偽りの想いを花水木に託す3
赤斑に連れて来られたのは、屋敷の一角だった。
廊下の明かりが届かないそこは、一見するとただの行き止まりのように見える。
しかし、そこには隠し階段があった。
床板を外すと、地下室へ行けるようになっているのだ。蝶の明かりだけを頼りに、そろそろと階段を下りていく。体感温度が下がって鳥肌が立つ。空気が淀んでいる。黴の臭いが鼻につき、堪らず顔を顰めた。
階段を下りきると、そこは完全に闇に支配されていた。蝶の朧気な光だけではかなり心許ない。壁に手を突くと、剥き出しのままの岩壁は湿気で濡れているようだ。
赤斑は夜目が利くのか、歩く速さを緩めなかった。彼の着流しの袖を指で摘まみ後をついていく姿は、まるで親ガモについて歩く子ガモのようだ。
予め言っていたように、彼は私に色々なことを説明してくれた。
金沢で意識を失った私は幽世に連れ戻された。香の効果で現し世の白井家の家で静養していたと思わされていたそうだ。そして、清玄さんの妻として過ごしていたらしい。
「……どうしてそんなことを?」
香の効果が切れたとは言え、私の中にはまだ〝みどり〟としての部分が残っている。
両親の顔も、幼い頃からの記憶もはっきりと思い出せる。清玄さんと挙げた祝言の記憶すらあるのだ。それらが偽物だと言われても、すんなりと受け入れるのは難しかった。
「すべてはご主人様の目的のためです。それと、色々と混乱しているでしょうが、徐々に頭の中を整理していくのをおすすめしますよ。香の効果は強烈ですから、ふとした瞬間に揺り戻しがあるかも知れない」
「そうする。それにしても……別人格を上書きするなんて、祓い屋ってすごいのね」
「正直、まともな祓い屋はこんな香の存在すら知りません。これは、外法の部類に入りますから。古い家には、忌まわしい技も伝い残っているものなのです」
あの香には、記憶の元となる人物の〝一部〟を混ぜ込んでいるらしい。
それがなんなのかは知りたくもないが、私に植え付けられた記憶は、白井みどり本人のものに限りなく近いようだ。
――じゃあ……私が、清玄さんに感じていたものも?
あのじわじわと温かく、時に苦しく、時に甘くて心地よい感情。
どう考えてみても、愛情としか思えないそれも、みどりさんのものなのだろうか。
「…………」
黙り込んで思案し始めた私に、赤斑は別の話題を振った。
「ところで、貴女……お気づきですか? この家のこととか」
「家?」
思わず首を傾げると、赤斑はやや呆れ気味に言った。
「お忘れになってしまったのですか? 貴女はよくご存知のはずです。幽世は現し世で失われたものが蘇る世界。人の強い想いが交錯した場所は、特に幽世で再生されやすい。その理屈でいくと、この家が幽世にある意味とはなんでしょう?」
「……ちょ、ちょっと待って」
あまりのことに私は戦慄する。そこでようやく私は気が付いた。
失われたものが蘇る世界、幽世。そこに再生された家、つまり――。
「白井の家は、もう現し世にはないの?」
「はい。ご主人様の最後の寄る辺、〝居場所〟になり得たかも知れない白井家は、すでに現し世に存在しておりません。水明様が犬神との関係を断ち切ったせいで、呪い返しを受け、没落したのです」
「……じゃあ」
――清玄さんの〝居場所〟は今どこに?
さあ、と血の気が引いていく。
『――私の〝居場所〟は常に誰かに奪われてきた』
そう語ってくれた清玄さんの様子が頭にちらつく。
――私の中の〝みどり〟が泣いているような気がする。
すると赤斑が立ち止まった。暗闇の中に格子扉が浮かび上がっている。
彼は扉の鍵を開けると、私に中に入るように促した。
「さて、家が没落した元凶がこちらにおります。貴女が一番に会いたがったあの方が」
「……っ!」
私は小さく息を呑むと、赤斑の手から提灯を取った。
格子戸を潜り、暗闇の中をがむしゃらに駆ける。
転ぶかも知れない。壁にぶつかるかもなんて考えは、頭から吹き飛んでいた。
ただひたすら、その奥にいるであろう人物目指して足を動かし続ける。
「はあっ……! はあっ……! はあっ……!」
地下室に私の息づかいと足音が響いている。
すると、どこからか小さな声が聞こえてきた。
『ここから出して……』
それはまだ幼い少年の声のようだった。
その瞬間、耐えがたいほどに胸が苦しくなって、走るスピードを上げた。
――赤斑が言った通りに、幽世は現し世で失われたものが蘇る世界だ。
かといって、そのままの姿でいられるわけではない。徐々に幽世という世界に侵食され、馴染んでいく。最終的には、原型がわからないくらいに変容するものも多い。私室がボロボロであったのは、その影響であろうと思う。
現し世から幽世に蘇ったものには、もうひとつ特徴がある。
それは、現し世で染みこんだ強い想いや感情が、まるでレコードを再生するかの如く繰り返されることだ。そして、この地下室にはとある少年の声が刻まれている。
『ねえ、なんで? どうして笑ったらいけないの?』
『ごめんなさい、ごめんなさい……もう二度と泣かないよ。笑わないよ。心を殺すから』
『お母さん。お母さん。どうして会いに来てくれないの。どうして? お母さん!』
すすり泣く声。赦しを請う声。母親を求める声。
それらを聞く度に、私の胸は張り裂けそうになった。
やがて、暗闇の中に光を見つけた。座敷牢の前に小さな行燈が置かれている。
