感情制御は、そこの出来損ないと違って完璧だ。冗談はよせ。私がソレに嫉妬するはずがないだろう? するはずがない。するはずがないんだ……」
そして大きく両手を広げると、どこか疲れたような顔でぽつりと言った。
「――ああ、もう。なにもかもどうでもいいな」
その瞬間、清玄さんの手に白い狐面が現れた。
彼が狐面を顔に装着すると、途端、青白い燐光が面から溢れ出した。光は空中に複雑な文様を描き出し、それは水明がいつも使っている護符のものとよく似ていた。
「負の感情は、充分過ぎるほどに集まっている。水明の体を奪ってからと思っていたが仕方あるまい。あれらの感情を利用して、世界の隔たりに穴を開けよう。どうも、今の私ではみどりは不満らしい。向こうの世界にあやかしどもが溢れれば、祓い屋の価値は上がる。そうしたら、きっと彼女も私を必要としてくれるはずだ!」
「クソ親父……やめ……ろ……馬鹿やろ……っ!」
「清玄さん! やめて……!」
必死にふたりで声をかけるが、清玄さんは聞く耳を持ってくれない。狐面の前で印を組むと、辺りに突風が吹き荒れた。
「さあ、古きよき時代に立ち戻ろう。私の〝居場所〟もきっとそこにある……!」
その瞬間、目が眩むほどの閃光と、鼓膜が破れそうなほどの轟音が響き渡った。
落雷と言わんばかりの衝撃に堪らず目を瞑る。ビリビリと肌を震わせるほどの音が鳴り止むと、辺りはしん、と静寂に包まれた。