私は転びそうになりながらも、必死にそこに向かって駆け続けた。足をもつれさせながらもなんとか到着すると、木製の格子の向こうにいるその人の名を呼ぶ。
「水明……っ!」
すると、暗闇の中に薄ぼんやりと誰かがいるのが見えた。
暗過ぎてよく見えない。慌てて、提灯の中にいた蝶を格子越しに解き放つ。
黄みがかった蝶の光が内部を浮かび上がらせると、そこには薄汚れた毛布を被り、相棒のクロを腕に抱えて座る水明の姿があった。
「水明、水明……っ! 大丈夫なの!」
必死に声をかけるも、彼はピクリとも動かない。まさか、死んでいるのだろうか。
ひとりオロオロしていると、盛大なため息が聞こえた。
「少々、冷静になったらよろしいのではないですか。これだから人間は」
そこにいたのは赤斑だ。彼は手に持った鍵で格子戸の鍵を開けてくれた。
「さあ、どうぞ」
「……!」
礼を言うのも忘れ、急いで格子戸の中に入る。
水明の傍に駆け寄ると、そこが異様な臭いで満たされているのに気が付く。
赤斑は、その正体について教えてくれた。
「ご主人様は、彼にも例の香を使っていたのですよ」
「じゃあ、水明も誰かの記憶を上塗りされて……?」
「そうです。まあ、貴女のようには上手くは行きませんでしたが。流石は次期当主として犬神を使役してきただけのことはあります。あの香への耐性が高く、こうやって閉じ込めておく羽目に。さて、奥様……いいえ、夏織さん。先ほどの羽根の残りを」
「あ、うん!」
懐に入れておいた羽根を取り出して、赤斑に渡す。彼はそれに素早く火をつけると、私に握らせた。パチパチと七色の火花が弾ける。やがて羽根が燃え尽きると――水明の瞼が僅かに動いた。
「……うう。頭が……」
水明は、苦しげに眉を顰めた。睫毛を震わせ、薄茶色の瞳をゆっくりと開ける。
――生きている。
胸が震えて、視界が滲む。頭に受けた傷は手当をされているようで、顔色もそれほど悪くない。私は心の底から安堵すると、思い切り水明に抱きついた。
「水明! よかったあ……」
「う、わあっ!」
勢い余ってひっくり返る。水明は小さく悲鳴を上げると、次の瞬間にはまるで鬼のような形相になって叫んだ。
「おっ……お前、なにをしているんだ、なにを! ちゃんと考えて行動しろといつも言っているだろうが!」
「ご、ごめん。嬉しさが爆発しちゃって……」
「こんな状況で能天気な。俺がどれだけ心配したと思ってる!」
「心配してくれたの。本当に? 嬉しいなあ……」
「あ、当たり前だろうが」
モゴモゴと口籠もった水明の胸に頬をすり寄せる。布越しに伝わってくる彼の体温が懐かしくて、嬉しくて。涙が止まらない。
「無事でよかった。本当によかったよ……」
「……泣くな。俺は簡単には死なない」
すすり泣く私の背を、水明はさらさらと撫でる。
「お前を守るって言ったのに。すまなかった」
その手付きがまた本当に優しくて、暖かくて。益々涙の勢いが増した。
そんな私を、水明は苦笑交じりに見つめている。
「……コホン。感動の再会のところ、申し訳ありませんが」
すると、やや居心地悪そうな赤斑の声が響いた。
「夏織さん。犬神を潰しておりますよ」
「あっ……!」
慌てて水明の上から体を退ける。私の下にはぐったりとしたクロの姿があった。
「きゅう……」
「ご、ごめん! クロぉ!」
「うわ……っ! 大丈夫か!」
クロの体をふたりで摩ってやっていると、赤斑が促すように言った。
「さあ、これで準備は整いました。おふたりには主のもとへご足労願いたいのですが」
水明はじとりと疑わしい視線を赤斑に向ける。
「なにを企んでいる。それに、お前は何者だ? 白井家の犬神は、クロしか残っていないはずだし、当主である清玄に新しく犬神を作れるはずがない」
「おやまあ、随分と実の父親に対して辛い評価をしますね?」
「アレがお飾りで、たいした能力がないことくらいは知っている。新しい犬神を……それも、お前のような別の姿を取れるほどのものを作るなんて不可解だ」
赤斑はクツクツと喉の奥で笑うと、くるりと私たちに背を向け、言った。
「なにも不思議なことはありませんよ。あの方も……必死だったのです。自分がいてもいいと思える場所を守ろうと、得体の知れない相手に縋るほどには」
彼は格子戸を潜ると、ちらりとこちらに視線を向けた。
ぼんやりと暗闇の中に浮かび上がる赤斑の顔からは、なんの感情も読み取れない。
「――水明様。貴方が去り、犬神の呪い返しで白井家は没落してしまった。けれど、かの方のご実家は助けてくれませんでした。厄介者として追い払いさえしたのです。ご主人様は絶望され……命を絶とうとしました。そこに救世主と呼べる方が現れたのです」
蝶が羽ばたく度に光が揺れる。赤斑の熟れた柘榴のような瞳が、やたら色鮮やかに闇に映えていた。
「その人は〝人魚の肉売り〟であると名乗りました」
「人魚……まさか」
顔色を失った水明に、赤斑はすうと瞳を細めた。
「人魚の肉はとても希少なものです。どんな願いも叶えてくれる。それこそ永遠の命でも、なんでも。ご主人様は、強大な力を望みました。祓い屋の当主として相応しく、犬神を従えるに充分過ぎる力を。そして……この僕を作り出したのです」
赤斑はひとつ息を吐くと、苦しげに言った。
「さあ、そろそろ〝茶番〟の幕を下ろしましょうか。ご案内いたしましょう」
私と水明は顔を見合わせると、どこか寂しそうな顔をした赤斑を見つめたのだった。




